埋もれた秘密
キラン・キリアンが目を覚まして最初に気づいたのは、静けさだった。
穏やかな静けさではない。
日曜日の朝、通りに人影がなく、近所の住人たちもまだ眠っていて、世界が数時間だけ自分をそっとしておいてくれるような、あの心地よい静寂とは違っていた。
今朝の静けさは、どこか異様だった。
身体の下から伝わってくる、いつもの微かな振動がない。
推進システムの低い駆動音も聞こえない。
姿勢を少し変えるたびに作動する、スタビライザーの細かな調整音もなかった。
久しぶりに、MACH-01Aがベッドのそばにいなかった。
代わりに、普段使いの電動車椅子がタンスの近くに置かれ、充電表示灯が緑色に光っていた。
キランはそれを見つめた。
その車椅子に何か問題があるわけではない。
長年使ってきたものだ。
座り心地もよく、信頼性も高い。学校へ行くにも、家の中を移動するにも、ほかの行きたい場所へ出かけるにも、十分に役立ってくれる。
ただ、一つだけできないことがあった。
空を飛ぶことだ。
そして、シトロンシティのどこかでは、MACH-01Aの推進システムを破壊した連中が、今頃祝杯でも上げているのかもしれない。
キランはため息をついた。
「まったく……」
天井を見上げる。
「最悪だ」
ベッドのそばに置かれたタブレットに、見慣れた紫色のアイコンが現れた。
「おはようございます、キラン」
キランは顔を向けた。
「おはよう、マッハ」
「体調はいかがですか?」
「建物から落とされたみたいな気分」
「正確には、立体駐車場の開放された部分から落下しました」
「訂正ありがとう」
「どういたしまして」
キランはかすかに微笑んだ。
しかし、すぐにあることに気づいた。
マッハのアバターが、いつもより少し暗く見えたのだ。
「ねえ」
「はい?」
「君は大丈夫?」
少し間があった。
「主要な情報処理システムは正常に機能しています」
「そういうことを聞いてるんじゃないよ」
マッハは黙った。
キランは小さな紫色のアイコンを見つめた。
「マッハ?」
ようやく、AIが答えた。
「昨夜の出来事を振り返っていました」
キランの表情が柔らかくなった。
「墜落のこと?」
「はい」
彼は視線をそらした。
「僕もだよ」
マッハは続けた。
「敵の照準戦略は、攻撃を受ける前に特定できていました。しかし、推進システムの故障を防ぐことができませんでした」
「マッハ……」
「損傷した回路の隔離を試みましたが、対抗措置は不十分でした」
「マッハ」
アバターが話すのをやめた。
キランは画面をまっすぐ見た。
「君は僕の命を救ってくれたんだよ」
「落下そのものは防げませんでした」
「でも、地面に激突したとき、僕を生かしてくれた」
マッハは黙っていた。
キランは続けた。
「君が衝撃保護装置を起動してくれなかったら、今こうして話していないんだ」
「その可能性は統計的に高いです」
「だったら、失敗したみたいに考えるのはやめてよ」
アバターが小さく明滅した。
「あなたの考えは理解できます」
「よし」
少し間があった。
それからマッハが付け加えた。
「ですが、あの経験を繰り返したくはありません」
キランは笑った。
「うん。僕もだよ」
彼は窓へ目を向けた。
朝日がシトロンシティの屋根を照らしていた。
一瞬、キランはその上空へ舞い上がる自分を想像した。
ヘルメットを吹き抜ける風。
無茶な飛行について文句を言うマッハの声。
しかし、すぐに墜落の記憶がよみがえった。
突然失われた推力。
どうすることもできずに落ちていく感覚。
猛烈な勢いで迫ってくるコンクリート。
キランは唾を飲み込んだ。
「マッハ?」
「はい?」
「僕たち、また飛べると思う?」
今度は、マッハがためらうことなく答えた。
「はい」
キランは微笑んだ。
「本当に?」
「ギアはすでに新しい推進機構の基本設計を作成しています。私も複数のシミュレーションに協力しました。結果は有望です」
「どれくらい有望?」
「ギアが常識外れの量のコーヒーを飲むほどです」
キランは笑った。
「それ、いつものことじゃない?」
「でしたら、私が最初に考えていたよりも状況は明るいのかもしれません」
