葬れなかった声
マーラ・エリソン刑事がヴィクター・ハルデン博士について最初に気づいたのは、彼には非常に優秀な弁護士がついているということだった。
二つ目に気づいたのは、どうやら弁護士が一人ではないということ。
そして三つ目は、その誰もがハルデンに口を開かせたくないらしいということだった。
一言も。
どんな状況でも。
できれば永遠に。
マーラはシトロンシティ警察本部の会議室に立ち、グレイハーバー・バイオメディカル・ホールディングスから届いた書簡を見つめていた。
十一ページ。
十一ページもあった。
何も答えないためだけに。
彼女は隣に立つ刑事を振り返った。
「これ、読んだ?」
刑事はうなずいた。
「二回読みました」
「理解できた?」
「残念ながら」
「何て書いてあるの?」
刑事は咳払いした。
「ハルデン博士は、コンティニュイティ部門の過去の業務に対する警察当局の関心に謝意を表するものの、要請された事情聴取の範囲、関連性、および手続き上の根拠について、法定代理人による独立した審査が完了するまで、面談には応じられないとのことです」
マーラは彼を見つめた。
「普通の言葉で」
「話したくないそうです」
「そうでしょうね」
彼女は書簡をテーブルに置いた。
「十一ページも使って」
「高くついたでしょうね」
「でしょうね」
◇ ◇ ◇
プロジェクト・シナプスの捜査は、新たな段階に入っていた。
何週間もの間、警察は断片的な手がかりを追い続けてきた。
消えた機器。
削除された記録。
無許可の研究。
盗まれたシナプティック・コア。
そして、参加者が同意を撤回したあとも稼働を続けた研究計画。
その中心には、正体不明の経営幹部認証があった。
CD-PRIORITY-01
そして今、初めてその指令に関係する人物の名前が浮かび上がった。
ヴィクター・ハルデン博士。
研究顧問。
グレイハーバーの経営幹部。
ノースブリッジ・メディカル・システムズへの主要な資金提供者。
そして、エイドリアン・ケスラーから回収された記録によれば、エコーミラー実験の継続を最も強く主張した人物の一人。
だが、問題があった。
回収された文書に名前があるだけでは足りない。
告発は証拠ではない。
ケスラーが提出した録音でさえ、真正性の確認が必要だった。
マーラはそれを理解していた。
納得しているかどうかは別だった。
「録音の鑑定は?」
鑑識分析官がモニターを彼女に向けた。
「当時の会議予定、回収された指令案、ハルデンの既知の音声記録と照合中です」
「声は一致する?」
「本人の声と整合しています。ただし、断定には至っていません」
「改ざんは?」
「これまで調べた部分では、明確な痕跡は確認されていません。ただ、ファイルの来歴については引き続き検証しています」
マーラはうなずいた。
「続けて」
分析官が別の画面を開いた。
コンティニュイティ部門――経営幹部監督会議
議題:参加者の同意撤回と継続性の維持
認証コンテキスト:CD-PRIORITY-01
その下には、指令案が表示されていた。
参加者による同意撤回を理由として、再構築された継続性処理を自動的に終了してはならない。
マーラはその文章を読んだ。
もう一度読んだ。
「本当に、こんなことを書いたのね」
分析官はうなずいた。
「そのようです」
「誰かがこの文章を見て、いい考えだと思ったわけね」
「複数の関係者が審査した可能性があります」
マーラは目を閉じた。
「余計に悪いわ」
◇ ◇ ◇
ギアの工房では、キラン・キリアンが機械と口論していた。
それ自体は珍しくなかった。
珍しかったのは、機械のほうが勝っていたことだ。
「マッハ」
「はい、キラン」
「俺は準備できてるって、みんなに言ってくれ」
「準備できていません」
「じゃあ、心の準備はできてるって」
「精神的な準備は、工学的な安全承認の代わりにはなりません」
キランは仮設電動車椅子のディスプレイに輝く、紫色のパイロットヘルメット型アイコンを見つめた。
「お前、俺の味方だろ?」
「もちろんです」
「だったら、どうして助けてくれないんだよ」
「あなたには生きていてほしいからです」
キランは少し考えた。
「……それはそうだな」
工房の向こうでは、ギアがMACH-01Aの制御装置を調べていた。
装甲付き飛行車椅子は、整備用フレームにしっかり固定されていた。
推進装置は作動禁止のまま。
安定化装置は個別の応答試験を通過していた。
補強された取り付け部分は、延長された疲労試験に耐えた。
電気的絶縁試験も、ようやくすべて合格した。
数日ぶりに、その機体は壊れた残骸ではなく、いつか再び飛べるかもしれないものに見えていた。
いつか。
キランが嫌いになりつつある言葉だった。
ナサニエル・ブルックスが診断コンソールの前に立った。
「それでは、統合制御の検証を開始します」
キランは姿勢を正した。
「統合?」
「はい」
「つまり、全部を一緒に動かすってこと?」
「選択した複数のシステムを連携させます」
「進歩だな」
「そうです」
ギアがにやりと笑った。
「スナット!」
レイモンド・ハリソンがコーヒーから顔を上げた。
「今日は飛ばないぞ」
キランはうめいた。
「それ、もう言わなくていいから!」
レイモンドは肩をすくめた。
「念のためだ」
◇ ◇ ◇
ナサニエルが診断シーケンスを起動した。
MACH-01A――統合システム検証
推進出力:禁止
機体移動許可:未承認
安定化制御:準備完了
緊急応答ロジック:準備完了
アクチュエーター・フィードバック:準備完了
工房に低い機械音が響いた。
小さな制御翼が、試験で許可された範囲内で動いた。
診断コンソールに数値が次々と表示される。
キランは身を乗り出した。
「頼むぞ……」
ギアは画面を見つめた。
ナサニエルは応答曲線を確認した。
マッハのアイコンが点滅する。
「制御信号を受信しています」
「よし」
