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28.三人の文殊


大学寮を出る頃には、日が傾き始めていた。

冬の京は暗くなるのが本当に早い。

冷えた風が袖を揺らし、凍えるようだ。

「それで?」

横から声。

橘清成だった。

「忠臣博士は何と言っていた」

「色々だ」

「雑だな」

説明する気が起きないのだ。

疲れている、それも非常にだ。

ただ、何も言わないわけにもいかず

「逃げるな、と言われた」

結局、それだけ答える。

すると、少し前を歩いていた

橘広相が笑った。

「良い師だ」

「皆して同じことを言うな」

「実際、その通りだからだ」

納得いかない。

「別に、逃げても良いではないか」

思わず口に出る。

「官を捨てるわけではない」

「地方で静かに生きるのも悪くないだろう」

本気だった。

争いは面倒だ。

政争など、もっと面倒だ。

出来ることなら関わりたくない。

「無理だな」

広相が即答した。

「なぜ」

「お前が目立ってしまったからだ」

身も蓋もない。

「第一、最近朝廷で使われている紙も、元はお前が作り方を変えただろう。

是善殿が発案なされたことになってはいるが知っている者は知っているぞ」

清成まで頷いている。

「自覚が足りん」

「得業生。若年任官。加えて野見宿禰などと騒がれてしまった」

「これで埋もれろという方が難しい」

(そんなつもりはないんだがな……)

本当に。

少し沈黙のあと、やがて広相がふと思い出したように言う。

「そういえば」

「房雄がお前を気にしていたぞ」

(嫌だな)

すぐにそう思った。

藤原房雄。

あの視線は覚えている。

人を見る目だった。しかも、かなり深く。

南家とは言え藤原だ、このままだと迷惑を被るのが目に見える。

「何を考えているか分からん顔だった」

清成が言う。

「藤原だからな」

広相が続ける。

「考えていないようで、あの人も色々考えている」

(怖いな)

素直にそう思う。

「お前も、そろそろ覚えた方がいい」

広相の声が少し変わる。

その声には何時もの軽さは残っていない。

「中央は、人で動く」

「学だけではない」

「誰と繋がるか」

「誰が押すか」

「誰が嫌うか」

「それで決まることも多い」

冬の風が吹く。

静かな声だった。

だが、重い。

「面倒だな……」

思わず漏れる。

すると清成が吹き出した。

「お前、本当にそればかりだな」

「そればかりで悪かったな」

広相まで笑っている。

失礼ではないだろうか。

道を歩く。

京の夕暮れ、いや、もう薄暗い。

貴族の牛車が通り過ぎる。

商人たちの声。

遠くの灯。

平和な景色だった。

だが。

その下では、多くの思惑が動いている。

(嫌だな……)

改めてそう思う。

「まあ」

広相が前を向いたまま言う。

「今のお前は、まだ良い」

「まだ?」

「学生の延長で済む」

「だが、官位が上がれば変わる」

「人も寄る」

「敵も出来る」

「逃げても追ってくるが、地方で静かにするのは間に合うだろうな」

「是善殿が逃がしてくれるとは思えんがな」

(怖いことを言うな、この人たちは)

師といい、広相といい。

最近、周囲が脅してくる。

「だからこそ」

広相が少し笑う。

「今のうちに遊んでおけ」

「は?」

意味が分からない。

すると清成が肩を叩いてきた。

「競弓でも、酒でも、女でもだ」

「今はまだ若い」

「真面目過ぎると早死にするぞ」

「お前たちの基準で言うな」

即答した。

どう考えても、この兄弟は自由過ぎる。

「そういえば」

清成が急に思い出したように言う。

「宣来子殿、怒っていたぞ」

(なぜ)

「また机で寝ていたそうじゃないか」

「仕方ないだろう」

「最近疲れるんだ」

「老人みたいなことを言うな」

まだ十五なのに老人か、未来の記憶があると言うのを薄々感じているのかも知れない。

自分でも思った。

三人の笑い声が、冬の京へ溶けていく。

その時。ふと、思った。思ってしまった。

(悪くないな)

こういう時間も。

政も。出世も。争いも。

確かに面倒だ。

だが。

こうして笑い合える者がいるなら。

少しくらいは——

悪くないのかもしれない。



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