ミントティーをあなたに
『落日の悲歌』。
何故あれほどあの絵に魅了されたのか、今となってはもうわからない。その時には俺はもうあの絵のことしか考えられなくなっていたんだから。俺の全てはあの絵で、あの絵のために俺がいて。
月展の開催中、俺は足しげくあの絵を見に通った。時間があればずっと見ていた。月展が終わった後は喜友名晋司の個展を探しては見に行った。『落日の悲歌』は展示されることもあり、されないこともあった。展示される時はやはり可能な限り見に行った。
そうしているうちに『落日の悲歌』の前で長時間佇む俺の姿が喜友名晋司の目に留まり、話をするようになった。
俺は熱に浮かされたように『落日の悲歌』の素晴らしさを語ったが、喜友名晋司自体は今取り掛かっている絵に注力していて、既に書き上げた絵への興味は失っているようだった。
そのこと自体に酷く落胆した思いは抱いたものの、一方で世界を生み出す者というのはそういうものかもしれないとも思った。新しい世界を生み出すには他のものは目に入らないのかもしれない。
俺は1つだけ願った。『落日の悲歌』の続きを描いてほしい。
喜友名晋司は何かを思い出すように天井を見上げ、その時が来たら、と呪詛を吐いた。
ある日突然。それは本当に突然のことだった。
喜友名晋司の訃報が届いた。
ガラガラと世界が崩れ落ちる気がした。『落日の悲歌』の続きをもう見ることはできないのか。太陽は失われたままで、世界に再び太陽が昇ることはないのだろうか。本当の落日。本当に世界が死ぬ。
そう思ったらいてもたってもいられず、その家に侵入していた。
ここが喜友名晋司の家か。当然ながら鍵は閉まっていた。庭に回るとリビングがあった。思わずその窓の鍵の近くを割り、家の中に侵入した。中はがらんどうだった。誰かがこの家の片づけをしたのだろう。
手探りで探索をする。懐中電灯を持って来ればよかったな。そう思いながら薄い月明りを頼りに階段を登ると、正面の部屋から少し不思議な香りがした。初めて『落日の悲歌』を見た時に感じた風の匂い。
思わず扉を開けたら人影があった。月明りを背にキャンパスに向かっている。
「喜友名晋司?」
死んだはずだ。だが口をついてでた言葉に返答があった。
『おや、君はよく私の個展に来てくれた若者だね』
「そうです。喜友名先生はお亡くなりになったと伺ったのですが」
『私は死んだのかね? どうだったかな』
どういうことだと思って近づいた。けれども人影はあってもそこに人はいなかった。まるで蚊柱のように黒い影があり、そこから喜友名晋司の声がした。
「先生は今も絵を描かれておられるのですか」
『それが私の魂だからね』
「魂……俺、私は先生に『落日の悲歌』の続きを描いて頂きたいのです」
『そういえば以前もそう言っていたな。あの絵の続きか』
喜友名晋司の魂がここにある。俺はその事実に歓喜し打ち震えた。これで太陽が再生されるかもしれない。
影はどこか遠くを見るような声で呟く。
『だが私には絵の具がないのだ。絵の具がないとかけないな』
「絵の具ですか」
『そう、絵を描くにはその絵にふさわしい絵の具が必要だ。だがどうやら私はここを動けないらしい』
「でしたら私が絵の具を用意します」
『そうかね、それであれば絵を描こう』
心が沸き立った。踊った。ついにあの絵の続きを見ることができる。太陽が再生される。羽が生えてどこまでも飛んでいけそうだ。熱い息が漏れるのを止めることはできなかった。
いつのまにか、喜友名晋司の影は俺の足元から伸びていた。その影の先の窓の外には月の明かりが輝いていた。
◇◇◇
リビング。
それを認識したとたん、正面から、ぐぇ、という音がした。生ごみが腐ったようなにおいが鼻の粘膜に張り付き胃の腑を押し上げる。無意識に口元に手を当てる。嗅覚へのリアリティが夢の比じゃない。なるべくうすく浅く呼吸をする。
足を進めるごとに足の裏にネチャネチャした嫌な感触が広がる。肝心の霊に触れない触感なんていらねぇ。感触があるということはこれは呪いなのだろうか。ああ、呪いなんだな。『呪いの媒体』を孕んだ蛆が生成した粘液だものな。リアルタイムで頭や肩に何かがポタポタ落ちてくる。勘弁して。見えなくてよかった。本当に。これも繰り返す過去の呪いだ。実在しない。考えないようにしよう。
「公理さん大丈夫か? 休むか?」
「やめない……。ええと、ゔわ。天井全体に黒い染み、床は黒く汚れている。這った跡がたくさんついてる。大量の蛹。ぐぅ。蛆。生きてるのと死んでるの。大きさは様々。今も上から落ちてきた……以上!」
「ありがとう。出口は確認した」
妙にやる気な公理さんが怖い。無理して心がぽっきり折れて再起不能とかないだろうな?
