奪還への道
ギアの工房が襲撃されてから、三日が経過していた。
しかし、キラン・キリアンには、その三日間が三週間にも感じられた。
工房の西側には仮設の補強壁が設置され、崩落した屋根は防水シートで覆われていた。割れた窓には板が打ちつけられ、壊れた機械の残骸は大型コンテナにまとめられている。
建物は以前の姿を取り戻していなかった。
それでも、内部からは絶えず作業音が聞こえていた。
ガン! ガン! ガン!
「スナット!」
金属音に続いて、ギアの叫び声が響いた。
「このボルト、誰がこんなに締めたの!?」
キランは整備台の上から顔を上げた。
「ギアじゃない?」
「そんなわけないでしょ!」
マッハのアバターがモニターに現れた。
「整備記録によると、そのボルトを最後に締めたのはギアです」
ギアは動きを止めた。
「……いつ?」
「昨日の午後十一時四十二分です」
「覚えてない」
「睡眠不足による記憶力の低下が疑われます」
「マッハ」
「はい」
「その記録、消せる?」
「技術的には可能ですが、記録の改ざんは推奨しません」
キランは吹き出した。
ギアはレンチを持ち上げた。
「笑ってる場合じゃないよ、キラン。君の車椅子だって、まだ完全には直ってないんだから」
「わかってるよ」
キランはMACH-01Aの側面を見た。
左舷装甲は交換されていたが、塗装はまだ施されていない。後部スラスターの一部には仮設の冷却装置が取り付けられ、シールド発生装置も修理の途中だった。
何より深刻だったのは、推進系統の損傷だった。
マッハが診断結果を表示した。
【推進システム――出力制限中】
【最大飛行速度――通常時の62%】
【シールド最大容量――71%】
【長時間高負荷飛行――非推奨】
キランはため息をついた。
「これじゃ、追跡戦は厳しいね」
「追跡以前に、通常の戦闘にも制限があります」とマッハが答えた。
ギアは腕を組んだ。
「だから、無理に出撃しないでって言ってるんだよ」
「でも、ナサニエルはまだ――」
「わかってる」
ギアの声が少し柔らかくなった。
「わかってるよ、キラン」
キランは口を閉じた。
ナサニエル・ブルックス。
二十九歳のソフトウェア技術者。
自分の車椅子を守るための技術を開発していたという理由で、純化協定に誘拐された男性。
ゼロ病棟では生存が確認された。
しかし、救出直前に別の施設へ移送されてしまった。
キランは、オリヴィアとの約束を思い出した。
弟に、私が探すのをやめなかったって伝えて。
彼は操縦装置を握りしめた。
「見つけないと」
マッハのアバターが彼へ向き直った。
「見つけましょう。ただし、無計画に出撃することと、救出の可能性を高めることは同じではありません」
キランは少し笑った。
「厳しいね」
「友人として申し上げています」
「……うん」
キランはうなずいた。
「ありがとう、マッハ」
そのとき、工房の通信端末が鳴った。
画面に表示された名前を見て、ギアが顔を上げた。
【マーラ・エリソン刑事】
「移送車両の一台を特定しました」
エリソンの第一声に、キランは姿勢を正した。
「本当ですか!?」
画面の向こうで、エリソンはうなずいた。
「ゼロ病棟から回収した交通記録と、市内の監視カメラ映像を照合しました。病院が封鎖された直後、医療輸送車両が三台、地下の搬出口から出ています」
ギアが近づいた。
「三台?」
「はい。そのうち一台が、東部高速道路の料金所を通過しています」
マッハが地図を表示した。
「通過時刻は?」
「午後八時四十一分」
「ゼロ病棟の封鎖から約十九分後です」
エリソンは続けた。
「車両は医療機器の配送業者を装っていました。しかし、登録番号は偽造されていたことがわかっています」
キランは地図を見た。
「どこへ向かったんですか?」
「市の北東部にある旧工業地帯です」
ギアは眉をひそめた。
「そこって、ほとんど倉庫しかない場所じゃない?」
