裏切りの残響
その写真は、十五年近くもの間、レイモンド・ハリソンの家に置かれていた。
これまで何百回も目にしてきたはずなのに、特に気に留めたことはなかった。
第816大隊の司令部で開催された公式の懇親会で撮影された、古い軍の集合写真だった。軍と民間の防衛関連企業による共同研究事業を記念する横断幕の前に、数人の将校が並んで立っている。
大半の男たちは礼装用の軍服を着ていた。
中にはスーツ姿の民間人もいた。
そして写真の端には、どう見ても身体に合っていない上着を着て、ひどく居心地が悪そうな顔をした若き日のレイモンド・ハリソンが写っていた。
あの懇親会のことは覚えている。
主に、料理がひどくまずかったからだ。
しかし今、頭上の照明に照らされた台所のテーブルで、レイモンドは長年見落としていたものに気づいた。
彼の背後にリヴァースが立っていた。
そしてリヴァースの隣には、濃い色のスーツを着た銀髪の男がいた。
レイモンドは写真を顔に近づけた。
当時の男は髪が短く、顔も若かった。細いフレームの眼鏡をかけているが、テレビでその眼鏡を見たことは一度もない。
しかし、その笑顔だけは見間違えようがなかった。
エイドリアン・ヴォス。
レイモンドは写真を凝視した。
「……こいつは驚いたな」
彼は携帯電話に手を伸ばした。
エリソン刑事は三回目の呼び出し音で電話に出た。
『レイモンド?』
「起きてると言ってくれ」
『今、起きました』
「よし。見つけたものがある」
少し間があった。
『朝まで待てないものですか?』
レイモンドは時計を見た。
午前六時四十二分。
「まあ、待てなくもないが」
エリソンはため息をついた。
『どうぞ』
「昔の大隊の懇親会で撮った写真を見つけた。リヴァースがエイドリアン・ヴォスの隣に立ってる」
電話の向こうの沈黙が変わった。
『間違いありませんか?』
「今、目の前にある」
『いつの写真ですか?』
「十五年くらい前だ」
『コピーを送れますか?』
「もう撮ってるところだ」
レイモンドは写真の真上に携帯電話を構えた。
顔がはっきり写るように確認してから、画像を送信した。
しばらくして、エリソンが口を開いた。
『ヴォスですね』
「ああ」
『そしてリヴァース』
「ああ」
彼女は数秒間黙った。
『これで、二人が同じ行事に出席していたことは確認できます』
レイモンドは額をこすった。
「何を言うつもりかはわかってる」
『でしたら、これだけでは二人が協力関係にあった証拠にはならないこともわかりますね』
「わかってる」
彼は再び写真を見た。
「だが、一つ思い出した」
『何ですか?』
「あの日、リヴァースが民間の顧問を紹介してきたんだ」
『ヴォスですか?』
「たぶんな」
『たぶん?』
レイモンドは目を閉じた。
古い記憶だった。
人で混み合う懇親会場。
コーヒーの香り。
調達の遅れに文句を言う将校。
濃い灰色のスーツを着た男の隣に立つリヴァース。
レイモンド、紹介したい人がいるんだ。
そこから先の記憶は曖昧だった。
レイモンドは目を開けた。
「断言はできん」
『なら、断言しないでください』
彼はかすかに笑った。
「朝飯前から実に愉快な人だな、刑事さん」
『努力していますから』
エリソンの声が真剣になった。
『写真の原本を署まで持ってきてください。出席者名簿と照合します』
レイモンドはうなずいた。
「すぐ行く」
『それから、レイモンド』
「何だ?」
『ヴォスに接触しないでください』
レイモンドは写真の中の銀髪の男を見た。
「昼飯に誘うつもりはなかったさ」
『結構です』
通話が切れた。
レイモンドはしばらく座ったままだった。
視線がリヴァースへ移る。
かつての戦友が、今ではキランのような人々の自立を制限しようと訴えている男の隣で笑っている。
その光景には、ひどく不愉快なものがあった。
だが、写真から人の意図までは読み取れない。
そしてレイモンドは、疑惑を確信と取り違えることがどれほど危険か、誰よりもよく知っていた。
彼は写真を保護用の袋に入れた。
それから、隣に置かれた古いノートを手に取った。
【ハルシオンへの納入――午前九時】
【リヴァース、納入を通常の記録に載せないよう指示】
レイモンドはページの端を親指でなぞった。
「どうして、もっと質問しなかったんだろうな……」
誰もいない台所は、何も答えてくれなかった。
ギアの工房では、まったく別の口論が繰り広げられていた。
「ダメ」
キランは兄姉のギアを見つめた。
「ダメってどういうこと?」
ギアはMACH-01Aの露出した推進装置のそばに立ち、診断用タブレットを持っていた。
「言葉どおりだよ」
「でも、交換用の配電装置は取り付けたんでしょ!」
「一部はね」
「マッハだって、シミュレーションは成功したって言ってた!」
「いくつかはね」
キランは整備台を指さした。
「じゃあ、どうしてスラスターを試せないの?」
ギアは彼を見た。
「工房が火事にならないほうが好きだから」
キランは眉をひそめた。
「ちょっと大げさじゃない?」
近くのモニターから警告音が鳴った。
【温度上限超過】
ギアは画面を指さした。
「本当に?」
キランは数字を見た。
「……うん。思ったほど大げさじゃなかったかも」
マッハのアバターが現れた。
「新しい電力分配構造は設計どおりに機能しています。しかし、既存の冷却システムでは、継続的な負荷によって発生する余分な熱を安全に放散できません」
キランはため息をついた。
「つまり?」
ギアは腕を組んだ。
「スラスターを長時間動かすと、新しい部品が過熱するんだ」
「長時間って、どれくらい?」
「今の出力なら?」
ギアはタブレットを確認した。
「四十三秒」
キランは考えた。
「工房を一周するくらいなら飛べるね」
「ダメ」
「半周は?」
「ダメ」
「ホバリングだけでも?」
「キラン」
彼はにやりと笑った。
「聞いてみただけだよ」
ギアはタブレットを置いた。