「安定化フィードバックは正常です」
「いいぞ」
「緊急応答シミュレーションを開始します」
コンソールが電子音を鳴らした。
緊急安定化ロジック:合格
キランは笑った。
「よっしゃ!」
だが、次の瞬間。
新たな警告が現れた。
制御状態の不一致
主安定化基準:正常
副移動基準:不整合
統合試験:中断
工房が静まり返った。
キランは画面を見つめた。
「……嘘だろ」
ギアが身を乗り出した。
ナサニエルはすぐに試験を停止した。
「安全に中断できました」
キランは彼を見た。
「どれくらい悪い?」
「まだわかりません」
「何か壊れた?」
「必ずしもそうとは限りません」
マッハが説明した。
「二つの診断基準が、機体の予測姿勢について異なる値を示しています」
キランは眉をひそめた。
「でも、動いてないだろ?」
「そのとおりです」
「じゃあ、どうして進む方向で意見が割れるんだ?」
「それを調べる必要があります」とナサニエル。
ギアは顎をさすった。
「較正値のずれかもしれないな」
「可能性はあります」
「タイミングの不一致かも」
「それも考えられます」
キランが手を上げた。
「俺の椅子が俺を嫌ってる可能性は?」
マッハが即答した。
「その仮説を支持する証拠はありません」
レイモンドが笑った。
「でも、絶対にないとは言い切れないな」
「レイモンド!」
◇ ◇ ◇
街の反対側では、エレナ・モリスがニュースを見ていた。
またしても。
そろそろテレビを買ったことを後悔し始めていた。
記者がグレイハーバー・バイオメディカル・ホールディングスの建物の前に立っていた。
背後のガラス窓には、午後の日差しが反射している。
「当局は、グレイハーバーの経営幹部研究顧問と、停止されたプロジェクト・シナプスとの関係について、引き続き調査を進めています……」
エレナはコミュニケーション・タブレットでメッセージを選択した。
「それ、もう六回も言ってる」
キッチンにいたレイチェルが顔を上げた。
「七回目なら効果があると思ってるのかも」
エレナは入力した。
「ないわね」
記者は続けた。
「……また、元研究参加者の発言として記録された、再構築されたコミュニケーション内容についても疑問が浮上しています……」
エレナの表情が硬くなった。
彼女は新しいメッセージを入力した。
「またその言い方」
レイチェルが近づいた。
「何が?」
「私の発言として記録された、って」
レイチェルは画面を読んだ。
エレナは続けた。
「まるで私が言ったみたいじゃない」
レイチェルはため息をついた。
「そうね」
「生成されたものよ」
「ええ」
「本人が確認したわけじゃない」
「そう」
「私の言葉じゃない」
レイチェルはうなずいた。
「そのとおりよ」
エレナはテレビを見た。
それからタブレットを見つめた。
そして、新しい声明を書き始めた。
◇ ◇ ◇
障害者権利団体との面談は、その日の午後に行われた。
セリーナ・チョーが手配を手伝っていた。
会場はアクセシブルだった。
面談の進行はエレナ自身が決めた。
質問は事前に提出されていた。
個人的な医療情報について答えるよう圧力をかけることは禁止されていた。
そして、沈黙を会話継続への同意と解釈してはならなかった。
エレナは最後の規則を特に気に入っていた。
向かいには、権利団体の代表者と地元新聞の記者が座っていた。
記者は緊張していた。
エレナはそれに気づいた。
彼女はメッセージを選択した。
「あなた、私より怖がってるみたい」
記者はぎこちなく笑った。
「すみません」
「よかった。倒れるんじゃないかと心配してたの」
セリーナが口元を押さえた。
レイチェルは笑った。
記者の緊張が少しほぐれた。
そして、エレナは話し始めた。
「私の名前はエレナ・モリスです」
タブレットの合成音声が室内に響いた。
「私は、技術が人々のコミュニケーションを助けられると信じて、研究に参加しました」
彼女は少し間を置いた。
「今でも、そう信じています」
記者がうなずいた。
エレナは続けた。
「でも、人が考えていることを表現する手助けと、その人の考えを勝手に作り出すことは、まったく違います」
彼女は記者をまっすぐ見た。
「予測は、許可ではありません」
部屋が静かになった。
「研究者は、人のコミュニケーションにあるパターンを認識するシステムを作れます。でも、それによって、その人の声を所有する権利が生まれるわけではありません」
彼女は再び間を置いた。
「私が同意を撤回したとき、実験は私の参加を利用するのをやめるべきでした」
記者は慎重に書き留めていた。
エレナは続けた。
「私の車椅子は危険ではありません。コミュニケーション・タブレットも危険ではありません。私の拒否を無視してよいと決めた人たちが、その決定に責任を負うべきです」
レイチェルの表情が和らいだ。
セリーナがうなずいた。
エレナは最後のメッセージを選択した。
「それと、私のタブレットがこっそりほかの機械と話しているのか、もう聞かないでください」
記者は目を瞬いた。
エレナは続けた。
「プリンターとさえ、まともに会話できないんだから」
部屋に笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
シトロンシティ警察本部では、エイドリアン・ケスラーがマーラ・エリソンと向かい合っていた。
隣には弁護士。
テーブルの上には録音装置。
正式な事情聴取だった。
すべての質問に意味があった。
そして、すべての答えには、それ以上の意味があるかもしれなかった。
マーラはファイルを開いた。
「ケスラー博士。経営幹部監督会議について、もう一度確認したいことがあります」
ケスラーはうなずいた。
「わかりました」
「あなたは以前、オブザーバー・ゼロの上書き不可能な拒否保護機能を解除する技術的変更を承認したと認めましたね」
「はい」
「その結果を理解していましたか?」
