29.仕事とは地獄である
任官して二年、いや三年目か、
気付けば私は、従六位上・式部丞となっていた。
周囲は早いと言う。
父は「まあ、お前ならば」とだけ言った。
忠臣は少し黙り込み、最後に「働け」とだけ言った。
酷い。
もう十分働いている。
「だから、お前は働き過ぎなんだ」
笑いながら言ったのは、橘清成。
ここは橘家。
最近、来る頻度が増えている。
理由は単純。
落ち着くからだ。
「式部省は人を殺す気か?」
私は机に突っ伏したまま言った。
「まだ死んでおらんだろう」
少し離れた場所で杯を傾けているのは、
橘広相。
正六位上。蔵人。
天皇近くへ出入りする立場になってから、以前より忙しそうに見える。
だが、不思議と疲れた顔はしない。
(化け物か?)
少し本気で思う。
「いや、本当に仕事が終わらないんだ」
私は顔を上げる。
「人事。記録。報告」
「加えて、上が投げてくる」
「なぜ式部省は、あんなに紙が増える?」
本気の疑問だった。
清成が吹き出す。
「官だからだ」
「納得したくない答えだな……」
広相は酒を飲みながら笑った。
「まだ二年目だ、慣れろ」
「嫌です」
即答した。
すると兄弟そろって笑い始める。
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部屋には灯が揺れていた。
外は夜。
静かな京の音が聞こえる。
こうしていると、官人であることを忘れそうになる。
悪くない時間だった。
「しかし」
広相がふと声を落とす。
「道真は本当に早いな」
「何がです?」
「出世だ」
清成も頷く。
「式部丞だぞ」
「普通なら、まだ下で書類を書いている頃だ」
(今も書いているが?)
思わずそう思った。
だが、口には出さない。
「最近は、お前の名もよく聞く」
広相が続ける。
「良くない話なら聞きたくないな」
「半々だ」
最悪だった。
「若い」
「学がある」
「仕事も早い」
「だが、口が少し捻くれている」
「最後はいらないだろう」
清成が笑う。
「いや、そこが道真らしい」
「私なんて正七位上。少内記だからな」
褒められている気がしない。
「房雄殿も言っていたぞ」
広相が思い出したように言う。
「“面白い男だ”とな」
(嫌だな……)
最近、あの人に気に入られている気がする。
非常に嫌だ。
と言うか、橘にとって南家の房雄は憎くないのか
「そう警戒するな」
広相が笑った。
「藤原に覚えられるのは悪いことではない」
「良いことにも思えません」
本音だった。
藤原は怖い。
笑顔で色々決めそうだからだ。
「まあ、お前の気持ちも分かる」
清成が肩を竦める。
「中央は面倒だ」
「だろう?」
ようやく理解者がいた。
少し嬉しい。
「だが」
広相が静かに言う。
「面倒だからこそ、人が必要になる」
「一人では生きられん」
灯が揺れる。
その横顔は、少しだけ官人の顔だった。
大学寮で笑っていた頃とは違う。
(変わったな)
ふと、そう思う。
「お前も、そのうち分かる」
広相がこちらを見る。
「人は、一人では立てん」
静かな声だった。
だが、不思議と残る。
私は少し考え——
「なら、面倒事を押し付けられる相手は必要だな」
そう言った。
一瞬、沈黙。
そして。
清成が吹き出した。
広相まで笑っている。
「お前、本当にそういうところだぞ」
「何がだ」
「真面目なのか、不真面目なのか分からん」
(失礼だな)
だが。
笑い合えるのは、悪くなかった。
夜は更けていく。
京の灯は静かだった。
その下で。
若い官人たちは、酒を飲み、愚痴を言い、笑っていた。
まだ——
大きな争いなど、遠い時代のことのように。




