暗闇でシーソー
真っ黒な世界にいた。
何もなくとても静かだ。扉を閉じて目を開けたのに景色は変わらない。何も感じない。だが額の痛みはなくなった。だから、今は安全だ。
ふう、と小さく息を吐く。首筋を通さずにいきなり額の予兆に繋がるのは心臓に悪い。
さて、検証だ。このためにギリギリまで粘ったんだからな。
首の予兆が失われた以上、額の予兆と身体の不調の整合性を取る必要がある。試せるのは柚が扉なら安全と言った今しかなかった。柚は同じバイアスなら過去を超えられる。柚の呪いはすでに異なるバイアスをも超えてきた。
将来の予測はできない。今後事態が悪化する可能性は十分にある。その前に自分の危機感覚の調整は必須だ。それから調べたいこともあった。
疑問があった。足元から呪いは降り積もる。それなら最初に死ぬのは足の触覚と運動神経のはずだ。なのに最初に死ぬのは嗅覚とおそらく味覚だ。顔には呪いは接していないのに何なぜ鼻と口から死ぬのか。おそらく俺は無意識に呪いの影響を受ける部位を選択している。
家が最初に言ったように、俺は呪いに慣れすぎている。だから呪いの扱いにも慣れている。それなら俺は家の呪いを制御できるのか、できるとしたらどの程度か。
これまでは最初に味覚と嗅覚が消え、触覚が消える。それから聴覚。喜友名晋司の時も請園恭生の時も最後に視覚が残った。そしてさっきは最後に自律神経が削られた。触覚が消えた時点で運動神経が残っているのかどうかはよくわからないが、前回の時に公理さんから俺が倒れたとは聞いてないから、恐らく異常はなかったのだろう。
この順番は俺が通常状態で重視している順番に思える。最重要は生存確保のための自律神経、活動するための運動神経、次はこれらを確保するための五感の重要な順番。味覚は厳密には試していないがおそらく嗅覚と同程度だろう。
とすれば、その順番を調整できないか。無意識に重要部位を残しているなら、それを調整していらない部位から捨てられれば活動時間が伸びる。扉から覗く分には視点は俺の頭の中で動かせる。運動神経が1番にいらない。目と耳も片方ずつ残っていればいい。
まずは家の呪いの分析。呪いが俺の体に影響を及ぼす方法。
俺は扉に挟まっているらしく、扉をくぐらない限りは呪いに喰われることはない。だが『呪いの媒体』と多く接すれば五感や身体機能が麻痺する。これは呪いの影響自体は受けているということだ。
つまり呪いは扉を超えて扉枠の内側の俺に影響する。だが扉の向こうの家に俺を引き摺り込むことはないから俺は食われることもなく完全に機能が失われることはない。
何故かはよくわからない。呪いはあくまであの家の中と限られた近い範囲だけ影響を保つ可能性。あるいはあの家と公理さんの家が距離的に離れているから、呪いが目的意識を保てない可能性。つまり俺を食おうとして扉を超えて扉に接した俺を齧った瞬間、その効果または目的意識が失われる。あるいはその両方。これは家にどの程度物理的に近づけるのかが変わってくる。
それから越谷泰斗の時のように、呪いは呪い自体が集まる性質をもつように思う。扉のこちら側で霧散した呪いは、恐らくいつのまにか扉を通って家に戻っているのだろう。齧ってしばらくするといなくなる、これが侵食が回復する過程の仮定。
一方、多くの呪いが扉を超えてくれば、こちら側で滞留する呪いが増える。集まる力は手近なものへの集合がまず優先され、より大きな母体、扉の向こうに戻るのが遅くなる。だから集まれば集まるほど、全てを家に戻すのに時間がかかるようになる。細切れに扉を閉じてもこちら側、俺の中で俺を齧っている呪い自体の蓄積量が増えているのだから呪いが解消されにくくなり、麻痺の回復が遅れる。これも仮定。
試そう。呪いを調整できるのか。
まずは自律神経を試したかったが、既に呼吸に苦しさはない。無意識に自律神経の回復を優先したのだろう。自律神経はどこだ? 脳、脊髄。そこが呪いから外れているかはどうか。……いまいち自覚はできない。やはり動きとして観測できたほうがわかりやすいな。
呪いの形状の確認。