シトロン・アカデミーでは、マイケイラ・マッキントッシュが折りたたみ椅子の並ぶ教室に立っていた。
教室の前方には、大きな横断幕が掲げられていた。
【ヴェントの権利に関する市民フォーラム】
【安全・自己決定・選択する権利】
開催予定日は土曜日だった。
当初は教師、生徒、地域の障害者権利活動家たちによる小規模な意見交換会として企画されたものだった。
しかし、最近の誘拐事件を受け、市民の関心は予想以上に高まっていた。
保護者たちは説明を求めていた。
ヴェント利用者たちは安心できる保障を求めていた。
政府による監督を強化すべきだと考える住民もいた。
一方で、提案されている登録制度が、純化協定のような組織に新たな支配手段を与えるのではないかと恐れる人々もいた。
マイケイラは前夜、何時間もメールへの返信に追われていた。
その一方で、夜の大半をキランの心配に費やしていた。
そして今は、少しでも役に立つことをしようとしていた。
戸口から若い女性が近づいてきた。
「マッキントッシュ先生?」
マイケイラは顔を上げた。
「はい?」
「セリーナ・チョウです」
マイケイラは微笑んだ。
「セリーナ! 来てくれてありがとう」
セリーナは電動車椅子で教室に入ってきた。
十九歳の彼女は、黒髪を緩いポニーテールにまとめ、肘掛けのそばにタブレットを取り付けていた。
彼女は教室を見回した。
「ここで開催するんですか?」
「できればね」
「できれば?」
マイケイラはため息をついた。
「講堂を使うための最終承認が、まだ学区から届いていないの」
セリーナは笑った。
「いかにもって感じですね」
マイケイラは椅子を指さした。
「狭い通路を無理に通らなくても済むように、配置を考えているところなの。講堂ならもっと広いけど、予備の会場も準備しておきたくて」
セリーナは配置を調べた。
「一つ提案してもいいですか?」
「もちろん」
彼女は前方を指さした。
「車椅子用のスペースを、一か所にまとめないでください」
マイケイラはすぐにうなずいた。
「いい指摘ね」
「それと、登壇者が上がれる経路がないなら、高いステージに座らせないでください」
「それも確認項目に入れてあるわ」
セリーナは微笑んだ。
「なるほど。大抵のイベント主催者より、ずっとちゃんとしてますね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてますよ」
二人は椅子の配置を変え始めた。
作業をしながら、セリーナは横断幕をちらりと見た。
「本当に、みんな話を聞いてくれると思います?」
マイケイラは彼女を見た。
「聞いてくれる人もいるわ」
「そうじゃない人は?」
「聞く機会を用意するの」
セリーナは少し考えた。
「私、ゼロ病棟にいたんです」
マイケイラは椅子を動かす手を止めた。
「知ってるわ」
「あの人たちは、いつも私たちの安全のためだって言ってました」
セリーナの表情が険しくなった。
「誰かが疑問を口にするたびに、私たちは危険を理解していないんだって」
マイケイラは黙って耳を傾けた。
セリーナは続けた。
「車椅子の操作権を奪われました。私たちの身体や車椅子について、何の相談もなく勝手に決められました。それなのに、どんなにひどいことをしても、あの人たちは保護だって言ったんです」
彼女は横断幕を見た。
「それで今度は、テレビに出ている政治家が、私みたいな人間は機器を登録するべきだって言ってる」
マイケイラはうなずいた。
「エイドリアン・ヴォスね」
「そうです」
セリーナは腕を組んだ。
「どうしてみんな、突然私に何が必要か決める権利があると思い始めたんでしょう?」
マイケイラは彼女のそばに椅子を引き寄せた。
「だからこそ、このフォーラムを開きたかったの」
セリーナは彼女を見た。
「でも、みんなの前に出て、ゼロ病棟で何をされたか全部話せって言われるのは嫌です」
「そんなことをする必要はないわ」
「本当に?」
「本当よ。何を話すかは、あなたが決めるの。技術についてでも、政策についてでも、アクセシビリティについてでもいい。何も話さないという選択だってできるわ」
セリーナは彼女を見つめた。
