第一夜の終わり
公理さんと手をつないでゆっくり目を閉じる。
閉じた目に浮かぶリビングの光景。電気はついていた。柚は帰宅しているのかもしれないが、今ここにはいない。
「家族会議してるっぽい」
「そうか、姿は見えないけど夢と同じで個体認識してれば微かに声が聞こえる」
これで最後だ
あの人いかれてるよ
もう嫌
あの人が来てしまう
夢じゃないせいか夢より明朗に聞こえる。
まずは退路の確保。リビングの窓に近づき通り抜けられるかを確認する。よし、窓は空いている。くり返す一日を止めてここから橋屋一家と貝田夫婦を外に逃がすことがクリア条件。
振り返って、橋屋家一家に尋ねる。
「貝田さんを入れちゃだめだ、入れてしまえばあんた方は殺される」
呼んだんだ
入れたくない
出ていきましょう
会いたくない
よし、話は通じる。だが答えは夢と同じか。やはり1人は出ていきたいと言っている。
俺はリビングの閉じた窓から庭に出て玄関を回り、隣家の様子を伺う。明かりはついていて、玄関をすり抜けて侵入すると見知らぬ家族が夕飯を食べていた。これは今この家に住んでいる人たちかな。
貝田家の遺族も家を売ったのかな。だが橋屋家で惨劇が繰り返されているなら橋屋家に惨劇を起こした貝田家もここで毎日をくり返しているはずだ。
食卓に背を向けると手が強く握られた。
「うわぁもうやめたい。鬼おばさんが男の人を灰皿で殴りまくってる。……でもさっきほど怖くないし、こっちにも気が付いてないみたい。ちょっと慣れたのかな」
「『黒い幽霊』はくっついてるか?」
「んん、くっついてはいない、かな。でも顔が鬼」
俺は貝田弘江はそもそも見えないわけだが、公理さんのいう通りだとすると現在時点で貝田弘江に『黒い幽霊』は付着していない。『黒い幽霊』はやはり家に入った時又は『黒い幽霊』に接触したときに付着するのだろう。
ただ呪いの影響で顔貌等が変質しているのだと思われる。これは橋屋家を訪れた際などに少しずつ変質していったのかもしれない。うーん、まだ呪いが目に見えてないだけで慣れたんじゃないと思うけど、公理さんには黙っておこう。
貝田家のご主人の顔写真を頭に浮かべると、ぶつぶつと言う声が聞こえだした。貝田弘江を説得できそうなのは唯一この人だけだ。
「そこに殴られてる男の霊はいるか?」
「そもそもこの殴られてる人は霊なんじゃないの? どうみても死んでるけど口がパクパクしてる」
弘江、どうしてこんなことを
男がいると認識すると、その声はより明瞭になった。俺は振り向いて何度か呼びかける。
「貝田さん、聞こえるか」
……君は誰?
意思疎通もできそうだ。上々だ。
「俺は隣の家の関係者だ。なんであんた奥さんに殴られてる」
わからない
弘江はずっと隣の家から夜中に大声が聞こえると言っていた
でも俺には聞こえなかった
橋屋のご主人と相談して家の中を一緒に見せてもらって 弘江の誤解を解こうと思っていたんだ
「そうか、もともとあんたも行く予定だったのか」
そう 橋屋さんはこれで納得してもらえないなら引っ越しをすると言っていた 本当に申し訳ない
……そうだ だから俺は弘江に 橋屋さんのお宅に女の子がいなかった場合 それでもいると言い続けるなら俺にはもう理解できないから別れたいと言ったんだ そうしたらこうなった
夕食を食べている家族の団らんに重なり、ガツガツという男が殴られ続ける音が響く。とても奇妙だ。
「あんたの奥さんはこのあと橋屋家に行って一家を皆殺しにする。俺はそれを止めたい」
なんだって!? まさかそんな……
「あんたが殺されてからもう何年も経っている。その間、毎日橋屋家もあんたも奥さんに殺され続けている。この毎日を止めたい」
そういえば、なんだかずっと同じことをしている気がしていた 俺に何かできるだろうか
「まだわからない。とりあえず付いてきてほしい。公理さん、貝田さんはどこにいる?」
「ちょうどこの部屋の真ん中あたり」
俺は貝田さんがいると思われるあたりを見ながら、付いてきて欲しいと頼んだ。公理さんの言うところでは貝田さんはおとなしく後ろをついてきて、一緒に庭から橋屋家のリビングに上がる。
貝田さん!? その怪我はどうなされたんです?
