最初の夜、始まりの日
こんな夢を見た。
ぼんやりとした霞がかかった道無き道を俺は歩いていた。とは言っても、目の前に道があるわけではない。真っ白な上も下もわからない空間の中でただ歩を進めている。
振り返ると俺がこれまで歩いてきた足跡だけが地面の上にぽつりぽつりと茶色く残っている。だから俺は道を歩いているんだと認識していた。
この世界には全く音がない。足音もしない。ただ、足取りは軽かった。自分の好きな方向に足を向けられるというのは、なんと心地いいことだろう。
少し変化が訪れたのは緩やかに勾配のついた坂を登り始めた時で、その時初めて俺の足は重力というものに捕らわれた。俺はここを進まなければならないんだろうか。嫌じゃない。嫌じゃないが、少し自由が失われた気がして、少しだけ悲しくなった。
勾配の先で辿り着いたのは一軒の家だった。
その家はなんだかとても温かい印象だった。この家は俺を待っていた、そんな気がした。門扉をくぐって敷地に入ると正面には温もりのある木のドア、左手の庭には1本の桜の木が佇んでいた。
誰かが俺の袖を引く。
「こんにちは」
子供の声。声のする方を眺めてみたが、不思議と姿は見えない。
「こんにちは」
「よかった。お兄さんとラインがつながった。また来てくれてありがとう」
そういえば、なんとなくここは来たことがあるような気がする。いつだっただろう? 記憶を遡っても判然としない。
「お兄さんはこの家、どんな風に見える?」
改めて見直す。
木造の2階建て。白い壁、温かみのあるドア、透き通った窓。屋根。
普通の家。普通の家族が暮らす家。そうだな、仲の良い両親、庭で遊ぶ子供。犬小屋があって犬がいてもいいかもしれない。鳥を飼うのもよさそうだ。そんな温かな光景が思い浮かぶ。なんとなく庭を走る子供の足音が聞こえたような気がした。
「悪くないんじゃないかな」
「そっか、嬉しいな。ありがとう。……でもみんな最初はそんなふうにいってくれるんだよね。お兄さんはここの家に住みたいと思う?」
家を再び眺める。
この真っ白な世界に色がついているのはこの家と俺の足跡だけだ。そう思って振り返ると、俺の足跡はくねくねと蛇行しながら随分と遠くまで続いていた。
あっちから、来たんだな。その途端、ふうっと、来し方から呼ばれる感じがした。あっちで俺を待ってる人がいる。
「どうだろうな。俺にはもう家があるからここには住まないよ」
「そっか。それがいいかもね。お兄さんが最初に住んでくれたらよかったのかなってちょっと思ったんだ」
変なやつだな。それは悪手だろ。俺は呪いのせいで運が悪い。下手に住んだら全焼してもおかしくない。
「僕にはどうしても助けたい人がいて、お兄さんに手伝ってほしいの」
「助けたい人?」
「そう、僕の大切な人。柚ちゃんっていうの」
――柚。
その言葉を聞いた時、白い空気が大きく揺れた。
狭い部屋の中で反射しあうようなぐらぐらした音で、少しめまいがする。なんだこれ。
しばらくたつとまた世界は静寂に包まれる。
「ごめん、音を塞いでるんだった。それであの人をあの家から出してほしいんだ」
「呼んでくればいいんじゃないか?」
「僕が話しかけても出てきてくれないんだ。聞こえないみたい」
ふうん。
俺は声の手にひかれるまま敷地に足を踏み入れ、白い庭にまわる。やわらかな白いカーテンのすき間から覗き込んだリビングで白っぽいソファ越しに人の頭がゆれるのが見えた。奥にキッチン、右手に襖が見える。
「あの人?」
「そう。お兄さんならなんとかしてくれないかなと思って」
試しに窓をコンコンと叩くが、窓がわずかにゆれるだけで、部屋の中に動きはない。
「なんで出てこないの?」
「この家が好きなんだよ」
「だめなのか?」
「うん」
本人がそれで納得しているならかまわないんじゃないかなと思う。頭の位置からは大人のように思えるし。
なんとなく、そこで俺はこれが夢だと気が付いた。
急に、空気が重みを増した。
足は地面に縛り付けられ、足元からツタが巻きつくように重力が体にまとわりつき、俺を捕らえていく。
そのとたん、重く暗いたくさんのうめき声が響き、コンクリートがひび割れるように足元から世界がバリバリと割れていく。俺の足も手のひらもクラックが広がり、深く、細かく、細分化されていく。
崩壊する白い世界の中で、家だけが無傷で取り残されている。
ああ、そうか、これは。家の夢。
「お兄さんお願い、あの人を助けて」
◇◇◇
「おい、起きろッ、ハルッ、大丈夫か? おい」
ッツ。
頬を叩く冷たい手。
うっすら目を開けると公理さんの茶色を帯びた目が視界に入る。
頭痛ぇ。二重の意味で。
この人力加減というものを覚えたほうがいい。
俺の頬を叩く公理さんの手を軽く振り払う。
「痛い。起きた、大丈夫、なんなんだ?」
「なんかものすごくうなされてて、ハルの挟まってる扉がつながりそうだったから急いで起こした」
んん、夢の内容は覚えてる。手を見る。大丈夫、ひび割れてない。まああれは夢だから当然か。いや、どうかな。
うん? 扉が繋がりそうになった? どういうことだ。夢の中でも思い浮かべれば扉は開くのか?