「いいかい。旧型のシステムは、いくつもの部品が同じ電力経路を共有していたから小型にできたんだ。新しい設計では、一か所が攻撃されても全体が停止しないように、それぞれを分離している」
キランはうなずいた。
「うん」
「でも、その分だけ部品が増えるし、場所によっては電気抵抗も大きくなる。つまり、発熱量が増えるんだよ」
マッハが付け加えた。
「飛行試験を再開するには、冷却機構の再設計が必要です」
キランは天井を見上げた。
「どうして何もかも、こんなに複雑なの?」
ギアは微笑んだ。
「プラズマ砲を積んだ重装甲の車椅子で空を飛び回ってるからじゃない?」
「……確かに」
工房の通信端末が鳴った。
モニターにナサニエル・ブルックスが現れた。
『おはよう、みんな』
ギアは手を振った。
「やあ、ナサニエル」
ナサニエルはキランを見た。
『患者さんの調子は?』
キランは眉をひそめた。
「どうしてみんな僕を患者扱いするの?」
『空から落ちたから』
「着陸したんだよ」
ギアが片眉を上げた。
キランはため息をついた。
「……着陸に失敗したけど」
ナサニエルは笑った。
『正確な表現で何よりだ』
彼は共有の設計書を開いた。
『ハードウェア認証の設計を調べてたんだ』
ギアはモニターに近づいた。
「何か見つかった?」
『検討する価値のあるものがね』
回路図が表示された。
ナサニエルは二つの独立した制御装置を強調した。
『今の緊急停止経路は、特定のハードウェア状態を確認するとき、車載の保守制御装置を信頼する設計になってる』
マッハが答えた。
「その制御装置は通常の遠隔アクセスから隔離されています」
『それはいい。でも、独立した安全制御装置にも物理センサーの値を確認させてから、停止要求を受け入れるべきだと思う』
ギアは図面を調べた。
「つまり、誰かが保守権限を偽装しても……」
『実際のハードウェアの状態と命令を照合するんだ』
マッハは提案を処理した。
「偽装された命令によって、停止処理が連鎖的に発生する危険性を減らせます」
ナサニエルはうなずいた。
『そのとおり』
キランは二人を見比べた。
「でも、配電装置を物理的に吹き飛ばされたら防げないんだよね」
『そのとおり』
キランは微笑んだ。
「やった。僕にもわかった」
ギアはにやりと笑った。
「奇跡も起きるんだね」
キランは目を回した。
ナサニエルは続けた。
『それと、もう一つ話したかったことがある』
彼の表情が真剣になった。
『分散型コンプライアンス・ネットワークの同期パターンを調べてたんだ』
ギアは身を乗り出した。
「それで?」
『時間間隔の一部が、古い軍用通信プロトコルと一致してる』
マッハのアバターが明るくなった。
「エコー・ヴェイル計画ですか?」
ナサニエルはうなずいた。
『その可能性がある』
キランは眉をひそめた。
「どれくらい昔のもの?」
『少なくとも十年前。もっと古いかもしれない』
ギアは損傷したMACH-01Aをちらりと見た。
「つまり、純化協定は全部を一から作ってるわけじゃないんだ」
『そうだよ。すでに存在していた技術を土台にしてるんだ』
レイモンドが警察署に到着したのは、午前八時を少し過ぎた頃だった。
エリソンは二人の捜査官と民間の記録調査員を伴い、会議室で待っていた。
写真は書画カメラの下に置かれていた。
壁の大型ディスプレイには、若い頃のエイドリアン・ヴォスの顔が拡大表示されていた。
記録調査員が眼鏡を直した。
「この懇親会は十四年と八か月前に開催されています。公式のプログラムには、第816大隊の契約業者連絡会と記されています」
レイモンドはうなずいた。
「そんな感じだったな」
彼女は出席者名簿を開いた。
「エイドリアン・ヴォスは民間のコンサルティング会社の代表として出席しています」
エリソンは身を乗り出した。
「会社名は?」
調査員は画面をスクロールした。
「メリディアン・ストラテジック・アドバイザリーです」
レイモンドは眉をひそめた。
「聞いたことがない」
「企業記録によると、メリディアンは複数の防衛関連企業に対して、調達分析や技術的なリスク評価を提供していました」
「ハルシオンも?」とエリソンが尋ねた。
調査員は別の書類を確認した。
「はい。ハルシオン・ディフェンス・システムズも顧客の一社です」
レイモンドは画面を凝視した。
「つながったな」
エリソンは彼を見た。
「業務上の関係は確認できました。ただし、ヴォスがエコー・ヴェイル計画に参加していたかどうかは、まだわかりません」
調査員は続けた。
「興味深いことに、メリディアンはこの懇親会から約三年後に解散しています」
「もちろん、そうだろうな」とレイモンドはつぶやいた。
エリソンは聞き流した。
「写真に写っている人物は全員特定できますか?」
「大半は」
調査員はリヴァースを強調した。
「ダニエル・リヴァース。セクション12の技術連絡担当者として認可されていました」
レイモンドの表情がこわばった。
次にヴォスが強調された。
「エイドリアン・ヴォス。民間顧問です」
続いて三人目の人物が示された。
リヴァースの数歩後ろに、書類を抱えた女性が立っていた。
濃い色の軍服を着ている。
レイモンドは顔を近づけた。
「待ってくれ」
エリソンが彼を見た。
「何ですか?」
「この人、覚えてるぞ」
調査員は名簿を確認した。
「ミリアム・クロス大尉です」
レイモンドは眉をひそめた。
「クロス……」
記憶を探る。
「技術監督の部署にいたはずだ」
「そのとおりです。大隊の装備適合性審査部門に所属していました」
エリソンはレイモンドを見た。
「知り合いだったんですか?」
「それほど親しくはない」
彼は写真を見つめた。
「だが、リヴァースと何かで口論していたのを覚えてる」
「いつですか?」
「この懇親会の数日後だ」
レイモンドは目を閉じた。
廊下。
閉ざされた事務室の扉の向こうから聞こえる、荒い声。
書類を抱えて出てくるリヴァース。
戸口に立つクロス。
そんなものに、勝手に承認を出していいわけがないでしょう!