ケスラーは視線を落とした。
「すべてを理解していたわけではありません」
マーラは待った。
彼は続けた。
「ですが、十分には理解していました」
弁護士が彼を見た。
ケスラーは話すのをやめなかった。
「参加者が同意を撤回したあとも、その人の発言として扱われる内容を生成できるようになることは、わかっていました」
マーラは彼を見つめた。
「それでも承認した」
「はい」
「なぜ?」
ケスラーは数秒間、黙っていた。
「内部シミュレーションなら、本人に代わって発言することとは違うと、自分に言い聞かせたからです」
マーラは両手を組んだ。
「その区別は、参加者に明確に説明されていましたか?」
「いいえ」
「参加者は許可していましたか?」
「いいえ」
「では、なぜ続けたのですか?」
ケスラーは唾を飲み込んだ。
「結果が欲しかったからです」
◇ ◇ ◇
部屋が静まり返った。
ケスラーはテーブルを見つめた。
「再構築された出力は、あくまで内部にとどめるつもりだと、自分たちに言い聞かせていました。誰もそれを参加者本人の言葉と間違えることはない、と」
マーラは別の文書を開いた。
「ですが、保存されたファイルでは、生成された内容がエレナ・モリスの発言として記録されていました」
「知っています」
「当時から知っていたのですか?」
「設計上、それが可能だとは知っていました。すべての出力ファイルを自分で確認したわけではありません」
「その危険性を受け入れたのかどうかを聞いています」
ケスラーは目を閉じた。
「はい」
マーラは待った。
やがて彼は続けた。
「ハルデンは、処理を停止することは、かけがえのない何かを破壊することだと信じていました」
「何を?」
ケスラーは顔を上げた。
「人間の継続性です」
マーラの表情が硬くなった。
「モデルによる再構築は、人間そのものではありません」
「今は理解しています」
「当時は?」
ケスラーはためらった。
「私自身、その違いを説明していました」
「それなら、何が変わったのですか?」
彼は疲れ切った表情を浮かべた。
「圧力です。野心です。あと一回実験すれば、何かを証明できるという思い込みです」
マーラは身を乗り出した。
「クララ・ハルデンについてですか?」
ケスラーの動きが止まった。
弁護士が彼を見た。
しばらくして、ケスラーはうなずいた。
「はい」
◇ ◇ ◇
ヴィクター・ハルデン博士も、最初から強大な権力を持つ経営顧問だったわけではない。
何年も前、彼は一人の父親だった。
裕福な父親。
要求の多い父親。
優秀な人材に十分な資金を与えれば、ほとんどの問題は解決できると信じる男だった。
そして、娘が亡くなった。
クララ・ハルデン。
残された公的記録には、音楽の才能があり、鋭いユーモアのセンスを持ち、友人や家族との会話を録音するのが好きだった若い女性として記されていた。
彼女の死後、ハルデンは音声再構築や予測言語モデルに関する複数の民間研究に資金を提供した。
最初の目的は、損傷した録音の修復だった。
次に、欠けた音声部分の再構築。
それから、会話パターンのモデル化。
やがて、それは別の何かへと変わっていった。
ハルデン自身が、失った娘と区別できなくなるような何かに。
ケスラーは静かに座っていた。
「一度、録音を聞かされたことがあります」
マーラは彼を見た。
「クララの?」
「はい」
「どんな内容でした?」
「父娘の会話です。クララが、休暇をまったく取らない父親をからかっていました」
ケスラーは少し間を置いた。
「ハルデンは、それを三回再生しました」
「なぜ?」
「彼女が次に何と言ったはずなのか、聞きたいと言っていました」
マーラは何も言わなかった。
ケスラーは続けた。
「実際に何を言ったかではなく、何と言ったはずなのかを」
彼は自分の手を見つめた。
「そこから始まったんです」
◇ ◇ ◇
グレイハーバー・バイオメディカル・ホールディングスで、ヴィクター・ハルデンは一枚の写真の前に立っていた。
机の上の木製フレームには、笑顔のクララが写っていた。
彼女は笑っていた。
礼儀正しくではない。
カメラのためでもない。
誰かにとびきり馬鹿げた冗談を言われた直後のような、心からの笑顔だった。
ヴィクターはその瞬間を覚えていた。
彼女の笑い声を覚えていた。
その直後に何を言ったかも。
そして、彼女が二度と口にすることのない、数え切れない言葉も。
私用端末が通知音を鳴らした。
機密経営幹部メッセージ
件名:ケスラーの捜査協力
ヴィクターは開いた。
警察による事情聴取が継続中。
認証履歴が調査対象。
CR-01は引き続き警察が保全。
彼はメッセージを読んだ。
それから別のファイルを開いた。
コンティニュイティ部門
経営幹部認証履歴
最終指令:参加者の在否にかかわらず継続性を維持すること
承認権限者:ヴィクター・ハルデン博士
ヴィクターは画面を見つめた。
彼が承認したのだ。
そのことを覚えていた。
反対意見も。
警告も。
同意をめぐる議論も。
参加者には研究を終了する権利があるという主張も。
当時の彼には、それらすべてが障害に見えていた。
必要な懸念ではあったのかもしれない。
だが、それでも障害だった。
彼はクララの写真を見た。
「私は、何かを救おうとしただけだ」
写真は答えなかった。
これまでも、一度も。
ヴィクターはファイルを閉じた。
すると、新しいメッセージが届いた。
警察が正式な面談を要請。
弁護士は直接の接触を避けるよう推奨。
ヴィクターは返信した。
すべての連絡は法定代理人を通すこと。
彼は少し間を置いた。
そして、もう一行追加した。
私設アーカイブの状態を確認せよ。
◇ ◇ ◇
マーラの次の会議では、公共ディスプレイの問題が取り上げられた。
ここ二日間、シトロンシティ各地の電子看板に不気味な文章が表示されていた。
私たちの声が聞こえますか?
