32.御前会議
朝。
式部省は、既に騒がしかった。
讃岐から届いた文。
紀夏井。
その名は、昨日より更に広がっている。
百姓のみではない。
郡司。
在地の者。
次々と留任を願う文が届いていた。
異例。
誰もがそう言った。
「ここまで来ると、逆に怖いですね」
長岡俊成が文を整理しながら言う。
私は頷いた。
国司が慕われる。
それ自体は良い。
だが、ここまで民意が集まれば話は別だ。
朝廷は警戒する。
当然だった。
「今日は御前会議ですね」
紀長谷雄が静かに言う。
「ああ」
私は紙へ目を落としたまま返した。
どうせ揉める。
見なくても分かる。
「式部丞は呼ばれておりませんが」
俊成が少し笑う。
「呼ばれていたら今頃、山にこもってる」
「出世したくないと?」
「殿上人など疲れるだけだろう」
本音だった。
父、是善が疲れている時と言えば行事や会議の日だ。
遠くから見るくらいで丁度良い。
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その頃の清涼殿。
空気は重かった。
並ぶ公卿たち。
静かな声。
だが、その中には確かな緊張がある。
上座には、
藤原良房。太政大臣。そして摂政。
この国の中心にいる男だった。
その隣には、
源信。左大臣。
さらに、
藤原良相。右大臣。
朝廷の重鎮たちが並んでいる。
「讃岐守・紀夏井について」
声が響く。
読み上げられる文。
百姓たちの請願。
そして、郡司からの願い。
朝堂院が静まり返る。
「異例ですな」
口を開いたのは、
南淵年名。
歳にしては白髪が多い参議は静かに目を細める。
「ここまで民が留任を願うとは」
誰も否定しない。
それほど珍しいことだった。
「問題は、その先でしょう」
低い声。
伴善男。大納言。
鋭い目が文へ向けられる。
「唐土との交易」
「地方へ過ぎた力を与えかねませぬ」
空気が張る。
「しかし」
静かに口を開いたのは、
藤原保則。参議。
地方統治でも知られる男だった。
「民が潤えば、国も潤います」
「讃岐は海を持つ国」
「利を得る道を閉ざし過ぎるのも、どうかと」
伴善男が目を細める。
「では、地方へ独自の力を持たせると?」
「力は既にあります」
保則は静かに返した。
「見ぬ振りをしているだけです」
空気が重くなる。
誰も軽々しく口を挟まない。
「交易そのものは悪い話ではありますまい」
そう言ったのは、
在原行平。参議。
穏やかな声だった。
「唐の文物は、今も価値があります」
「地方を通じる形であっても、得る物はあるでしょう」
「だが、前例がない」
厳しく言ったのは、
南淵年名。
「地方交易を許せば、後々の火種になりますぞ」
静かな議論が続く。
「僧らもここぞとばかりに許しを願い出ています」
「高野山が少々五月蝿くなってるとか」
だが、その下では思惑が動いている。
誰もが理解していた。
これは単なる讃岐の話ではない。
中央と地方。
その力の話なのだと。
そして。
その間、上座の藤原良房は、黙したままだった。
誰もが、その言葉を待っている。
良房に取っては難しい問題だろう真雅のこともある、ただ彼の、一の人の言葉で政治は動く。
清涼殿には、重い沈黙だけが残っていた。