もう承認は下りてるんだ。
レイモンドは目を開けた。
「何かに怒ってたんだ」
エリソンはすぐにメモを取った。
「何についてか覚えていますか?」
「いや」
彼は悔しそうに顔をしかめた。
「怒っていたことだけだ」
調査員は別の記録を確認した。
「クロス大尉は十一年前に退役しています」
エリソンは顔を上げた。
「今もご存命ですか?」
調査員は入力した。
「確認できる記録では、はい」
レイモンドは身を乗り出した。
「だったら、話を聞きに行こう」
シトロン・アカデミーでは、マイケイラ・マッキントッシュが、はるかに実りの少ない朝を過ごしていた。
受信箱は、まるで戦場だった。
最初の苦情は、開催予定のヴェント権利フォーラムが危険な技術改造を奨励していると非難するものだった。
二通目は、学校施設で開催するには政治的に不適切だと主張していた。
三通目は、高度なヴェント利用者が安全上の危険をもたらすという理由で、学区に中止を要求していた。
マイケイラは、いら立ちを募らせながらメールを読んだ。
すると、また新しいメールが届いた。
【件名:学区施設使用承認――再審査が必要です】
彼女はメールを開いた。
講堂の予約が、安全審査の完了まで一時保留になったという内容だった。
マイケイラは目を閉じた。
「……素晴らしいわね」
教室の扉がノックされた。
セリーナ・チョウが顔を出した。
「悪い知らせですか?」
マイケイラはモニターを彼女に向けた。
セリーナはメッセージを読んだ。
「本気ですか?」
「どうやらね」
「イベントは二日後ですよ」
「わかってる」
セリーナは眉をひそめた。
「中止になるんですか?」
「まだ決まってないわ」
マイケイラは別のメールを開いた。
今度は匿名のアカウントからだった。
【フォーラムを中止しろ。】
【お前たちは、必要な安全対策に抵抗するよう人々を扇動している。】
【誰かが傷ついたとき、何が起こるかよく考えることだ。】
セリーナは画面を凝視した。
「これ、脅迫ですよ」
マイケイラはうなずいた。
「ええ」
「どうするんですか?」
「記録を残すわ」
彼女はメッセージと取得できるヘッダー情報を保存し、学区の警備担当窓口へ転送した。
セリーナは驚いたようだった。
「返信しないんですか?」
「しないわ」
「どうして?」
「送った人間は反応を求めているから」
マイケイラは携帯電話を手に取った。
「相手の望む反応なんて、してあげない」
彼女はエリソン刑事に電話をかけた。
昼までに、フォーラムの運営委員会がビデオ会議に集まった。
議長を務めるのはマイケイラだった。
セリーナは教室から参加した。
マーガレット・ホロウェイは自宅から接続していた。
ほかに、地域の障害者権利活動家二人、学校の管理職一人、アクセシビリティ担当者一人が参加していた。
マイケイラは状況を説明した。
「脅迫と、組織的に送られてきたと思われる複数の苦情が届いています。学区は講堂の使用承認を一時保留にしました」
マーガレットは腕を組んだ。
「やっぱりね」
学校の管理職は居心地が悪そうだった。
「私たちは、誰かの発言を封じようとしているわけではありません」
マーガレットは片眉を上げた。
「だったら封じないことね」
管理職はため息をついた。
「安全に開催できることを確認する必要があるんです」
マイケイラはうなずいた。
「それはもっともです。ただし、対応は脅威の程度に見合ったものでなければなりません」
活動家の一人が口を開いた。
「選択肢は?」
マイケイラは資料を表示した。
「安全審査を早めてもらうよう求める。別のアクセシブルな地域施設へ移す。延期する。あるいは中止する。この四つです」
セリーナは画面を見た。
「今日中に決めないといけませんか?」
「今すぐではないわ。でも、どんな条件が整えば安全に開催できるか、合意しておきたいの」
マーガレットはカメラへ顔を近づけた。
「私は七十一年間、見知らぬ人間に生きる許可を求めずにやってきたのよ。嫌なメールが一通届いたくらいで中止する気はないわ」
マイケイラはかすかに微笑んだ。
「お気持ちはわかります」
マーガレットは続けた。
「でも、意地を張るために誰かが傷つくのも嫌なの」
「そのとおりです」
マイケイラは安全対策案を開いた。
「わかりやすく表示されたアクセシブルな非常口、避難支援を理解しているスタッフ、妨害行為を行う来場者への対応手順。それから、参加者が撮影されたり後をつけられたりせずに退場できる方法が必要です」
セリーナはうなずいた。
「それと、全員が本名を公表しなきゃいけないようにはしないでください」
「もちろん」
アクセシビリティ担当者が付け加えた。
「希望する登壇者のために、一般の入口とは別の受付場所を設けられます」
マイケイラはメモした。
「いいですね」
管理職は計画書を見た。
「警察が警備計画を承認すれば、講堂の使用保留を再検討できると思います」
マーガレットは微笑んだ。
「あら。ちゃんと話し合えば、まともな結論に近づけるじゃない」
セリーナは笑った。
マイケイラは椅子にもたれた。
「では、それを次の目標にしましょう」
彼女は画面に映る参加者たちを見回した。
「それから、皆さんに理解しておいてほしいことがあります。不安を感じて参加を取りやめたくなった場合、誰にも参加する義務はありません。その決断を尊重します」
マーガレットはうなずいた。
「それでいいわ」
セリーナは微笑んだ。
「じゃあ、私はまだ参加します」