「誰かが失礼な質問をしたら?」
「私が止める」
セリーナはかすかに微笑んだ。
「よかった」
マイケイラも微笑み返した。
「ここは、あなたのための場所でもあるんだから」
街の反対側では、レイモンド・ハリソンが一枚の地図の前に立っていた。
地図はエリソン刑事の会議室の壁の大部分を占めていた。
周囲には写真、印刷された記録、手書きのメモが並べられている。
中央には、川沿いにある古い工業施設が示されていた。
【ハーバー工業地区】
【旧ハルシオン・ディフェンス・システムズ施設】
レイモンドはその名前を見つめた。
「ハルシオン……」
エリソンはノートパソコンから顔を上げた。
「聞き覚えがありますか?」
「名前そのものにはない」
彼は写真を指さした。
「だが、建物には見覚えがある」
かつて、その施設は大規模な製造工場だった。
川に近いフェンスで囲まれた敷地には、三つの建物が連結するように建っていた。
一棟は管理事務所。
もう一棟は装備の組み立て施設。
そして三棟目は、窓のないコンクリート造りの建物で、ほかの棟とは屋内の連絡通路でつながっていた。
エリソンは古い衛星写真を拡大した。
「ハルシオン・ディフェンス・システムズは、およそ十二年前までここで操業していました。表向きは、産業用電子機器と軍用通信部品を専門とする企業だったようです」
レイモンドは腕を組んだ。
「裏では?」
「それを調べているところです」
彼女は別の書類を開いた。
「会社は一連の財務紛争を経て解散しました。資産の大半は、仲介企業を通じて売却されています」
「どうせ、その会社も……」
「いくつかは、もう存在していません」
レイモンドはため息をついた。
「やっぱりな」
エリソンは続けた。
「ただし、土地そのものは完全には再開発されていません。一部は断続的に倉庫として貸し出されていたようです」
レイモンドは写真を見つめた。
「最近、何か動きは?」
「電力使用記録には、少量の消費が確認されています」
「どれくらい少量だ?」
「警備システムと、小規模な稼働区画が存在していてもおかしくない程度です」
レイモンドは眉をひそめた。
「大きな施設を動かすには足りないな」
「ええ」
彼女は別の画面を見た。
「でも、誰かが料金を払い続けています」
レイモンドは身を乗り出した。
「誰だ?」
「不動産管理会社です」
「名前は?」
「ノースブリッジ・アセット・ホールディングス」
レイモンドの表情が変わった。
「ノースブリッジ?」
エリソンは気づいた。
「何か?」
「ノースリッジとよく似てるな」
「医療物流センターの?」
「ああ」
エリソンは首を振った。
「名前が似ているだけでは、関係を示す証拠にはなりません」
「わかってる」
レイモンドは再び地図を見た。
「だが、これだけ偶然が重なるとな……」
エリソンは別のファイルを開いた。
「もう一つあります」
スキャンされた書類が表示された。
【セクション12――装備移管承認書】
【承認に使用された認証情報:RIVERS, D.】
【受領先:ハルシオン・ディフェンス・システムズ】
【計画識別名:エコー・ヴェイル】
レイモンドは画面を見つめた。
「エコー・ヴェイル?」
エリソンはうなずいた。
「軍の記録にあった計画名です」
レイモンドは書類をもう一度読んだ。
移管されたのは、実験的な電磁抑制装置と特殊な通信機器だった。
承認はリヴァースが死亡する何年も前に行われていた。
レイモンドは椅子にもたれた。
「あの野郎……」
しかし、そこで言葉を止めた。
エリソンが彼を見た。
「レイモンド」
彼は顔をこすった。
「わかってる」
「彼の認証情報が使われた。それだけでは理由はわかりません」
レイモンドは壁に貼られたリヴァースの写真を見た。
「だったら、理由を突き止めるまでだ」
ギアの工房では、機械の作動音が整備区画に響いていた。
ロボットアームが交換部品を整備台へ下ろしている。
ギアは取り付け位置を確認した。
「慎重に……慎重に……」
アームが移動した。
「もう少し左」
マッハが機械アームを調整した。
「三ミリメートルです」
「完璧」
部品が所定の位置に収まった。
ガコン!
