純化協定の崩壊
火曜日――午前1時18分
エコー・ヴェイル災害復旧施設内で稼働しているすべてのモニターに、警告が表示された。
【リヴァース安全装置――終了処理待機中】
【幹部権限:A・ヴォス】
【第二再認証:97%】
レイモンド・ハリソンは画面を見つめた。
地下施設に足を踏み入れて以来、ダニエル・リヴァースがもう少し単純な装置を設計してくれていればよかったのにと、初めて思った。
彼は西側隔離機構のハンドルを強く握りしめた。
「マーカス!」
マーカス・ヘイル博士の声が無線機から響いた。
『ここにいる!』
「まだ止められると言ってくれ!」
ヘイルは中央コンソールを調べた。
『安全装置はまだ有効だ! だが、ヴォスが認証処理を終了させようとしている!』
ワイルダー巡査はレイモンドの隣で、重い機械式ハンドル車に寄りかかった。
「それって、まずいですよね?」
レイモンドは彼を見た。
「非常にまずい」
「素晴らしい。念のため確認しただけです」
ギアの工房では、キラン・キリアンが終了命令を調べていた。
携帯ディスプレイ上で、マッハの紫色のアイコンが点滅した。
「幹部による上書き要求が、安全装置の検証待機列に入りました」
キランは眉をひそめた。
「検証待機列?」
ナサニエル・ブルックスが技術資料を拡大した。
「ちょっと待って」
キランは彼を見た。
「何?」
「ダニエルが設計した元の安全装置は、幹部認証システムに直接接続されていなかったんだ」
マッハがその発見を確認した。
「そのとおりです。幹部命令が機械式隔離手順に影響を与えるには、独立した現地制御装置による検証を受けなければなりません」
キランの目が大きくなった。
「つまり、ヴォスはすぐには停止させられない」
「そのとおりです」
「どれくらい時間がある?」
ナサニエルは状態表示を調べた。
「長くはないよ」
キランはマイクに身を乗り出した。
「レイモンド、よく聞いて。ヴォスはまだ安全装置を停止させていない。命令は別の検証処理を通らなきゃいけないんだ」
レイモンドは警告表示をちらりと見た。
「つまり、まだ時間があるのか?」
「少しだけ」
「どれくらい少しなんだ?」
キランはためらった。
「ワイルダーの演説をもう一回聞いてる暇はないくらい」
ワイルダーは心外そうな顔をした。
「僕の演説は人を奮い立たせるんですよ」
レイモンドは思わず微笑んだ。
「なら、勝利の祝賀会まで取っておけ」
ヘイルの声が割り込んだ。
『全員、機械式制御の準備は整った。同期処理を開始したら、十秒以内に両方の隔離装置を作動させなければならない』
レイモンドはハンドル車に体重をかけた。
「西側、準備完了」
ヴェインの声が聞こえた。
『東側も作動準備状態ですが、部下たちはまだ機構から隔てられています』
ヘイルは古い点検用連結機構を見た。
『ここから操作できる』
キランは図面を確認した。
「マッハ?」
「位置合わせは許容範囲内です」
ナサニエルは身を乗り出した。
「幹部の上書き処理が進んでる」
【安全装置終了命令の検証:41%】
キランは唾を飲み込んだ。
「マーカス、始めて」
ヘイルは中央コンソールに手を置いた。
一瞬、ダニエルの認証キーを見つめた。
そして機械式の解除ボタンを押した。
【二地点隔離シーケンス開始】
【同期猶予時間:10秒】
「今だ!」
レイモンドとワイルダーが西側のハンドル車を回した。
ギギギギッ!
機構が激しく抵抗した。
ワイルダーは歯を食いしばった。
「動け、この忌々しいポンコツ――!」
ガコンッ!
【西側隔離:作動】
「西側、作動完了!」とレイモンドが叫んだ。
中央コンソールでは、ヘイルが点検用ハンドルをつかんだ。
引いた。
何も起こらなかった。
さらに強く引いた。
金属製のロッドが震えた。
ギギギギッ!
