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17.心の内を


講義を終えた後のこと。

人の流れが少しずつ途切れ、場に静けさが戻りつつあった。

私は一人、書を整理していた。

(今日は、やや出過ぎたか)

そう思いながら、筆を置く。

使うべき時には使う。

そう決めた以上、迷いはない。

だが、その“加減”は未だ測りかねている。

「まだ残っていたか」

声がかかる。

振り向けば、橘清成であった。

「少し、整理を」

私は簡潔に答える。

清成は軽く頷き、そのまま近くに腰を下ろした。

無言。

だが、不思議と居心地は悪くない。

(……この男は)

余計な言葉を挟まぬ。

だが、ただ沈黙しているわけでもない。

“間”を理解している。

やがて、清成が口を開いた。

「そなたのやり方、ようやく見えてきた」

(ほう)

私は視線だけで続きを促す。

「出ぬのではない。出さぬのだな」

静かな指摘。

だが、正確である。

「そう見えますか」

私は軽く返す。

清成は頷いた。

「必要な時だけ、出す」

(……やはりな)

ここまで見抜かれるとは思わなかった。

だが、不快ではない。

むしろ――

(話が早い)

そう感じる。

「無駄な争いは、避けたいので」

私は少しだけ本音を混ぜた。

完全には明かさぬ。

だが、嘘でもない。

清成はしばし考え、言った。

「理にかなっている」

意外な言葉であった。

(否定はせぬか)

そう思う。

「だが」

続く言葉は、やはり予想通りであった。

「それでは、上には届かぬ」

(来たな)

兄と同じ結論。

私はわずかに息を吐く。

「上を望んでおりませぬ」

静かに答える。

清成は目を細めた。

「本気で言っているのか」

「はい」

迷いなく。

沈黙が落ちる。

しばしの後、清成が小さく笑った。

「面白いな」

(そう来るか)

否定でも、嘲りでもない。

純粋な興味。

「多くは、上を目指す」

清成は言う。

「だが、そなたは違う」

「平穏が一番にございます」

私はそう答えた。

それが、本音である。

出世も、名誉も。

必要以上には求めぬ。

ただ、無難に。

それだけでよい。

清成はしばし黙していた。

やがて、ゆっくりと口を開く。

「……悪くない」

(意外だな)

そう思う。

「上を目指す者ばかりでは、いずれ歪む」

静かな声。

だが、その言葉には現実がある。

「そなたのような者も、必要だ」

(……評価、か)

そう受け取る。

私は軽く頷いた。

「ありがとうございます」

それ以上は言わない。

やがて、清成がこちらを見る。

「一つ、聞く」

「何でしょう」

「そのやり方で、どこまで行くつもりだ」

(……どこまで、か)

考えたことはある。

だが、明確な答えはない。

私は少しだけ間を置き――

「行けるところまで」

そう答えた。

清成は一瞬、目を見開き――

そして、笑った。

「それでよい」

短く言う。

「ならば、見届けよう」

(見届ける、か)

それは――

(関わるということだな)

私は静かに頷いた。

「お好きに」

軽く返す。

清成は立ち上がる。

「いずれ、そなたは選ばねばならぬ」

背を向けたまま言う。

「出るか、引くか」

(……その時が来るか)

否定はしない。

できない。

「その時、どうするか」

振り返ることなく、続ける。

私は静かに答えた。

「その時に、決めます」

清成は小さく笑った。

「変わらぬな」

それだけ言い、去っていく。

(……ああ)

変わらぬ。

今はまだ。

だが――

(いずれ、か)

その時が来ることも、理解している。

私は静かに空を見上げた。

大学寮の空は、今日も変わらぬ。

だが、その下で動くものは、確実に変わり始めている。

無難に生きる。

その道は、少しずつ形を変えながら、続いていく。



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