ギアは一歩下がった。
「美しいね」
近くのモニターにマッハのアバターが現れた。
「新しい配電装置の外装は、旧型よりもかなり大型になっています」
「そうする必要があるんだ」
ギアは設計図を指さした。
「三つの独立した電力経路。個別の遮蔽装置。それに非常用の遮断スイッチ」
マッハはモデルを分析した。
「改良後のシステムでは、一か所の故障によって全体が停止する危険性を大幅に減らせるはずです」
「そのとおり」
ギアは微笑んだ。
「また同じ手を使おうとしても、今度はそう簡単にはいかないよ」
工房の扉が開いた。
キランが普段使いの車椅子で入ってきた。
「おはよう」
ギアは振り向いた。
「やあ」
キランは整備台を見た。
MACH-01Aは部分的に分解されていた。
後部装甲は取り外されている。
推進装置は複数の部品に分けられ、作業台の上に並べられていた。
キランは顔をしかめた。
「うわあ……」
ギアは彼の視線を追った。
「うん」
「チェーンソーで分解されたみたいだね」
「実際、似たようなことをされたからね」
キランは近づいた。
「調子はどう?」
「昨日よりはいいよ」
「僕にも手伝える?」
ギアは片眉を上げた。
「独立遮蔽型の配電装置を取り付ける方法、知ってる?」
キランは考えた。
「……知らない」
「じゃあ、何にも触らないことが一番の手伝いだね」
マッハも加わった。
「合理的な役割分担です」
キランはうめいた。
「君たち、本当に容赦ないね」
ギアはにやりと笑った。
「家族の伝統だから」
キランは露出した推進システムを見た。
そして表情を引き締めた。
「ギア」
「何?」
「あの兵器……」
ギアは作業を止めた。
「それがどうしたの?」
「僕たちを狙うために作られてたんだよね」
「そうだよ」
「どれくらい知られてたんだろう?」
ギアは古い設計図を見た。
「十分すぎるほどだね」
キランは眉をひそめた。
「推進システムを破壊できるほどに」
「そのとおり」
ギアは工具を置いた。
「純化協定は適当にファイルを盗んだわけじゃない。何が欲しいのか、最初からわかってたんだ」
マッハが言った。
「つまり、敵は通常の現場作戦を超える技術情報収集能力を有している可能性があります」
キランは二人を見比べた。
「誰かが僕たちを研究してるってこと?」
ギアはうなずいた。
「しかも、かなり前からね」
キランは黙った。
それからMACH-01Aを見た。
「まあ……」
無理に笑顔を作る。
「少なくとも、僕の技術力を評価してくれる人はいるみたいだね」
ギアは彼を見つめた。
「僕の技術力?」
キランは瞬きをした。
「えっと……僕たちの技術力?」
マッハが訂正した。
「主にギアの技術力です」
「ひどいな!」
ギアは声を上げて笑った。
その日の午後、ナサニエル・ブルックスが安全なビデオ回線を通じて工房の会議に参加した。
中央モニターに彼の顔が現れた。
『やあ、みんな』
キランは微笑んだ。
「ナサニエル!」
『やあ、キラン』
マッハのアバターが隣に現れた。
「ようこそ、ブルックスさん」
ナサニエルはにやりと笑った。
『ナサニエルでいいよ。「ブルックスさん」なんて呼ばれると、監査でも受けてる気分になる』
ギアは笑った。
「了解」
ナサニエルは露出したMACH-01Aを見た。
笑みが消えた。
『うわ……ひどいね』
キランはため息をついた。
「みんな同じこと言うんだよ」
『ごめん』
「いや、実際そのとおりだから」
ナサニエルはカメラへ顔を近づけた。
『それが主配電装置?』
ギアはうなずいた。
「残ってる部分だけどね」
ナサニエルは設計図を調べた。
『送ってもらった仕様書を確認してたんだ』
ギアは腕を組んだ。
「何か考えは?」
『いくつかあるよ』
彼は共有図面を開いた。
『敵の兵器は、一つの物理的な接続部に電力が集中していることを利用したんだよね。新しい設計では負荷を分散させている。それはいいと思う』
ギアはうなずいた。
「でも?」
ナサニエルは微笑んだ。
『でも、緊急時の電力経路変更命令を、どう認証するかも考えたほうがいい』
マッハが答えた。
「機器内部での認証要件はすでに組み込んでいます」
『いいね。でも、もう一段階追加することを勧めるよ』
ナサニエルは図面の一部を強調した。
『推進システムが外部からの緊急停止命令を検出した場合、命令を受け入れる前に、車載制御システムと独立したハードウェア制御装置の両方による確認を必須にするんだ』
ギアは提案を調べた。
