あの家の影
白い煙のような道を歩いていた。何かが俺の袖を引っ張った。ふらふらとそれについて歩く。
気がつくとどこかの家の中にいるようだった。キョロキョロと見回す。どこかで見たような、そうでもないような。2、3度頭を振ったが頭の中に巣食う霧は晴れない。
「お兄さん、魔法が解けるから、思い出しちゃだめ」
魔法?
俺の手を引く透明な何かから子供のような声がする。なんだったか。手を引かれるまま導かれた部屋には4つの影が寄り添っていた。リビングなのかな、ソファに座って話し合っている。影たちは支え合っているように思える。家族なのかな。どこかで見たような、そうでもないような。
家族は話し合っているが、水中で喋っているようにぶくぶくと断片しか聞こえない。俺は空いたソファに座って、家族に混ざりながら耳を傾ける。
これでさいごだ
あのひといかれてるよ
もういや
あのひとがきてしまう
かろうじて聴こえてくる断片的な声。
「その人がきちゃだめなのか?」
家族の影は一瞬こちらを向いて、俺に向けてぶくぶくと言葉を紡ぐ。
みせないと
どこかににげてしまいたい
きちゃうのよ
みたくもない
「嫌なら家に入れなければいい」
よんだんだ
いれたくない
でていきましょう
あいたくない
変な人たちだな。こんなに立派な家なんだから鍵をかけて閉じこもればいい。それでだめなら。
大きな奥の窓を指す。窓の外も真っ白だった。
「逃げればいいだろう? ほら、そこに窓もある」
あちらはだめだ
こわい
みてるのよ
あけてはだめだ
そうか、それは困ったな。
これでさいごだ
あのひといかれてるよ
もういや
あのひとがきてしまう
話が最初に戻ってしまった。
ふと、気になって時計を見る。ちょうど20時、そう思った途端インターフォンが鳴った。水の中のような、やはりくぐもった音だったが、音の波に流されるように家族の影が慄いた。
影の1つがゆっくりと立ち上がり、玄関に回る。
首筋がチリチリ泡立つ。不運の予兆。
「おい、そっちはいかない方がいい」
なんだかものすごく嫌な予感がして、そう言葉が口を突く。止めようと肩に手を伸ばしたが、俺の腕は影をすり抜けた。影に触れることはできないようだった。
影は1度振り返って、心なしか悲しそうに笑う。
きてしまうんだ
そう きてしまう
きてほしくない
もういやだ
ガチャリと玄関を開ける音とともに俺の首筋は総毛立つ。曖昧な世界に突然鉄臭いような奇妙な臭いが漂い胃液が込み上げる。しばらくすると真っ黒い悪意の塊のような影が右手奥の玄関のほうからまろび出た。薄い影は先導するように歩き、2階に上がる。
ふと、肩になにかぼとりと落ちるものがあった。天井を見上げたとたん、悲鳴のような不快な音が響き渡り、明るかった部屋の空気が急に紫色に染まっていく。天井をすり抜けてどろどろとした黒い液体が次々とぼたぼたと滴り落ちて床を満たしていく。なんだこれは。
突然響いた大きな音に階段を見ると、影が転がり落ちてきた。部屋に残っていた1つの影が落ちてきた影の下に進む。そして、踊り場に現れた黒い塊は先ほど見たものよりさらに質量を増し、不運を撒き散らしていると首筋が俺に囁いた。ああ、これは確かに呪いだ。俺のとは少し性質は違うが、不運を操る指向性を感じる。
転がり落ちた影が起き上がり新しい影に近づくと、新しい影も倒れた。
なんだ? 何が起こっている。
再び階段の上の塊を見た瞬間、額の傷にずきりと痛みが走る。これは俺の命を危うくするものということか。
先ほどから階段の上から怒涛のように赤黒い液体が流れ出て、汚泥のように階下に溜まっている。影の1人が俺の隣をすり抜けてわずかに窓を開けた。そこから少し冷たい風が吹き込む。出口。
俺は汚泥に足をとられながらも影が開けた窓の隙間から庭に逃げ出た。不意に額の傷の痛みは止んだ。振り返ると汚泥は窓から外には出てこず、部屋の中に堆積してゆき、やがて天井まで黒く染め上げられていく。
そうか、ここは柚の家。家の全景をみて思い出す。そうするとこれは夢。ふいにそう気づいた。
その瞬間、家を残して世界はバリバリと崩壊を始めた。
「お兄さん、今日はここまで。早く起きて」
子供の声とともに意識が揺さぶられ、気がついたら涙目の公理さんに殴られていた。
!?