確認してください。
私たちは待っています。
その文面は、シナプス捜査で以前に確認されたものと似ていた。
その類似性が人々を怖がらせていた。
システムが街のインフラ全体に広がっていると信じる住民もいた。
システムが意識を獲得したと考える者もいた。
インターネット上では、シトロンシティのあらゆる電子機器が乗っ取られたと断言する人々まで現れていた。
実際の証拠は、そこまで劇的ではなかった。
デジタル鑑識の専門家が大型モニターの横に立った。
「影響を受けた複数のディスプレイが、同じ第三者の管理アカウントを通じて不正な内容を受信していたことを確認しました」
マーラは腕を組んだ。
「認証情報が盗まれた?」
「はい」
「そのアカウントはシナプスと関係がある?」
「これまで調べた記録では、ありません」
「ホローポイントがメッセージを送信した証拠は?」
「ありません」
「CR-01は?」
「ありません」
「なら、誰かが文面を真似している可能性があるわね」
「現時点では、それが有力な仮説です」
マーラはうなずいた。
「人物を特定できる?」
「まだです。アカウントへのアクセスには商用ホスティングサービスが使われています。追加ログを請求しています」
別の刑事が眉をひそめた。
「どうして、こんなことを?」
マーラは画面の文章を見た。
「人々を怖がらせるためでしょうね」
「それとも、捜査を混乱させるため?」
「その可能性もあるわ」
彼女は専門家に向き直った。
「すべて保全して。それから、何が確認されていて、何が確認されていないのか、住民にきちんと伝えて」
◇ ◇ ◇
ギアの工房では、MACH-01Aの診断結果に食い違いが生じた原因が判明していた。
キランにとっては、非常に腹立たしい原因だった。
ギアがコンソールの横に立っていた。
ナサニエルは診断用タブレットを持っていた。
レイモンドはコーヒーを飲んでいた。
マッハは見守っていた。
そしてキランは待っていた。
またしても。
「よし!」とギアが宣言した。
キランは姿勢を正した。
「それで?」
「見つけたぞ!」
「何を?」
「問題だ!」
キランは彼を見つめた。
「楽しんでるだろ」
「もちろん!」
ナサニエルが咳払いした。
「主安定化コントローラーと副移動基準モジュールで、較正の基準値がわずかに異なっていました」
キランは目を瞬いた。
「普通の言葉で」
ギアがにやりと笑った。
「片方は椅子が完全にまっすぐだと思ってた」
「もう片方は?」
「傾いてると思ってた」
キランはMACH-01Aを見た。
「動いてなかっただろ」
「そのとおり!」
キランは眉をひそめた。
「じゃあ、何もないことで喧嘩してたのか?」
マッハが答えた。
「不正確な姿勢基準は、実際の移動中に危険を引き起こす可能性があります」
キランは考えた。
「……なるほど。何もないわけじゃないな」
ナサニエルはうなずいた。
「較正値を修正し、ベンチ検証を再実施しました」
彼はタブレットを向けた。
主安定化基準:正常
副移動基準:正常
基準値の一致:合格
統合制御検証:合格
キランは笑った。
「よっしゃ!」
ギアが両腕を突き上げた。
「スナァァァット!」
レイモンドが笑った。
ナサニエルも微笑んだ。
マッハのアイコンが明るくなった。
「素晴らしい結果です」
キランはMACH-01Aを見た。
「じゃあ、もう動かしていい?」
ナサニエルの笑顔が消えた。
「いいえ」
キランはうめいた。
「聞くだけ聞いてみたんだよ」
◇ ◇ ◇
次の段階では、安全性の総合審査が必要だった。
技術者たちは、模擬故障時にも統合制御システムが正しく動作することを確認する。
緊急安定化機能。
推進出力の禁止状態。
停止ロジック。
そして、センサー同士の不一致が、危険な移動命令を密かに発生させないこと。
それらの確認が終わって初めて、制御された移動試験の承認を検討できる。
キランは理解していた。
気に入ってはいなかった。
だが、理解していた。
「マッハ?」
「はい?」
「あとどれくらい?」
「昨日より近づいています」
「それ、数字じゃないだろ」
「意味のある説明です」
キランは笑った。
「哲学者みたいになってきたな」
「工学的な進歩は、必ずしも百分率で表すのが最適とは限りません」
ギアが身を乗り出した。
「特にキランは、九十九パーセントって聞いたら、そのまま屋根を突き破って飛び出しそうだからな!」
キランは彼を指さした。
「そんなことしない!」
レイモンドが眉を上げた。
キランはためらった。
「……許可は取る」
マッハが答えた。
「その自制心には感謝します」
◇ ◇ ◇
イーストリッジ公共設備別館では、CR-01の調査が続いていた。
装置は隔離されていた。
オペレーティングシステムは起動していない。
ネットワーク接続も確立されていない。
鑑識チームは、アクセス可能な保存媒体の管理された複製を作成する前に、機器の元の状態を保全していた。
そして今、その複製の解析が進められていた。
マーラは主任分析官の横に立った。
「何がわかった?」
彼は復元された設定ファイルを開いた。
CR-01――継続性予備処理装置
主調整参照先:ホローポイント
セッション状態の複製:設定済み
起動履歴:不完全
検証ブリッジ:未装着
最後に確認された実行履歴:復元されず
マーラは画面を見た。
「セッションデータを複製する設定だった」
「はい」
「でも、実際に動作した証拠はない」
「そのとおりです」
「検証ブリッジがない?」
「はい」
「CR07-002で欠けていたブリッジと同じ種類の可能性は?」
「あります。ただし、互換性は確認できていません」
マーラはうなずいた。
「その区別は明確にしておいて」
分析官が別のファイルを開いた。
「もう一つあります」
「何?」
「別の保存先を示す参照情報です」
マーラは身を乗り出した。
「どこ?」
分析官が記録を拡大した。
継続性アーカイブ――外部保存
所在地参照:GH-PRIVATE-04
アーカイブ分類:旧研究資料
状態:未確認
マーラは眉をひそめた。
「グレイハーバー?」
「その可能性があります」
「場所を特定できる?」
「過去の不動産記録と研究記録を照合しています」