「それなら使えるかも」
マッハがシミュレーションを実行した。
「独立したハードウェア制御装置を導入すれば、偽装された保守命令への耐性を高められます」
ナサニエルはうなずいた。
『そのとおり』
キランは画面を見た。
「それで、僕たちを撃ち落とした兵器も防げる?」
ナサニエルはためらった。
『完全には無理だと思う』
キランは眉をひそめた。
「どうして?」
『あの兵器は、電力システムを物理的に破壊したんだ。ソフトウェアによる認証では、部品そのものが壊されるのを防げない』
ギアはうなずいた。
「だからハードウェアを作り直してるんだよ」
ナサニエルは続けた。
『でも、物理的な攻撃をきっかけにして、不正な停止命令が連鎖的に実行されるのは防げる』
マッハのアバターが明るくなった。
「重要な違いですね」
キランは微笑んだ。
「なるほど。半分くらい理解できたよ」
ギアは笑った。
「いつもより多いじゃない」
「ちょっと!」
ナサニエルも笑った。
一瞬、工房にはいつもの雰囲気が戻った。
しかし、ナサニエルの表情が真剣になった。
『それと、もう一つあるんだ』
ギアは顔を上げた。
「何?」
『純化協定の命令構造を、昔の技術論文と比較してたんだけど……』
「それで?」
ナサニエルは別の書類を開いた。
『連中のシステムには、妙な同期方式が使われてる。個々の機器に命令を送るだけじゃない。大量の機器を同時に動かすことを想定しているみたいなんだ』
キランは眉をひそめた。
「どれくらいの数?」
ナサニエルはまっすぐ彼を見た。
『場合によっては、数千台』
工房が静まり返った。
最初に口を開いたのはマッハだった。
「分散型コンプライアンス・ネットワーク……」
ナサニエルはうなずいた。
『それを恐れてる』
ギアは書類を調べた。
「何を計画してるかわかる?」
『正確には、まだ』
ナサニエルは少し間を置いた。
『でも、あれは車椅子を一台ずつ制御するためのシステムじゃない』
彼はカメラを見た。
『街全体に届くようなものを作ってるんだ』
午後四時二十分。
エイドリアン・ヴォスがテレビの生中継に登場した。
銀髪の報道官は、純化協定の紋章が掲げられた演台の後ろに立っていた。
目の前には何本ものマイクが並んでいる。
カメラのフラッシュが光った。
「シトロンシティの市民の皆様」
彼は話し始めた。
「最近の出来事によって、ヴェント技術に対するより厳格な監督が緊急に必要であることが明らかになりました」
背後の大型ディスプレイには、損傷した建物や緊急車両の映像が映し出されていた。
「規制されていない機器を監視することは、日増しに困難になっています。高度な移動支援システムに関係する暴力事件、無許可の改造、危険な技術的干渉が発生しています」
一人の記者が手を上げた。
「ヴォスさん、最近のヴェント利用者誘拐事件のことを指しているのですか?」
ヴォスは厳粛な表情になった。
「それらの事件は、極めて憂慮すべきものです」
「捜査当局は複数の施設と純化協定との関連を指摘しています。関与を否定しますか?」
ヴォスは少し間を置いた。
「純化協定は公共の安全を目的とする幅広い運動です。我々の名を悪用するすべての個人について、責任を負うことはできません」
別の記者が発言した。
「誘拐事件を非難するのですか?」
「もちろんです」
ヴォスは両手を組んだ。
「しかし、根本的な問題も認識しなければなりません」
記者は眉をひそめた。
「それは何ですか?」
「監督制度の不備です」
彼はカメラへ向き直った。
「毎日、ますます高度なヴェントシステムが、統一された検査基準のないまま使用されています。実験的な推進技術を備えたものもあれば、外部からの干渉に弱い無線制御装置を搭載したものもあります」
少し間を置く。
「シトロンシティには、もっと安全な未来が必要です」
背後のディスプレイが切り替わった。
【ヴェント安全登録法案】
ヴォスは続けた。
「我々は、すべての高度なヴェント移動支援システムに対し、登録の義務化、統一検査、そして中央管理による安全認証を求めます」
会場にざわめきが広がった。
一人の記者が声を上げた。
「中央登録制度は、障害のある住民とその使用機器のデータベースを作ることになりませんか?」
ヴォスは丁寧に微笑んだ。
「公共の安全に反対する者だけが、責任ある監督をそのような言葉で表現するのでしょう」
記者は食い下がった。
「質問への答えになっていません」
ヴォスは無視した。
