覚醒
「怨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「どああああああっ」
《さっさと避けんか!馬鹿者!》
「そんな事いったって!」
呪霊に精神を乗っ取られた男は、完全な操り人形と化しており、真直ぐ錬の喉に噛
み付こうとしてきたのだ。
確かに能面を両手で抱えたままだと油断していた事は否定できない。
殴る、もしくは蹴ってくる、そんな予想をまるっと無視した行動は予測していない
《まるで手負いの狼じゃ、気を抜くで無いぞ》
「ああ、大丈夫だ心配ない」
武道とは、戦う事とは全く縁の無い錬だったが、相手が獣となれば話は別だ。
十五になるまでは自然の中で糧を得て生きて来た。
当然だが、幾ら日本でも危険な野生動物は存在する。
大は熊や猪に始まりま小は蝮や蜂、果ては野犬まで、危険な生物には事欠かない。
ほぼ毎日そんな生物に遭遇していれば対処は慣れた物だ。
「野犬と思えば対処は出来る」
今まで散々相手にして来た経験は、錬に余裕と自信を齎した。
《殺してはならんぞ》
「ああ、わかってる・・・・よっ・・・・・・・ふん!」
飛びかかって来た男を刀の背で打ち据えたのだが、怯む様子が無い。
《操られておるんじゃ、痛みでは止まらんぞ!》
「なら、どうすれば・・・・・」
《動けなくするしか無かろう・・・・・折れ!》
「はぁ、簡単に言うなよ・・・・」
どれ程痛め付けても駄目なら行動不能にするしか手が無い。
つまり手足を折るしか無いのだが、操られている男の動きに付いて行けない。
無軌道に暴れる男の足に刀を振り降ろそうとしたが、やはり躊躇してしまって威力
が全く足らない。
産まれてこの方、他人を殴った事など一度も無いが殴られた記憶なら掃いて捨てる
程持っている。
錬が理不尽な暴力を受けた時の対処法はひたすら耐える事、反抗する選択肢など
持ち合わせて居ない。
反抗すれば更に殴られ、逃げ出せば執拗に何日も追いかけられる。
黙って耐える事が一番被害が少ないのだ。
《それでは、いたずらに痛めつけるだけじゃぞ》
「わかってる、わかってはいるんだ・・・・」
《理解しているなら構わん、ほれ次が来るぞ》
「ええい、もう、くそったれが!」
再び男の足に刀の背を打ち付けるが、やはり同じ威力が足らない。
だが今回は湖月は何も言わない。
(とことん・・・・練習台になって貰おうか)
非情な考えだが湖月はこの男を錬の鍛錬相手に選ぶ事にした。
自分の欲を抑えきれず呪物を招き入れた男に同情の余地は無い。
手加減するつもりは微塵も無い。
「この、くそっ!」
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
自分では力を込めているつもりだが打ち据える瞬間、無意識にブレーキがかかる。
結果として何度も打ち据えられて男の足はズボンの上からも分かる程腫上っていた
恐らくかなり酷い内出血を起しているだろう。
(自分で克服するしか無い・・・心の在り方だけは・・・な)
他者が手を差し延べても、それは練が手に入れる物を他者が奪っている事と同じだ
どれだけ苦しくても自分で乗り越える必要が有る。
それに、こんな機会が常に転がっている訳では無い。
逃す訳には行かないのだ。
「ふうっ・・・・・・・・・・・・ふううううっ」
錬は自分の不甲斐なさ、覚悟の無さに心底・・・・・情なくなった。
他人から見れば優しいと思われる錬の行動は、自分が受けた痛みを今度は自分自身
が行使しなければならない恐怖から逃げているだけ。
与えられた責務を全うするより、自分の心の平穏を優先しているだけの自己中心的
な感情の結果なのだ。
この有様で琴音の横に立ちたいなどと、笑い話にもならない。
「いつまで・・・・・・・・・目を逸らすつもりだ!馬鹿野郎!」
唐突に錬は持っていた刀の切っ先を自分の太腿に突き刺した。
それも貫通一歩手前まで深々とだ。
「ぐっ・・・・・・・・・・つうっ」
この行為自体に意味は無い。
この事で精神が強くなる訳でも、生まれ変われる訳でも無い。
自分もこれだけの傷を負ったのだから、骨の一本や二本ぐらいは容認してくれとい
う唯の自己正当化の自傷行為でしかないが、その幼稚な考えが錬を変えた。
「ふん!」
やや男と距離を取ると刀を上段に構え息を止めた。
頭から感情を、それこそ痛覚や聴覚、さらには触覚さえも全て追い出しそうとした
そして、只ひたすらに刀に意識を集めた。
視線は男から逸らしてはいないが、視界に捉えているのは一つの存在だ。
人間でも呪霊でも無い、ただ、其処にある物。
男の唸り声も、遥か遠くに聞こえる山鳴りにも劣る程小さくなり、周りに溢れてい
る呪詛さえ感じなくなった。
(ほう・・・・吹っ切れた・・・・か・・・・)
湖月は先程から補助を止めている。
錬が意識を体から切り離し始めると、溢れ出す仙気の量が跳ね上がったからだ。
多少の不安定さなど、問題にならない。
濁流の前では小さな流れなど、無いに等しいのと同じ事、振れば当たる。
(さあ、押し流してしまえ!)
刀に纏い始めた仙気は既に部屋中を覆い尽くす程巨大になり、その圧倒的な物量を
目の当たりにした呪物は一も二も無く逃走しようとしたが、既に意味が無い。
呪物が最後に見たのは振り下ろされる己を呑み込む程の仙気の塊だった。