夜分にすいません 私 妻に殺されまして
何だこの会話。空気にどよめきが広がる。見えないのでピンとこないが。
橋屋一家と貝田さんは会話ができるようだ。橋屋一家を意識すればより声は明瞭になった。
「橋屋さん、あんたらも貝田の奥さんを家に上げれば殺される、だから家に上げるな」
しかし……
俺たちが呼んだんだ
「その結果、あんたらも殺される。殺されたいわけじゃないんだろ?」
当たり前だ
そもそも誤解を解こうと思って呼んだんだよ
「無理だ。誤解は解けない。貝田さんのご主人でも殺された。嫌われてるあんたらが殺されない道理はないだろ?」
「ねぇちょっと、鬼が塀から覗いてる」
振り返るがやはり俺には見えない。だがいるというなら好都合だ。俺はその方向を指し示す。
「あんたらあれを見ろ。あれがこれからあんたらを皆殺しに来る貝田さんの奥さんだ」
引き攣る空気。これまでの妙にフラットだった空気からの変化。
よし、感触はいい。このままなんとか
しかし 俺たちが貝田さんを呼んだんだ
チッ。元に戻った。頑固で嫌になる。そういえば公理さんは言っていたな。幽霊は情報量が多いほど情報に囚われる。死んだ時の記憶に引きずられすぎているわけか。だから地縛霊みたいなのが存在するんだよな。もう何年も殺され続けてるわけだ。よっぽどだな。
しかもここは呪いの震源地。この家からは出られない。貝田家より呪縛が濃いんだろう。どうすればいい? どうすれば説得すれば呪縛から解き放たれるのか。
出ていきましょう
小さな声が空気を震わせる。この人は最初からずっと出て行きたがっている。
「あんた、そんなに奥さんを殺したいのか」
何!? 何を言う 私は妻のためを思って
お、激高したな。初めて影の声に熱がこもる。
ようやくの小さな変化。ここから話を広げたい。
「奥さん、出ていきたがってるぞ、もともと貝田さんに会いたくないんだ。ちゃんと話を聞いてやれ」
……出ていきましょう、あなた
そんな……
しかし
「奥さんはずっと逃げたがっていた。でもあんたらが貝田さんに殺させ続けてる、もう何年もだ」
「ハル、鬼おばさんが動いた。多分こっちに来る」
振り返ってもやはり俺には何も見えない。だがもう時間がない。
後ひと押しが遠い。間に合うか?
「貝田さんの奥さんが動いた。もうすぐこの家に来る。今ならあの窓から逃げられる」
しかし……
「あんた、そんなに奥さん殺したいのか、そっちのあんたもだ。あんたも呪われる。そのせいであんたがそこのお母さんをバッドでボコボコにして撲殺する、いいのか」
「うわぁ、ハルまじで鬼」
うるさい。自分でもちょっと酷い言い草だなと思うが、頭の固い幽霊にはこのくらい言わないと効かない。それに脱出が最優先だろ?
この「しかし」のくり返しを吹き飛ばすほどの衝撃が必要。
そんな……俺はそんなことしない!
「はっきり言う。あんたがあんたを助けようとしたお兄さんをバットで殴り殺す。お兄さんがそっちのお母さんを逃がそうとした弟さんを殴り殺してお母さんを滅多打ちだ。貝田さんが来れば今日もそうだ、あんたら2人、そんなに家族を殴り殺したいんだな? これから先も永劫に毎日の日課として」
そんな……
俺は……
出ていきましょう あなた 基広 永広
差し込まれたその声に広がる不思議な静寂。間に合うか。あんたの奥さんの心からの言葉だ。間もなく貝田さんが来る。その前に届け。
すると、ふう、と1つ溜息が聞こえた。
わかった、逃げられるのか?
よし。ようやく俺に向けて直接声がかかった。ようやくくり返しから外れた。今だ、再び呪いに飲まれる前に。
「その窓に弟さんがお母さんを逃すために開けた隙間がある。そこから庭に出られる。この連環を終わらせろ」
ガタと立ち上がる音とともに俺の脇を複数の風が通り過ぎた。
「ん、4人出てった。そんで、なんかキラキラ光って空に登った。成仏したのかな?」
「どうかな、まずは1つ。貝田さんのご主人はまだいる?」
「うん、なんかぼーっとしてる、あの鬼おばさんはどうするの? 俺、見たくないんだけど」
その時、ピンポン、と音が鳴る。
来た。こいつらは霊だ。同じ行動をくり返す以上、わざわざ扉を開かなくてもすり抜けて勝手に入ってくるだろう。
しばらく後、ブツブツと呟く声が酷いにおいを漂わせながら廊下を通り過ぎて階段に向かった。そうか、これは貝田さんを殴り殺した時の血と脳漿の匂いか。相変わらず俺に霊は見えない。夢なら影が見えたんだがやりづらいな。階段に背を向ける。その瞬間手が強く握られる。
「公理さん、貝田弘江に『黒い幽霊』や瘴気はついているか?」
「今のところついてない、でも無理。まじ鬼。ハル、俺もう逃げたい」
「貝田さん、聞こえるか?」
あぁ
絶望を潜ませたため息。
「あれが今の奥さんの姿だ」
……どうしてこんなことになってしまったんだろう
「嘆いても仕方がない。奥さんはこの家にいる限りあのままだ。だが何とかしたい。橋屋の4人も説得できた。きっと何とかなる。おそらくこの後奥さんは自殺しようとする。それを止めたい。口添えを頼む」
わかった 弘江
2階に上がる足音が途切れてしばらくすると、ぼたぼたと天井から赤黒い瘴気が降ってくる。始まった。
いざという時のために庭への脱出口の前に立つ。
「ハル、なにこれ? 黒いのがどんどん降ってくるんだけど」
空気に混ざる瘴気の密度に息が苦しい。首筋が泡立ち、額の傷が痛む。どうやら夢より予兆が早い。扉は夢より危険なのか?