思い浮かべるというよりは直接みていたのだが。
「ハルこそ何かあったの?」
「夢の中で家に会って、公理さんの友達を外に出してほしいって頼まれた」
「家に? 家ってどういうポジションなの? 歌菜を食べてたよ?」
「よくわからないが、夢の中の家はそんな感じじゃなかったな。小さな子供みたいだった。それともあれは家じゃないのかな、よくわからない」
ただ公理さんが言う通り、この状態は放っとくと正気じゃないほどヤバいってことは身に染みた。夢の中では記憶が保てていない。夢の中で扉が開けば、寝てる間に家に引きずり込まれる、または自分から入ってしまう可能性がある。それはまずい。非常にまずい。抵抗ができない。
夢の中で扉が開いてあの家に取り込まれれば、寝たまま二度と起きられないかもしれない。今更ながら背中を冷や汗が伝う。まずい。
時計を見ると時刻は午前2時過ぎ。寝てから2時間弱か。夢に現れるなら夢を見なければいい。夢は寝てからしばらくたった後のレム睡眠期に見る。そうすると、1時間半程度ごとに一旦起きるか薬か何かで夢を見ないようにするしかないのかな。どちらも気が進まない。
やはりまともな判断力があるうちに多少のリスクをとってでも早期解決するほうがいいだろう。
リスクの検討のために改めて現状の確認をしよう。あの夢は何なんだ?
夢の中で見たあのリビング。あれは寝る前に扉から覗いたあの家のリビングと同じに見えた。両方でソファにいる柚がいたが、夢の中と扉の中は同じ世界なのだろうか?
寝る前に扉を覗いた時、家は扉を少し越えてきた。超えてくる以上扉の向こうは現在と繋がっている。つまりリアルタイムに存在するものだ。だから扉の向こうはおそらく現在のあの呪いの家に繋がっていたのだろう。扉の向こうの家とあの夢の家が同じものならば、夢を見ると和室にいた歌菜を食べる家と繋がる可能性がある。下手に寝ると記憶がないままあの和室の家と対峙する可能性がある。
あの夢が現実と繋がってるのかどうか、それから俺が万一あの家に迷い込んだ時にあの和室の家に襲われる可能性があるのか。それだけでも確認したい。
そうじゃないとおちおち寝られやしない。
「やだから!」
視線を向けただけで即答される。
はぁ、酒入ってる公理さんなんてこちらこそ御免被りたいのは山々なんだがな。
「友達の状態をチラッと見るだけだ。一瞬でいい、心配なんだろ?」
「んー……ほんとに一瞬?」
「ああ、それに家がいたらすぐやめる」
しぶしぶ同意した公理さんと新しいルールを決める。
俺の手に公理さんの手を重ねる方式じゃどちらかが気絶した時に気づかない。だから右手同士を組む。握手だ。気絶すれば力の入れ具合でわかるだろう、と言い添える俺に公理さんは右手を差し出す。
引っかかったな。後で恨まれるだろうが仕方ない。
首筋の予兆に変化がないことを確かめ、恐る恐る目を閉じてリビングを思い浮かべる。
リビングの目の前のソファには柚が座っていた。先ほどの夢で庭から見た光景と合致する。寝る前に扉越しに見た寝ころんだ姿と違って座っているが、うつらうつらとしているようだ。やはり先ほどの夢はリアルタイムのこの家に繋がっていたのだろうか。
さてと。俺はキッチンの奥の扉に目を向け、歩き出す。
扉を抜けて正面右前方に2階へ上る階段、その右には短い廊下の先に玄関スペースが見える。
左前方は洗面室で恐らくその奥は風呂場。ということは左のドアはトイレかな。
階段を上がる。
「ちょっとハル、待って、すぐやめるって約束」
