巨大昆虫
「改めて礼を言わせてくれ。二度も私の命を救ってくれてありがとう」
マドックスはスーツを整えた。
「私のことをどう思っていようと、それを脇に置いて正しいことができるというのは、実に――」
**シュウッ!**
キランが上空へ飛び出した。
マドックスは言葉の途中で止まった。
キランとマッハが、砕けたオフィスの窓へ向かって一気に上昇していくのを見つめる。
「……分かった」
ネクタイを直した。
「続きはまた今度にしよう」
キランには聞こえていなかった。
彼の意識は、すでにアラスターへ向けられていた。
マッハが隣を飛ぶ。
「慎重に進みましょう」
キランの表情が引き締まる。
「彼はもう私を操ることはできません。しかし、他に何を隠し持っているか分かりません」
キランは頷いた。
「俺たちならやれる」
二人はマドックスのオフィスへ到達した。
アラスターは待っていた。
プロフェッサー・テックはデスクのそばにもたれかかっている。
損傷した装備から火花が散っていた。
ヘルメットは黒く焦げている。
それでも。
まだ終わってはいなかった。
キランは割れた窓の外でホバリングした。
「もう終わりだ、アラスター!」
プロフェッサー・テックはゆっくりと顔を向けた。
「いや」
グローブが発光する。
「まだだ」
その瞬間。
マッハのセンサーが動きを検知した。
あらゆる方向から。
キランの耳に――
**カチッ。**
さらに。
**カチッ。カチッ。カチッ。カチッ。**
壁のパネルが開いた。
キランは目を見開く。
天井から銃口が現れる。
床から。
壁から。
何十もの銃口が、一斉にキランへ向けられた。
キランは唾を飲み込んだ。
「……ずいぶん多いな」
プロフェッサー・テックが笑った。
そして――
**ピュン! ピュン! ピュン! ピュン! ピュン!**
オフィスがレーザーの嵐に包まれた。
「動け!」
キランは身体をひねった。
レーザーがすぐ横を切り裂く。
マッハも隣で回避した。
キランが反撃する。
**ドガン!**
一基の銃が爆発した。
**バゴン!**
もう一基。
プロフェッサー・テックは残った武器を操り続ける。
「あの人の言った通りだ!」
キランは次の一撃の下をくぐった。
「先生だってマドックスと変わらない!」
キランの目が細くなる。
*あの人?*
「誰だ?」
プロフェッサー・テックの表情が険しくなった。
「関係ない」
さらに銃が火を噴く。
「どうせ会う前に死ぬ!」
キランは身体をひねった。
一発をかわす。
だが次の一発が――
**ズィン!**
「ぐあっ!」
車椅子へ直撃した。
装甲に亀裂が走る。
キランの身体が横回転した。
マッハが即座に姿勢を安定させる。
「キラン!」
「大丈夫だ!」
さらに一斉射撃。
キランは紙一重でかわした。
問題は明白だった。
銃が多すぎる。
プロフェッサー・テックがマッハを操れなくなったとしても――
この建物にある他のすべてのテクノロジーを操ることはできる。
キランが撃つ。
外れた。
別のレーザーが装甲へ直撃する。
「ぐっ!」
キランはマッハを見る。
「戦い方を変えたほうがよさそうだな」
マッハは即座に理解した。
「マッハ速度で行きますか?」
キランが笑った。
「やれ!」
マッハの目が光る。
キランのスラスターが咆哮した。
そして――
**ドォン!**
消えた。
プロフェッサー・テックの目が見開かれる。
「な――?」
キランは紫色の残像と化した。
**ドガン!**
銃が一基、爆発する。
姿が消える。
**ドガン!**
もう一基。
プロフェッサー・テックは必死に武器の向きを変える。
「撃て!」
レーザーが部屋中を埋め尽くす。
しかし。
狙った場所に、もうキランはいなかった。
すでに別の場所へ移動している。
**バキィッ!**
また一基が砕け散った。
そして次。
さらに次。
プロフェッサー・テックは必死に周囲を見回した。
追いつけない。
キランは天井を駆け抜ける。
壁を下り。
床を横切り。
オフィスの中央を突き抜ける。
姿を現すたびに――
武器が一つ消える。
**ドガン!**
**バゴン!**
**バキッ!**
銃撃が弱まっていく。
何十基もあった銃が十基に。
十基が六基に。
六基が――
二基になった。
キランが減速する。
最後の二基のブラスターが、プロフェッサー・テックの両脇に浮かんでいた。
「あと少しだ!」
ヘルメットの下で、アラスターの顔が歪む。
「やめろ!」
キランが撃った。
**ズガァァン!!**
最後の武器が爆発した。
「やめろぉぉぉ!!」
爆風がアラスターを吹き飛ばす。
ヘルメットが頭から剥ぎ取られた。
床へ叩きつけられる。
破片がオフィス中へ飛び散った。
アラスターもそのそばへ転がった。
そして――
静寂。
煙が部屋を満たしていた。
キランが着地する。
マッハも隣へ現れた。
アラスターは身体を起こそうとした。
だが。
できなかった。
顔は油で汚れている。
呼吸は荒い。
