26.翌日
翌朝。
私は久しぶりに大学寮へ来ていた。
懐かしい——とは、あまり思わない。
むしろ。
(やはり落ち着くな)
そんな感想だった。
式部省とも違う。貴族の邸とも違う。
紙と墨の匂い。
人の話し声。
時折聞こえる議論、学ぶ場の空気。
それが、妙に肌に合っていた。
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門をくぐった瞬間。
「あ」
嫌な声が聞こえた。
「野見宿禰だ」
(帰りたい)
本気でそう思う。
数人の学生がこちらを見ている。
いや。
学生だけではない。
教師まで見ていた。
(広まるのが早すぎるだろう……)
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「道真殿!」
一人が駆け寄ってくる。
見覚えがある。
確か、紀伝道の下級生だ。
「弓、見せてください!」
「嫌だ」
即答した。
「そんな!」
「私は官人であって、見世物ではない」
「でも、野見宿禰の再来って——」
「誰が言い始めた」
「皆です!」
(最悪だな)
集団心理というのは恐ろしい。
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「相変わらず騒がれているな」
声が飛ぶ。
見ると、橘清成が笑っていた。
その隣には、当然のように兄。
橘広相。
(なぜいる)
「私も大学寮に来ることくらいある」
広相が言う。
心を読まれた気がした。
少し腹が立つ。
「で?」
清成が近づいてくる。
「師に呼ばれたそうだな」
「そうらしい」
「他人事みたいに言うな」
実際、半分くらい他人事である。
清成は呆れた顔をした。
「普通、もっと緊張するだろう」
「師に呼ばれるだけでか?」
「お前の場合、何を言われるか分からん」
(否定できないな)
忠臣は話が長い。
そして急に難しい話を始める。
油断できない。
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廊下を進む。
周囲の視線が付いてくる。
奇異。興味。期待。
そういうものが混ざっていた。
(面倒だな)
最近、本当にそればかり考えている。
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「道真」
呼ばれる。
振り返ると、見知った教師。
「久しいな」
「ご無沙汰しております」
軽く頭を下げる。
教師は少し笑った。
「聞いたぞ」
(どこまでだ)
「若くして任官とは、大したものだ」
「運が良かっただけです」
「運だけで得業生にはなれん」
即答だった。
(やりにくいな)
大学寮の教師たちは、妙に人を見る。
誤魔化しにくい。
「それで」
教師が少し声を落とす。
「大学寮には何時まで居るつもりだ?」
(……それか)
やはり皆、そこを気にしているらしい。
自分の教え子や関係があるものが出世すれば自分の立場も良くなるのだから大学寮ほど良い職場は無いのかも知れない。
「まだ決まっておりません」
濁して答える。
教師は頷いた。
「そうか」
それ以上は聞いてこなかった。
だが。
その目は、何かを考えていた。
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「お前、完全に有名人だな」
清成が笑う。
「やめてくれ」
「無理だ」
広相まで頷いた。
「若くして官人。しかも弓まで立つ」
「目立たぬ方が難しい」
(あんたのせいだろ…)
本気でそう思う。
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やがて、一室の前へ辿り着く。
清成が襖を見る。
「いるぞ」
「見れば分かる」
中から、人の気配。
静かだが、重い。
(帰りたいな……)
小さく息を吐く。
だが。
ここまで来て逃げられるはずもない。
「道真にございます」
そう告げる。
しばらくして——
「入れ」
聞き慣れた声が返ってきた。
島田忠臣。
私の師である。
(さて)
何を言われるのか。
嫌な予感しかしなかった。




