ZOMBIE 9
淫らに開いた襟元から、豊満な谷間が見えていた。零れるため息も誘うかのように妖艶で、同性のはずの私もドクリと脈打ち、赤面するほどだ。
赤茶色の乱れた髪が汗で頬に張り付いている。震える唇で彼女は呟いた。
「天国……?」
その言葉を残し、呑気にピクニックをする私たちから数歩離れた草原に、勢いよく倒れ込んだ。
ビズラが作ってくれたホットサンドはまだ温かく、少しだけ血の気の引いた冷たい指先に熱を運んだ。
***
素敵な赤いオープンカーは、マンションから十数メートル離れた家の持ち物だった。
私が知る限り、その家のお向いはシルバーのスポーツカー、さらに斜め向かいではとても立派なキャンピングカーが持ち主の帰りを待っている。
他の家々にはバイクなどもあるので、足には困らない。
「傷は付けません。多分、きっと。出来るだけ。」
だから借ります、すみませんと、玄関に入って直ぐ右手の鍵掛けにあった車のキーを取り上げた。
拝借するために入った家はまるで空き巣に入られたように雑然と者が散らばっている。
勿論私達がやったのではない。きっとゾンビ達が溢れかえり、慌てて逃げる準備をしたのだろう。
その証拠に、壁にはいくつもの写真が飾られていたのだろう、四角い染みが見受けられた。
逃亡手段にオープンカーは向かないと判断したのか、ほとんど物が持ち去られた家の中、その赤い車だけがポツンと置き捨てられている。
少しだけホコリをかぶっていて、車庫を開け日の光の当たった車体が鈍く光った。なんとなく、この車は日の下が似合うと勝手に思ったのだ。
キーを差し込むと、ドルルっと重いエンジンの音が辺りに響く。人工的な物音はとても久しぶりだなぁ、と少しだけ懐かしさが蘇る。
ガソリンも申し分ない。これならピクニックの行き帰りは充分だ。
エンジンを一度切り、一番重要な問題に頭を抱える。
「運転どうしよう。誰が……、ってちょっとエイン。何ちゃっかり運転席に座ってんの」
「え?何が?」なんてしらばっくれて、再びハンドルに手を掛ける。アクセルを踏む足元は気遣いなんて感じられないほど、ガッガッという力強いものだった。
「コラ待て!運転の仕方、分からないでしょう!?」
「分かるよ。本読んだから」
「本って…」
教習所の本とか?でもそんなのあったかな。
「恋愛小説だよ。発進はアクセル、停止はブレーキ。合ってるでしょ?」
「恋愛小説に運転の仕方は乗ってません!あれか、題名が『恋愛事故の多発地点』ってやつか!」
恋愛事故の多発地点とは、最近エインが愛読している本である。略称『恋事地点』。
内容は何だったか忘れたが簡単に説明すると、オフィス(いざこざの多発地点)ラブ(事故、トラブル)ものなのだ。
お気に入りのセリフは「恋はノンストップ。止まる時は、私の心臓が止まる時よ」とかなんとからしい。
一体どんな恋愛小説なんだ。
「オフィス…、ラブかぁ」なんてこっちをチラチラと見てくるからたまったものじゃない。
会社どころか今現在、世界が崩壊しているっつの。
「確かにアクセルを踏めば進むけど、徐行って知ってる?すごくゆっくり走るの。エインはその些細な足遣い出来る?」
「うーん、出来ないかな」
「ですよねー」
発進した瞬間目の前の木にぶつかるのがオチだ。
どうしたものか。
悩んでいたら、車庫の外から現れたビズラが、わーわーと言いあう私たちを見て苦笑して言った。
「こんな所でどうした?」
「ああ、ビズラ。待ってました!エインは後ろ行って」
「真里ー」
残念そうにエインは運転席を離れ、後部座席に乗り込む。サンドイッチボックスを抱えたビズラは少しだけ首を傾げた。
「うう。二人きりのドライブが…」とエインは女々しくも呟いた。
「私達運転できないことが判明して」
「…それは、残念だな」
全くだ。全てにおいて残念で仕方がない。未だにエインはぶつぶつと何かを言っていた。
「良かったら、俺がしよう」
「え、ビズラ出来るの?」
「――――時々、遠乗りに行く」
オイ何しに行くんだ。
けれど彼がこっそりと知らぬ犬を連れてきたり、近所のスーパーでは見かけない食材を持ってきてくれたりしていたから、以前から一人で行動しているのは知っていた。
けれどわざわざ車を使ってまでなんて、そこまでは考えてなかった。
「嬉しい。じゃあ早速行こう」
「ああ」
「真里ー」
「はいエイン、サンドイッチ持ってて。食べたら怒るよ」
「大丈夫です!」
ビシッと敬礼して、大事そうに抱えるエイン。しかし良い香りにつられて、だんだんと顔が箱に近づいて行く。ああ、犬みたい。
ビズラは運転席に座ると、エンジンを掛け手なれたようにガコガコっとシフトレバーを動かした。