午後二時十五分。
レイモンドとエリソンは、退役したミリアム・クロス元大尉から面会の許可を得た。
彼女はシトロンシティ郊外の、背の高い松の木に囲まれた質素な家に住んでいた。
扉を開けたのは六十代後半の女性だった。
短い灰色の髪をしており、その表情からは無駄話を好まない性格がうかがえた。
「エリソン刑事?」
「はい」
クロスはレイモンドへ目を向けた。
そして目を細めた。
「ハリソン?」
レイモンドは瞬きをした。
「クロス大尉?」
彼女は彼をじろじろと見た。
「まあ、ずいぶん老けたわね」
レイモンドは目を丸くした。
「そちらこそ、お元気そうで何よりです」
クロスは脇へ寄った。
「入りなさい」
居間には本棚、額に入った写真、きちんと整理された書類が並んでいた。
暖炉のそばでは、引退した介助犬が眠っていた。
クロスは二人にコーヒーを勧めた。
レイモンドは受け取った。
エリソンは断った。
全員が席に着くと、エリソンが捜査の概要を説明した。
クロスは途中で口を挟まずに聞いていた。
しかし、エコー・ヴェイルという名前が出た瞬間、表情が変わった。
彼女はカップをテーブルに置いた。
「その名前をどこで聞いたの?」
レイモンドは身を乗り出した。
「昔のセクション12の記録です」
クロスは二人を見比べた。
「あの書類は、今も閲覧制限がかかっているはずよ」
エリソンは落ち着いて答えた。
「その研究から派生した装備が関係する刑事事件を捜査しています」
クロスは黙った。
やがて、ため息をついた。
「いつか誰かが聞きに来るとは思っていたわ」
レイモンドは眉をひそめた。
「エコー・ヴェイルとは何だったんです?」
クロスは窓へ目を向けた。
「元々は、軍用装備を使用不能にするための計画だったの」
エリソンは手帳を開いた。
「どういう意味ですか?」
「ネットワーク化された戦場システムの開発初期には、乗っ取られた装備が味方の兵士に使われる危険が問題になっていたのよ」
クロスは両手を組んだ。
「エコー・ヴェイルは、複数の装備に対して緊急停止や保守上の制御変更を一斉に行うために設計されたものだった」
レイモンドはゆっくりとうなずいた。
「遠隔停止か」
「それも機能の一つよ」
「何台くらいを?」
「ネットワーク次第では、数百台」
エリソンは眉をひそめた。
「何が問題になったんですか?」
クロスは彼女をまっすぐ見た。
「中央集権的な権限構造よ」
少し間を置く。
「認証された一人の操作担当者が、何十人もの人々が使う装備に影響する命令を出せる仕組みだったの」
レイモンドの表情が険しくなった。
「とんでもない権力だな」
「ええ」
クロスは自分の手を見下ろした。
「私には、強すぎる権限に思えたわ」
エリソンは身を乗り出した。
「リヴァースも同じ懸念を抱いていましたか?」
クロスは少し黙った。
「最終的にはね」
レイモンドは眉をひそめた。
「最終的には?」
クロスは彼を見た。
「リヴァースはエコー・ヴェイルの設計者ではなかった。彼は連絡担当者だったの。軍と契約業者の間で技術移管を調整するのが仕事だった」
「ハルシオンですね」
「そう」
レイモンドは身を乗り出した。
「ヴォスは?」
クロスの表情が暗くなった。
「エイドリアン・ヴォスは顧問だったわ」
「エコー・ヴェイルの?」
「民間への技術移管に関係する会議に何度か出席していた」
エリソンは素早くメモした。
「技術にアクセスできたんですか?」
「どこまでアクセスできたかは知らないわ」
クロスはためらった。
「でも、民間のインフラを使って、大規模な装備監視を行う方法には強い関心を示していた」
レイモンドは背筋が寒くなった。
「ヴェント利用者のことを口にしたことは?」
クロスは首を振った。
「私の前ではないわ」
彼女はレイモンドが持参した古い軍の写真を見た。
「でも、もう一つ覚えていることがあるの」
レイモンドは続きを待った。
「ヴォスは以前、高度な技術を個人が自由に操作する権利は、その利用者が信頼に値すると認められた場合にのみ与えられる特権だ、と主張したことがあった」
エリソンは顔を上げた。
「そのままの言葉ですか?」
「ほぼ、そうだったと思う」
クロスは奥歯を噛みしめた。
「危険な考え方だと、私ははっきり言ったわ」
レイモンドは写真を見つめた。
ヴォスの笑顔が、急にずっと不気味なものに見えた。
クロスは二人を小さな書斎へ案内した。
鍵のかかった書類棚を開け、フォルダーを取り出した。
「退役するとき、いくつかの書簡の写しを残しておいたの」
エリソンは背筋を伸ばした。
「公式記録ですか?」
「当時、保管を認められていた書類の写しよ。正式な出所の確認は必要になるでしょうね」
彼女はフォルダーを机に置いた。
中には手紙、覚書、内部審査の要約が入っていた。
クロスは一枚の書類を選んだ。
「エコー・ヴェイルの試験で、機器を操作している本人の直接確認なしに制御を上書きできることが判明したあと、リヴァースは計画の再審査を要求したの」
レイモンドは眉をひそめた。
「いつです?」
「ハルシオンへの移管から数か月後よ」
クロスはページをめくった。
「彼は、この技術にはもっと厳格な制限が必要だと主張した」
エリソンは書類を読んだ。
「審査は完了したんですか?」
「一部だけね」
「何が起きたんです?」
クロスはため息をついた。
「計画は再編された。一部の装備は回収されたけれど、別の部品は契約業者の手元に残ったの」
