2-3、水がないと、人は何日で死にますか?
王族の漢服では目立つし、かといって綿の粗末な衣でも舐められる。
だから、貴族の夫婦を装い市井に出たのだが、瑞希が挙動不審だ。
「ああ、おじいさん。浮気ではないのよ、私は陛下は孫のようにしか」
「そなた、そんなに私とめおとのふりをするのが嫌なのか?」
「いやというよりは……私には夫がおりますので」
そこまで聞いて、金栄はふと、首を傾げた。
「夫? 婚姻していたのか?」
「ええ、まあ……ああ、でも。この姿の時はまだプロポーズされていないから、浮気にはならないかしらね?」
「よくわからぬな。そなたは、『おじいさん』と婚姻を結んでいたと?」
金栄の中で、情報が交錯する。
瑞希はよく、皇帝を見て『おじいさん』の話をする。その『おじいさん』が夫なのだと。
それで、金栄はそのおじいさんの先祖なのだと。
すべてをつなぎ合わせると。
「そなた、借金のかたに老人の妾に?」
「違いますっ! ああもう、その顔で……その顔で私の隣に立つから! おじいさんを思い出すんですっ!」
瑞希はぷんすかと怒りながら、前を歩いていく。
本当に、よくわからない娘だ。
金栄はふと、最近腹を下さないことに気づく。神経の高ぶりも。
それは、瑞希がこの世界に来てから治ったような気がする。
「まさか、な」
しかし、いくら瑞希だって、腹痛を治す食材など知らないだろう。さすがに、腹痛は医官の管轄だ。
ずんずん歩く瑞希を笑う。この娘は、からかい甲斐のある。
「待て。そなた、農民の場所はわかるのか?」
「あ……陛下、ちゃんと案内してくださいませ!」
「そなた。市井では陛下と呼んだら正体がばれるだろう? 『旦那さま』か『あなた』と呼べ」
「……間違っても呼びませんからね!? 先の話聞いていました!? 私には愛する夫と、その夫を救う使命があるのですからね!?」
そういうところは、かわいらしいと思う。一途に思われる夫とは、どんな人間なのだろうか。
「さて。冗談はこの辺にして」
「冗談でもそのようなことは言わないでください」
「すまぬ。しかし、やはりというか」
荷運びの男たちが、そこかしこにうずくまって動けずにいる。
市井では、皇帝が無能なばかりに、霊獣に呪いをかけられたのだと噂になっているのだが、瑞希の話によれば、この『呪い』は、水を司る玄武の気を回復させれば解決する。
「あそこだ。あの農家で、食材を分けてもらおう」
「……はい」
「なんだ、まだ拗ねているのか?」
「拗ねてなど! もう、おじいさん! 私はおじさん一筋ですからね!」
なんて、冗談を言い合える同志がいることが、金栄には頼もしかった。
農家を訪ねると、胡麻の収穫をしている。
「もし」
金栄が話しかけると、怪訝な目を向けられた。
「作物はやらぬよ」
しかし、金栄が切り出す前に、そう返されてしまう。
金栄は前のめりに、
「そういわず。金子は用意してきた」
ああ。と瑞希は思った。
瑞希は戦後世代だ。だからわかる。
金でおなかは膨れない。
飢饉だって戦争だって、そういった時代に一番価値があったのは、農家だ。食べ物だ。
それを、金だけ払ってもらおうなんて、瑞希たちのほうが甘かったのだ。
「へい……あなた。いったん帰りましょう」
「なぜだ。霊獣さまの供物を作るのでは」
「……私たちに、そんな価値はないです。農家の方たちが作ったものは、ほとんどが後宮に収められますよね? 残ったもので農民は飢えをしのぐ。それを、お金で分けてもらうなんて、虫が良すぎます」
「しかし。農民の徴収は、ここ何年かは免除している」
金栄には、食べ物の価値がわからないのだ。
飢えを経験したことのない世代は、どうやったって食べ物のありがたみなんてわからない。
人間は食べなくても二週間は生きていける。しかし、飲み物は別だ。
後宮には、安全な水があるが、農民にはそれすらない。
農作物を育てるための水と、飲み水の両方を確保しつつ、生きるためには必死に作物を育てなければならない。
「陛下、人は水を飲まないと、何日で死ぬか知っていますか?」
「水を……一ヶ月、くらいか?」
はあ、と瑞希はため息をついた。
「三日から……もっても一週間です」
「それと農民と、なにか関係が」
農民が、作業をやめてこちらに来る。ゴマを集めた袋を大事そうに抱えて、金栄をにらんでいた。
