傷跡
翌朝――
レイモンドは、まるで何事もなかったかのように振る舞っていた。
キランの予想通りだった。
「おはよう」
レイモンドがいつもの器具を持ってキランのアパートへ入ってくる。
キランは彼を見た。
「おはよう」
レイモンドが近づく。
「眠れたか?」
「まあまあ」
レイモンドはキランの朝のケアを始めた。
キランはじっと見つめる。
また、その言葉だ。
*大丈夫。*
マッハが近くに現れた。
キランを見る。
キランもマッハを見る。
二人とも何も言わない。
レイモンドが気づいた。
「何だ?」
「別に」
キランは無邪気に笑った。
レイモンドが目を細める。
「何でそんな目で俺を見てる?」
「どんな目?」
「俺の心でも読もうとしてるみたいな目だ」
キランは肩をすくめる。
「僕、英語教師だから」
「それが何の関係あるんだよ?」
「象徴表現」
レイモンドは彼を見つめた。
「全然意味分かんねえぞ」
「頭よさそうに聞こえたから」
レイモンドが首を振る。
「馬鹿だな、お前」
キランは笑った。
これだ。
こっちのほうが、いつものレイモンドだった。
しばらくの間――
すべては普通に見えた。
レイモンドはいつものようにキランのケアを手伝った。
学校の話をした。
ギアの修理の話。
キランは採点しなければならない課題の多さに文句を言った。
レイモンドは、キランが文句ばかり言うことに文句を言った。
だが、ときどき――
レイモンドの意識が遠のいた。
遠くから聞こえる音。
外を通過する大型車両。
建物のどこかから響いた金属音。
そのたびに――
レイモンドの身体が固まった。
ほんの一瞬だけ。
だが、キランは気づいていた。
マッハも。
ついに――
キランは無視できなくなった。
「レイモンド」
レイモンドは作業を続ける。
「ん?」
「そんなことしなくていいよ」
「何を?」
キランが彼を見る。
「平気なふり」
レイモンドが止まった。
沈黙。
そして――
「ふりなんかしてない」
キランがため息をつく。
「もういいって」
レイモンドが振り向く。
「じゃあ何て言えばいいんだ?」
「本当のことを言ってくれたら嬉しいけど」
「昨日、本当のことは全部話した」
「何が起きたかは話してくれた」
キランは声を柔らかくする。
「でも、今どう感じてるかは話してない」
レイモンドが笑った。
短く。
乾いた笑い。
「生きてる」
「それを聞いてるんじゃない」
レイモンドは目をそらした。
キランは続ける。
「昨日、友達を殺したものを目の前で見たんだ」
レイモンドの顎に力が入る。
「しかも、今は逃げ出してる」
キランは少し間を置いた。
「気にならないふりをする必要はないよ」
レイモンドがようやく彼を見る。
「じゃあ俺にどうしろっていうんだ?」
キランは答えなかった。
レイモンドの苛立ちが強くなる。
「泣けって?」
「違う」
「叫べって?」
「レイモンド――」
「十年前の出来事を一生怖がりながら生きろって?」
声が大きくなる。
「俺はそんなことしない」
キランは落ち着いていた。
「誰もそんなこと言ってない」
「ならいい」
レイモンドはキランの器具へ戻る。
「じゃあ、この話は終わりだ」
キランは彼を見る。
「分かった」
レイモンドが止まる。
明らかに反論されると思っていた。
だが、キランはしなかった。
「もう言わない」
レイモンドが見る。
「でも……」
キランがかすかに笑う。
「……“大丈夫”じゃなくなってもいいって思えた時は……」
少し間を置く。
「……僕はここにいるから」
レイモンドは彼を見つめた。
そして目をそらす。
「ああ」
小さな声で――
「分かってる」
その日の午前――
キランは教室の前に立っていた。
いや――
座っていた。
その言い回しをいちいち訂正するのは、もう何年も前に諦めている。
背後のディスプレイには、まだこう表示されていた。