今俺の全身が満遍なく気持ち悪い何か、つまり家の呪いに覆われているように感じる。扉の中で家が言っていた、呪いに覆われて動けないってのは多分こういう状態なんだろうな。前は万全に呪いが全て無くなってから目を開けた。この状態のまま先に目だけ回復できるかな。
どうしたらいい? 右目に意識を集中する。右目は生存に必要だ。見えないと話にならない。そう念じると俺の中で何かが動き、何かを押しのけていく。動きを観測したことで初めて俺は呪いの形を意識する。イラつく、気持ち悪い。こいつか。これが要因か。俺の呪い。
家の呪いに抵抗しているのは俺の中にもともとあるもの、つまり俺が持っていた呪いだ。呪いが呪いを追い払う。自身の呪いで俺を不幸にするために。全く支配欲が強いことだな。腹立たしい。だがこうやって俺から少しずつ他人の呪いを追い出していたのだろう。
だから家は公理さんではなく俺に扉をつけたのかもしれない。呪いに対抗しうるこの俺に。俺はすでに俺の呪いの支配下にあるから家の呪いで変質しないし支配されない。
そうすると呪われた俺以外が家に呪われると、呪いは無くならず溜まりっぱなしになる可能性があるのか。公理さん大丈夫かな。左半身の魄を置いてきた時は置いてきただけだったろうけど、俺を夢から助けたときは普通に右指2本を喰われた。
公理さんは呪われた可能性がある。喜友名晋司が呪われた時と同じように、今公理さんを夢で見るとひょっとしたら黒く染まっているのかもしれない。その場合、公理さんに留まった呪いがこれまでの『呪いの依代』と同様に公理さんを変質させ続ける可能性がある。貝田弘江のように。
まずい、急がないと。
俺の中にある呪いの動きをより意識する。俺の呪いは右目に広がる。家の呪いは場所を明け渡し、他の部分に移動する。目の機能は回復できただろうか。だが目が開かないな。まぶたがあがらない。まぶた。運動神経が死んでいる?
生存には目で状況を確認する必要があると強く念じ、目の周囲だけ体が動くように意識する。両目が開いた。右目だけ見える。公理さんが何か話している。左目の機能は死んだままだ。右目の運動神経だけ動かそうと思ったがそこまで細かい制御は難しそうだ。まあ神経だしな。だが首から下は動かない。いや、触覚を回復していないから動いているのがわからないだけかもしれない。
次に右の聴覚が必要だと強く念じる。そうすると俺の中にいる家の呪いが右耳に移動する。
「ハル! 起きて。動いて! 大丈夫なの!?」
公理さんの声とかけっぱなしの音楽が聞こえた。その代わりに右目はまた家の呪いに覆われて見えなくなった。
今はまだ、家の呪いが強すぎる。だが機能の付け替えは可能かもしれない。最悪の状況で目と耳の機能を交互にでも使えれば生存率が上がる。
それから……家の呪いを早期に扉の向こうに返す方法はないだろうか。あまりやりたくはないが仕方がない。何かあった時に本番でいきなり試すよりは多少危険でも予行演習すべきかな。
◇◇◇
最近娘のあつりの様子がおかしい。
あつりの部屋の前に行くとあつりが誰かと話している声がする。最初は友達と電話でもしているのかと思った。けれども扉を開けた時、あつりは電話を手にしていない、そんなことが何回かあった。
誰と話してるんだ? と聞くと悪戯っぽく秘密と言われる。
ただまぁ、その時点ではあまり気にしてはいなかった。
気になったのは家の中で小さな子供の笑い声や天井を走る音がし始めてからだ。すぐに原因に思い至った。この家は私が買う前に心中事件が起こっている。母親が4歳の男の子を殺して死んだ。無理心中だ。だからかなり安く買えた。あつりはこのことを知っているのだろうか。
私達の『幸せなマイホーム』に私達以外の者が入り込んでいる。それはなんだか許せなかった。
これまで幽霊は信じていなかった。だが存在しているのだろう。音をよくよく観察してみると、どうやらその心中した男の子のように思える。実害はないようだ。あつりの精神状況が気になるが、特に今のところ問題がないように思える。祈祷師でも呼ぶかと考えたが、変な噂を立てられる方が面倒だ。
あつりのことを気にかけながら様子を見守ることにした。




