祈るものがない
いつからかその目に気付いた。
庭には一本の大きな桜の木が立っていて、それ以外は何もないと思っていた。けれども何かが見ているんだ。視線をいつも感じる。
そうだ、私が神目教会を設立するまでのことを話そう。
私の親は熱心なクリスチャンで幼少のころは毎週日曜に教会で祈った。当然神様はいると思っていて、熱心に祈っていた。小学校に入るまで、それは問題にならなかった。
小学生になってから、友達から『神様なんていない』と言われた。それはそれでいいと思う。両親は神様は信じる人と信じない人がいると言っていたし、友達が神様を信じていないというだけなのだと思っていた。
『神様に祈ってもお願い聞いてくれるわけじゃないし意味ないじゃん』とも言われた。でも別に私は神様が願いをかなえてくれるから祈ってるんじゃないんだ。生まれてこの方そういう家に生まれたから祈っているだけで。この『祈る』という行為は信心深い私の家では当然のことで、いつもそばにあるものだった。
けれどもそのころから少しずつ違和感を感じ始めた。神様がいるかどうかとか、意味があるかというのは全く関係ない。『祈る』とか『信じる』とかいう行為が何をさすのかが全くわからなくなった。教義はわかるし言っている内容も理解できる。けれども私はここで何をやっているのだろう。そんな、違和感。自分に対する違和感?
自分の行為の意味がわからない。
教会に行く。神父の語る神の声を聴き、祈る。祈るって、何。どういう状態になると『祈る』になるんだ? それがさっぱりわからない。例えば賛美歌を歌う。祈っている時の賛美歌と祈っていないときの賛美歌、それは何が違うんだ? 神のことを考えているかどうかなのか? 神のことを考えて歌えばそれで『祈る』ことになるのか? この神像の値段を考えるも含まれる? わからない。
そのうち『信じる』が何かがわからなくなった。キリスト教の『信じる』は、神の存在の有無を信じることではなく神に信頼を寄せることだ。神を身近に感じること。でも身近って何。隣のおじさんのように感じるのでいいのか。それは違うような。神を神として身近に感じるって何。わからない。
神父に聞いた。神父はただ祈ればいい、とわけのわからないことを言った。祈りが何かわからないから聞いているのに。神父は祈りとは自分の内から自然に出ているものだという。じゃあ自分は祈っているのかと聞くと、祈っていると言う。どうしてわかると聞くと、祈っているからだと言う。堂々巡りだ。
私は禅寺の門をたたいた。神父が言うことは意味が分からなかったから。内なるものって何。禅は自らを省みながらその神性を探る試みだと聞いたから。本当は仏性だが紹介された禅寺はおおらかなところで、面白い、それでも構わないと言ってくれた。
神は何かと思いながら自らを深く省みる、座禅を組みながら悟りを開く。悟りとは迷いを超えて真理を会得することだという。真理を会得できれば祈りも信仰もわかるだろう。そう思ってのことだったが、議論なんかもするのだけど、なんだかやはり言葉が滑っているように感じられた。
そもそも私は言葉というものがわからないんだった。しばらく1人で思索にふけっても、ますます何がなんだかわからなくなる一方だった。そこで私はまた紹介されて、今度は密教を学んだ。言葉にするからわからないのだ。曼荼羅や記号から入れば何かイメージというか気づくことがあるのではないか。そう考えて学んだが、結局のところ、言葉も曼荼羅や梵字と同じく記号にすぎないなと思った。私は記号の指し示すものがわからないのだ。
それから私は様々な宗教を学ぶことにした。イスラム教やヒンドゥー教、ゾロアスター教。そういった世界で信じられている宗教を研究することで、最も根本的な『祈り』『信仰』というものの共通性が把握できるのではないかと思った。
それぞれの教えはそれなりに興味深かった。けれどもそれぞれの神に祈っても、やはりその行為がなんなのかの理解は及ばなかった。この辺りになると、信仰の対象自体はあまり気にならなくなり、ただ自分が何をやっているのか、この皆が行う『信仰』という行為がなんなのかばかり気になった。
それであればいっそのこと教義経典、つまり記号自体を捨ててみてはどうかと山に篭った。自然崇拝とか精霊信仰。それはなかなかに快適な生活だった。日々山で暮らす。けれども結局、自分が何かを『祈り』『信仰』しようとすること自体がなくなった。そうして長い回り道をして、私は信仰というものを捨てた。捨てたというより、どうでもよくなった。
本末転倒だ。けれども神がいないという気にはならなかった。その神の名前がキリストか、仏か、アッラーか、精霊か、空飛ぶスパゲッティモンスターか、その呼び名はどうでもいいが、世界は色々なもので満ちていて繋がっている。その作用は人知を超えた神の御業のように思われた。だからわざわざその営みの中で『祈り』『信仰』という行為の線引きをすること自体にさほどの意味はないのではないかと思った。また、その作用がどのような名前で呼ばれるかもどうでもいいことだと思った。
そんなことをしなくても、すでに自分の中から祈りが溢れていた。最初に話した神父の言ったことがようやくわかった。
「素晴らしい」
そこまで私が語るのをじっと黙って聞いていた人が口を開いた。
「全く面白い」
そもそも私がこんなに自由気ままに生活できているのは、私の正面に座る人に支援してもらっているからだ。
もともとは禅寺に入りたいと両親に話した際にこの人を紹介された。半年に1回検査を受けること、その際に面談して質問に答えることを条件に私は長年多額の支援を受けている。この人の名前は知らない。というより何も知らなかった。宗教の人に及ぼす影響を研究しているらしい。だが私の宗教研究はひと段落ついてしまった。これでは今後の支援は受けられないだろう。