数メートル先には、壊れたヘルメットが転がっていた。
キランは彼を見つめた。
「終わりだ」
アラスターは首を振る。
「違う……」
声が震えていた。
「あいつは報いを受けなきゃいけない」
もう一度身体を動かそうとする。
失敗した。
「報いを受けなきゃ……」
キランの怒りは消えていた。
代わりに胸を満たしたものは――
怒りよりも、ずっと痛かった。
「どうしてだ、アラスター?」
アラスターの動きが止まった。
キランは床に倒れている少年を見る。
自分の生徒を。
「お前には、これからの人生があったのに……」
キランの声が震えた。
「……全部、自分で捨ててしまった」
アラスターはゆっくりと彼を見た。
目には涙が浮かんでいる。
怒っていた。
疲れ果てていた。
そして。
完全に打ちのめされていた。
「どう言えば先生に分かるかな?」
弱々しく笑う。
「ああ……」
視線が、床一面に散らばった自分の人生の残骸へ向かう。
「……そうだ」
キランとマッハは黙って見つめた。
アラスターは唾を飲み込んだ。
「ある朝、目を覚ましたら……」
苦々しく顔を歪める。
「……俺は**巨大昆虫**になってたんだ」
キランの身体が固まった。
*『変身』。*
ようやく理解した。
アラスターは、本当に自分が虫になったと言っているわけではない。
ある朝、目を覚まして――
世界が自分をどう見ているのかに気づいた。
そういう意味だった。
使い捨て。
取るに足らない存在。
誰かが足で踏み潰しても、その後は二度と思い出すことすらないような存在。
キランは目を伏せた。
アラスターのしたことを肯定することはできない。
だが――
なぜ彼がその言葉を選んだのかは、理解できた。
その後――
警官たちがアラスターを警察のホバークラフトへ乗せていた。
両手には拘束具。
顔はうつむいたまま。
抵抗しない。
言い争わない。
何も言わない。
その近くでは――
ニコラス・マドックスが大勢の記者たちを前にしていた。
「皆さん、ご心配いただきありがとうございます」
カメラのフラッシュが光る。
「今回のちょっとしたトラブルにもかかわらず……」
マドックスは自信満々に笑った。
「……マドックス・インコーポレーテッドはこれまで以上に強固です。そしてこれからも、皆さんにふさわしいテクノロジーを**提供し続けます!**」
キランは離れた場所から見ていた。
マッハが隣にいる。
レイモンドも到着していた。
アルフィーとグリッチも一緒だった。
マッハはマドックスを見つめた。
「実に不愉快な人物ですね」
キランはため息をついた。
「まったくだ」
アルフィーは興奮した様子で周囲を見回した。
「お、俺たち、大きな戦いをみ、み、見逃したなんて信じられない!」
両手を上げる。
「い、いつもこうだ!」
レイモンドは笑っていなかった。
キランを見る。
「援護が必要なら呼べよ」
キランは顔を伏せた。
「分かってる」
警察のホバークラフトの窓越しにアラスターを見る。
「ただ……これは俺自身で片づけなきゃいけない気がしたんだ」
レイモンドは理解した。
キランの表情がさらに険しくなる。
「アラスターには協力者がいた」
レイモンドの目が細くなる。
「名前は言わなかったけど……」
キランはアラスターの言葉を思い出した。
*あの人の言った通りだ。*
「……誰のことを言っていたのか、たぶん分かる」
レイモンドは迷わなかった。
「サヴァント」
アルフィーが瞬きをする。
「誰?」
キランが彼を見る。
「正確には、俺たちにも分からない」
マッハが続けた。
「ですが、何者であれ、人を操るほどの強い**影響力**を持っていることは確かです」
キランは頷いた。
「そうだな」
再びアラスターを見る。
少年は窓の向こうから、完全な軽蔑を込めた目でこちらを見ていた。
「でも、アラスターがやったことは、アラスター自身が選んだことだ」
ホバークラフトが出発の準備を始める。
「サヴァントは、すでにそこにあったものを利用して……」
キランの表情が暗くなる。
「……形を変えただけだ」
その考えは、キランが認めたくないほど不安なものだった。
アラスターのような人間が、他にもどれほどいる?
怒りを抱えて。
傷ついて。
誰かを憎む理由を探している人間が。
そして――
そのうち何人を、サヴァントはもっと恐ろしい何かへ変えてしまえるのだろう?
沈黙を破ったのはアルフィーだった。
「さて……」
グリッチを見る。
「そろそろ俺とグリッチも帰らないと」
アルフィーはため息をつく。
「ボスから、まだ仕事をやれって言われてるんだ」
キランがわずかに笑った。
「あまり一緒に過ごせなくて悪かったな」
アルフィーは笑う。
「気にしないで」
損傷した高層ビルを見る。
警察。
記者たち。
遥か上空にある、破壊されたオフィス。
「こ、これ、今までで最高の休暇の一つだったかも」
キランは彼を見つめた。
そして笑った。
もちろん、そうなるよな。




