黒の闇
夜のような闇が静かに広がっていた。とても静かだ。なんだかとても落ち着く。闇の中でさらに目を閉じる。
あの黒い絵のことを考える。喜友名晋司は『呪いの媒体』を芝山と呼んでいた。喜友名晋司が夜な夜な人を殺していると書いた記者の名前、芝山彰夫。あの『呪いの媒体』に意思があるように感じたのは本当に意思があったからなんだな。あの『呪いの媒体』は芝山彰夫の魂が変化したもの。越谷泰斗の蝿に多くの魂が宿ったように、あの絵に芝山彰夫の魂が宿っている。混ざっているわけではないから明確に個性があるのだろう。
そうか、もう死んでいたのか。芝山彰夫は喜友名晋司と親しそうだった。取材のために足繁く通っていたのだろう。あるいは元々の知り合いなのかもな。
屋根裏にあった目玉、それから芝山彰夫の記事。そこからは喜友名晋司が人を殺し、その材料で絵を描いていることが推測される。
喜友名晋司が最後になんと応答していたのかはわからないが、あの呪いの言っていることは正しい。喜友名晋司は死んで次の呪いを発動する『黒い幽霊』になった。喜友名晋司の望みとは異なるのだろうが、越谷泰斗は喜友名晋司の呪いを引き継ぎ絵を描こうとした。
どうすれば呪いは止まるのだろう。喜友名晋司の望みは何だ。それに向き合う必要がある。喜友名晋司に自殺を選ばせなければこの呪いは解除される予感はする。
絵は残しておいていいのかな? 『呪いの媒体』自体は残るだろうが、それは貝田弘江の事件と同じことだ。バイアスを消滅させることの障害にはならないだろう。だがあの絵の中で意思を持つ者、あれも外に出さないといけないのかな。絵から家の外に? 方法は皆目見当がつかない。
そう考えていると肩が揺らされているのに気がついた。次第に匂いと音が戻ってくる。
「公理さん大丈夫だ」
目を開けると、そこには半泣きになった公理さんがいた。
「全然大丈夫じゃない!! 家の扉が閉じてからも30分くらいなんの反応もなかったんだよ!? ほんとこのまま死んじゃうかと思った」
「大丈夫だよ、これまでの進行を考えれば心臓までこなければ問題ないと思ったんだ。それにこれまで感じた1番酷い不運の予兆の少し手前で止めたから」
「全然良くない!! さっきはすぐに元に戻ったけど声もずっと聞こえてないみたいだし全然動かなかったからもうダメかと思った」
「心配かけてすまない」
心配っていう問題じゃない、と一言いって、公理さんはソファに深く腰を下ろして天井を仰いだ。
時刻は10時半。結構長く家に入っていたな。
「一休憩して次は12時に入ろう」
「ふざけんな!!」
「大丈夫だ、喜友名晋司はさっき死んで、今はもう新しい1日だ。下手を打たなければ呪いは溢れない」
「そういう問題じゃ」
興奮する公理さんの肩を叩いて落ち着かせる。やはり不安定だ。困ったな。何か飲み物でも入れたほうがいいかな。温かいものがいい。何があったかな。
「公理さん、今がベストなタイミングだ。小藤亜李沙と同様に、1日の中では記憶は持続すると思う。今は柚がいない。喜友名晋司を説得するには今から始めるのがいい。柚が帰る前に終わらせよう。柚が心配なんだろ?」
「それは……そうだけど! ハルも心配だ。誤魔化されないぞ」
「優先順位を間違えるな。解決しなければ俺も公理さんも死ぬ。リスクは織り込め。この方が勝率がいい」
そんなに心配そうな顔で見るなよ。
今が1番いいんだ、理屈はわかるだろ? それに早く終わらせないと公理さん自身がやばそうなんだ。自覚はなさそうだけど。
焙じ茶を入れる。ふわりと香ばしい匂いが部屋に広がる。やっぱりお茶はいいな。公理さんの前に湯呑を置く。でも俺もちょっと休みたい。五感が全て失われるというのは心臓に悪い。
「ちょっと横になる。寝ないとは思うけど一応目覚ましをかける。12時には起きて軽く飯を作る。公理さんも起こすから寝られそうなら寝てくれ。寝てないだろ?」
「ゆっくりしてなよ。飯はカップ麺で十分だ。倒れるぞ」
「わかってる。じゃあ後ほど」
◇◇◇
ハルはイヤフォンをかけて横になって目を瞑った。とりあえず布団をかけると手で感謝を示された。
言ってることはわかるよ。だらだら続けても意味はないし早く終わらせた方がいい。終わらせないとハルはまともに寝ることもできないんだし。
目の前でハルがボロボロになっていくのを止められない。なんでだ? おかしいだろ? 耳が聞こえなくなったり目が見えなくなったりするのが怖くないのか? ……そんなはずはないよね?