【機械的負荷警告】
キランは表示を見つめた。
「マーカス、真下に引っ張らないで! 先に少し壁のほうへ回して!」
ヘイルは握り方を変えた。
連結機構が動いた。
残り8秒。
7秒。
ヘイルは力を込めた。
「頼む!」
6秒。
ロッドが動き始めた。
5秒。
鋭い金属音が室内に響いた。
ヘイルは危うく手を滑らせそうになった。
4秒。
「マーカス!」とレイモンドが叫んだ。
ヘイルは足を踏ん張った。
そして最後の力を振り絞り、ハンドルを所定の位置まで引いた。
ガチャンッ!
【東側隔離:作動】
【同期成功】
施設全体が揺れた。
床下から深い機械振動が伝わってきた。
非常灯がちらついた。
そして、すべてのモニターに表示されていた第二制御装置の進行状況が変化した。
【第二再認証:99%】
【現地送信:中断】
レイモンドはハンドル車から手を離した。
ワイルダーはよろめきながら後ずさった。
「やりました?」
ヘイルはコンソールを見つめた。
「まだだ!」
新しいメッセージが現れた。
【物理認証の最終確認が必要】
ヘイルはダニエルのキーに手を伸ばした。
工房では、マッハのアイコンが点滅した。
「キラン、幹部の終了要求が検証完了に近づいています!」
【安全装置終了命令の検証:93%】
キランは身を乗り出した。
「マーカス、キーを回して!」
ヘイルは金属製のハンドルを握った。
カチッ!
何も起こらなかった。
さらに回した。
ギギギッ!
コンソールが赤く点滅した。
【認証競合を検知】
ヘイルの胸に嫌な予感が広がった。
「そんな……」
キランは警告を見つめた。
「何が起きたの?」
ヘイルは機構を調べた。
「幹部命令が確認処理に干渉している!」
ナサニエルは技術記録を開いた。
「待って! ダニエルは物理的な緊急認証中に競合する幹部命令を拒否するよう、安全装置を設計している!」
キランは彼を見た。
「なら、どうして拒否しないの?」
マッハがメッセージを解析した。
「両方の隔離機構が機械的に固定されたという確認が、まだ届いていないためです」
レイモンドは西側の表示を見た。
「こっちは固定されてるぞ!」
ヘイルは東側の状態を確認した。
表示灯が琥珀色と緑色の間でちらついていた。
「点検用連結機構が完全にはまっていない!」
キランは無線機を起動した。
「マーカス、あと一センチだけ押し込んで!」
ヘイルは曲がった金属製のロッドを見つめた。
「そんなことをしたら折れるかもしれない!」
キランは進行状況を見た。
【安全装置終了命令の検証:98%】
彼は息を吸った。
「なら、一発で決めて!」
ヘイルは目を閉じた。
一瞬、何十年も前に同じ施設に立っていたダニエル・リヴァースの姿が脳裏に浮かんだ。
若い男だった。
頑固な技術者だった。
安全とは人々を支配することではなく、守ることだと信じていた。
ヘイルは目を開いた。
「わかったよ、ダニエル」
ハンドルを強く握った。
「これで最後だ」
バキィッ!
ロッドが動いた。
【東側隔離:機械的固定完了】
【幹部終了要求:拒否】
【物理認証:承認】
中央コンソールが緑色に輝いた。
【リヴァース安全装置:作動】
【現地継続運用強制:停止】
【第二制御装置:隔離完了】
床下の機械がゆっくりと停止し始めた。
赤い警告灯が一つ、また一つと消えていった。
レイモンドは動かなかった。
やがて、ゆっくりと無線機を下ろした。
「マーカス?」
ヘイルは画面を見つめた。
かすかな笑みが浮かんだ。
「やったぞ」
ワイルダーは両腕を突き上げた。
「やったあああ!」
彼の歓声が地下室に響き渡った。
レイモンドは笑った。
その夜初めて、自然に笑うことができた。
ギアの工房――午前1時27分
キランは確認メッセージを見つめていた。
【現地送信:中断】
【リヴァース安全装置:作動中】
ナサニエルは椅子にもたれた。
「危なすぎたよ……」
マッハのアイコンが現れた。
「同感です」
キランは微笑んだ。
「見てよ。僕たち、珍しく意見が一致した」
「そのような事例はまれですが、前例がないわけではありません」
ギアが整備台から近づいてきた。
「やったのか?」
キランはうなずいた。
「現地の制御装置は隔離されたよ」
ギアは満面の笑みを浮かべた。
「スナット!」
キランは笑った。