「ちょっと待って、まじ永眠するから」
「なんですぐに起きないの! ほんとに!」
「無茶言うなよ」
ヒリヒリする顎を撫でる。痛い。
公理さんは額にシワを寄せ唇を噛み締めていた。
「開きそうだった?」
「というか開いてた、なんなのあれ、鬼みたいじゃなくてまさに鬼じゃん! それに何あの惨劇! なんてもん見せるのさ!」
「……惨劇?」
公理さんのほっとしつつも驚き呆れる複雑な表情。
「そうか、ハルはこの後に及んで幽霊は見えないのか、うわぁ、信じらんね。それほんとに俺いないと死ぬんだな、まじか」
「ちょっとまてなんのことだ」
「あーうー、説明いる?」
「勿論だ」
「その前にご飯作って。頭整理しとく。絶賛混乱中」
「しょうがないな」
公理さんの背後の大きな窓を見ると、影に染まる辻切の高層ビル群の奥、筋のような雲の合間は明るいオレンジ色に染まっていた。
時計を見ると、18時前。そうだな、少し早いが20時には惨劇が始まってしまう。食えるときに食うべきだろう。
鳥もも肉を開いて塩胡椒を揉み込む。手鍋にオリーブオイルをたっぷり垂らして鷹の爪とニンニクを投入すると、小さな泡とともに食欲をそそる香りが立ち上る。さっとオイルに香りをつけてホールトマト缶を少しずつ投入する。鮮烈でねとりとしたトマトの香り。
ゆっくり乳化を待ちながら、フライパンで鳥もも肉の表面をオリーブオイルで強火でカリッと炒め、その端で細く切ったピーマンやしめじを炒める。
沸いた寸胴の湯にパスタを投入し5分。その間にとろとろとつややかに乳化したトマトソースの半分を小鍋に分けて蜂蜜とオイスターソースを混ぜると甘くて香ばしい、少し酸味のある香りが漂って、匙でなめながら塩胡椒で整えてソースを作る。
ちょうど茹で上がったパスタにトマトソースをからめて用意したバジルを千切り、チキンソテーには特製ソースをかける。
20分ほどでポモドーロとチキングリルが完成。
あとはバラしたトマトとスティックにカットした胡瓜と大根。
「公理さんできたぞ」
「めっちゃ美味そう」
料理しながらこちらも多少の頭の整理はできた。
あれは惨劇があった日の惨劇の直前の光景。そう願って眠った。
過去の風景ではあってもやはり夢なのだろう。惨劇の結果は変わらなかったが話しかけることができた。ただ、夢と気付かないことが夢を継続する条件のようだから、夢の中で能動的な行動は難しいだろうな。方法は思いつかなくもないが、実行はしたくない。
それから俺が夢と認識すると世界から弾き出されるようだ。
昨日扉越しに見た実在する家と柚の姿と異なり、夢の登場人物は影しか見えなかった。けれども呪いが影響したと思われる瘴気、強い悪意や汚れの存在はわかった。家具の姿も影の周りのものだけ見えた。呪いの濃さが視覚に現れているのかもしれない。
難点は個人の別がパッとつかないことだ。これが必要な場合に困る。公理さんを夢に引き摺り込めないかな、だが起こす役がいないと共倒れするから無理か。
「俺は扉を覗く時、聴覚、嗅覚がある。触覚は確かめてないがおそらくわずかにある。視覚はない。夢なら視覚がわずかにある。呪いに関するものだけ見えてるようだ。公理さんは何ができる?」
「俺は見えるだけだよ、音は聴こえないし匂いもしない。酒飲んじゃダメ? 飯食うとき飲んでないと落ち着かないんだけど」
「だめ、せめてあと2時間まって。後でつまみも作るから」
時刻は18時半。そろそろ作戦を詰めないといけない。
まずは情報の整理だ。あの家のリビングには家族が4人そろっていた。ではやはり玄関からやってきた黒い影は貝田弘江だろう。
「で、公理さんは何が見えた?」
グッと詰まる音。
「あーうん、ええと俺が見えたのはハルが庭に出る直前の光景だから断片的なんだけど。塀から睨んでたおばさんだと思うんだけど、目と口が裂けてた。まじ鬼でさ、それがなんか黒い幽霊に包まれてた。見た目からして人間じゃない感じ」
「俺もなんか真っ黒に見えたな。錆びた鉄臭いような嫌な匂いがした」
「げぇ、臭いもやだな。それでそれが階段ところに立ってて。ええと、あれゾンビだよな? 頭が割れたおじさんとお兄さんが立っててさ、その2人とおばさんにくっ付いてた黒い幽霊が繋がってた」
「繋がってた?」