**孫子兵法**
キランは教室を見渡す。
「さて」
画面を軽く叩く。
「昨日は、敵を知ることについて話した」
ヴィエイラが手を挙げた。
キランが瞬きをする。
「おお」
彼女を指す。
「ヴィエイラ?」
彼女が笑う。
「敵が何をするか全部分かってたら……」
キランは続きを待つ。
「……自動的に勝ちってことじゃないんですか?」
「素晴らしい質問だ」
キランは教室の中央へ移動する。
「そして、答えはノー」
ヴィエイラが顔をしかめる。
「つまんない」
クラスが笑う。
キランも笑った。
「敵を知れば有利にはなる」
スライドを切り替える。
「でも、敵も*君を*知っているかもしれない」
何人かの生徒が本当に興味を示し始めた。
「もし二人がお互いの戦い方を完全に知っていたら……」
キランが間を置く。
「……どうなる?」
一人の生徒が手を挙げた。
「お互い打ち消し合う?」
「その可能性はある」
別の生徒が言う。
「強いほうが勝つ」
「それもあるかもしれない」
キランは首を振った。
「でも、孫子の思想は相手を力で圧倒することが本質じゃない」
いくつかの言葉を強調する。
**強みを避ける。**
**弱点を突く。**
キランは続けた。
「敵が自分より強いなら、相手が一番強い場所で戦うな」
車椅子を動かす。
「相手を動かす」
また動く。
「反応させる」
生徒たちを指す。
「相手の強さが意味を持たない状況へ追い込むんだ」
ヴィエイラが背もたれにもたれる。
「つまりズルですね」
キランがため息をつく。
「どうして君は何でもズルにするんだ?」
「だってズルって効くじゃないですか」
キランは彼女を見つめた。
「君の将来が心配だよ」
クラスが笑った。
その時――
キランが止まった。
今、自分が言ったことが頭に引っかかった。
*反応させる。*
*相手の強さが意味を持たない状況へ追い込む。*
ベゼルカー。
キランの表情が変わった。
生徒たちも気づく。
ヴィエイラが眉をひそめる。
「キリアン先生?」
キランが我に返る。
「ごめん」
授業へ意識を戻す。
「どこまで話したっけ?」
「ズル」
「戦略」
「同じじゃないですか」
キランは笑った。
だが、もう頭のすべてが教室にあるわけではなかった。
昼休み――
ミカイラが外にいるキランを見つけた。
キランは木の下に座り、マッハが近くにいる。
飲み物を持った彼女が近づいてきた。
「やあ、知らない人」
キランが笑う。
「やあ」
彼女は隣に座った。
「レイモンドは?」
キランの笑みが少し消える。
「本人は大丈夫って言ってる」
ミカイラはすぐ理解した。
「つまり、大丈夫じゃないのね」
「まったくね」
キランは中庭に散らばる生徒たちを見る。
「バランで何があったか話してくれた」
ミカイラは黙って待つ。
キランの表情が沈む。
「部隊の仲間が全員殺された」
彼女の顔が変わった。
「そんな……」
「ああ」
キランは下を見る。
「しかも、それをやった奴が……」
ためらう。
「……戻ってきた」
ミカイラが見つめる。
「戻ってきた?」
キランが頷く。
「ちょっと複雑なんだ」
「あなたの場合、いつもそうよね」
キランが彼女を見る。
ミカイラが笑う。
「ごめん」
「いや、その通りだよ」
彼女が少し近づく。
「レイモンドは危険なの?」
キランはすぐには答えなかった。
「そう思う」
「あなたは?」
キランが彼女を見る。
ミカイラの表情は真剣だった。
キランには、本当に何を聞いているのか分かっていた。
「たぶん」
ミカイラがため息をつく。
キランが弱々しく笑う。
「聞きたかった答えじゃないのは分かってる」
「嘘をつかれるよりいい」
その言葉は、キランが思っていた以上に胸へ響いた。
コラージュでの事件の後に交わした会話を思い出す。
自分の生き方が周囲の人々を傷つけるのではないかと、どれほど恐れていたか。