「いいスナット?」
「最高のスナットだ!」
数秒間、工房の空気が軽くなった。
レイモンドは生きていた。
ヘイルはダニエルの安全装置を作動させた。
第二制御装置は隔離された。
そしてヴォスによる停止命令は失敗した。
キランはMACH-01Aへ視線を向けた。
紫色のシャーシは、工房の照明の下で分解されたままだった。
冷却装置には大規模な修理が必要だった。
推進装置も接続されていなかった。
街の上空へ突然飛び立つことなどできない。
戦場へ劇的に復帰することもない。
それでもキランは、一度も仮の電動車椅子から離れることなく、制御装置の停止に貢献した。
彼は再びモニターへ目を向けた。
「もしかしたら、僕がどこにでも駆けつける必要はないのかもね」
マッハのアイコンが明るくなった。
「重要な気づきですね」
キランは微笑んだ。
「感傷的になるのはやめてよ」
「決してそのようなことはありません」
そのとき、ナサニエルの表情が変わった。
「あれ……?」
キランは振り返った。
「何?」
ナサニエルは別のネットワーク接続を調べていた。
「何かおかしい」
キランの笑みが消えた。
「どんなふうに?」
ナサニエルは送信経路図を拡大した。
エコー・ヴェイル施設の外へ、いくつもの細い接続線が伸びていた。
一部は停止していた。
ほかの接続は、まだ利用可能な状態だった。
そして、そのうちの一つが新しい認証要求を受信していた。
マッハは通信の解析を始めた。
「外部幹部通信を検知しました」
キランは眉をひそめた。
「どこから?」
「独立した地域中継装置です」
ナサニエルは身を乗り出した。
「でも、現地の制御装置は隔離されてるはずだよ」
マッハは少し間を置いた。
「それによって、すでに外部システムへ配布された認証情報まで無効になるとは限りません」
キランは画面を見つめた。
「つまり?」
ナサニエルは唾を飲み込んだ。
「ヴォスには、まだ命令を送る方法が残っているかもしれない」
エイドリアン・ヴォスの執務室――午前1時32分
エイドリアン・ヴォスは、身動き一つせずに立っていた。
メインモニターには、幹部による終了要求の失敗が表示されていた。
【リヴァース安全装置:作動】
【第二制御装置:隔離完了】
数秒間、彼は何も言わなかった。
そして、ゆっくりと眼鏡を外した。
机の上に置いた。
画面を見つめた。
「ダニエル……」
その名前は、ほとんどささやき声だった。
三十一年。
エコー・ヴェイルの元の継続運用システムが承認されてから、三十一年が経っていた。
ダニエル・リヴァースが、独立した監督なしに幹部権限で基本的な保護措置を無効化できるようにしてはならないと主張してから、三十一年。
ヴォスは、その安全装置を障害物だと考えていた。
官僚的な不便さ。
権力を行使する勇気のない人間が押しつけた技術的制約。
そして今、数十年の時を経て、その同じ技術者が彼を打ち負かした。
死してなお。
ヴォスは歯を食いしばった。
「いや……」
彼は幹部用端末を再び開いた。
現地の制御装置は使用できなくなっていた。
施設の警備ネットワークは分断されつつあった。
ヴェインは裏切った。
警察は証拠を保全した。
そして街では、純化協定の権威に疑問を抱く人々が増え始めていた。
だが、システムは一つの施設だけを中心に構築されたわけではない。
ヴォスはアクセス制限のかかった管理ディレクトリを開いた。
【幹部継続運用予備系統】
【外部認証中継装置】
【地域強制執行機能】
ヴォスは微笑んだ。
「まだ終わっていない」
彼は予備中継装置を選択した。
警告が現れた。
【注意:外部中継装置の運用により、現地安全装置の状態を迂回する可能性があります】
【地域システムとの互換性は保証されません】
【制御不能な配布が発生する可能性があります】
ヴォスは警告を閉じた。
「許容範囲だ」
認証情報を入力した。
【幹部認証:確認】
新しい命令画面が開いた。
ヴォスは画面に身を乗り出した。
「地域強制執行を開始しろ」
エコー・ヴェイル――西側警備連絡路――午前1時39分
ヴェイン司令官は、施設の非常灯が赤から琥珀色へ変わるのを見つめていた。
機械の振動は止まっていた。
警察がエコー・ヴェイルに突入して以来、地下施設は初めて静けさを取り戻したように感じられた。