リビングの窓は鍵の近くにすき間があった。手を伸ばすと外の空気を感じ、庭に出ることができた。小さく深呼吸。きれいな空気。心底家の中に戻りたくないが仕方ない。覚悟を決めよう。
庭から明るい太陽の光がリビングに差し込んでいる。公理さんには悪いが視覚情報がない俺には柚の家のリビングしか見えない。所々に小さな黒い粒が見えた。だが俺を襲ってきたりはしなかった。越谷泰斗がいないから、今は呪いは発動していないのかもしれない。呪いの発動条件、か。これも検討しないとな。
試しに黒い粒を1つ摘まんで窓の外に出す。ヴヴヴと一旦は外に出るが、リビングに戻ってきた。呪いは摘めるのか? だが無理に出しても意味はなさそうだ。
「痛んでいる家具はない?」
「うぅ……ないかな。全部友達の家具だと思う。もともと越谷泰斗のバイアスに家具はないんだと思う。空き家だったんだよね? どれも綺麗な家具。絨毯ひいてくれればまだましなのに」
先に柚の部屋で家の話を聞くか……?
いや、家には時間制限があるようだったな。情報を集めてからの方が効率的だろう。
「公理さん、一旦休むか?」
「んぅ、なんとか大丈夫。ちなみに廊下も階段も床は似たような状況……」
「……入るぞ」
組んだ手がぎゅっと握られる。
2階正面の扉をくぐる。1階と同じように窓から明るい光が差し込んでいるが、黒い粒の影が1階よりずいぶん濃い。そのせいで部屋は全体的に薄暗い。
俺にはその『呪いの媒体』以外は何も見えなかった。もともと柚はこの部屋にはほとんど家具は置いていない。けれども1階とは比べものにならない腐臭が漂っていた。これ、多分鼻から吸ってるんじゃなくて嗅覚に直接情報として刺さってるんだな。ガスマスクをかぶっても意味ない気がする。
小藤亜梨沙の姿を思い浮かべると右手からかすかに声が聞こえた。
助けて
家に帰りたい
どうしたら
正面に死体の山があることを想起する。けれどもそちらからは声が聞こえなかった。
「小藤亜梨沙か?」
そう あなたは誰?
「俺は呪いを解きに来た。だがどうしていいかわからない。助かりたいなら知恵を貸してほしい」
私、助かるの?
うん? 説得の難航を覚悟していたが、橋屋家と違って何か話がスムーズだな。もともと助けを求めていたから意識がこちら、もとい外を向いているのかな。
「1階のリビングから出られる。ただ、あんたは同じ毎日を繰り返している。一度外に出れたとしても呪いを解かなければまた今の状態に戻るかもしれない」
呪い……
どうしたら解けるの?