キランが彼女の手へ手を伸ばす。
ミカイラが握った。
「馬鹿なことをするつもりはないよ」
マッハが、どう聞いても咳払いにしか聞こえない音を出した。
キランが振り向く。
「何?」
マッハは目をそらした。
ミカイラが笑う。
キランが眉をひそめる。
「誰も君には聞いてない」
マッハは黙ったまま。
ミカイラがキランの手を軽く握る。
「とにかく、気をつけて」
キランが微笑む。
「分かった」
しばらく――
すべてが静かだった。
そしてミカイラが身を寄せ、キランの頬へキスをした。
キランが固まる。
彼女は立ち上がった。
「また後でね」
キランは去っていく彼女を見つめた。
マッハが隣へ浮かぶ。
「顔が赤くなっています」
「黙って」
「観察結果を述べただけです」
それでもキランは笑った。
その時――
遠くから低い轟音が街を横切った。
キランの笑顔が消える。
**クリーガー軍事基地――**
誰一人、笑ってはいなかった。
ハイタワー将軍が司令室に立っている。
壁という壁をスクリーンが覆っていた。
衛星映像。
軍事通信。
監視カメラ。
地図。
一人の士官が近づく。
「まだ何もありません」
ハイタワーの表情が険しくなる。
「捜索範囲を拡大しろ」
「すでに半径百マイルをドローンで捜索しています」
「なら二百にしろ」
士官がためらう。
「閣下……」
ハイタワーが振り向く。
「言え」
「奴がどこへ向かっているのか分かりません」
ハイタワーは戦術ディスプレイを見つめた。
「いや」
最後に確認された位置を見る。
「どこへ向かっているのかは、正確に分かっている」
士官が視線を追う。
シトロン・シティ。
ハイタワーの顎に力が入る。
「ハリソンを狩っている」
**シトロン・シティ郊外――**
軍の検問所が高速道路を封鎖していた。
装甲車両がバリケードを形成する。
兵士たちは携帯式防御設備の後ろで待機していた。
重砲が砂漠へ向けられている。
若い士官が双眼鏡を覗いた。
何もない。
熱気で道路の向こうが揺らいでいる。
「動きは?」
「ありません」
別の兵士がスキャナーを確認する。
「熱源反応もなし」
士官が双眼鏡を下ろす。
「進路を変えたのかもしれない」
その時――
**ズゥン。**
全員が固まった。
士官が双眼鏡を上げる。
何もない。
**ズゥン。**
地平線に小さな影が現れた。
歩いている。
スキャナー担当の兵士が画面を凝視する。
「接触」
兵士たちが動く。
「配置につけ!」
武器が上がる。
影がはっきりしてくる。
巨大。
装甲。
赤い目。
ベゼルカー。
士官が通信機を掴む。
「司令部、目標を視認」
ベゼルカーは進み続ける。
「目標、チェックポイント7へ接近中」
ハイタワーの声が返る。
『市内へ侵入させるな』
士官が唾を飲む。
「了解」
片手を上げる。
「構え!」
ベゼルカーが歩く。
**ズゥン。**
「照準!」
武器がロックする。
**ズゥン。**
「撃て!」
検問所が轟音に包まれた。
**ドォン! ドォン! ドォン!**
ミサイルが高速道路を駆け抜ける。
重砲が火を噴く。
エネルギー兵器が砂漠を照らした。
ベゼルカーが巨大な爆発に飲み込まれる。
衝撃波がバリケードを揺らす。
煙が高速道路を覆った。
兵士たちが見つめる。
何も動かない。
一人がゆっくり笑みを浮かべた。
その時――
赤い光が現れた。
笑みが消える。
ベゼルカーが煙の中から歩み出た。
装甲は損傷している。
身体の一部は燃えていた。
それでも――
歩いている。
機械が止まった。
システムが攻撃を解析する。
装甲が動く。
再構成。
強化。
士官の顔から血の気が引く。
「もう一度撃て!」
第二波の攻撃が放たれる。
ベゼルカーが突進した。
さっきより速い。
「撃て!」
**ドォン!**
最初のバリケードを突き破る。