「一日目は、耐えられる。二日目には、水のことばかり考えて。夜には夢の中にまで水が出てくる。三日目はもう、熱が出て意識がもうろうとして。水のこと、水を含む果物のこと。そればかりが頭をめぐって。ようやく水にありついたって、玄武さまが衰退してる今じゃ、水すらぜいたく品。見たところ貴族だろうが。あんたらは、飢えなんて経験せずに生きてきたんだろうな」
金栄は言い返せなくなる。
三日で死ぬ、水がないと。
そんなに早く? もっともつものだと思っていた。
それに。
玄武は水を司るから、水が枯れたことも知っていたはずだった。
だから、王宮の井戸の水を市井に配るように命じていたのだが、そんなもの、焼け石に水だ。
「ひもじさは、経験した者にしかわかりませんよ。さ、帰りましょう、陛下」
「な……そもそも、そなただって、ひもじさなんて」
しかし、瑞希の目に光った涙に、言い知れぬものを感じ取る。
ただの神女ではない、のだ。
「戦後の貧しい時期を行きましたからね。だから栄養士を目指したのもありますよ。でも、結局、料理人になったって、人を救うなんて口が裂けても言えなかった。私はただ、私の料理を食べる人を、幸せにしたかった」
だから、こんなに知識があるのだ。
栄養士といったって、昔と今では、だいぶ変わった。
瑞希は昭和の時代から管理栄養士として働いて、常に知識をアップデートしてきた。
それでも。
「私も思い出しました。私がなにになりたかったのか」
平和になった日本で暮らしていた瑞希は、この世界に来て、今一度自分の役割を再認識した。
「私、この国の栄養改革をするわ!」
その言葉の意味を、金栄も農民も理解することはできないだろう。
栄養学とは、近代の学問だ。この時代のこの国では、理解すらされないだろう。
それでも。
「あんた」
農民が瑞希を引き留めた。
そして、瑞希の手のひらを指さす。
「その手。貴族の手じゃあ、ないですね」
「これは……」
おじいさんにプロポーズされたころは、栄養士として調理場に立っていた現役時代だ。
毎日職場で家で料理をしていたから、この世界に来た時から、その手はあかぎれだらけだった。
「なにが目的なんだ?」
嘘は無駄だと瑞希は踏んだ。
その場に拱手礼をする。
「おい、このような農民に」
「農民こそ、国の根幹。食物を作る人間がいなければ、国は栄えない。なのにみな、農民に尊敬の意を示さない。それでは、だれがこの国を支えたいと思うでしょう」
金栄は、農民を見る。
薄汚れた綿の衣は、夏だから汗にぬれている。
「たのむ」
そうして、金栄はその農民に、ひざを折った。
「この国の民、全員の命がかかっている。ならば、身分だのなんだのと、言い訳する気はない。ただわたしは、そなたの作る作物を分けていただきたい。霊獣さまの供物にしたいのだ」
農民が、ふとため息をついた。
「しかし、うちには人手がなくてな。刈り取る作物も、俺一人では間に合わん」
「ご家族は?」
金栄が聞くが、瑞希は金栄の衣の袖を引っ張った。
「なんだ」
「察しの悪い方ですね」
畑の向こうに、盛り上がった土と、そこに木の杭がさしてある。墓だ。
「水不足と……少し前までの痩せた土のせいで作物も取れず、水も飲めず……妻と子は、みな先に逝っちまった」
金栄の目が見開かれる。
そんなに簡単に、人は死ぬのか。
自分の恵まれた環境を知る。
「王宮には……毎日のように料理が並び……新鮮で安全な水があり……それが、わたしは当たり前だと……民も同じなのだと……」
しかし、皇帝とは王宮の主、王宮の外を知らなくて当たり前だ。
そうそう王宮を抜け出すこともできないのだから、民の暮らしを知らない皇帝は歴史的には珍しくもない。
しかし、瑞希は、今日、金栄がここに来たことは、今後のこの世界のためにも、よかったのだと思った。
「では、私たちが農作業を手伝います」
「はは、貴族なのに? いや、お嬢さんのほうは貴族ではないようだが、そちらの方は」
「いや、わたしもやろう。むしろ、やらせてくれ。わたしは無知な『貴族』でいるつもりは、ない」
その目に、力が宿っていたことに、瑞希は安堵した。
「さすがはおじいさんの先祖だわ。覚悟が違う」
「その、おじいさん、というの、やめてくれないか」
「申し訳ありません。つい」
そういう流れで、ふたりは農作物の収穫に駆り出された。




