7-8、瑞希とおじいさん
翌日は、夜妃の提案通り、霊獣の世話は後宮妃たちが入れ替わりで受け持った。
そうして昼過ぎ、ようやく御陵につく。
「はあ、空気がおいしいところだわね」
瑞希は正装に着替えて、裾を引きずりながらその御陵の前にたたずんでいる。
「大きなお墓」
「そなた。もう湯あたりは大丈夫なのか?」
「はい。丈夫なだけが取り柄なので」
「さようか。そなた、本当に肝の据わった」
金栄もまた、厳かな衣を身にまとい、その場に後宮妃と霊獣、皇帝と神女が出そろった。
御陵の前に供物をささげる。供物は、瑞希が用意した料理もあった。
夏の終わりのさわやかな昼だ。
「父上。霊獣さまの気を回復し、神女の力もあり、わたしは皇帝として、民に、妃に尽くすと決めました」
ひゅう、と風が鳴く。
「そなたも、あいさつを」
そう、金栄が振り返った時、そこにいたはずの後宮妃たちは、いなかった。
「え? 陛下?」
いるのはただ、瑞希のみ。
しかし、瑞希の姿は襦裙ではなく、あの、初対面の日の珍妙な服。
瑞希の記憶に、金栄が引っ張られる。
瑞希が必死に叫ぶも、金栄の意識は、瑞希の最愛のひとと、重なっていくのだった。
「たくみさん? どうしましたか?」
「え。ああ。瑞希さん。なんでしたっけ」
世間では、栄養学がさかんになり、栄養士制度ができてからしばらくたった。
けれど、働く女性も、ましてや栄養指導なんてものを、真摯に受け止める人間は少なかった。
「瑞希さんのあの知識は、今後の世界を変えるものだよ」
「そうかしら。だって、どこまで行っても食べ物は食べ物。食べ物で健康になれるなんて、まだまだ浸透していないのに」
「でも、俺はこんなに元気になった!」
瑞希は病院に勤める栄養士だ。そこに、匠が入院してきたのはひと月前。
瑞希は驚いた。それは、匠が少し前にお見合いをして断った相手だったからだった。
「瑞希さん。自己卑下はよくない」
「でも。本当のことです。食べ物はおいしければいい、というのが普通の人の反応ですよ」
「だとしても。糖尿病が『治る』病だと知って、俺がどれだけうれしかったか、わかる?」
糖尿病には、生まれながらのⅠ型と、生活習慣によるⅡ型がある。匠は後者だ。
「匠さんは……いくら割烹の試作だからって、作ったものをすべて平らげていたら、そりゃあ、糖尿病にもなります」
いわば、食べすぎなのだ。
はは、と笑って、匠は瑞希を振り返る。
「俺の隣に、瑞希さんのような栄養士さんがいたら、割烹も流行るのに」
「まあ、お世辞として取っておきますね」
そうやって、ふたりきりで会うようになった十か月後、匠にプロポーズされ、二人は結婚したのだった。
「だから! この味付けは濃いんですって」
「でも、煮付けは味が濃いほうが好まれるって!」
喧嘩をすることだってあった。
けれどいつも、どちらからともなく仲直りした。
仲直りの時は必ず、匠は花を買ってきた。
「姫、許してくれるか?」
「その、姫っていうの、恥ずかしいのだけれど」
「だけど。まあ、でも。瑞希は俺の姫だから。これからはもっと大事にするよ」
「もう、あなたにはかないません」
花束を受け取って、においをかぐ。
「今度、ひまわり畑を見に行こうか」
「ええ、でもしばらくお休みはないでしょう?」
仕事一筋なひとだった。その隣にはいつだって、割烹の女将として瑞希の姿があった。
ふたりでひとつだった。
あの割烹は、匠だけのものではない、瑞希がいてこそ、成り立つ、ふたりの第二の子供だった。
瑞希に子供が生まれた時は、匠はたいそうよろこんだ。
同時に、やはり瑞希がいとおしくてたまらない。
「初めて見た時から、瑞希しかいないと思っていたんだ」
「なんでこのタイミングで?」
子供を抱き、涙を流す匠は、すっかりお父さんの顔だった。
「俺にもわからない。ただ、探していたのはこの人だ、って。そう思った。運命って信じるか?」
「私は運命は信じなかったですね。あなたと出会うまでは」
子育てをしながら、割烹を営むのは並大抵ではなかった。
けれど、忙しい日々も、子供の成長も、楽しくて仕方がなかった。
隣に愛する人がいる喜びを、ふたりとも感じていた。
子供も独立して、割烹は老舗と呼ばれるようになった。
常連さんが子供、孫を連れてくるようになって、そのころには、年齢のこともあり、割烹は予約制の小ぢんまりした経営に変わっていた。
「ここの料理は昔からおいしくて。妻も気に入っているんです」
「まあ。あのやんちゃなぼっちゃんが、もう立派なお父さんだものねえ」
瑞希はメニュー開発と栄養計算の担当で、調理は主に匠が担当する。
しかし、瑞希が料理をしないわけではない。
調理は基本的にふたりで分担する。
「私は、割烹にも、西洋や東洋の薬膳を入れたいのだけれど、おじいさんが頑固でねえ」
管理栄養士として、割烹の女将として、瑞希は毎日料理のことばかりだ。それは匠も同じく。
二人でいると、なにをするでもなくいとおしくて、料理をすれば阿吽の呼吸。
「理想の夫婦像です」
「まあ、ぼっちゃんったら」
匠は無口に包丁を研いでいる。
年を取って、匠はだいぶ腰が曲がった。
そろそろ引退かな、なんてほのめかすこともあった。
けれど、この安寧が、いつまでも続くと、瑞希は錯覚していた。
おじいさんが亡くなったのは、おじいさんが八十二歳の時。
瑞希とは七歳違いだから、その時の瑞希は七十五歳。
病院に運ばれて、日に日に弱る夫を見ていられなくなる。なのに、毎日笑顔で見舞いに行く。
「おじさん、りんご、剥きましょうか?」
「ああ。ばあさん。ひとつ、言っていないことがあったなあ」
亡くなるその日も、おじいさんはなんら変わりなかった。瑞希が剥いたりんごを食べて、なぜだか先祖の話をして。
その夜、眠るように息を引き取った。
「あなた……私を置いていくなんて」
もっと、子供を頼むとか、店を頼むとか。そんな遺言を残せばよかったのに。最後まで自由な人だった。
「おじいさんが守ってきた割烹だものね」
泣いて泣いて、泣き明かすことができたらどんなにかよかった。
瑞希には、やらなければならないことがあった。
五十年守ってきた割烹を、今さらつぶすなんて考えられない。
おじいさんとの思い出の詰まった、この場所を守らねば。
「おじいさん。私はまだ、そちらには行けませんが。もう少しだけ、待っていてくださいね」
常連さんの励ましもあって、瑞希はおじいさんの死をかき消すように、仕事に励んだ。
けれど心はいつも空虚で、泣きたいのに、涙は出てこなかった。