技術者が携帯端末を調べた。
「第二制御装置が隔離されました」
ヴェインは息を吐いた。
「ハリソンが成功したのね」
「はい、司令官」
彼女は封鎖された防爆扉を見た。
一瞬、この先に何が待っているのかを考えた。
警察は捜査を始めるだろう。
自分の指揮判断は調査されるだろう。
純化協定の活動が公になるだろう。
そして、自分が執行を支えてきた組織は、生き残れないかもしれない。
無線機から雑音が響いた。
『ヴェイン司令官』
彼女はすぐに声の主を認識した。
「ソーレン中尉」
『新たな幹部命令を受信しました』
ヴェインは眉をひそめた。
「ヴォスから?」
『はい』
「内容は?」
ソーレンはためらった。
『あなたを指揮官として不適格と判断したそうです』
ヴェインの表情が険しくなった。
「驚くほど予想どおりね」
『残っている忠実な隊員全員に、あなたを拘束するよう命じています』
技術者が顔を上げた。
ヴェインは短く目を閉じた。
そして再び開いた。
「中尉、よく聞きなさい。第二制御装置は隔離されました。差し迫った脅威は止められたのです」
ソーレンは黙っていた。
「警察はすでに施設内にいます。これ以上戦っても、何も得られません」
『司令官……』
「何です?」
『あなたの言葉を信じない隊員もいます』
ヴェインは暗い通路を見た。
「なら、自分たちで記録を調べるよう伝えなさい」
少し間が空いた。
『ヴォス氏は、警察が緊急ネットワークを破壊したと言っています』
ヴェインは乾いた笑いを漏らした。
「当然そう言うでしょうね」
『あなたが警察に協力して純化協定を破壊しようとしているとも』
ヴェインの表情が変わった。
しばらく、何も言わなかった。
そして静かに答えた。
「もし、今夜ヴォスがしたことをしなければ存続できない組織なのだとしたら……」
彼女は言葉を切った。
「そんな組織は、崩壊するべきなのかもしれません」
技術者は彼女を見つめた。
ソーレンは沈黙したままだった。
やがて彼が口を開いた。
『司令官、ご命令は?』
ヴェインは残っている部下たちを見た。
「戦闘を停止しなさい。武器を警察に引き渡すのです。支援を必要としている人がいれば保護しなさい」
『警察官であっても、ですか?』
「負傷者であれば、なおさらです」
ソーレンはためらった。
そして答えた。
『了解しました』
シトロンシティ警察・移動指揮所――午前1時46分
マーラ・エリソン刑事は、最新の証拠資料を調べていた。
ナサニエルとマッハは、ヴォスが元の記録を削除する前に、幹部アーカイブから複数の認証済み記録を保全していた。
その中には、今回の危機より何年も前に作成された内部覚書があった。
【エコー・ヴェイル継続運用システム】
【改訂08――幹部承認】
【承認権限:A・ヴォス】
【技術審査:免除】
【現地同意確認:任意】
【自治体監督:幹部による迂回を許可】
エリソンは慎重に文書を読んだ。
添付資料には、ダニエル・リヴァースによる技術的な異議申し立てがあった。
そこには、独立した認証確認を取り除けば、利用者の知識や同意なしに継続運用システムが移動機器へ干渉できるようになる危険性が指摘されていた。
その後の記録には、その異議申し立てが却下されたことが示されていた。
エリソンは椅子にもたれた。
「なるほどね」
アダムが顔を上げた。
「何です?」
「承認の履歴が見つかったわ」
「ヴォスが改修を承認したんですか?」
「記録によれば、彼の幹部プロファイルが承認し、技術審査を免除している」
アダムは眉をひそめた。
「リヴァースが警告したあとでも?」
「ええ」
彼は画面を見た。
「なら、事故じゃなかったんですね」
エリソンは答えを慎重に選んだ。
「危険な機能が意図的に承認されたことはわかる。でも、それだけで今夜の攻撃に関わった全員の意図まで証明できるわけじゃない。それでも、証拠のつながりはずっと強くなったわ」
アダムはうなずいた。
「次は?」
「記録を保全し、証拠の管理履歴を確立して、関与した人物を一人ずつ特定する」
彼女は無線機を起動した。
「レイモンド、エリソンよ」
彼の声が返ってきた。
『どうぞ』
「ダニエルが反対していた改修と、ヴォスの幹部権限を結びつける記録を保全したわ」
