23.得業生
朝の大学寮は、妙に静かだった。
人は多い。
だが、誰も騒がない。
視線は一つの場所に集まっている。
掲げられた紙。
(……出たか)
得業生の名。
近づく。
紙に並ぶ名を、順に追う。
一つ、また一つ。
そして——
自分の名で、止まった。
「菅原道真」
(まあ、そうだろう)
驚きはない。
だが、軽くもない。
胸の奥で、何かが静かに動く。
周囲がざわつく。
「やはりな」
「外さなかったか」
抑えた声。
それでも、聞こえる。
(面倒だな)
そう思いながら、視線を外す。
ふと、別の名が目に入る。
同じ列。
同じ高さ。
藤原房雄
(……なるほど)
向こうも、こちらを見ていた。
一瞬だけ、視線が合う。
逸らさない。
だが、踏み込まない。
それだけで十分だった。
講義は普段通りに進んだ。
だが、誰も普段通りではない。
空気が違う。
清成も何も言わない。
ただ、時折こちらを見る。
(分かっている)
放っておく。
講義が終わる。
立ち上がろうとした時——
「道真殿」
呼び止められる。
振り返ると、見知らぬ男。
役人の装い。
「お呼びでございます」
「どなたに」
「ご実家にて」
(父上か)
だが、それだけではない。
空気が違う。
「すぐに」
(選べない、か)
「分かりました」
短く答える。
清成を見る。
「行ってこい」
それだけだった。
屋敷に戻る。
門をくぐった瞬間、分かる。
(……いるな)
静かだが、張り詰めている。
案内されるまま進む。
襖の前で止まる。
「道真にございます」
「入れ」
父の声。
襖を開ける。
中にいたのは——
菅原是善
そして、もう一人。
僧。
父が紹介してくれた。
空海と言うそうだ。空海と言えば後に弘法大師になった方だ。ただ、記憶ではすでに死んでいるはずなのだが、まあ良い。
その手には筆。
紙に向かい、何かを書いている。
音はない。
だが、止まらない。
私は頭を下げたまま動かない。
声をかけるべきではない。
そう感じる。
やがて——
筆が止まった。
静かに置かれる。
それだけで、場の空気が変わる。
「来たか」
低い声。
「得業生であったな」
「は」
短く応じる。
空海は小さく頷いた。
「……良く頑張った」
それだけ。
だが、軽くはない。
その後、父が口を開いた。
「よくぞ、ここまで来た」
菅原是善の声は静かだった。
「だが、これで終わりではない」
(……だろうな)
「得業生は、始まりに過ぎぬ」
一拍。
「そもそも、試験を受けられた理由は分かっておるか」
(推薦か)
「博士の推挙あってのもの」
「見られているということだ」
「忘れるな」
「は」
短く答える。
それで十分だった。
「書いていた」
不意に、空海が言う。
紙へ視線を落とす。
「そなたのことではない先の大学寮についてだ」
(……そうか)
少しだけ、力が抜ける。
「ただ」
その声が、わずかに低くなる。
「似たものは、書ける」
(意味が分からない)
だが、軽くはない。
「名は」
問われる。
「道真にございます」
空海は頷く。
「よい名だ」
一拍。
「重くなる」
(……)
言葉が出ない。
沈黙。
やがて——
「案ずるな」
「持つか、捨てるかは、そなた次第だ」
(選べ、か)
「肝に銘じます」
それだけ答える。
空海は満足したように頷いた。
屋敷を出る。
空気が軽い。
だが——
(軽くはない)
胸の奥に残る。
得業生。
藤原。
そして、あの言葉。
(重くなる、か)
自分の名。自分の道。
記憶を元にほどほどに過ごす。
そのはずだった。
だが——
(そう簡単にいかぬか~)
小さく息を吐く。
歩き出す。
まだ何も決まっていない。
だが、確かに。
道は、分かれ始めていた。