レイモンドは彼女を見た。
「リヴァースは?」
「最初の移管を承認したわ」
「懸念を抱いていたのに?」
「正式に異議を申し立てたのは、そのあとよ」
レイモンドは椅子にもたれた。
クロスは続けた。
「承認したとき、彼がどこまで理解していたかはわからない。でも、より広い危険性に気づいてからは、いろいろと疑問を投げかけるようになった」
レイモンドは額をこすった。
「……聞き覚えのある話だ」
クロスは彼を見た。
「何ですって?」
「いえ、何でも」
彼は書類を見つめた。
「計画を止めようとしたことは?」
クロスはためらった。
「特定の認可を取り消すよう求めていたわ」
「成功したんですか?」
「完全には」
エリソンはフォルダーを見た。
「内部審査の録音は残っていますか?」
クロスはうなずいた。
「軍の記録保管庫に音声証言があるはずよ」
レイモンドは顔を上げた。
「聞けますか?」
「正式な手続きを踏めばね」
エリソンは手帳を閉じた。
「では、請求します」
クロスはレイモンドを見た。
「ハリソン」
彼は視線を合わせた。
「はい、大尉」
「リヴァースが後にどんな人間になったとしても、当時の彼が何をしていたか、すべて理解していると思わないことね」
レイモンドは黙った。
クロスは続けた。
「人は複雑な理由から、取り返しのつかない決断をすることがあるのよ」
レイモンドは目を伏せた。
「……わかっています」
ギアの工房に戻ると、熱問題はますます厄介になっていた。
ギアは診断モニターの前に立っていた。
「四十六秒」
マッハが答えた。
「三秒改善しました」
ギアは画面を凝視した。
「三秒」
「そのとおりです」
「四時間も作業して」
「それもそのとおりです」
ギアは作業台にもたれた。
「スナット!」
キランは近くの作業端末から様子を見ていた。
「別の方法を試してみたら?」
ギアは彼を見た。
「例えば?」
キランは試験結果を調べた。
「今やってるのって、最大出力を維持する試験だよね?」
「そうだよ」
「僕が四十秒以上、最大出力で飛び続けることって、実際どれくらいある?」
ギアは口を開いた。
しかし、すぐに止まった。
マッハが答えた。
「キラン本人が考えているほど頻繁ではありません」
キランはにやりと笑った。
「ありがとう」
ギアは腕を組んだ。
「何が言いたいの?」
「実際に遭遇する状況で試してみたらどうかなって」
キランは飛行記録を開いた。
「短時間の加速。制御されたホバリング。緊急制動。低速での方向転換。建物から人を救出するときの動き」
ギアは一覧を調べた。
「それじゃ最大出力時の熱問題は解決しないよ」
「うん」
キランはギアを見た。
「でも、どの機能から安全に復旧できるかはわかるかもしれない」
マッハが提案を処理した。
「段階的な試験計画を採用すれば、全飛行領域の安全認証を待たずに、限定的な運用能力を評価できます」
ギアは考えた。
それからうなずいた。
「それは実際、役に立つ意見だね」
キランは微笑んだ。
「わあ。ギアに褒められた。誰か録音して!」
マッハが答えた。
「すでに録音済みです」
ギアは笑った。
「喜びすぎないでよ。安全が確認されるまで飛行は禁止だからね」
キランはため息をついた。
「いいところで台無しにするんだから」
ギアはモニターに向き直った。
「まずは低出力時の冷却性能から試そう」
次のシミュレーションが始まった。
その日の午後、初めて温度グラフが危険域を下回ったまま推移した。
ギアは身を乗り出した。
「おお……」
キランは微笑んだ。
「よくなった?」
ギアはうなずいた。
「よくなったよ」
午後五時三十分、マイケイラに新しいメッセージが届いた。
今度は匿名ではなかった。
学区の教育長からだった。
土曜日の朝までに警備計画が完成し、承認されることを条件に、講堂の使用が認められるという。
マイケイラは息を吐いた。
「やっとね……」
彼女はメッセージを運営委員会へ転送した。
それからキランに電話をかけた。
彼はほとんどすぐに出た。
『やあ!』
「やあ、じゃないわよ」
『何かあった?』
「実は、いい知らせなの」
彼女は学区の決定を説明した。
キランは微笑んだ。
『それはよかった!』
「ええ」
『まだ脅迫は来てるの?』
「何通かね。エリソン刑事のところで記録してもらってる」
キランは眉をひそめた。
『僕もそっちへ行こうか?』
マイケイラは少し間を置いた。
「キラン」
『何?』
「まさか、ウルトラヴァイオレットとして現れるつもりじゃないでしょうね?」
彼はためらった。
『……ちょっと考えた』
彼女はため息をついた。
「あなたの飛行車椅子、今は分解されてるでしょう」
『わかってる』
「それに、たとえ直っていたとしても、講堂の上空で派手にホバリングすれば解決する問題じゃないのよ」
キランは心外そうな顔をした。
『派手にホバリングするのは僕の得意技なのに』
「知ってるわ、あなた」
彼は笑った。
マイケイラの声が柔らかくなった。
「助けようとしてくれるのは嬉しいの」
『もちろんだよ』
「でも、運営については私に任せてほしい」
キランは黙った。
それからうなずいた。
『君の言うとおりだね』
「そう?」
『そんなに驚かないでよ』
彼女は笑った。
キランは続けた。
『どんな問題にもスーパーヒーローが必要だって考えてたみたいだ』
マイケイラは微笑んだ。
「問題によっては、表計算ソフトを使いこなす教師が必要なのよ」