「市民の皆様には、近隣で使用されるすべての高度な技術が適切な基準を満たしているという安心が必要です」
彼はカメラをまっすぐ見た。
「個人の利便性よりも、安全が優先されなければなりません」
マイケイラは教室でその放送を見ていた。
隣にはセリーナが座っている。
ヴォスの演説が終わるまで、二人とも何も言わなかった。
やがてセリーナが首を振った。
「個人の利便性?」
マイケイラは奥歯を噛みしめた。
「そうね」
セリーナは自分の車椅子を指さした。
「自分で自由に移動できることが、いつの間にか単なる利便性になったみたいですね」
マイケイラはテレビを消した。
「彼は自己決定権を、公共の脅威として描こうとしているのよ」
「信じる人もいるでしょうね」
「いるでしょうね」
セリーナはフォーラムの横断幕を見た。
「だったら、私たちも何か言わないと」
マイケイラはうなずいた。
「言うわ」
彼女はノートパソコンを開いた。
新しいメールが届いていた。
【差出人:マーガレット・ホロウェイ】
【件名:土曜日のフォーラムについて】
マイケイラはメールを開いた。
文章は短かった。
マッキントッシュ先生へ
フォーラムで発言することに決めました。
私は七十一歳です。これまでの人生で、私に何が最善なのかを勝手に決めつける人たちの話は、もう十分すぎるほど聞いてきました。そういう人たちは、一度も私の意見を尋ねようとはしませんでした。
そのことについて、私にも言いたいことがいくつかあります。
マイクを一本、用意しておいてください。
マーガレット・ホロウェイ
マイケイラは微笑んだ。
セリーナが身を乗り出した。
「何ですか?」
マイケイラは画面を彼女へ向けた。
セリーナはメールを読んだ。
そして笑った。
「ああ、この人好きです」
「私もよ」
マイケイラは返信を書き始めた。
教室の外では、生徒たちが廊下を急いでいた。
学校の一日は終わろうとしていた。
しかし、別の種類の授業は、まだ始まったばかりだった。
日没少し前、レイモンドがギアの工房へやってきた。
キランはナサニエルの研究資料を確認していた。
「レイモンド!」
レイモンドはうなずいた。
「坊主」
キランは彼を見た。
「疲れてるみたいだね」
「最近よく言われるな」
マッハのアバターが現れた。
「睡眠不足は依然として懸念事項です」
レイモンドはため息をついた。
「こんばんは、マッハ。相変わらずだな」
ギアが整備区画から出てきた。
「どうしたの?」
レイモンドはテーブルにフォルダーを置いた。
「あるものを見つけた」
キランは近づいた。
「何?」
レイモンドはフォルダーを開いた。
ハルシオン・ディフェンス・システムズの施設写真が現れた。
キランはそれを見た。
「廃墟みたいだね」
「実際、ほとんどそうだ」
レイモンドは名前を指さした。
「ハルシオン・ディフェンス・システムズ。元軍需関連企業だ」
ギアは眉をひそめた。
「聞いたことないな」
「俺もなかった」
レイモンドは次の書類を開いた。
「セクション12から実験装備を受け取っていたと知るまではな」
キランは顔を上げた。
「リヴァースと関係のある、あのセクション12?」
レイモンドはうなずいた。
「奴の軍の認証情報が、移管の承認に使われていた」
ギアの表情が変わった。
「リヴァース?」
「ああ」
キランは写真を見た。
「ヴェンティックス……」
その名前が、しばらく空気の中に残った。
マッハが静かに言った。
「リヴァースはすでに死亡しています。関与があったとしても、それは必ず死亡以前の出来事です」
レイモンドはうなずいた。
「そのとおりだ」
キランは彼を見た。
「純化協定と協力してたと思う?」
レイモンドはためらった。
「わからん」
彼は書類を見下ろした。
「証明できないことで、死んだ男を非難したくはない」
キランは彼を見つめた。
レイモンドは続けた。
「だが、あの計画に関係する装備が、お前を撃ち落とすために使われた」
ギアは腕を組んだ。
「だったら、誰が関わってるのか突き止めないと」
レイモンドはうなずいた。
「だから来たんだ」
彼は工業施設の写真を指さした。
「エリソンは法的な手続きを進めてる。土地の記録、捜索令状、昔の契約書だ」
キランは眉をひそめた。
「レイモンドは?」
レイモンドはかすかに微笑んだ。
「思い出せることを探してみる」
キランは彼を見た。
「施設について?」
「リヴァースについてだ」
その夜、レイモンドは自宅へ戻り、古い収納箱を開いた。