レイモンドはしばらく黙っていた。
そして答えた。
「ダニエルは正しかった」
エリソンは画面を見た。
「何について?」
「彼が恐れていたこと、すべてについてだ」
エコー・ヴェイル――中央隔離室――午前1時53分
レイモンドはヘイルの隣に立っていた。
年老いた技術者は、ようやく整備用ベンチに腰を下ろしていた。
疲労で両手が震えていた。
ワイルダーが水のボトルを差し出した。
「どうぞ、博士」
ヘイルは受け取った。
「ありがとう」
ワイルダーは損傷した点検用連結機構をちらりと見た。
「あれ、もう少しで真っ二つでしたね」
ヘイルはうなずいた。
「あんな使い方を想定して設計されたものじゃなかったからな」
レイモンドは壁にもたれた。
「俺たちだって同じさ」
ヘイルはかすかに微笑んだ。
「ダニエルなら、その言葉を気に入っただろう」
レイモンドは認証キーへ視線を向けた。
金属製のハンドルは、まだ中央コンソールに差し込まれていた。
何年もの間、ダニエル・リヴァースは記憶の中にしか存在しなかった。
過去から聞こえてくる声。
警告の意味を十分に理解できなかった友人。
だが今、その技術者の仕事が第二の攻撃を防ぐ助けとなった。
レイモンドはコンソールに近づいた。
「お前にも見せたかったよ、古い友よ」
ヘイルが顔を上げた。
「何をだ?」
レイモンドは微笑んだ。
「お前の安全装置が役に立ったところをさ」
ヘイルは緑色の表示灯を見た。
そして首を振った。
「完全には役に立たなかった」
レイモンドは眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「人々は被害を受けた。システムは悪用された。ダニエルの安全装置が機能したのは、それを作動させるために命を懸ける人間がいたからだ」
レイモンドは考え込んだ。
「確かにな」
ヘイルはもう一口、水を飲んだ。
「幹部による権力の乱用を止めるために、誰かが崩れかけた建物の中を進まなければならない。そんな仕組みに、安全が依存していてはいけないんだ」
ワイルダーが指を一本立てた。
「その一文、最終報告書に入れてください」
レイモンドは笑った。
「賛成だ」
無線機から雑音が響いた。
『レイモンド、ヴェインです』
彼の表情が険しくなった。
「どうぞ」
『残っている部下たちに戦闘停止を命じました』
「いい判断だ」
『すでに投降した者もいます』
「なおいい」
少し間が空いた。
『ハリソンさん』
レイモンドは待った。
『私がこんな事態を望んでいたと、本当に思いますか?』
レイモンドはヘイルを見た。
そして損傷した通路を見た。
「お前が人々の移動機器を支配しようとしていたことは確かだ」
ヴェインは答えなかった。
「お前が、障害者を管理すべき問題として扱う組織を支えていたことも確かだ」
『それは私たちが掲げていた目的ではありません』
「なら、自分たちの組織が実際に何をしているのか、もっとよく見るべきだったな」
沈黙。
レイモンドは続けた。
「人々は立ち往生した。危険な場所から動けなくなった人もいる。家族は恐怖に震えた。そしてお前は、それを可能にする手助けをした」
ヴェインの声が少し静かになった。
『規制は必要だと信じていました』
「規制っていうのは、役人が都合のいいときに誰かの移動能力を奪っていいという意味じゃない」
彼女は何も言わなかった。
レイモンドは認証キーをちらりと見た。
「ダニエルは三十年前にそれを理解していた」
ようやくヴェインが答えた。
『なら、彼の異議申し立てをもっと注意深く読むべきでしたね』
レイモンドの表情は厳しいままだった。
「そうだな」
少し間を置いた。
「だが、今になって理解したところで、お前のしたことが消えるわけじゃない」
『わかっています』
レイモンドは部下たちを見た。
「なら、俺たちが到着したら投降しろ」
長い沈黙が続いた。
そしてヴェインは答えた。
『了解しました』
シトロン・アカデミー――午前2時2分
共同声明の準備が整った。
マイケイラは最後の段落を確認し、セリーナは参加団体の一覧を調べていた。
マーガレットは近くに座り、三杯目のコーヒーを飲んでいた。
いや、四杯目かもしれない。
もう数えるのをやめていた。
セリーナはマイケイラを見た。