「そう、ゴムみたいに。それでお兄さんの方がバットで若い弟さんの頭を叩き割って。その後小柄な女の人、お母さんかな、を殴り始めた。その間、階段の鬼おばさんはずっとハル、というか俺を見てた。あのあとハルが振り向いたから俺は庭しか見えなかったけど、あのまま起きなかったら多分ハル殺されてた気がするし扉通ってきたかもしれない。あーもうやだ」
俺はあの家の呪いを解く。
呪いを解くためには呪いが何なのか、呪いの姿を特定しなければならない。
あの家はいつも呪いが発動しているのか。
否。俺が最初に見た橋屋家の状況に異常は見当たらなかった。閾値に達して呪いがあふれ出るまでは物凄く気持ちの悪いただの家だ。でなければ流石にあの家を購入しようという者はいないだろうし、家族がしばらく正常に暮らすこともできないだろう。
それならば異常、つまりいつ呪いが発動したのか。
先程の夢を思い浮かべる。貝田弘江が橋屋家を訪れた時、その姿はほとんど真っ黒になっていた。恨みとか憎しみとか、そういったとても嫌な感じがした。だがその時点では影が襲われていたわけでもなかったし、他に異常は発生していなかったと思う。
異常が発生したのは貝田弘江が2階に上ってからだ。
まず最初に黒い瘴気が天井から降ってきた。だが現象面では瘴気自体は不幸を生み出してはいない。特定の指向性は感じず溢れているだけのように感じる。俺が坂道の下で見たこぼれ落ちていたものと同系統かな。
不幸が発生したのは瘴気があふれ出た後のように思える。天井から瘴気が落ち始めた後に橋屋の1人が階段から転げ落ちて貝田弘江が踊り場に現れた。公理さんの見た様子から、貝田弘江が影、つまり橋屋をゾンビに変質させ、ゾンビは他の影を襲った。公理さんは『黒い幽霊』で貝田弘江と橋屋のゾンビが繋がっていると言っていた。『黒い幽霊』が呪いはの姿なのだろうか。
この考察から考えられる帰結。呪いの根本は2階にある。
貝田弘江は2階にいると思われる呪いの根本と直接接触することによって、呪いが発動し、瘴気が溢れ出た。そう仮定する。そうすると貝田弘江は呪いを発動させるための『呪いの依代』のようなものだろうか。
この前提で検討するとおかしなことが浮かぶ。
まず疑問なのは、何故橋屋一家の誰かではなく家に住んでいない貝田弘江が『呪いの依代』となったのか。
橋屋一家はずっとこの家にいたはずだ。霊を見るのに周波数が必要なように、呪いに合致する周波数というものがあるのだろうか。貝田弘江は呪いの影響を受けやすい体質で、近所だからこの家に訪れた時とかに少しずつ呪われたのだろうか。貝田弘江は『黒い幽霊』なり黒い瘴気なりに親和性があって何かの切欠で呪いに魅入られたのかな。だから貝田弘江は橋屋家を塀から見ていた? うーん、やはりここも保留。
しかし『黒い幽霊』か。恐らく俺は『黒い幽霊』自体を認識できていない。貝田弘江に黒い瘴気がまとわりついているのは見たが、それはただ貝田弘江を包んでいるだけで、ゴムみたいに橋屋一家の影くっつく姿は見ていない。
それから『黒い幽霊』はいつ貝田弘江に付着した? 夢で公理さんが見たのは惨劇が発生した時点だ。公理さんは扉から覗いた隣家にいる貝田弘江を『鬼だ』と言っていたが『黒い幽霊』に囚われているとは言わなかった。2階で呪いの根本と接触した時に初めて貝田弘江に『黒い幽霊』が付着したのだろうか。だが夢と扉は違うかもしれない。
やっぱりそこは特定できないな。俺はそもそも見えないしなぁ。うん、俺は幽霊なら見えない。困ったな。やはり公理さんに頼るしかない。
今検討できる事項はこんなところか。
あとは手探りだ。だが方針は立てないとな。
橋屋さんは夢では一応会話はできた。しかし触ることはできなかった。とすれば家から出すには説得するしかない。
貝田弘江を家に入れないのが1番だろうが、同じ日を繰り返すのであれば無理だろう。俺が壁を抜けられるように勝手に入ってくるだろう。俺の見たものと公理さんの情報を合わせれば最後まで立っていたのは貝田弘江だ。貝田弘江は恐らく橋屋一家を殺した後、何らかの理由で自殺したんだろう。
1人、夢に現れていない人物がいる。そちらが糸口になるかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
せっかく笑顔で話しかけたのに公理さんは凄く嫌な顔をした。