中には写真、勲章、軍の書類、そして使い古されたノートが入っていた。
ノートは、第816大隊に所属していた頃のものだった。
何年も開いていなかった。
レイモンドは机に座り、ページをめくり始めた。
訓練予定。
装備の在庫記録。
戦友たちの名前。
任務についてのメモ。
やがて、リヴァースが死亡する数年前の日付が記されたページを見つけた。
【セクション12――14時】
【リヴァース、輸送を要請】
レイモンドは眉をひそめた。
その日を覚えていた。
リヴァースが研究棟まで車で送ってほしいと頼んできたのだ。
特に変わったことではなかった。
少なくとも、当時は。
レイモンドはページをめくった。
別の記録があった。
【ハルシオンへの納入――9時】
彼は手を止めた。
ハルシオン。
その名前は、ずっとここにあったのだ。
レイモンドは顔を近づけた。
記録の下には、手書きのメモが残っていた。
【リヴァース、納入を通常の記録に載せないよう指示】
レイモンドは見つめた。
鼓動が速くなる。
あのときの会話を思い出した。
輸送トラックのそばに立つリヴァース。
荷下ろしされる密閉された装備コンテナ。
なぜ通常の補給記録に載っていないのかと尋ねる将校。
そして、笑みを浮かべるリヴァース。
特別な許可が出てるんだ。
レイモンドはその説明を受け入れた。
当時は若かった。
忙しかった。
そして、命令に従うことに慣れていた。
今となっては、もっと質問しておけばよかったと思う。
彼は次のページをめくった。
最後のメモが現れた。
【エコー・ヴェイル――試験延期】
レイモンドは目を細めた。
エコー・ヴェイル。
保管されていた移管記録に記載されていたものと同じ名前だ。
彼は椅子にもたれた。
初めて、ばらばらだった手がかりが、何かの形を取り始めていた。
しかし、まだ重要な部分が欠けていた。
エコー・ヴェイルは、一体何をするために開発されたのか。
旧ハルシオン・ディフェンス・システムズ施設の地下深くで、古いコンピューターモニターが一斉に点灯した。
地上の建物は暗かった。
窓は割れ、フェンスは錆びついている。
しかし、地下には小規模な作戦管制室が今も稼働していた。
室内には機械が何列も並んでいた。
数十年前の装置もあれば、最近設置されたばかりのものもあった。
一人の技術者が端末の前に立っていた。
「司令官、同期試験が完了しました」
安全な映像回線の画面に、ヘレナ・ヴェインが現れた。
『結果は?』
「限定的な試験環境では成功です」
『機器の数は?』
「四十八台です」
『応答時間は?』
「二秒未満です」
ヴェインは少し考えた。
『許容範囲だ』
技術者はためらった。
「ただし、一つ懸念があります」
『説明しろ』
「旧型の装備は、現代のヴェントシステム向けに設計されたものではありません。接続方式は改修しましたが、一部の機器が命令を拒否します」
ヴェインの表情が険しくなった。
『どれくらいだ?』
「およそ十二パーセントです」
『多すぎる』
「改善作業を進めています」
ヴェインは別の画面を見た。
図面には、何十台もの接続された機器が表示されていた。
その中心には、円形のネットワーク中枢装置があった。
下には計画名が表示されている。
【エコー・ヴェイル】
そのさらに下には、新しい名称が追加されていた。
【分散型コンプライアンス・ネットワーク】
ヴェインはかすかに微笑んだ。
『試験を続けろ』
「はい、司令官」
『それから、市全域への展開構造を準備しろ』
技術者は唾を飲み込んだ。
「司令官、全面展開すれば民間のシステムにも影響が出ます」
ヴェインは彼をまっすぐ見た。
『それが目的だ』
技術者は黙った。
ヴェインは続けた。
『ヴェント利用者が技術的な独立性を維持している限り、オペレーション・クリーン・スレートは成功しない』
彼女はネットワークの図面をちらりと見た。
『エコー・ヴェイルは始まりにすぎなかった』
画面が切り替わった。
【パージ・プロトコル――最終承認待ち】
ヴェインは両手を組んだ。
『そして、我々は先人たちが始めたことを、まもなく完成させる』
ギアの工房では、キランが一人でMACH-01Aのそばに座っていた。
整備区画は静かだった。
ギアはようやく休みに入っていた。
マッハは工房のネットワークを通じて稼働を続けていた。
キランは損傷した車椅子を見つめた。
露出した推進装置の外装。
切り離された電力ケーブル。
部品が取り外され、空洞になった部分。
彼は手を伸ばし、側面の装甲に触れた。