「やめるわけないでしょ、公理さん単純すぎ」
俺の手を振りほどこうとする公理さんの手の甲に力を込める。
「公理さんが手を放しても俺は見るのをやめないよ? 俺は幽霊が見えないから、今度こそ俺が挟まってる扉から家が出てくるかもね?」
ビクっと震える公理さんの右手。少しのためらいの後、俺の手は握り直される。
「ハルの嘘つき」
「このほうがいい。あと、解説して。もう1回見るのは嫌だろ」
「ハル本当にひどい……」
公理さんがあきらめた。ぶつぶつ言っているが構わない。よし。このまま進めよう。
2階に上がると電気は消えていた。まいったな、夜中だったな。明日の明るいうちに改めたほうがいいだろうか。騒ぐ公理さんを無視して振り返る。
「公理さん、俺真っ暗でみえないんだけど、何か見える?」
「見えるよもう、めっちゃ見える。霊がうようよしてる。もうハロウィンパーティだね?……あれ? 降りるの?」
「残念ながら俺には真っ暗でわからないからな」
「……そう、よかった」
明らかにほっとしたようなため息。
階段を下りて向かって左手側にある玄関に向かう。
気になっていたこと、俺はこの状態で家から外に出られるのか。扉から覗く方法であれば目を開ければ現実に戻れる。けれども夢では夢と認識していないから『現実に目を開ける』感覚は掴めない。万一『目を開ける』方法で公理さんのマンションに戻れなくなったら。そう考えると脱出口の有無はリスクの検討に必須だ。
ドアノブは触れないだろうから直接ドアに触れると抵抗を感じた。ドアの感触はしないが、何かのっぺりとした壁がある。まるでシリコンのような触感。玄関に向かって左側の靴箱の上の壁も同様、のっぺりとした感触で阻まれる。確かこの先は夢の中では駐車スペースだったはずだ。
俺は玄関に向かって右側、和室がある方の壁に手を向けると、手は壁をすり抜けた。
「ちょっとちょっと待って、その部屋はまじ勘弁、入るなら俺逃げて辻切に飲みに行っちゃう」
「さすがに今は入らないよ」
「今……?」
俺は再びリビングに戻る。柚はあいかわらずうつらうつら船をこいでいる。その隣をすり抜けてソファの背後の庭に面した窓ガラスに触れる。やはりここも透明の何かのっぺりした壁があるようだ。やはりこの状態では家の中から外には出られない。一旦家に入ってしまうと逃げ場がないのか。糞。
一応窓の外は見える。木が一本生えていて、雑草が茂っているようだった。
今確認できるのはこのくらいか。
そう思った瞬間、俺の首筋は再び総毛立つ。
「ヒッ。ハル、家がいる、早く起きて、早く」
公理さんが逃げ出さないよう強く手を握る。
「ちょっとハル、目をあけて、ほんとに、戻ってきて、ヤバい」
手を浮かせる公理さんをよそに俺は振り返る。
ソファに座る柚の後頭部と和室の間に存在する重く息苦しい空気の溜まり。それに黒い闇がそろそろと集まっていく。不運の予兆にねじれ裏返る俺の胃の腑が胃酸を喉に押し上げる。膨れ上がっていく狂気。だがすぐに襲ってくる気配はない。それならこれだけは確かめておかなければならない。
「俺は何をすればいい?」
ミン ナ ォ シァワ セ ニ シ
「幸せ?」
……ノロ ィ トィ テ
寝る前に聞いた叫び声と違い、わずかに声として認識できた。夢で家が言っていた「ラインがつながった」ということだろうか。目の前の溜まりに黒い禍々しい闇が集まり溜まりが飲み込まれる気配とともに俺は大きく息を吐いて目を開けた。