どうしようかと思ってビクビクしていたら、団体を作ることを勧められた。そこで同じように宗教を思う人を集めてこれまでと同じように研究する。もちろん十分な支援は継続する。
なぜ私が、と尋ねたところ、予想外の答えが返ってきた。私のように宗教に深く浸かりながらも特定の宗教に拘らない人物というのはあまりいないのだそうだ。まあ、そうかもな。だから様々な宗教観を持つ人間を集めて共存できるかという実験をしたいそうだ。
「だが私はもう祈り信じる対象がないんです。これでは無理ではないでしょうか」
その人は少し考えて、一冊の本を私に勧める。
「これはどうでしょう?」
「方法序説?」
「そうです。いわゆる哲学。これまであなたは超自然的な神が存在することを前提に研究をされていた。今度はそれを前提に計算から神を見出されてみては?」
◇◇◇
結局RAが何かはわからなかった。
内倉さんが風呂から上がって公理さんのベッドに倒れるのを横目に、俺は公理さん用の粥を温めながら先程携帯で調べていたことを思い出す。
ラー、エジプト神話の太陽神。エジプトの神。エジプト神話についてはよく知らない。
ラーの目。
ラーは自身を信仰しない者を滅ぼすために破壊神セクメトに目を与えて殺戮の限りをつくさせた。随分バイオレンスだな。流石にこれはないと思ったもののさらにその目を調べると、意外な共通点が思い浮かぶ。
エジプト神話の天空の神ホルスの両眼はそれぞれラーの太陽の右目とウジェトの月の左目と呼ばれる。ウジェトの目はホルスが戦争のセトを討った時に失われた。ホルスの頭部は隼で、その目はエジプト全土を旅して知見を得て知恵の神トートによって癒され回復した。だからウジェトの目は「すべてを見通す知恵」、「癒し、修復、再生」の象徴。ホルスが回復したウジェトの目を冥界のオシリスに捧げたことから供物の象徴ともされる。これが神目と聞いて最初に思い浮かんだプロビデンスの目のこと。
うーん、全てを見通すっていうのは神目教の神が全てを見ているっていう概念と共通するような気もする。ただしこれは左目。
ではラーの右目はなんなのか? 人間の感覚器官と結びつくエジプト式分数。宇宙の心理を導き出す方程式で、松果体を表す。左目と違って右目に関する神話などは見当たらず随分具体的な数学の話が展開する。
ラーの目で調べると出てくるのは松果体、心身二元論、デカルト。流れがまるでよくわからない。
どことなく神目教と結び受けるのであればラーではなくウジェトの方だろう。エジプトでは一時期、右目と左目を合わせたものがミイラの棺に納められていたとか。ふうん。でも指輪は明確に右目だな。あわさったなら左右差はないような気もする。まさか右目と左目を勘違いしているのか? さすがにそれはないだろう。請園恭正はその遍歴から、おそらく宗教には詳しそうだ。
結局、やっぱりRA の意味はよくわからずじまいだ。
◇◇◇
ベッドがうっちーに占領されちゃった。
最近俺の部屋にはいつも人がいる。少し不思議だ。俺もいつも部屋にいる。変な感じ。いつもは俺が外に飲みに行くことが多かったから。部屋では夜景を見ながら飲んで寝るくらいだった。俺、今、この部屋で生活しているんだな。お粥を温めているハルの背中を見ながら思う。
背中。ハルの首筋を見る。
ハルは首の魄を食われた。だから取り戻さないと早晩ハルは死ぬ。全部じゃないけど少しは知っている。ハルがどんだけギリギリに不運なのか。そんで俺がどんだけバカやったのか。
ハルの予兆は元々あったものじゃない。あの虫の知らせ機能は漫然と発生したものじゃない。そんなものじゃ断じてない。ハルが命を削ってようやく獲得したものだ。
確か額は子供の頃に親の無理心中に付き合わされた時の事故の怪我。死にかけたと聞いている。だから額の傷は直接の死の危険に強く反応する。
ハルの首筋は移植から随分たっているから今は全然目立たないけど、昔住んでた家が全焼した時の火傷跡だ。これも確か小さい頃。気づかないうちに一酸化炭素中毒かなんかで体がうまく動かせなくて死にそうになって、そんな中でなんとかベランダまで這って逃げて一命を取り留めたと聞いた。気が付いたら体が動かなくなってきたことへの反省。だから首筋は少しでもハルに不幸をもたらしそうなもの、やばくなる危険があればすぐにザワついて知らせる。
ハルの予兆はハルが死にかけて手に入れたものだ。同じことを繰り返さないように。ハルはそれに頼って生き残ってきた。あれはハルが生き残るための生命線だ。今は多分両手両足持ってかれたくらいの気分になっているはず。だから取り返さないと駄目だ。絶対駄目。柚と家の呪いを何とか解いても首の魄が戻らないとあまり意味がない。呪いを解くと同時にハルの首の魄を取り返さないと。
ハルは夢から覚めたとき、一瞬だけものすごく怯えた顔で辺りを見回した。恐怖があの目からこぼれ落ちていた。でもそんなのは一瞬のことで、すぐにもとの無表情に戻った。でも指先が少し震えていた。本当に怖いんだろう。
俺は体の半分が動かなくてもそれだけで死んだりしないけど、首の魄がなければハルはそれだけで死ぬ可能性が高まる。死に近づく。ごめん。本当に。しかも俺は動けない。何もできない。……どうしていいかわからない。どうしたら。俺がハルを呪いの家に巻き込んだ。
なんとか取り戻せないかな。なんとかして取り戻さないと。それだけは。そう、これは俺が始めた呪い。だから俺はどうなってもいい。