『恐ろしいね』
「本当にね」
キランは少し考えた。
『じゃあ、緊急時の連絡計画を手伝うのはどう?』
「それなら、すごく助かるわ」
『それと、アクセシブルな避難経路の確認も』
「もっと助かる」
彼は微笑んだ。
『じゃあ、それをやるよ』
マイケイラは少し黙った。
「ありがとう」
『どういたしまして』
少し間があった。
それからキランが付け加えた。
『そうだ。まだ夕食をごちそうする約束が残ってるね』
マイケイラはにやりと笑った。
「ええ。しっかり覚えてるわよ」
二人はその夜、学校の近くにある静かなレストランで待ち合わせた。
キランは普段使いの電動車椅子でやってきた。
マイケイラは窓際の、車椅子でも利用しやすいテーブルで待っていた。
彼が近づくと、彼女は微笑んだ。
「時間どおりね」
キランは腕時計を見た。
「二分早いよ」
「感心ね」
「君を喜ばせるためなら」
彼はテーブルの横に車椅子をつけた。
ここ数日で初めて、推進システムのことを考えずに済んでいた。
電磁兵器のことも。
純化協定のことも。
少なくとも、四六時中ではなかった。
二人は料理を注文した。
マイケイラはセリーナとマーガレットの話をした。
キランはナサニエルの技術的な提案について話した。
ギアのコーヒーの消費量を笑い合った。
デザートをめぐって、ふざけながら言い争った。
そして一時間近く、二人は普通の夜と呼べる時間を楽しむことができた。
やがて、マイケイラがテーブル越しに手を伸ばした。
「本当のところ、調子はどう?」
キランは彼女を見た。
いつもの答えを口にしようかと思った。
大丈夫。
もっとひどいこともあった。
最高の日とは言えないけどね。
しかし、代わりにため息をついた。
「昨日よりはいいよ」
彼女はうなずいた。
「それなら少しは前進ね」
彼はかすかに微笑んだ。
「飛べないのは、まだ嫌だけど」
「知ってるわ」
「でも、少しずつわかってきたことがあるんだ」
「何?」
キランは窓の外を見た。
車が通りを走っていた。
歩行者が交差点を渡っていた。
MACH-01Aが空を飛んでいなくても、世界は動き続けている。
「空を飛べないからって、人を助けるのをやめる必要はないんだよね」
マイケイラは微笑んだ。
「ええ。もちろんよ」
キランは彼女へ顔を戻した。
「それに、何もかも一人でやる必要もない」
彼女は片眉を上げた。
「それは大発見ね」
彼は笑った。
「あまり期待しないでよ」
二人はデザートを分け合った。
そしてしばらくの間、純化協定との戦いは遠い世界の出来事のように思えた。
午後八時十七分。
エリソン刑事のもとに、軍の記録保管庫から認証済みの音声記録が届いた。
レイモンドは会議室で彼女の隣に座っていた。
それは、エコー・ヴェイル計画の内部審査で録音されたものだった。
音質は悪かった。
声には微かな雑音が重なっていた。
エリソンが再生ボタンを押した。
最初に男の声が聞こえた。
『記録のため、氏名と所属を述べてください』
別の声が答えた。
『ダニエル・リヴァース。セクション12、技術連絡担当です』
レイモンドは身動きしなくなった。
その声を知っていた。
何年経っても。
あれほどの出来事があったあとでも。
リヴァース。
録音は続いた。
『リヴァース中尉。あなたは実験的な抑制装備をハルシオン・ディフェンス・システムズへ移管することを承認しましたか?』
『はい』
レイモンドは目を閉じた。
質問者は続けた。
『当時、その装備が接続された複数のシステムへ同時に制御変更命令を送れることを認識していましたか?』
少し間があった。
『後の試験で実証されたほどの能力があるとは認識していませんでした』
『説明してください』
リヴァースが息を吐いた。
『当初の資料では、軍の指揮権限に基づく緊急装備停止機能として説明されていました。民間インフラとの接続可能性については、十分な説明がありませんでした』
エリソンは身を乗り出した。
質問者が次の問いを投げかけた。
『その後、懸念を表明しましたか?』
『はい』
『どのような懸念ですか?』
リヴァースの声が強くなった。
『命令を拒否する実質的な機会を持たない人々に対して、このシステムが使用される可能性です』
レイモンドは目を開けた。
録音は続いた。
『この技術が軍の監督外へ移管されれば、民間の装備を支配するための仕組みになりかねません』
『移管の取り消しを要求しましたか?』
『はい』
『その要求は認められましたか?』
『いいえ』
長い沈黙が流れた。
それから、質問者がレイモンドの待ち望んでいた問いを口にした。
『なぜ、最初の移管を承認したのですか?』
リヴァースはためらった。
『与えられた説明を信じていたからです』
『誰の説明を?』
また少し間があった。
そしてリヴァースが答えた。
『計画の責任者たちです』
録音はそのあと間もなく終了した。
レイモンドは動かなかった。
エリソンが彼を見た。
「レイモンド?」
彼はスピーカーを見つめていた。
「……あいつの声だ」
「ええ」
レイモンドは首を振った。
「知ってたんだな」
エリソンは慎重に答えた。
「少なくとも審査の時点では、危険性を認識していました」
「移管に署名した」
「はい」
「それから止めようとした」
「この録音によれば、そうです」
レイモンドは椅子にもたれた。
長年、リヴァースについての記憶は、最後の対決に支配されていた。
銃声。
血。