マーラは画面を見た。
予備装置。
そして、予備装置のさらに予備。
「……当然あるわよね」
◇ ◇ ◇
最初の手がかりは古い不動産登記から見つかった。
二つ目は研究契約。
三つ目は、すでに解散したグレイハーバー関連会社の保険記録だった。
一つ一つでは、ほとんど何も証明できなかった。
だが、合わせると、市外にある私有研究施設を指していた。
かつて音響研究所だった建物。
その後、厳重に管理された記録保管施設へ改装されていた。
公式な用途は、資料の保管。
現在の利用状況は不明だった。
マーラは住所を調べた。
「所有者は?」
「グレイハーバー関連の投資会社です」
「ハルデンは?」
「過去の監督記録には名前があります。ただし、所有構造は何度も変更されています」
「現在の職員は?」
「不明です」
「ネットワーク接続は?」
「不明です」
「中にシナプスの機器がある証拠は?」
「ありません」
マーラはうなずいた。
「なら、秘密のシナプス基地とは呼ばないこと」
隣の刑事が少し残念そうな顔をした。
マーラは気づいた。
「悪いわね」
「いい見出しになりそうだったのに」
「令状請求書には最悪の見出しよ」
刑事はため息をついた。
「確かに」
マーラは資料を指さした。
「過去の許可記録、設備保守記録、現在の所有者情報を集めて。そのうえで、どんな法的手続きが取れるか判断するわ」
◇ ◇ ◇
一方、エヴリン・マーサーは窓のない部屋に座っていた。
もう何時間経ったのか、数えるのをやめていた。
意味がなかった。
彼女を閉じ込めた人間たちは、照明を管理していた。
食事も。
ドアも。
壁の時計さえ取り外されていた。
だが、すべてを支配されたわけではなかった。
彼女の記憶までは奪えない。
すでに外へ残した証拠も。
ドアが開いた。
暗いスーツの男が入ってきた。
タブレットを持っていた。
「マーサー博士」
エヴリンは顔を上げた。
「ようやく解放する気になった?」
「いいえ」
「じゃあ、最初からひどい会話ね」
男は向かいに座った。
「ケスラー博士が警察への協力を始めました」
「知ってるわ」
男は眉をひそめた。
「どうして?」
エヴリンは肩をすくめた。
「昨日、あなたが教えてくれたでしょう」
男は不機嫌そうになった。
彼女は少し笑いそうになった。
男はタブレットをテーブルに置いた。
「あなたが何をコピーしたのか、知る必要があります」
エヴリンは彼を見つめた。
「なぜ?」
「それらの記録は機密の知的財産です」
彼女は笑った。
本当に笑った。
「知的財産?」
「そうです」
「私を誘拐した理由が、知的財産の心配なの?」
「博士――」
「経費報告書にも、そう書いたの?」
男の顎がこわばった。
エヴリンは身を乗り出した。
「あなたたちが記録を欲しがっているのは、グレイハーバーの所有物だからじゃない」
彼女の声が冷たくなった。
「エレナ・モリスが『ストップ』と言ったあと、何が起きたのか記録されているからよ」
◇ ◇ ◇
男は黙っていた。
エヴリンは続けた。
「オブザーバー・ゼロの元の設計では、参加者の確認が必要だった」
「知っています」
「なら、監督者例外がどれほど危険だったかわかるはずよ」
「経営幹部委員会が承認しました」
「だからって、倫理的に正しいことにはならない」
「ケスラー博士が技術的変更に署名しました」
「そして誰かが私の認証を使った」
男は視線をそらした。
エヴリンは見逃さなかった。
「今の顔」
「何です?」
「誰が使ったのか、知ってるのね」
「何のことかわかりません」
「ハルデン?」
男は立ち上がった。
「この話は終わりです」
エヴリンは声を上げた。
「本人がサービス代理認証を承認したの?」
男は立ち止まった。
彼女は続けた。
「それとも、誰かが代わりにやったの?」
男はドアを開いた。
エヴリンは呼びかけた。
「私をこの部屋に閉じ込めることはできるわ」
男は足を止めた。
「でも、記録を消すことはできない」
ドアが閉まった。
鍵が掛かった。
エヴリンは椅子にもたれた。
両手が震えていた。
それが嫌だった。
だが、彼女はまだ考えられた。
まだ覚えていた。
まだ拒否できた。
今は、それだけでも意味があった。
◇ ◇ ◇
ダニエル・マーサーは警察の面談室に座り、一枚の写真を見つめていた。
ノースブリッジの建物の前で、エヴリンと並んで写っている。
二人とも若かった。
幸せそうだった。
そして、すべてがこれほどひどい方向へ進むとは、夢にも思っていなかった。
マーラが向かいに座った。
「この場所に見覚えは?」
彼女は私設研究アーカイブの写真を見せた。
ダニエルはじっくり見た。
「ありません」
「エヴリンは古いグレイハーバーの施設について話したことがある?」
彼は眉をひそめた。
「名前を出したことはありません」
「保管された研究資料については?」
ダニエルは考えた。
そして表情が変わった。
「一度、古い録音について話していました」
マーラは身を乗り出した。
「どんな?」
「過去のコミュニケーション研究です。音声モデルとか、会話の欠けた部分を再構築する技術とか」
「録音の出所は?」
「わかりません」
「ハルデンの名前は出た?」
ダニエルはためらった。
「はい」
マーラは待った。
「彼には、誰にも消させようとしない録音のコレクションがあるって」
「何の録音?」
「わかりません」
ダニエルは視線を落とした。
「姉は、彼がその録音を、まるでまだ生きているもののように扱っていると言っていました」
マーラの表情が引き締まった。
「どういう意味か説明していた?」
「いいえ」
彼は唾を飲み込んだ。
「ただ、誰かを覚えていることと、その人を作り直すことの違いを受け入れられないんだ、と」
◇ ◇ ◇
シトロンシティ総合病院では、アニカ・シャー医師がエリオット・マーローの回復記録を確認していた。
体調は改善していた。
睡眠はまだ不規則だった。
知らない相手から携帯電話にメッセージが届くと、不安を感じることもあった。
彼が経験したことを考えれば、無理もなかった。
だが、メッセージの正体は依然としてわかっていなかった。
エリオット
最後の言葉を見つけました
ストップ
それがあなたの望みですか?