すると車はゆっくりと静かに車庫から日の下に姿を現す。
「うわぁ、凄く気持ちいい」
歩道に植えられた木が、立ち並ぶ家々がどんどん後ろへと流れていく。
スピード出し過ぎじゃないかな、なんて心配するけど、ゾンビ達はちゃんと歩道を歩くので心配ない。
時折見かけるゾンビ達は、『マァ~』と私の名前を呼んで手を振って来る。ふひひ、愛いのう、愛いのう。
そう言えば、と思って、私は「あ」と声を発した。
「畑に居るゾンビ達に、差し入れ持ってくればよかった」
汗水おまけに血を流す彼らに、何か食べ物でも持ってくるべきだった。失念していた。どうしよう。
「ん、心配ない。麦茶と彼らようにサンドイッチを作って来た」
「なんて気が利くの。…惚れてまうやろ」
「エインに、言われたから」
「……」
ん?幻聴?エインに言われたから準備した?そんな、まさかね。
「そうそう、僕が言ってね、準備させたんだ!」いつものエインならそう言って、私の周りを―――今だと座席の後ろから―――チョロチョロして言うだろうに。
ふと振り返ったエインは、風で帽子が飛ばないようにと、膝の上のサンドイッチボックスの上に帽子を起き、手で押さえていた。
風でなびく黒い髪が日の下で輝き、目元を縁どる長い睫毛が白い頬に影を落としていた。その中の赤い瞳がどこか遠い場所を見つめている。
私の視線に気づいたらしいエインは、私を見つめてニコリと笑う。
「どうしたの?」
言葉がなんとなく出なかった。
「ん…」
何故だかわからない。しかし一つだけ分かることがある。彼が誰よりもゾンビ達を想っているということだ。
「ありがとうね」
小さな感謝の言葉は、風で消えてしまいそうだった。しかしエインはそれを聞きとったらしく「何が?」と尋ねた。
「ううん」
「ん?」
「うん」
「あは」
二人で笑う横で、ビズラがフッと笑った。
「もう直ぐで着くぞ」
「わーい。マット敷いて食べよう」
「木陰探そうよ」
「良いね。ゴロゴロしたい」
「ゴロゴロしながら恋事地点読むんだー」
「あ。見えてきた」エインの言葉で見つめた先に会ったのは、思いのほか広大な土地だった。
今まで郊外から出たことがなかったから、こんな場所あったんだと妙に感動してしまった。
森は遠くまで広がっていて、なだらかな丘が続いている。背の高い草や芝生、色とりどりの花など、多種多様な草を生やす草原だが、以前から使用されていたらしい道路が横切るように続いている。
木々がポツポツと立っているその近くに、茶色い土地―――ゾンビ達が管理する畑―――が広がっていた。
車は近くまで行くと停車する。
「皆さんご苦労様です」
『マァ!』
『あー』
「これ差し入れね」
『うあー。パンー』
畑は当番制となっている。(勿論私たちにも当番は回って来る)今回の当番に当たった五人のゾンビ達は、差し出したサンドイッチを嬉しそうに受け取った。
「なかなか良い調子で育ってるね」エインは畑を見ながら感心して言う。確かに思っていた以上に野菜の実が大きく立派だった。
「皆のおかげだ」
ビズラの言葉に私は頷いた。
「うん。毎日ありがとう」
「近いうちに野菜主催の焼き肉パーティしようか」
「賛成!」
『にくー』
『うまー』
あはは、辺りに笑い声がこだまする。ゾンビ達には「暑いから無理しないようにね」と言って、木陰に移動した。
そこに持って来た赤いチェックのマットを引いて、三人は各々座ると、真ん中にサンドイッチを広げた。
「うわぁぁ。待ってました!お腹ペコペコだよう。頂きます!」
「なんか向こうに誰かいるけど、僕も食べようっと」
「はい?」お行儀悪く、口に物を入れたまま私は言った。エインは「頂きます」と言ってサンドイッチを手に取りほうばった。
どういうことなの、そう聞こうとしたその時だった。
背の高い草がガサッと揺れて、そこから誰かが飛び出してきた。
私は予想外の展開に悲鳴を飲み込んだ。それと同時に楽しみにしていたホットサンドをろくに味わう間もなく飲み下した。
ボロボロの洋服。よく映画で見かけた泥とほこりで汚れた、布を巻いたかのような服。色は目立たぬようにと茶色で、背中にはリュックサック、そして腰にはナイフと言うよりも二回りは大きな物が下がっている。
手には銃が握られていて、あまりに自分達との格差に声が出なかった。
窮屈そうに収められた胸元から唯一の装飾品のネックレスが見て取れた。ああ、女の人だ。この世界に来て生きた女性は初めて見た。
女性は荒い息使いでこちらを見て、私以上に驚愕した表情をする。まるで有り得ないものを見る様な、理解に苦しむような顔で。
寄った眉間からフッと力が抜け、女性は呟いた。
「天国……?」
その一言だけを残して、女性は勢いよく倒れ込んだ。