22.老来訪旧門
御所は静かだった。
人はいる。
だが、音はない。
その中を、一人の僧が進む。
足取りは変わらない。
焦りも、迷いもない。
すでに、多くを終えた者の歩み。
やがて、御前。
座すは帝。
文徳天皇
僧は静かに頭を下げる。
「久しいな」
低い声。
「は」
短く応じる。
それだけで十分だった。
しばし、沈黙。
やがて帝が口を開く。
「そなたも、いよいよか」
問いではない。
ただ、事実をなぞる言葉。
僧は、わずかに笑った。
「そのようでございます」
穏やかな声だった。
恐れも、惜しみもない。
「思い残すことは」
帝が問う。
僧は、少しだけ考える。
ほんの短い間。
やがて——
「一つ、ございます」
静かに言った。
帝は目を細める。
「申してみよ」
僧は顔を上げた。
「大学寮を、一度」
それだけだった。
派手な願いではない。
だが——
帝はわずかに驚いたように見えた。
「大学寮、か」
繰り返す。
「はい」
「若き者らの学びの場」
「それを、この目で見ておきたく」
理由は、それだけ。
帝はしばし黙し——
やがて頷いた。
「よかろう」
短く言う。
そして、側に控える者へ視線を向けた。
「案内を」
呼ばれたのは一人の男。
菅原是善
「は」
是善は静かに頭を下げる。
僧へと向き直る。
「ご案内いたします」
僧は小さく頷いた。
それ以上、言葉はない。
やがて、二人は御所を後にする。
歩みは静かで、変わらない。
だが——
それは、確かに“最後”へ向かう歩みであった。
大学寮。
若き者たちの場。
そこへ、一人の僧が向かう。
一つの時代を終えた者が。
そして——
次の時代を見るために。
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彼はある漢詩を残す
曾捨儒林道 老来訪旧門
青衿論国策 白髪感乾坤
墨色伝千載 灯光照一源
悠々見来世 瑞気満庠舎
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その日は、どこか落ち着かなかった。
理由は分からない。
だが、朝から妙にざわついている。
(……なんだ)
自分でもはっきりしない違和感。
講義が始まっても、それは消えなかった。
周りも、どこか浮ついている。
小さなざわめき。
抑えてはいるが、隠しきれていない。
(何かあるな)
そう思った矢先だった。
「本日、客人が来られる」
教師の一言。
それだけで、空気が変わる。
(やはりか)
納得する。
だが——
(誰だ)
そこまでは分からない。
しばらくして、戸が開いた。
入ってきたのは、二人。
一人は見慣れた顔。
菅原是善
(父上が、ここに?)
わずかに目を細める。
そして、その隣。
僧。
だが——
(……違うな)
ただの僧ではない。
説明はできない。
だが、分かる。
場の空気が、静かに張り詰める。
誰も声を出さない。
自然と、視線が集まる。
教師が一礼する。
それだけで十分だった。
(格が違う)
そう感じる。
紹介の言葉が続く。
だが、半分も耳に入らない。
(見るな)
その僧の視線が、ゆっくりと動く。
一人ずつ。
確かめるように。
やがて——
止まる。
こちらに。
(……来るか)
一瞬だけ、息が止まる。
目が合う。
深い。
覗き込まれるような感覚。
(やりにくいな)
思わず、そう思う。
だが、逸らさない。
逸らす理由もない。
ほんの数秒。
だが、妙に長く感じる。
やがて——
その僧が、わずかに笑った。
「……面白い」
小さく、それだけ。
それ以上は何もない。
視線も外れる。
(……それだけか)
拍子抜けではない。
むしろ——
(軽くないな)
確かに何かを見られた。
そんな感覚だけが残る。
横を見る。
清成も、黙っている。
(あいつでも、か)
少しだけ意外だった。
その後、軽く講義が行われた。
だが、誰も集中していない。
私も例外ではない。
(面白い、か)
頭に残るのは、それだけ。
評価なのか。
それとも、ただの感想か。
分からない。
ただ——
(無視はできない)
そう思う。
講義が終わる。
二人は静かに去っていった。
父も、何も言わない。
(後で何かあるか)
そんなことを考えながら立ち上がる。
「……見られたな」
清成が言う。
「ええ」
短く返す。
少しだけ間。
「どう思う」
珍しく、問いが来る。
(どう、か)
考える。
だが——
「分かりません」
正直に答えた。
清成は小さく息を吐く。
「だろうな」
それで会話は終わる。
外へ出る。
空は、いつもと変わらない。
だが——
(流れは、変わったな)
そんな気がする。
得業生の結果は、まだ出ていない。
それでも。
何かが、少しずつ動いている。
無難に生きる。
そのつもりは変わらない。
そう思いながら、歩き出した。