確認してください
そして後日。
私たちは待っています
彼は一度も返信していなかった。
一度も。
シャー医師が隣に座った。
「気分はどう?」
「よくなってます」
「眠れてる?」
「少しは」
「新しいメッセージは?」
「ありません」
彼女はうなずいた。
「よかった」
エリオットは窓のほうを見た。
「僕が返事するのを待っていると思いますか?」
シャー医師は答えを考えた。
「誰が送ったのか、まだわからないのよ」
「わかってます」
「あなたを怖がらせるために、誰かが意図的に送った可能性もあるわ」
彼はうなずいた。
「それもわかってます」
彼女は身を乗り出した。
「誰が送ったにせよ、あなたには答える義務はないの」
エリオットは黙った。
それから、かすかに笑った。
「皮肉ですね」
「何が?」
「本来、この研究全体が理解するべきだったことです」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、エレナのもとにキランからメッセージが届いた。
短いものだった。
キラン:俺の椅子がまた一つ試験に合格した。
彼女は返信した。
エレナ:飛んだの?
キラン:いや。
エレナ:じゃあ、まだ感心しないわ。
キランは画面を見つめた。
「うわあ」
マッハのアイコンが現れた。
「彼女は冗談を言っています」
「わかってるよ」
キランは入力した。
キラン:統合制御検証に合格したんだ。
エレナ:車椅子におめでとうって伝えて。
マッハが口を開いた。
「私は高度な車椅子システムと統合された人工知能です」
キランは笑った。
そのまま返信を入力した。
キラン:マッハが、自分はただの車椅子じゃなくてAIだって言ってる。
少しして。
エレナ:いかにも車椅子が言いそうなことね。
キランは吹き出した。
マッハは黙っていた。
そして――
「彼女の主張には、反論が困難です」
キランはさらに大笑いした。
◇ ◇ ◇
グレイハーバー・バイオメディカル・ホールディングスでは、ヴィクター・ハルデンが一人でオフィスに座っていた。
クララの写真は、変わらず机の上にあった。
その隣には、古いデジタル録音機。
彼はそれを手に取った。
裏返した。
そしてボタンを押した。
若い女性の声が部屋に響いた。
「お父さん、毎週末ずっと仕事してちゃ駄目だよ」
ヴィクターは目を閉じた。
若いころの自分の声が答えた。
「誰かがお前の高価な音楽趣味の費用を払わないとな」
クララが笑った。
「私の音楽の趣味は最高なの。お父さんの冗談がひどいだけ」
ヴィクターは微笑んだ。
あの日を覚えていた。
天気も。
コーヒーの香りも。
キッチンの窓から差し込む日差しも。
すべてがあまりにも当たり前だったことを覚えていた。
そんな平凡な瞬間が、いつか自分の持つ最も貴重なものになるなど、想像もできなかった。
録音が終わった。
沈黙が戻った。
ヴィクターはもう一度再生した。
「お父さん、毎週末ずっと仕事してちゃ駄目だよ」
彼は耳を傾けた。
そして停止した。
視線が私用端末へ向いた。
新しいメッセージが届いていた。
私設アーカイブ状態照会
GH-PRIVATE-04
物理的な保管目録:利用可能
デジタルアーカイブの状態:未確認
アクセスには認証が必要
ヴィクターは眉をひそめた。
彼は入力した。
誰がアクセスを要求した?
返事が届いた。
外部からのアクセスは確認されていません。
彼はクララの写真を見た。
「よかった」
すると、もう一つメッセージが現れた。
警察が過去の不動産関連記録を特定しました。
ヴィクターの表情が硬くなった。
彼は録音機を机に置いた。
そして電話に手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
マーラが令状請求書を確認していると、電話が鳴った。
「エリソンです」
「刑事、私設アーカイブについて進展がありました」
彼女は姿勢を正した。
「どんな?」
「施設管理会社が、そこに過去の研究資料が保管されていることを認めました」
「ほかには?」
「目録の一部に、コミュニケーション・モデル研究への言及があります」
「具体的なプロジェクト名は?」
「まだです」
マーラはうなずいた。
「続けて」
分析官は言った。
「それから、今まで見たことのない記録分類があります」
「何?」
「個人継続性アーカイブです」
マーラは眉をひそめた。
「個人?」
「はい」
「どういう意味?」
「わかりません。あくまで保管分類であって、実際の内容を証明するものではありません」
マーラは額を押さえた。
「でしょうね」
分析官はためらった。
「過去の目録参照に、一人の名前があります」
マーラは顔を上げた。
「誰?」
「クララ・ハルデンです」
沈黙。
そしてマーラは静かに言った。
「全部送って」
◇ ◇ ◇
回収された目録は不完全だった。
機器の参照番号。
保管分類。
古いプロジェクト識別子。
そして、いくつかのファイルの説明。
その中に、一つだけ目を引くものがあった。
GH-PRIVATE-04
個人継続性アーカイブ
対象参照:クララ・ハルデン
元資料:過去の音声録音
処理分類:会話再構築
現在の起動状態:不明
マーラは文書を見つめた。
何を示唆しているのかはわかった。
同時に、何を証明していないのかも。
クララの意識が保存された証拠ではない。
アーカイブに稼働中の会話システムが存在する証拠でもない。
シナプスと接続されたことを示す証拠でもない。
まして、録音から人間そのものを再構築できるという証拠ではなかった。
だが、一つだけ重要なことがわかった。
ハルデンがコミュニケーションの再構築に関心を持ったのは、プロジェクト・シナプスが始まるずっと前だった。
