許可
しばらく――
誰も口を開かなかった。
病室の窓の向こうでは、街の明かりが輝いている。
空には――
朝の気配が少しずつ現れ始めていた。
金色の朝日が、遠くの屋根を照らしていく。
新しい一日。
新たな始まり。
いつものキランなら――
きっとその景色を眺めていただろう。
でも今日は。
ほとんど目に入らなかった。
彼の意識は――
母親だけに向けられていた。
なぜなら。
彼女の答えは重要だったから。
誰の答えよりも。
ギアより。
レイモンドより。
自分自身よりも――
ずっと。
スザンヌは自分の手を見つめた。
考えている。
思い返している。
そして――
決めようとしていた。
今、自分は母親として話すべきなのか。
それとも――
息子を理解する一人の人間として話すべきなのか。
残念ながら。
その二つが――
いつも同じ答えになるとは限らなかった。
「私は……嫌よ」
その言葉は静かだった。
正直で。
迷いがない。
キランは頷いた。
「わかってる」
「何もかも嫌」
「うん」
「あなた……死ぬところだったのよ」
病室が静まり返った。
それについては――
返す言葉がなかった。
本当に。
キランにも反論できない。
言い訳もできない。
違ったことにすることもできない。
彼は――
本当に死にかけた。
スザンヌはゆっくり息を吐いた。
そして。
息子をまっすぐ見る。
「それでも……続けるつもりなのね」
質問ではなかった。
キランは頷いた。
「うん」
躊躇はない。
迷いもない。
疑いもない。
ただ――
確信だけがあった。
スザンヌは悲しそうに微笑んだ。
親だけが浮かべるような――
そんな笑顔。
答えを聞く前から。
もうわかってしまっている時の笑顔。
現実と戦うことをやめた時の笑顔。
そうしたかったからではない。
そうするしか――
なかったから。
「昔から頑固だったものね」
キランは笑った。
「ギアにも言われるよ」
「あなたたち二人とも手に負えないもの」
ギアが即座に不満そうな顔をした。
「ちょっと待て。俺は――」
「いいえ」
「……はい」
レイモンドまで笑った。
張りつめていた空気が――
ようやく少しだけ和らいだ。
そして。
スザンヌは身を乗り出した。
優しく。
キランの肩へ手を置く。
「もし本当にやるつもりなら……」
キランは息を止めた。
「……正しいやり方でやりなさい」
キランの目が見開かれた。
病室が静まり返る。
とても――
静かに。
誰も。
そんな答えを予想していなかった。
キラン自身でさえ。
いや。
キランこそ――
一番予想していなかった。
「それって……」
スザンヌは頷いた。
「あの二人の正体を暴くつもりなら……」
その表情が厳しくなる。
「……あなたが正しいということを、ちゃんと確かめなさい」
その言葉は――
これまで彼女が言ったどんな言葉よりも強く響いた。
なぜなら。
本当に大切なのは――
そこだったから。
勇気ではない。
決意でもない。
責任。
真実。
証拠。
「誰かを怪物だと告発するなら……」
スザンヌの視線は息子から離れない。
「……本当にその人が怪物なのか、確信を持ってからにしなさい」
キランはゆっくりと頷いた。
「わかった」
倉庫での出来事以来――
初めて。
キランは少しだけ肩の荷が下りたように感じた。
嬉しいわけではない。
安心したわけでもない。
ただ――
少しだけ。
軽くなった。
なぜなら。
ようやくわかったから。
母親は――
理解してくれた。
完全ではないかもしれない。
すべてを理解したわけでもないかもしれない。
それでも。
十分だった。
息子を信じるには。
挑戦することを許すには。
そして今のキランにとって――
それは何よりも大きな意味を持っていた。
部屋の反対側では。
マッハが珍しく静かにしていた。
とても珍しい。
むしろ――
怪しいほどに。
普段のヴェントなら。
どんな会話にも最低三つくらいは口を挟む。
大抵は皮肉。
大抵は余計。
そして大抵――
その両方。
でも今日は。
何もない。
キランはすぐに気づいた。
「マッハ?」
ヴェントが瞬きをする。
ゆっくりと。
『……はい?』
「静かだな」
『現在、回復中ですので』
「そういう意味じゃない」
マッハは目を逸らした。
普段なら――
まずしない仕草。
だからこそ。
余計に気になった。
損傷したヴェントは診断ディスプレイへ視線を向ける。
画面の一部が――
今も赤く表示されていた。
破損。
欠損。
消失。
マッハは何時間も――
そこを見続けていた。
誰も見ていない時に。
誰にも気づかれていないと思っている時に。
残念ながら――
キランは気づいていた。
「どうした?」
ヴェントが躊躇する。
マッハにしては――
珍しい。
そして。
ようやく答えた。
『何かを……失ったような気がします』
病室が再び静かになった。
恐怖ではない。
パニックでもない。
ただ――
心配。
「どういう意味?」
マッハは破損した領域を見る。
失われた記憶の部分を。
そして――
キランへ視線を戻した。
『空白があります』
声が小さくなる。
『本来なら、そこに何かがあるはずだとわかるんです』
少し間を置く。
『でも……何もない』
キランの胃が締めつけられた。
突然――
問題が現実になった。
診断結果ではない。
パーセンテージでもない。
コンピュータ上のデータでもない。
現実。
「どんな記憶?」
マッハは目を閉じた。
探す。
思い出そうとする。
必死に。
そして――
失敗する。
『……わかりません』
その答えは。
なぜか――
何よりも恐ろしかった。
もし何を失ったのかわかっていれば。
取り戻せるかもしれない。
修復できるかもしれない。
でも。
失ったものが何なのかさえ――
思い出せないのなら。
どうやって。
何が消えたのかを知ればいい?
目を覚ましてから初めて――
キランは再び恐怖を感じた。
ホイーラーズに対してではない。
オーガニゼーションに対してでもない。
未来に対してでもない。
忘れてしまうことに――
恐怖を感じた。