そして、彼を止めるにはほかに方法がなかったという、あの恐ろしい確信。
しかし今、別のリヴァースの姿が浮かび上がってきていた。
もっと若い男。
一人の兵士。
本来なら疑うべきだった書類に署名したかもしれない人物。
あとになって、その結果に気づいた人物。
自分が動かしてしまった何かを、少なくとも一部は元に戻そうとした人物。
そして、それに失敗した人物。
レイモンドは顔をこすった。
「くそったれ、リヴァース……」
エリソンは何も言わなかった。
レイモンドは壁の写真を見た。
「もう、何を考えればいいのかわからん」
エリソンは録音画面を閉じた。
「なら、今は結論を出さないでください」
彼は彼女を見た。
「証拠を追いましょう」
レイモンドはゆっくりとうなずいた。
「ああ」
彼は再びスピーカーを見た。
「そうするしかないな」
廃墟となったハルシオン施設の地下で、ヘレナ・ヴェインは報告書を読んでいた。
一人の技術者が彼女の前に立っている。
「司令官、保管されていたエコー・ヴェイルの記録にアクセスがありました」
ヴェインは顔を上げた。
「誰だ?」
「軍の調査担当者と地元警察です」
「レイモンド・ハリソンか?」
「ほぼ間違いありません」
ヴェインはかすかに微笑んだ。
「よろしい」
技術者はためらった。
「残っている記録を破棄しますか?」
「いや」
「ですが、計画が露見する可能性があります」
「一部はな」
ヴェインはハルシオン施設の地図を開いた。
地下のいくつかの区画が強調されていた。
「西側研究棟から機密装備を移動させろ」
「どちらへ?」
「下層の収容区画だ」
技術者はうなずいた。
「書類は?」
「選んだものだけ残しておけ」
彼は眉をひそめた。
「司令官?」
ヴェインは彼へ向き直った。
「ハリソンがここへ来たとき、重要なものを発見したと思わせたい」
「ですが、実際に発見することになります」
「そのとおりだ」
彼女は微笑んだ。
「巧みに選ばれた真実は、嘘よりも役に立つことがある」
技術者は唾を飲み込んだ。
「了解しました」
ヴェインは別の画面を開いた。
【分散型コンプライアンス・ネットワーク】
【到達範囲拡大――31%】
【限定的な実地試験――承認済み】
彼女は地図を調べた。
「次の段階を開始しろ」
技術者はためらった。
「実際に使用されているシステムで、ですか?」
「そうだ」
「司令官、すべての安全対策が完成しているわけではありません」
ヴェインは彼を見た。
「その安全対策は利用者を守るために設計されたものだな?」
「はい」
「ならば、我々の優先事項ではない」
技術者は黙った。
ヴェインは続けた。
「対象は少数に絞れ。停止時間も短くしろ」
「どれくらい短く?」
「制御できることを確認するには十分な長さだ」
彼女はシトロンシティの地図を見た。
「そして、当局が何が起きたかすぐには突き止められない程度にな」
午後十時四十三分。
ナサニエル・ブルックスは、自宅でネットワーク通信の記録を調べていた。
姉のオリヴィアからは、一時間前に仕事をやめるよう言われていた。
彼は約束していた。
実際、仕事をやめたのだ。
十二分ほどは。
今は再び作業端末に向かい、ほかの開発者たちと共同で構築した、参加者の同意に基づく試験環境の記録を調べていた。
見知らぬ人々の機器に勝手にアクセスしているわけではない。
データは、研究への参加を明確に承諾した利用者のシステムから提供されたものだった。
ナサニエルは画面へ顔を近づけた。
「……妙だな」
保守権限を使った要求が記録に現れていた。
続いて、もう一つ。
さらにもう一つ。
要求は異なるサービスネットワークから発信されていた。
しかし、タイミングはほぼ完全に一致していた。
ナサニエルは通信情報を開いた。
命令構造に見覚えがあった。
あまりにも、よく似ていた。
彼は古いエコー・ヴェイルの資料と比較した。
表情が変わった。
「……まずい」
すぐに工房との安全な通信回線を開いた。
「ギア?」
返事はなかった。
「マッハ?」
紫色のアバターが現れた。
『こんばんは、ナサニエル』
「何かが起きてる」
マッハの声が変わった。
『説明してください』
ナサニエルは記録を送った。
「この保守要求、同期してるんだ」
マッハがデータを分析した。
『確認しました』
「無関係なサービスネットワークを通ってきてる」
『それも確認しました』
ナサニエルは唾を飲み込んだ。
「時間間隔を見て」
マッハは少し黙った。
そしてアバターが鋭く明滅した。
『エコー・ヴェイル……』
ナサニエルはうなずいた。
「そうだ」
新しい警告が現れた。
【不正な保守権限を検出】
さらにもう一つ。
【遠隔制御変更の試行】
ナサニエルは画面を凝視した。
「連中、試験を始めたんだ」
シトロンシティ東部地区の各所で、複数のヴェント機器が突然反応しなくなった。
あるアパートでは、電動車椅子を使用する女性が、操作装置が反応しなくなったことに気づいた。
彼女はもう一度ジョイスティックを動かした。
何も起こらない。
車椅子は台所のカウンターの横で動かなくなっていた。
「えっ?」
彼女は非常用の操作装置を試した。
画面が点滅した。
【保守モード作動中】
胃の奥が冷たくなった。
「保守なんて許可してないわよ!」
数本離れた通りでは、交差点を渡ろうとしていた若い男性の車椅子が、突然減速し始めた。
歩行者信号はまだ青だった。
車は交差点の両側で待っていた。
彼の車椅子は横断歩道の途中で停止した。