「準備はいい?」
マイケイラはうなずいた。
「ええ」
彼女は公開ボタンを押した。
数分もしないうちに、声明は広まり始めた。
地元の障害者権利擁護団体が共有した。
地域団体が再投稿した。
独立した技術者たちが修理支援に関する情報を追加した。
被害を受けたVent利用者の家族が、自分たちの経験を語り始めた。
声明は、捜査が完了したとは主張していなかった。
確認されていない証拠について憶測を述べることもなかった。
その代わりに、被害を受けた人々と、同じ攻撃を二度と起こさないために必要な改革に焦点を当てていた。
特に目立つ一段落があった。
移動の自由は、製造業者や企業、政府の役人が与える特権ではありません。それは個人の自由、尊厳、そして社会参加を支える基本的な権利です。
セリーナはその言葉を声に出して読んだ。
そして微笑んだ。
「これよ」
マーガレットはうなずいた。
「看板にして街中に貼りなさい」
マイケイラは笑った。
「たった今、公開したばかりですよ」
「なら、看板を二枚にしなさい」
部屋の反対側では、エリオットが父親のスマートフォンに表示された声明を見ていた。
少年はセリーナを見た。
「これで、もう同じことは起きないの?」
セリーナは慎重に答えを考えた。
「まだ、そうとは言えないわ」
エリオットは残念そうな顔をした。
彼女は続けた。
「でも、二度と起こせないようにするために、たくさんの人が動き始めてる」
少年はうなずいた。
「そっか」
セリーナは微笑んだ。
「それに、偉い人たちが話を聞いてくれなかったら、何度でも伝え続けるわ」
マーガレットはコーヒーカップを掲げた。
「大声でね!」
エイドリアン・ヴォスの執務室――午前2時11分
ヴォスは世間の反応を見つめていた。
純化協定の公式アカウントには、質問が殺到していた。
複数の関連団体が支援の一時停止を発表していた。
地域の移動技術協会は、独立した調査を要求する声明を出していた。
ニュースでは、警察がエコー・ヴェイルへ突入したことが報じられていた。
そして、シトロン・アカデミーから発信された共同声明は急速に広がっていた。
ヴォスの表情は落ち着いていた。
しかし、机の縁をつかむ指には力が入っていた。
準備していた緊急声明は、まだ送信待機状態にあった。
彼は放送インターフェースを開いた。
【公共緊急声明】
【状態:送信準備完了】
配信ネットワークを選択した。
警告が現れた。
【公式緊急認証が必要】
ヴォスは認証情報を入力した。
【認証拒否】
彼は眉をひそめた。
もう一度試した。
【認証拒否】
新しいメッセージが現れた。
【確認手続き完了まで放送配信を制限】
ヴォスは画面を見つめた。
「誰が許可した?」
管理者ディレクトリを開いた。
制限は、警察から不正利用の可能性について通知を受けた緊急通信監督機関によって要求されていた。
ヴォスは歯を食いしばった。
別の経路を試した。
同じ制限が表示された。
追加の確認なしに、準備した声明を正式な緊急指令として自動配信することはできなくなっていた。
通常の手段で公に発言することは、まだ可能だった。
しかし、認証された緊急指令として人々に届けることはできなかった。
ヴォスは机を強く叩いた。
「愚か者どもが!」
窓の向こうの街を見つめた。
「自分たちが何をしているのか、まるでわかっていない!」
そのとき、新しい通知が現れた。
【外部中継認証:承認】
彼の表情が変わった。
ゆっくりと笑みが広がった。
「少なくとも、継続運用の重要性を理解している者はいるようだな」
ギアの工房――午前2時18分
キランは二十分近く、外部中継装置を調べ続けていた。
ナサニエルは隣に座り、ネットワーク識別子をダニエル・リヴァースの保存図面と照合していた。
マッハは地域認証通信をリアルタイムで監視していた。
工房のメインモニターには、枝分かれしたネットワーク図が表示されていた。
一部の接続は、停止した施設につながっていた。
ほかの接続は、地域の災害復旧インフラへ伸びていた。
キランは強調表示された中継装置を調べた。
「互換性のあるシステムがいくつあるか、わかる?」
ナサニエルは首を振った。
「まだわからない。何年も使われていない接続先もあるし、更新されたものもある」