ハルの顔を眺める。寝てる時と違って無表情だ。俺のせいだ。俺がハルを巻き込んでハルは俺のせいで呪われた。なのになんでハルばっかりが犠牲になるの? 俺は全然無事なのに。なんで俺を気遣うの? 巻き込まれたハルは歩兵で敵陣に特攻して傷ついて、戦争を始めた俺は安全なこちらの陣地にいて。ハルの方が圧倒的に危険じゃないか。……それはなんだかおかしいよ。
ハルはいつも結果と勝率を比較してサイコロを振る。最終的な目的しか考慮しない。最終的な目的はたいていの場合はハルの生存で。失敗した時の損失が大きすぎても、勝率が高ければ小さな目的のためにサイを振る。最終的な勝率を少しでも上げるために。ハルの呪いはそれほど強力で、そもそもの生存確率が低いから。
ハルは何の躊躇いもなく自分の腕にメッセージを刻んで五感を天秤に乗せた。ハルは破滅的で壊れている。でも多分ハルはこれまでそうやって生き残ってきた。でも今の結果にそんなに得るものはあったの? 一旦止めて明日に回しちゃダメだったの?
さっきハルが全く反応を見せなくなった時、俺は必死にハルを起こそうとして、家を呼び出そうとした。
家は微かにだけハルの後ろの扉を開け、そのうち元に戻るという意思が伝えられた。でもそれだって本当かどうかわからない。ハルが反応を始めるまでは気が気じゃなかった。
ハルはいつも特攻する。だから家になんとかならないか相談する。でも駄目だ。扉を設置したのは家だけどこちらから扉を開けられるのはハルだ。こちらから扉を開閉するのはハルでないとできない。俺じゃできない。
俺は見てるしかできないのかな。何かできることはないのかな。ねぇ家。俺にできることはない? 何でもいい。何か。これ以上ハルを傷つけたくない。だってもうすでに自分の呪いでボロボロなんだよ?
思えばハルは昔からこうだった。
今回ほどではないにしても、ハルには自分が目にしてるだけでも不幸ばかり起きる。俺の知らない酷いことも多いだろう。不幸を切り抜けるために無茶をすることが習慣になっている。
あれは何時頃だったかな。何でそんな無茶するのって聞いた時。ハルは仕方がないって言っていた。自分がこういう考え方をするようになったのも呪いのせいだと言っていた。小さい頃に呪われて、それからハルに不幸が集められるようになった。
ハルはこの呪いを強く憎んでいる。昔から何もせずに呪いに殺されるくらいなら、自分で路を選んで自分で死ぬと言っていた。だからハルは死ぬまで生きることを諦めない。たとえそのためにどんな犠牲を払ったとしても。
でもそういう生存を重視する考え方すら、ハルに不運を集めるための呪いの影響だとも言っていた。ハルはそう話しながら、自分の人生は負け筋が見えている将棋に相手のミスを期待して淡々と駒を振っているようなものだと自嘲した。
そういえば俺はハルが笑ったのを見たことがない。最初に会った小さい頃からずっと。優しげな表情をすることはよくあるけと、それは相手のために作られたもので。そもそもハルが怒ったり悲しんだりするのも見たことがない。そんな時間がないから。それどころじゃないんだよね。
でも俺はいつかハルを笑わせたい。それから普通に一緒に怒ったり悲しんだりできるように。なんか、そう思った。だからハルと距離を取るのは止めだ。ハルと本当の友達になりたいな。
だからそのためにハルと一緒に生き残る。ハルだけじゃなくて俺もやれることをするんだ。友達なら対等なものだろう?
◇◇◇
絵を描くという行為について。
私は私が見たものを書いている。それは昔から変わらない。なのに周りは全く描いているものが違うかのように言う。何故だろう?
この家に引っ越す前によく描いていたのは花だった。母は花が好きで、家にはいつも花があった。父は母に会いに来る時は決まって色々な季節の花を買ってきた。母にはそれを花瓶に活けて飾った。父が帰った後、その花を描いていた。その花の絵を見て母は褒めてくれたように思う。
今描いているのもそれと同じだ。私は同じように見たままのものを描いている。なにが違うんだろう? おかしいな。
そのうちなんだかよくわからなくなってきた。見たままを描いている私はどこかにいってしまうようだ。描き終えて転がり出て、そこにいる私は私なのだろうか。何がなんだかわからない。もはや、同じものを描いているのか違うものを描いているのか。
私は何を描いているのか。描いている私は誰なのか。
私を見てほしい。ここにいる私を。