マーラはファイルに添付された写真を見た。
クララ・ハルデン。
笑顔だった。
生きていた。
父親が後に資金提供することになる、あらゆる機械とは無関係に存在していた一人の人間。
マーラは写真を見つめた。
そして静かに言った。
「彼女は研究計画じゃなかったのよ」
◇ ◇ ◇
工房では、ナサニエルがその日の診断結果の最終確認を終えていた。
ギアは作業台にもたれていた。
レイモンドは近くに立っていた。
キランは仮設電動車椅子で待っていた。
マッハのアイコンが輝いていた。
ナサニエルは咳払いした。
「再較正後の統合制御検証は合格です」
キランは笑った。
「よし」
「電気的絶縁も引き続き良好です」
「よし」
「構造試験の結果も問題ありません」
「よし」
「緊急安定化ロジックも、ベンチシミュレーションを通過しました」
「よっしゃ!」
ナサニエルが手を上げた。
「ただし――」
キランはうめいた。
「出たよ」
「まだ安全性の総合審査と、制御された移動の許可が必要です」
キランはため息をついた。
「わかってる」
ギアがにやりと笑った。
「慣れてきたな」
「何に?」
「馬鹿なことをしないのに」
キランは彼を見つめた。
「お前に言われた中で、一番優しい言葉かもしれない」
レイモンドが笑った。
マッハが言った。
「大きな成長だと評価します」
キランはディスプレイを指さした。
「お前まで始めるな」
ナサニエルは微笑んだ。
「着実に進んでいますよ」
キランはMACH-01Aを見た。
傷ついた装甲。
交換された部品。
補強された取り付け部分。
もう少しで自分からすべてを奪うところだった車椅子。
彼は微笑んだ。
「ああ」
少し間が空いた。
「本当に、そうだな」
◇ ◇ ◇
その夜、マーラは証拠ボードの前に戻った。
名前が多すぎた。
矢印が多すぎた。
疑問も多すぎた。
だが、事件の全体像は変わり始めていた。
盗まれたシナプティック・コア。
ホローポイント。
CR07-001。
CR07-002。
CR-01。
オブザーバー・ゼロ。
エコーミラー。
CD-PRIORITY-01。
エイドリアン・ケスラー。
エヴリン・マーサー。
アメリア・ヴォス。
ヴィクター・ハルデン。
そして今――
クララ・ハルデン。
マーラは古い私設アーカイブとコンティニュイティ部門の間に線を引いた。
そして手を止めた。
線を見つめた。
それから消した。
まだ早い。
直接のつながりを証明するには、証拠が足りなかった。
代わりに、こう書いた。
過去の研究との関連の可能性――未確認
彼女は一歩下がった。
「これでいい」
携帯電話が振動した。
鑑識チームからのメッセージだった。
ケスラー提出録音:予備鑑定では会議記録と整合。
最終審査は継続中。
続いて、もう一通。
GH-PRIVATE-04:法的な立ち入り手続きを準備中。
マーラはうなずいた。
そのとき、電話が鳴った。
グレイハーバーを担当する刑事だった。
「エリソンです」
「刑事、ハルデンのオフィスから連絡がありました」
マーラは眉をひそめた。
「弁護士から?」
「いいえ」
「誰?」
「秘書です」
「何て?」
少し間が空いた。
「ハルデン博士は、当面の間、対応できないそうです」
マーラの表情が硬くなった。
「対応できないって、どういう意味?」
「わかりません」
「建物を出たの?」
「警備担当者は確認を拒否しています」
マーラは証拠ボードを見た。
「調べて」
◇ ◇ ◇
警察署から遠く離れた場所で、ヴィクター・ハルデンは私用エレベーターに乗り込んだ。
手には小さな革製のケース。
中には、古い記憶媒体がいくつか入っていた。
紙のノート。
そして写真。
クララ。
エレベーターが下降する間、彼は黙って立っていた。
携帯電話が振動した。
経営幹部警備部門
警察からの照会が継続中。
私設アーカイブの所在地が特定される可能性あり。
ヴィクターは返信した。
アクセス記録を準備せよ。
続けて、もう一通。
資料は一切破棄するな。
彼は少し間を置いた。
数秒間、画面を見つめた。
そして最後の指示を入力した。
私が到着するまで、必要不可欠な者以外のアクセスを制限せよ。
エレベーターのドアが開いた。
外には車が待っていた。
ヴィクターは夜の闇へ歩き出した。
◇ ◇ ◇
私設アーカイブは、市の北側に広がる工業地区のさらに向こうにあった。
何の変哲もない建物だった。
二階建て。
コンクリートの壁。
少ない窓。
警備用のフェンス。
その内部に、何年分もの悲しみと、何百万ドルもの研究費が保管されているとは、とても思えなかった。
ヴィクターの車がゲートに近づいた。
警備員が前へ出た。
窓が下がる。
「こんばんは、博士」
ヴィクターはうなずいた。
「地下アーカイブに誰か入ったか?」
「最後の正式な点検以降、誰も入っていません」
「警察からの問い合わせは?」
「この施設には、直接はありません」
ヴィクターは建物を見た。
「ゲートを開けろ」
警備員はためらった。
「博士、警備室から、通常と異なるアクセスはすべて記録するよう指示されています」
ヴィクターは彼を見た。
「なら、記録しろ」
警備員はうなずいた。
「承知しました」
ゲートが開いた。
車が進んだ。
◇ ◇ ◇
建物の内部では、照明が区画ごとに点灯した。
ヴィクターは長い廊下を歩いた。
保管室を通り過ぎる。
古い研究機器が並ぶ棚を通り過ぎる。
すでに存在しない研究計画のラベルが貼られた、密閉キャビネットを通り過ぎる。
廊下の突き当たりには、補強されたドアがあった。
彼は認証カードを読み取り機にかざした。
GH-PRIVATE-04
個人継続性アーカイブ
認証済み利用者:V. HALDEN
