30.山盛りの紙
式部省は、今日も忙しかった。
人が行き交う。
紙が運ばれる。
呼ぶ声。
筆の音。
木簡の擦れる音。
静かなようで、騒がしい。
私は自分の机へ向かい——
思考が止まった。
「……何だ、これは」
机の上が紙の山になっていた。
非常に嫌な光景だ。というか、明らかに1日分ではない
「本日分です」
落ち着いた声で答えたのは、
長岡俊成。
正七位下。
式部省の大録で、一様、私の部下だ。
最近、私への扱いが少し雑になってきている。
「“本日分”で済ませる量ではないだろう」
「ですが、本日分です」
正論だった。
腹が立つ。
「まだ少ない方ですよ」
横から口を挟んだのは、
紀長谷雄。
こちらも大録。
真面目で几帳面。
そして仕事が細かい。
「少ない?」
「式部少輔は、この倍の仕事をこなしています」
私は静かに天を仰いだ。
帰りたい。
「式部丞」
俊成が紙を分けながら言う。
「こちらは地方官の記録整理」
「こちらは位階の確認」
「こちらが人事関係」
「最後の山は?」
「急ぎです」
最悪だった。
私は諦めて席へ座り筆を取った。
早く本が読みたいからだ。
先日家の蔵から出てきた、祖父である清公の時代の書が出てきたのだ。
確認、整理そして署名。
また確認。
終わらない。
本当に終わらない。
「……式部省は、人を殺す気か?」
思わず漏れる。
式部省出なかったら漏らせない心の声だ。
すると俊成が淡々と返した。
「皆、そう言います」
「否定はしないのか」
「出来ません」
非常に誠実だった。
その横で、長谷雄が真面目な顔で紙を整えている。
「ですが、式部丞はまだ早い方です」
「普通は数日掛かります」
「終わるものは終わる」
そう返し、次の紙へ目を通す。
長谷雄が少し黙った。
やがて、小さく言う。
「やはり、おかしいですよ……」
失礼だな。
その時。
奥の空気が変わった。
周囲の官人たちが姿勢を正す。
静かに道が開く。
(……わざわざ来たのか)
見上げる。
そこにいたのは、
島田忠臣。
従五位下であり式部少輔。
そして——
私の師。
「道真」
「は」
自然と背筋が伸びる。
忠臣は机の紙を見る。
少し沈黙。
「減っているな」
「減らしておりますので」
「そうか」
短い。
だが、それで十分だった。
後ろで長谷雄たちが緊張している気配がする。
無理もない。
式部少輔だ。
式部省でも上の立場。
若手官人からすれば、かなり遠い。
だが。
私からすると——
ただの怖い師である。
忠臣は一枚の紙を置いた。
嫌な予感しかしない。
「これは」
「見れば分かる」
冷たい。
昔からだ。
紙へ目を通す。
人事記録。
地方官関連。
そして最後に、赤い印。
間違いが見つかり、修正が必要らしい。
私は静かに目を閉じた。
目の前の山を処理したら中務省や文殿に行かなければ行けなくなった。
よし、片方は部下に行かせよう。
「……また増えましたね」
「働け」
即答だった。
酷い。
後ろで俊成が吹き出しそうになっている。
長谷雄は真面目に耐えていた。
「笑うな」
「失礼しました」
俊成が頭を下げる。
だが肩が震えている。
絶対に笑っている。
忠臣はそんな様子を見て、小さく息を吐いた。
「道真」
「は」
「お前は仕事が早い」
珍しく、そんなことを言った。
少し驚く。
だが。
次の言葉で全部消えた。
「だから増える」
最悪だった。
周囲から小さく笑いが漏れる。
私は静かに筆を置き——
「帰ってもよろしいでしょうか」
そう言った。
すると忠臣は真顔で返した。
「駄目だ」
分かっていた。
だが、一応は聞きたかったのである。




