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27.師の言葉


襖を開ける。

部屋の中は静かだった。

余計な物は少ない。紙。筆。書。

それだけ。

中央には、島田忠臣。

相変わらず、背筋が伸びている。

年齢を感じさせない。

(疲れそうだな)

最初の感想がそれなのは、もう仕方ない。


---


「来たか」

「お呼びと聞きまして」

頭を下げる。

忠臣はしばらくこちらを見ていた。

沈黙が長い。

(怖いな)

この人は、黙っている時が一番怖い。



---


「座れ」

「は」

静かに座る。

すると忠臣は、机の上の紙へ視線を落とした。

「下野権少掾」

短く言う。

「若いな」

「そうでしょうか」

「若い」

即答だった。

逃げ道はないらしい。


---


「得業生となり、一年」

「任官も早い」

「加えて——」

一拍。

「最近は、妙な名で呼ばれているそうだな」

(そちらまで届いていたか)

少し遠くを見たくなる。

「野見宿禰、でしたか」

「嬉しくはない顔だな」

「当然です」

本音だった。

忠臣は小さく笑った。

珍しい。

この人はあまり表情を変えない。


---


「だが」

忠臣の目が細くなる。

「名とは、勝手につくものだ」

(空海殿も似たことを言っていたな)

思い出す。

“重くなる”

あの言葉。


---


「嫌でも、人は見る」

忠臣は静かに続ける。

「若くして官に入り、学でも名を挙げた」

「ならば、目立つ、それは避けられん」

(避けたいのだが)

無理らしい。

世の中は理不尽だ。


---


「……地方で留まるつもりか?」

不意に問われる。

やはり、それか。

「その方が静かかと」

正直に答える。

忠臣は少し黙った。

そして。

「逃げるか」

広相にも言われた言葉。

だが、忠臣のそれは重い。

(……逃げ、か)

否定はできない。

中央は面倒で人も多い。

争いもある。

ならば地方の方が良い。

中央は清成のような者が集まるべきだ。

そう考えている。


---


「一つ、聞く」

忠臣がこちらを見る。

「お前は、何を望む」

(難しいことを聞くな……)

しばらく考える。

だが、答えは決まっていた。

「静かに生きたいだけです」

本音だった。

出世したいわけではない。

名を残したいわけでもない。

ただ、平穏に。

それだけ。


---


忠臣はしばらく黙っていた。

やがて、小さく息を吐く。

「それが一番難しい」

(やはりそうなるか)

何となく予想はしていた。


---


「学ある者は使われる」

「才ある者は呼ばれる」

「そして——」

忠臣の声が少し低くなる。

「逃がしてはもらえん」

部屋が静まる。

外の声も聞こえない。

ただ、その言葉だけが残った。


---


「……怖いことを言いますね」

少し軽く返す。

すると忠臣は珍しく笑った。

「怖いか?」

「多少は」

「ならば、まだ良い」

意味が分からない。

だが、この人は説明しない。

昔からそうだ。

空海僧都もそうだ。

重要な、知りたいことを言わずに亡くなった。


---


「ところで」

急に声色が変わる。

「宣来子を困らせるな」

(なぜそこへ飛ぶ)

思わず顔を上げる。

忠臣は真顔だった。

「呼びに行かせれば、露骨に嫌そうな顔をしたそうだな」

(言ったのか、あれは)

少し裏切られた気分である。

「事実ですので」

つい答えてしまう。

すると忠臣は額を押さえた。

「お前は昔から、妙に正直だな……」

呆れられた。

納得いかない。

「まあよい」

忠臣は肩を竦める。

「官に出た以上、大学寮ばかりに居るわけにもいかん」

「だが、時折は顔を出せ」

「学を捨てるな、学は最後の逃げ道にもなる。」

「僧になると言う手もあるがな」

その言葉だけは、重かった。そして、笑えなかった。

私は静かに頭を下げる。

「……は」

短く答える。

それで十分だった。


---


部屋を出る。

廊下の空気が妙に軽い。

(疲れた……)

本気でそう思う。

すると。

「終わったか?」

柱にもたれていた橘清成が笑った。

隣には広相。

なぜまだいる。

「お前たち、暇なのか」

「お前ほどではない」

広相が即答する。

少し腹が立つ。


---


「で、何を言われた?」

清成が聞いてくる。

私は少し考え——

「逃げるな、と」

そう答えた。

広相が笑う。

「良い師だな」

「弟子としては疲れるがな」

本音だった。

だが。

嫌いではない。

そう思っている自分にも、気付いていた。


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