窓際に立つ。ずりずりとした足音が2階から降りてくる。
赤黒い瘴気が流れ出て、それにすっぽり包まれた貝田弘江と思われる黒い塊が現れた。これなら見える。霊ではなく呪いならば。
貝田弘江は踊り場で立ち尽くし、赤黒い瘴気はぼたぼたと流れ落ち続ける。もう膝まで浸かっている。まずいな、口まで塞がると死ぬ気がする。太ももの中ほどまで来たとき、貝田弘江から黒い塊が突然剥がれ、その場にいたはずの貝田弘江を見失った。左右を見るが見当たらない。
なんだ? 突然どこに行った? 見失うのはまずい。まずいぞ。どこにいるかわからなければ呪いをときようがない。公理さんと握った手に汗が溢れる。
「公理さん、今から振り返る。貝田弘江がいるか確認してくれ」
「え? ちょ!? うわ!? やめて! 起きて! 何この部屋、気持ち悪い、無理!」
「黙れ。俺は起きないぞ。正念場だ。見ろ。貝田弘江はどこにいる」
「ええっえっと、部屋に入って、あ、右、いや左向いて? 今電話かけてる」
電話?
助けて、人が襲われて……
110番は貝田弘江か。黒い瘴気の固まりではなくなったということはこの時点で貝田弘江の呪いがとけて、正気に戻ったということか? 哀れな。だが、呪いに塗れていないということは説得がしやすいかもしれない。
「なんかエプロンよじってる、何」
「弘江さん、聞こえるか?」
……誰?
「ご主人を連れてきた」
私は主人を殺してしまったの
「知ってる。貝田さん、奥さんに呼びかけろ、このままだと自殺して、また毎日を繰り返す」
耳元でゴクリと唾を飲み込む音がした。
弘江。私が悪かった
あなた……?
弘江、俺はお前を信じていなかった でもお前は本当に聞こえていたんだな 声が
声……そう、そういえば
大丈夫 誤解はとけた もう大丈夫 弘江は何も間違っていない
あなた ごめんなさい
まずい、腰まで瘴気が積もってきた。息が苦しい。額の傷の痛みが強まる。貝田弘江は小柄だ、もう胸まで呪いに浸っているんじゃないだろうか。呪いが解けても呪いに飲まれたらどうなるかわからない。鬼に戻るかもしれない。
時間がない。
「貝田さん急げ、奥さんがもたない。呪いに飲まれる」
大丈夫。一緒にいこうか
一緒に?
そう。おいで
「……ハル、貝田さんたちは外に出た。ハルも出て」
急いで窓のすき間から飛び出す。それと同時にフッと額と首筋の予兆も消えた。間に合った。冷汗が背中を流れ落ちる。もうすぐ胸に至るところだ。心臓を浸されるのは正直ヤバい気がする。
改めて家の中に目を向ける。窓の大分上の方まで瘴気に浸されて黒く染まっていた。これ、この後どうなるんだろう。
なんとなく見ていると、先程まで積もっていただけの瘴気が形を取り始めた。何が起こっている?
瘴気は何人かの人の姿になる。その人影の1人が窓に近づいてきた。シルエットからすると髪の長い女性か?
その人影は首を伸ばして窓越しに俺を眺める。再び首筋がチリチリし始める。これは俺に不幸をもたらすもの。ほっとしたような公理さんの声が聞こえた。
「ハル、貝田さんたちもキラキラして消えた。これで呪いはとけたのかな」
「そうか、じゃあ次の呪いだ。公理さん、すまない」
俺は振り返る。その瞬間、繋いだ公理さんの手から力が抜け、ドサっと公理さんがソファに崩れ落ちる音がした。