マッハが付け加えた。
「互換性があるからといって、遠隔命令が必ず受け入れられるわけではありません」
キランはうなずいた。
「それでも、わからないことが多すぎる」
「そのとおりです」
ギアが整備台から近づいてきた。
「何が起きてる?」
キランは地図を指さした。
「ヴォスが独立した地域中継装置を使おうとしてるんだ」
ギアは眉をひそめた。
「エコー・ヴェイルは止めたんじゃなかったのか?」
「止めたよ」
ナサニエルは認証履歴を開いた。
「でも、外部中継装置は有効な幹部認証情報をすでに持っていれば、現地の制御装置とは独立して動けるんだ」
ギアは画面を見た。
「まだパージを送れるのか?」
マッハが答えた。
「その可能性はあります。ただし、影響範囲はまだ不明です」
キランは強調表示された接続線を見つめた。
そして身を乗り出した。
「待って」
ナサニエルが彼を見た。
「何?」
「中継装置が命令を送るには、受信先が必要だよね?」
「うん」
「それで、受信側のシステムが命令を受け入れるかどうか判断する」
「そのとおり」
キランはマッハを見た。
「受信準備をしているシステムを特定できる?」
マッハは検索を始めた。
「試みます」
いくつかの表示が変わった。
【地域接続先A――互換性不明】
【地域接続先B――認証要求を検知】
【地域接続先C――停止中】
【地域接続先D――応答なし】
ナサニエルは眉をひそめた。
「接続先Bが応答してる」
キランの表情が険しくなった。
「運営者に連絡できる?」
ナサニエルは登録情報を検索した。
「たぶん。でも管理担当者の連絡先が古いんだ」
キランは無線機を起動した。
「エリソン、助けが必要なんだ」
彼女の声が返ってきた。
『何があったの?』
「独立した地域中継装置を見つけた。ヴォスがそれを使って、街の外に強制執行用の認証情報を配布しようとしてる」
少し沈黙があった。
『送信は始まっているの?』
「まだ。でも、一つの接続先が応答してる」
エリソンの声が鋭くなった。
『技術識別子と運営者に関する情報をすべて送って』
ナサニエルはすぐに記録を送信した。
「今、送ってる」
キランは地図を見た。
「レイモンドは現地の制御装置を止めた。今度はヴォスが予備系統を使えないようにしなきゃ」
エリソンは答えた。
『了解。地域の緊急ネットワーク運営者と連携するわ』
キランは息を吐いた。
「ありがとう」
そのとき、マッハのアイコンが点滅した。
「キラン」
彼は振り返った。
「何?」
「外部中継装置が認証情報の検証を完了しました」
画面が変わった。
【地域強制執行ネットワーク:稼働中】
キランの胃が締めつけられた。
ナサニエルは画面を見つめた。
「まずい……」
エコー・ヴェイル――中央隔離室――午前2時23分
レイモンドがヘイルを避難経路へ案内しようとしていたとき、無線機から雑音が響いた。
『レイモンド、キランだよ』
彼は答えた。
「どうぞ」
『また問題が起きた』
ワイルダーは飲んでいた水のボトルをゆっくり下ろした。
「嫌です」
レイモンドは彼を見た。
「何だ?」
「もう問題は結構です」
レイモンドは無視した。
「説明してくれ、キラン」
『現地の制御装置はまだ隔離されてる。ダニエルの安全装置は成功したんだ』
「それはよかった」
『でも、ヴォスが独立した地域中継装置を起動した』
レイモンドは眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
『シトロンシティの外にある互換性のあるシステムへ、強制執行用の認証情報を送れるかもしれないんだ』
ヘイルは突然立ち上がった。
「そんなはずはない!」
キランはためらった。
『マーカス?』
「元のエコー・ヴェイルの設計では、地域認証は中央継続運用制御装置を通過する必要があったんだ!」
ナサニエルの声が聞こえた。
『ヴォスが改修したんです』
ヘイルはコンソールを見つめた。
「そんな……」
キランは続けた。
『幹部用の予備中継装置を追加してたんだ。認証情報が受け入れられたあとは、現地の制御装置に依存しない』
ヘイルはダニエルの認証キーを見た。
顔から血の気が引いた。
「それでは、安全装置で止められない」
レイモンドは無線機を強く握った。