兵士たちが散る。
ベゼルカーが装甲車両を掴んだ。
士官が目を見開く。
「嘘だろ……」
持ち上げる。
そして投げた。
**ズガァァン!**
検問所は一瞬で混乱に陥った。
**シトロン・アカデミー――**
キランが作文を半分ほど採点したところで、教室中の携帯端末が一斉に悲鳴を上げた。
**ピピッ! ピピッ! ピピッ!**
生徒たちが飛び上がる。
キランが顔を上げた。
画面という画面に緊急警報が表示される。
マッハが即座に公共通信へアクセスした。
表情が変わる。
「キラン」
「何?」
マッハが警報を表示する。
**民間防衛緊急警報**
**軍事的脅威がシトロン・シティへ接近中**
キランの胃が沈む。
そして――
写真が表示された。
ぼやけている。
遠い。
それでも、見間違えるはずがない。
ベゼルカー。
キランは画面を見つめた。
突然、教室がひどく狭く感じられた。
ヴィエイラが彼を見る。
「キリアン先生?」
キランは無理やり意識を戻した。
今は犯罪と戦うキランではいられない。
まだ、その時ではない。
今は彼らの教師だ。
「よし」
扉へ向かう。
「全員、落ち着いて」
生徒たちはすぐに騒ぎ始めた。
「あれ、こっちに来るんですか?」
「何が起きてるの?」
「避難するんですか?」
キランが声を張る。
「聞いて!」
教室が静まった。
「学校の緊急時手順に従う」
マッハを見る。
マッハが頷いた。
「学校側が屋内退避プロトコルを開始しました」
キランは生徒たちへ向き直る。
「荷物を持って」
そして考え直す。
「いや」
非常口への経路を指す。
「全部置いていけ」
生徒たちが動き始める。
キランは冷静さを保った。
内心では――
何が来るのか正確に分かっていた。
ベゼルカーは、ただシトロン・シティへ近づいているのではない。
レイモンドを探している。
そして遅かれ早かれ――
見つける。
レイモンドはアパートに一人で立っていた。
テレビには緊急警報が表示されている。
破壊された軍の検問所の映像。
燃える車両。
撤退する兵士たち。
そして遠くには――
ベゼルカー。
レイモンドは見つめていた。
リポーターの声が続く。
『軍が第二防衛線を構築している間、市民の皆様には屋内に留まるよう――』
レイモンドはテレビをミュートにした。
静寂。
テーブルを見る。
三組の認識票が置かれている。
クラウド。
ヘンドリックス。
リヴァース。
レイモンドはそれを手に取った。
何年もの間――
すべて終わったと自分に言い聞かせてきた。
バランは終わった。
戦争も終わった。
仲間たちは死んだ。
ベゼルカーは埋まった。
自分は生き残った。
前へ進んだ。
だが、画面を見ながら――
レイモンドはようやく一つのことを認めた。
前へ進んだわけではなかった。
ただ、それを背負ったまま歩くことが上手くなっただけだった。
レイモンドは認識票を握り締める。
「俺を狙ってるんだな」
恐怖が戻ってきた。
今度は、それを感じることを自分に許した。
初めて――
平気なふりをしなかった。
「……そうか」
レイモンドが息を吸う。
「怖い」
リヴァースの認識票を見る。
「死ぬほど怖い」
手が震えている。
「でも……」
レイモンドが立ち上がった。
エグゾスーツを収納している格納スペースを開く。
「……お前はもう、俺から三人の兄弟を奪った」
装甲が起動する。
機械部品が展開する。
レイモンドが一歩前へ出る。
スーツが身体を包み始めた。
その表情が引き締まる。
「だから絶対に……」
ヘルメットが下りる。
**プシュッ!**
武装がオンラインになる。
「……もう一人は奪わせない」
レイモンドが扉へ向かう。
外では――
シトロン・シティ中にサイレンが鳴り響いていた。
そして、そのさらに向こうから――
**グルルルラァァァァァッ!**
ベゼルカーが到着した。