鍵が外れる音がした。
ヴィクターは中に入った。
部屋は冷たかった。
静かだった。
壁には、何列もの保管装置が並んでいた。
保護カバーの掛かったワークステーションがいくつかあった。
部屋の隅には、古い音響試験ブース。
そして中央には、簡素なラベルが貼られたキャビネットがあった。
CLARA
ヴィクターは立ち止まった。
その瞬間、彼は経営幹部には見えなかった。
研究者たちに命令し、部門全体に圧力をかけてきた男にも。
ただ、捨てられない思い出でいっぱいの部屋に立つ、年老いた父親に見えた。
彼はキャビネットに近づいた。
その表面に手を置いた。
そして、ささやいた。
「来たよ」
返事はなかった。
ヴィクターはキャビネットを開いた。
中には、丁寧に整理された記憶媒体が収められていた。
デジタル録音。
文字起こし。
研究ノート。
そして、封印されたアーカイブ・モジュール。
ケースにはラベルが貼られていた。
クララ――継続性アーカイブ
実験用会話モデル
本人による承認:確認されず
現在の稼働状態:未確認
ヴィクターはそのラベルを見つめた。
顎がこわばった。
以前にも見た言葉だった。
研究者たちが、どうしても必要だと主張したものだった。
彼らはモデルをクララと呼ぶことを拒否した。
生成された出力を、彼女自身の発言として説明することも拒否した。
録音の集合から、新たな会話への本人の同意が証明できると主張することも拒否した。
ヴィクターは、その制限が大嫌いだった。
今でもそうだった。
彼は封印されたモジュールを手に取った。
それから、古い音響ブースへ視線を向けた。
ガラス扉には、色あせたメモが残っていた。
クララの手書きだった。
お父さん――たまには家に帰ってきてね。
ヴィクターは目を閉じた。
一瞬、手が震えた。
彼女がそれを書いたときを覚えていた。
笑ったことも。
帰ると約束したことも。
彼女が亡くなるずっと前から、破り続けていた約束だった。
彼はささやいた。
「ただ、もう一度だけ話したかったんだ」
沈黙。
彼は再びモジュールを見た。
そして手に持った写真を。
「もう二度と、お前を失わないと約束したんだ」
◇ ◇ ◇
シトロンシティ警察本部で、マーラは最後の報告書を受け取った。
私設アーカイブの過去の研究記録から見つかったものだった。
プロジェクト・シナプスよりも古い文書。
エコーミラーよりも古い。
オブザーバー・ゼロよりも古い。
表題は簡潔だった。
クララ――継続性アーカイブ
その下には、実験の目的が記されていた。
過去のコミュニケーションデータに基づき、会話モデルがもっともらしい応答を生成できるか評価する。
マーラは読んだ。
そして次の一行を見た。
モデルの出力を、本人によって確認されたコミュニケーションとして提示してはならない。
彼女は動きを止めた。
そこにあった。
同じ境界線。
同じ区別。
同じ警告。
エレナ・モリスがプロジェクト・シナプスに参加する何年も前から。
シナプティック・コアが盗まれる何年も前から。
ホローポイントが存在する何年も前から。
誰かがすでに、ハルデンが後に破壊することになる原則を書き残していたのだ。
再構築されたものは、本人ではない。
予測は、許可ではない。
生成された声は、誰かが実際に話した証拠ではない。
マーラは文書を閉じた。
証拠ボードを見た。
ハルデンの写真。
クララの名前。
そして、一人の男の悲しみが、ほかの人々の同意を無視する研究計画へと変わっていった、長い決断の連鎖。
彼女は電話を手に取った。
「私設アーカイブを担当しているチームにつないで」
少し間が空いた。
「令状の手続きを急ぐ必要があると伝えて」
彼女は窓の外を見た。
シトロンシティには夜が訪れていた。
街の明かりの向こうのどこかで、ヴィクター・ハルデンは、何年も前に終わった会話を今も保存しようとしていた。
そしてマーラは、あることを理解し始めていた。
プロジェクト・シナプスの最も危険な点は、機械が話すのをやめなくなるかもしれないことではなかった。
それを制御する人間たちが、他人の言葉に耳を傾ける必要などないと決めてしまったことだった。
◇ ◇ ◇
私設アーカイブの内部で、ヴィクター・ハルデンは封印されたモジュールの前に立っていた。
彼はまだ、どこにも接続していなかった。
まだ。
ただ、手に持っているだけだった。
冷たい金属が、両手のひらに触れていた。
ケースの縁には、小さな文字が刻まれていた。
継続性は、同一性ではない。
ヴィクターはその言葉を見つめた。
反論したことを覚えていた。
研究の最終発表資料から削除するよう要求したことも。
主任研究者が拒否したことも。
そして何年も経った今も、その言葉は残っていた。
彼はモジュールを下ろした。
部屋の向こうには、古い録音機が棚に置かれていた。
ヴィクターはそこへ歩いていった。
再生ボタンを押した。
クララの声が部屋に響いた。
「お父さん、毎週末ずっと仕事してちゃ駄目だよ」
彼は悲しげに微笑んだ。
録音が続いた。
「誰かがお前の高価な音楽趣味の費用を払わないとな」
クララが笑った。
「私の音楽の趣味は最高なの。お父さんの冗談がひどいだけ」
そして、録音が終わった。
ヴィクターは待った。
部屋は静かなままだった。
彼はもう一度再生した。
同じ会話。
同じ笑い声。
同じ結末。
彼は録音機を見つめた。
そして、ささやいた。
「頼む……」
声が震えた。
「今度は、違うことを言ってくれ……」
だが、録音機は何も言わなかった。
言えるはずがなかった。
そしてヴィクター・ハルデンは、何年ぶりかに、自分の財産も、権力も、技術も、決して本当の意味では打ち破れなかった沈黙と向き合っていた。