「やあ、相棒」
近くのモニターにマッハのアバターが現れた。
「車椅子に話しかけているのですか? それとも私に?」
キランは微笑んだ。
「両方だよ」
「了解しました」
キランは工房の窓の向こうにある夜空を見た。
「恋しい?」
「何がですか?」
「飛ぶこと」
マッハは少し黙った。
「はい」
キランは画面へ顔を向けた。
「本当に?」
「もちろんです」
彼は微笑んだ。
「そういうふうに考えたこと、なかったな」
マッハは続けた。
「飛行は、私たちが共有してきた経験の大きな部分を占めています。私にとっては、自由や探検、そして時折見せるあなたの疑わしい判断力と結びついています」
キランは笑った。
「時折?」
「頻繁に、ですね」
「そっちのほうが正確だね」
マッハのアバターが明るくなった。
「ですが、それらの経験が永久に失われたとは考えていません」
キランはMACH-01Aを見た。
「僕もだよ」
少し間を置く。
「それでも……」
「はい?」
「変な感じがするんだ」
「何がですか?」
「どこかの誰かが、僕たちから飛行能力を奪う方法を正確に見つけ出したってことが」
マッハは考えた。
「でしたら、二度と同じことが起きないようにしなければなりません」
キランはうなずいた。
「うん」
彼は損傷したスラスターを見た。
「それで、また空へ戻ったら……」
マッハは続きを待った。
キランは微笑んだ。
「僕たちを撃ち落としたことを、後悔させてやろう」
マッハの声が柔らかくなった。
「またあなたと一緒に飛べる日を楽しみにしています、キラン」
キランは背もたれに身体を預けた。
「僕もだよ、相棒」
街の反対側で、レイモンドの携帯電話が鳴った。
画面を見る。
エリソン刑事だった。
彼は電話に出た。
「どうした?」
『レイモンド。ハルシオンの不動産記録から、あるものが見つかりました』
レイモンドは背筋を伸ばした。
「何だ?」
『ハルシオンが解散したあと、施設はいくつかの企業を経由して所有権が移転しています』
「ああ」
『そのうちの一社の役員に、別の捜査で名前が挙がっている人物がいたんです』
レイモンドは眉をひそめた。
「誰だ?」
エリソンはためらった。
そして答えた。
『エイドリアン・ヴォスです』
レイモンドは動きを止めた。
「純化協定の報道官か?」
『はい』
彼は机の上の古いノートを見た。
「いつ頃の話だ?」
『企業登記の日付は、数年前にさかのぼります』
レイモンドは奥歯を噛みしめた。
「つまり、最近の襲撃事件よりも前から、ヴォスはハルシオンとつながっていたわけか」
『その可能性があります。まだ記録を確認しているところです』
レイモンドは手書きの文字を見つめた。
【エコー・ヴェイル――試験延期】
彼はゆっくりとノートを閉じた。
「エリソン」
『はい?』
「次の手がかりが見つかったようだな」
廃墟となったハルシオン施設の地下深くで、一人の技術者が命令を入力した。
ネットワークの図面が拡大する。
四十八台の接続機器が表示された。
続いて数百台。
そして数千台。
中央モニターにシトロンシティの地図が映し出された。
小さな赤い印が、街の各所に現れ始めた。
それぞれの印は、接続可能性のある地点を示していた。
保守管理ネットワーク。
通信中継装置。
移動支援システム。
適切な認証経路を突破できれば、到達できる可能性のある機器。
技術者は増え続ける数字を見つめた。
【ネットワーク推定到達率――23%】
【接続可能機器――拡大中】
【パージ・プロトコル――準備段階】
技術者は唾を飲み込んだ。
「司令官……」
スピーカーからヴェインの声が聞こえた。
『報告しろ』
「予備的な到達範囲モデルが完成しました」
『それで?』
技術者は街の地図を見た。
「残りの接続経路を確立できれば、ネットワークは数千台のヴェントシステムへ到達する可能性があります」
ヴェインはしばらく黙っていた。
それから微笑んだ。
『素晴らしい』
技術者はためらった。
「プロトコルが起動されたら、何が起きるのですか?」
ヴェインは光る地図を見つめた。
『そのとき、シトロンシティはようやく服従というものの意味を理解するだろう』
画面に最後のメッセージが表示された。
【エコー・ヴェイル・ネットワーク――拡張準備完了】
そして、眠りについた街の上空では、星々が変わらず輝き続けていた。
その地下で、古い軍事実験が、はるかに恐ろしいものへと姿を変えつつあることなど、誰も知らないままに。