「中継装置のところへ直接行けるか?」
ナサニエルが答えた。
『今いる場所からは無理です。独立したネットワーク接続先で、実際の設置場所もまだ特定中なんです』
ワイルダーはゆっくりと手を上げた。
「質問です」
レイモンドは彼を見た。
「何だ?」
「たまにはコンピューターじゃない相手と戦えませんか?」
誰も笑わなかった。
ワイルダーは手を下ろした。
「はい。タイミングが悪かったですね」
レイモンドはヘイルを見た。
「マーカス、中継装置の特定をキランたちと一緒に手伝えるか?」
ヘイルはうなずいた。
「やってみよう」
レイモンドは無線機を起動した。
「キラン、俺たちは指揮所へ戻る。作業を続けてくれ」
『もうやってるよ』
レイモンドは緑色に光る安全装置の表示を見た。
第二制御装置は止めた。
だが、戦いは終わっていなかった。
シトロンシティ警察・移動指揮所――午前2時27分
エリソンはすでに地域の緊急通信当局へ連絡していた。
ナサニエルから送られてきた技術識別子は、該当するネットワーク運営者たちに共有されていた。
ある地域の管理者は、不審な幹部認証要求を受信したことを確認した。
別の管理者は、旧式の継続運用インターフェースを何年も前に無効化していたと報告した。
三つ目の接続先は、まだ調査中だった。
エリソンは慎重に耳を傾けた。
「無関係な緊急通信は停止させないでください。安全に実施できるなら、不審な認証経路だけを隔離してください。それから、ログは必ず保全してください」
管理者が了承した。
彼女は通話を終え、アダムを見た。
「応答している接続先が一つ確認されたわ」
アダムはネットワーク図を見た。
「遮断できますか?」
「今、試しているところよ」
「できなかったら?」
エリソンは画面を見た。
「別の方法を探すしかないわ」
通知が現れた。
【外部中継装置の送信準備を検知】
エリソンの表情が変わった。
彼女は無線機を起動した。
「キラン、状況は?」
彼の声が返ってきた。
『まだ解析中だよ』
「あとどれくらい時間がある?」
少し間が空いた。
『マッハが計算してる』
エリソンは指揮所の職員たちを見た。
「連絡できる地域運営者を全員つないで。今すぐ!」
ギアの工房――午前2時29分
メインモニターが点滅した。
【外部幹部中継装置を検知】
【地域強制執行ネットワーク:稼働中】
【認証元:A・ヴォス】
キランは画面を見つめた。
マッハのアイコンが現れた。
「キラン、中継装置が最終送信シーケンスに入りました」
ナサニエルは身を乗り出した。
「中断できる?」
「現地のエコー・ヴェイル制御装置からは不可能です」
キランはネットワーク図を見た。
「受信側のシステムは?」
「命令を拒否するシステムもあるでしょう。受け入れるシステムもあるかもしれません。認証情報の交換が完了するまで、結果は判断できません」
ナサニエルは中継装置の状態を開いた。
新しいウィンドウが現れた。
【地域強制執行送信】
【残り時間:05:00】
キランの笑みが消えた。
数秒間、彼は何も言わなかった。
そして無線機を起動した。
「レイモンド……」
その声からは、いつもの冗談めいた調子が完全に消えていた。
レイモンドが答えた。
『どうぞ』
「制御装置は止めたんだ」
レイモンドは眉をひそめた。
『なら、何が問題なんだ?』
キランは唾を飲み込んだ。
「ヴォスには予備の手段があった」
沈黙。
工房では、ナサニエルがカウントダウンを見つめていた。
【04:59】
【04:58】
マッハの紫色のアイコンが暗い画面に浮かび上がった。
「キラン、地域認証情報の交換が完了する前に阻止しなければなりません」
キランは分解されたMACH-01Aを見た。
推進装置はまだ接続されていなかった。
装甲は整備台の上に散らばっていた。
数えきれないほどの戦いへ彼を運んできた機械は、今は何もできなかった。
キランは再びコンピューターへ向き直った。
そしてナサニエルを見た。
「よし」
身を乗り出した。
「別の方法を見つけよう」
カウントダウンは進み続けていた。
【04:55】
【04:54】
そしてシトロンシティの外のどこかで、地域ネットワークがエイドリアン・ヴォスの最後の命令を受信しようとしていた。