「そのために事情が知りたい。あんたなんでここに捕まってるんだ。捕まえたのは越谷泰斗なのか?」
小藤亜李沙の話の概要。
小藤亜梨沙は越谷泰斗の彼女。『あなたは俺の太陽だ』と言われて交際を開始した。ただ付き合いは1か月弱ほどで越谷泰斗のことはあまり知らない。2人とも神津大学に通っていて同じテニサーに所属。
小藤亜李沙はこの家を探検をしようと言われて家まで来たけどあまりの臭気に立入りを断った。そうすると殴られて家に連れ込まれた。気づいた時にここにいて、一度逃げ出したが捕まって再び捕らわれ足を折られた。それがおそらく昨日のこと。
越谷泰斗は昨夜、目の前の死体の山に太陽だの早く描いてくれだの話しかけていて凄く怖かった。越谷泰斗は朝に出かけたけど恐らく大学に行っている。
小藤亜梨沙は意識を取り戻しては臭気と体中を這いまわる蛆や蠅に気を失うことを繰り返している。
そんな話を公理さんに通訳しながら聞いた。現状がえげつねェ。
「小藤さん、とりあえずあんたもう死んでるから虫は気にしなくていい。幽霊だから足がなくても動けるはずだ」
「ハル雑すぎ」
あなたとんでもないこと言うわね
でもそうか そうね そう思えば楽になった気がする
「公理さん、そういう状況だが振り返っていいか」
「ゔ……やだけど仕方ない、でも俺失神する気がする」
「小藤さん、しばらくしたらまた来る。少し待っててほしい。あんたを今日解放したい」
わかった 待ってる
◇◇◇
ぱたりと倒れた公理さんを見る。
……俺、いつも公理さんに殴り起こされてるけど殴ってもいいのかな。まあ殴る分だけこっちの手が痛くて損だしやめておこう。
その間に分析しよう。現状の確認。
公理さんが倒れたということは小藤亜梨沙が話す通りの視覚情報が展開されていたということだ。一昨日見た2階はもの凄く気持ち悪くなる程度の腐敗していない山積みの死体があったはずだ。それが今は気絶するほど気持ち悪い腐敗した山積みの死体があるわけだ。俺の嗅覚情報とも一致するな。橋屋家のバイアスでは2階は確認しなかったが、少なくとも家の中に腐臭は存在していなかった。
一昨日と今日で時点が変化している。この時点の変化は大量不審死事件のバイアスが表面化した効果なのかな。今の積みあがる死体はどういう性質を持つものだ? これもまとめて窓から放り出さないといけないのか。触れない死体を? それは気が重いな。
「……まじ腐ってた」
倒れたままの公理さんから呟きが聞こえた。
ミントティーでも入れてこよう。視覚にも消臭効果がありますように。
◇◇◇
「それでね、床に近いほうは骨がはみ出てて上の方は腐りかけで真ん中はドロドロだったから、アホみたいに積んでるだけだと思うよ」
公理さんの目が完全に死んでいる。やけっぱちだ。
「前に見た時は腐ってはなかったんだな」
「うん。全然。普通の死体が積み重なってた。どっちかっていうと積みあがってるし釣り下がってるし部屋中隙間なく死体だらけなのに驚いたって感じ」
「前は動きそうにないっていってたけど今日のは? 吊られてるのは今もあるの?」
「前のはなんていうか残像? 残りカス? っぽかったかな。吊られてるのは立派に幽霊だったけど。ゔ。今日のはもの凄く生々しいというか、リアルゾンビ映画だった。あとめっちゃ虫だらけ、まじゲロる、あ、思い出したらもう無理。えっと天井は相変わらず吊られてたけど今更感。それどこじゃない感じ」
その吊られてるのも腐ってないといいな、と思う。腐ってるとすると床に積んでるより吊ってある方がよっぽど悲惨だ。
公理さんのカップにミントティーを注ぐ。清涼感を求めてとりあえずカップに鼻だけ近づけて匂いを嗅ぐ姿はどことなく犬っぽい。
くり返されている時点は小藤亜梨沙か越谷泰斗の1日かな。越谷泰斗が『呪いの依代』であるならば越谷泰斗の可能性が高いような気はする。死体の山は腐っている時点で2人とは別のもののように思える。積み上がる死体。おそらく小藤亜梨沙が見ている光景。
そういえば橋屋家のバイアスが消滅したとき、公理さんは小藤亜梨沙が俺を見ていてその他のゾンビはこちらを見ていなかったと言っていた。そうであれば小藤亜梨沙は呪いの中で意思を保つが、その他は意思なき者なのかもしれない。そうすると死体は重要な要素ではないのだろうか。ゾンビは説得するもなにもないものな。会話は通じなさそう。特に骨。発声期間はない。説得が必要ならもう無理。
「俺わかっちゃったかも」
「うん?」
「あのゾンビは全部で1つだ」
「どういうことだ?」
「……あれは一山まとめて蠅の餌だ。意思は感じられなかった。あいつらの意思は部屋のそこかしこにあった。つまり蠅だ。蝿と死体は同じもので、魂は全部蠅に移ってる」
全部蠅。腐肉は上も下もなく交じり合い、蟻塚のように全ての内部を蛆に侵食される。やはり説得すべき要素はない。すでにそれは人ではなくただの餌場と生殖場。越谷泰斗がその蝿の家。それならば止めるべきは越谷泰斗。
なんとなく、一本の線で繋がった。
そうすれば蟻塚に含まれない小藤亜梨沙、『呪いの依代』である越谷泰斗、『呪いの媒体』である蠅にやどる霊たちをあの家から出せばいい、のかな。
問題は方法論。
青い顔の公理さんを見つめる。
「じゃぁ、2回戦行けるか?」
「やーだーなーもう!」
吐き捨てて開き直った公理さんと手を組んだ。