操作装置を押す。
何も起こらない。
車のクラクションが鳴った。
若い男性は助けを求めて叫んだ。
通行人が彼のもとへ駆け寄った。
近くの居住型介護施設では、二台の電動移動支援機器が同時に保守モードへ移行した。
職員たちはすぐに緊急時の対応手順を開始した。
停止は一分にも満たなかった。
しかし、影響を受けた人々にとって、その数十秒ははるかに長く感じられた。
ギアの工房では、中央モニターの警報が一斉に鳴り始めた。
ギアが整備区画へ駆け込んできた。
「何が起きてるの!?」
マッハのアバターが現れた。
『複数のヴェントサービスネットワークで、不正な保守命令が発行されています』
ギアは画面を凝視した。
「何台?」
『確認済みの報告はまだ限定的ですが、同期パターンから組織的な事象であることが示唆されます』
キランが車椅子で部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
モニターにナサニエルの顔が現れた。
『連中が分散型コンプライアンス・ネットワークを試験してるんだ』
キランの表情が変わった。
「今?」
『今、この瞬間に』
ギアは街の地図を開いた。
東部地区に赤い印が現れた。
緊急通報の情報が次々と入ってくる。
交差点で停止した車椅子。
複数の機器が同時に停止した居住型介護施設。
許可していない保守モードへの移行を報告する利用者たち。
キランは画面を凝視した。
「人が死ぬかもしれないじゃないか!」
マッハが答えた。
『緊急対応機関には通報済みです。確認できた技術的な情報を、関係する対応チームへ転送しています』
ギアはナサニエルを見た。
「止められる?」
『ここから直接は無理だ。僕たちには、そのネットワークを操作する権限がない』
キランは歯を食いしばった。
「じゃあ、何ができるの?」
ナサニエルはカメラへ顔を近づけた。
『命令の特徴を特定して、次の攻撃を拒否できるよう運営者に協力するんだ』
マッハはデータの整理を始めた。
『暫定的な検出パターンを生成しています』
ギアは別の端末を開いた。
「影響を受けたサービス事業者に、緊急のセキュリティ窓口を通じて連絡する」
キランは地図を見た。
交差点まで飛んでいくことはできない。
街を一気に駆け抜けることもできない。
だが、それでもできることはあった。
「マッハ、緊急対応の情報を見せて」
『表示します』
キランは通信回線を開いた。
「現場の人たちに、何が起きてるのか正確に伝えよう」
最初の停止から四十七秒後。
影響を受けたシステムが、次々と反応を取り戻し始めた。
アパートにいた女性は、再び車椅子を操作できるようになった。
交差点に取り残された若い男性は、通行人の助けを借りて安全に歩道へ移動した。
居住型介護施設は、影響を受けた入居者たちが無事であることを確認した。
緊急対応機関は引き続き報告を調べていた。
ギアの工房では、赤い印の点滅が徐々に止まっていった。
キランは画面を見つめた。
「終わったの?」
マッハは少し間を置いた。
『直近の命令列は終了しました』
ナサニエルは首を振った。
『でも、それで終わりとは限らない』
ギアは彼を見た。
「どういうこと?」
ナサニエルは通信記録を拡大した。
『命令は無作為じゃなかった。タイミングが合わせられてたんだ』
マッハが分析を続けた。
『影響を受けた各システムに、同期した保守権限の要求が送られています』
キランは眉をひそめた。
「つまり、誰かがボタンを押しただけで、あれだけの車椅子を止めたってこと?」
『簡単に言えば、そうだよ』とナサニエルが答えた。
ギアの表情が険しくなった。
「次は、もっと多くを狙えるってことだね」
ナサニエルはうなずいた。
『ずっと多くをね』
マッハが別の診断画面を開いた。
『さらに一つ、判明したことがあります』
キランは顔を上げた。
「何?」
『命令列には、ハルシオン工業地区のインフラに関連する経路情報が含まれています』
ギアは目を見開いた。
「ハルシオン?」
キランの表情が変わった。
「レイモンドが調べてる場所だ」
マッハはうなずいた。
『そのとおりです』
新しい警告が現れた。
【分散型コンプライアンス・ネットワーク】
【実環境での試験を確認】
【発信元の手がかり:ハルシオン工業地区】
【次回の起動規模:不明】
キランは画面を凝視した。
純化協定は、彼から空を飛ぶ能力を奪った。
そして今、何千人もの人々から移動の自由を奪おうとしている。
彼はMACH-01Aを見た。
車椅子は整備台の上で分解されたままだった。
スラスターは沈黙している。
翼は地上につなぎ留められていた。
しかし、街は彼を必要としていた。
キランはギアへ向き直った。
「MACH-01Aを動かせるようになるまで、あとどれくらい?」
ギアは彼を見た。
「キラン……」
「飛ぶことを聞いてるんじゃない」
ギアは口を閉じた。
キランは続けた。
「空で戦えないなら、地上で戦うよ」
マッハのアバターが明るくなった。
ギアは彼をじっと見た。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……わかった」
キランは街の地図へ目を向けた。
赤い印は消えていた。
だが、脅威が消えたわけではない。
川沿いの廃工場の地下のどこかで、古い軍事実験が目を覚ました。
そして、その力を最初に思い知らされた人々が、すでに存在していた。




