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31.讃岐の留任請願


式部省の空気が、朝から妙だった。

人が多い。

いや、正確には——

人が集まっている。

廊下や部屋の前。

文殿の近く。

官人たちが、小声で何かを話していた。

(また面倒事か……)

最近、本当にそればかりだ。

「式部丞」

声を掛けてきたのは、

長岡俊成。

紙を抱えている。

嫌な予感しかしない。

「何だ」

「讃岐からです」

帰りたくなった。

地方から来る文は、大抵面倒だからだ。

席へ座り、紙を受け取る。

開く。

少し読む。

そして、手が止まった。

「……これは」

珍しく、言葉が漏れてしまった。

讃岐国百姓等請願。

内容は単純だった。

国司、紀夏井の留任を願う。

百姓たちの名が並んでいる。

異例だった。

かなり。

「本物か?」

思わず聞く。

「確認済みです」

答えたのは、

紀長谷雄。

こちらも少し驚いた顔をしている。

「百姓側から国司の留任を願うとは……」

「聞いたことがありません」

俊成も頷いた。

私も同感だった。

国司は嫌われる。

それが普通だ。

税を取り、命じ、管理する。

地方にとって、朝廷とは遠い。

だからこそ——

留任請願など、異常だった。

「かなり民に慕われているようですね」

長谷雄が静かに言う。

私は紙へ目を落としたまま答えた。

「でなければ、ここまでの名は集まらん」

数が多い。

しかも文が乱れている。

つまり、作られた物ではない。

実際に集めたのだろう。

面倒なほどに。

「だが、問題はその後ですよ」

俊成が声を落とす。

「まだあるのか」

「あります」

最悪だった。

新しい紙が置かれる。

私は静かに目を閉じた。

嫌な予感しかしない。

そして、大抵当たる。

開き、少し読む。

……なるほど。

「唐土との交易許可、か」

思わず呟く。

部屋が静まった。

讃岐。

海に近い国。

そして紀夏井は、その地で唐土商人との交易を求めていた。

理由も書かれている。

国を豊かにするため。

実利。

かなり現実的だった。

「京は大騒ぎです」

俊成が疲れた顔で言う。

「だろうな」

即答した。

唐との正式な遣唐使は、既に途絶えつつある。

危険性や費用。

特に海賊や遭難。

簡単な話ではない。

だが、だからこそ。

地方独自の交易など認めれば——

朝廷は警戒する。

当然だった。

「保守派は反対しています」

長谷雄が言う。

「“前例がない”と」

「いつものことだな」

思わず漏れる。

すると長谷雄が少し困った顔をした。

失言だったかもしれない。

だが、本音だ。

「式部丞は、どう思われますか?」

俊成が聞いてくる。

私は少し考えた。

窓の外を見る。

京の空は静かだった。

だが、この紙一枚で、人は騒ぐ。

朝廷とはそういう場所だ。

「幸い、式部省の担当ではない」

「それにそこまで悪い案ではない」

静かに言う。

二人がこちらを見る。

「民が豊かになるなら、意味はある」

「讃岐も潤うだろう」

「だが」

そこで言葉を切る。

「京は嫌がる」

それが全てだった。

地方が力を持つ。

独自に動く。

利益を持つ。

中央は、それを警戒する。

それは今もこれからも変わらない。

そのそう考えていたとき。

「道真」

声して振り返る。

そこには、島田忠臣が立っていた。

式部少輔。

そして私の師。

忠臣は机の紙を見る。

交易、留任請願。

もう、朝議などでも話題になっているのだろう

珍しくため息をついていた。

「どう見る」

短く聞いてくる。

私は少し考え——

答えた。

「朝廷としては、面倒です」

忠臣が少し笑った。

「正直だな」

「事実ですので」

すると忠臣は頷く。

そして静かに言った。

「だからこそ、朝廷は動く」

部屋が静まる。

その言葉だけが、妙に重く残った。


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