「現在も稼働している施設はいくつかあります。ですが、問題の車両が向かったと考えられる区画には、二年前に閉鎖された医療機器の物流センターがあります」
マッハが地図上に建物を表示した。
【ノースリッジ医療物流センター】
キランは名前を読み上げた。
「ノースリッジ……」
エリソンがうなずいた。
「閉鎖後、施設は民間の資産管理会社へ売却されています。その所有関係を調べていますが、複数の法人が介在しています」
ギアは腕を組んだ。
「いかにも怪しいね」
「ただし、車両がその建物に入ったと断定できる映像はありません」
キランは顔を上げた。
「じゃあ、まだ確証はないんですね」
「そうです。ですが、周辺の電力使用量に不自然な変化があります」
ギアとマッハが同時に反応した。
「電力?」
「はい。建物は閉鎖されているはずなのに、ここ数日、夜間の電力消費が急増しています」
キランはギアを見た。
ギアも彼を見返した。
二人は同時に言った。
「ゼロ病棟と同じだ」
ノースリッジ医療物流センターの地下では、ナサニエル・ブルックスが新しい監禁生活を送っていた。
以前の施設とは違い、ここには白い病室も、整然と並んだ医療機器もなかった。
壁は灰色のコンクリート。
天井には露出した配管。
照明は必要最低限。
そして、空気には消毒液と機械油が混ざったような臭いが漂っていた。
ナサニエルは、医療用の搬送椅子に座らされていた。
身体を支えるクッションは合っておらず、長時間同じ姿勢でいるせいで背中が痛んでいた。
彼の車椅子は、まだ返されていない。
向かいには若い女性がいた。
セリーナ・チョウではない。
別の被収容者だった。
二十代半ばほどの女性で、黒髪を肩まで伸ばしていた。
彼女は、何度もドアの方を見ていた。
「……あなたも、イーストヘイブンから?」
ナサニエルは小声で尋ねた。
女性はうなずいた。
「はい」
「名前は?」
「レイナ。レイナ・モリス」
「ナサニエルだ」
レイナは彼を見た。
「あなたが、あのソフトウェアを作った人?」
ナサニエルは驚いた。
「知ってるの?」
「警備員たちが話してた」
彼女は声を落とした。
「あなたのせいで、何台かの車椅子が動くようになったって」
ナサニエルはかすかに笑った。
「それなら、少しは役に立てたかな」
レイナはしばらく黙っていた。
それから尋ねた。
「助けは来ると思う?」
ナサニエルはすぐには答えなかった。
ゼロ病棟で聞いた警報。
遠くの爆発音。
自分を救出しようとしてくれた誰か。
彼は、その音を思い出した。
「来るよ」
レイナは顔を上げた。
「どうしてわかるの?」
ナサニエルは彼女を見た。
「一度、来てくれたから」
彼は窓のない部屋を見渡した。
「次は、きっとここまで来る」
その日の午後、シトロンシティ警察本部では、救出作戦の準備が始まっていた。
エリソンは会議室の大型画面に、ノースリッジ医療物流センターの図面を表示した。
レイモンドが腕を組んで立っていた。
キランとギアは遠隔通信で参加し、マッハも独立した通信端末から会議に加わっていた。
「今回の目的は明確です」とエリソンが言った。
彼女は画面を指さした。
「第一に、被収容者がいるかどうかを確認すること。第二に、確認できた場合は安全に救出すること。第三に、証拠を確保することです」
レイモンドがうなずいた。
「敵の数は?」
「不明です」
「武装は?」
「ゼロ病棟で確認されたものと同程度、あるいはそれ以上と考えています」
キランが口を開いた。
「僕も行きます」
ギアはすぐに彼を見た。
「キラン」
「わかってる。MACH-01Aはまだ完全じゃない」
「完全じゃないどころか、かなり制限があるんだよ」
マッハが続けた。
「現在の機体で長時間の高負荷戦闘を行うことは推奨できません」
キランは二人を見た。
「でも、今回は一人で戦うつもりじゃない」
エリソンが顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
キランは地図を示した。
「僕とマッハは、建物の外側で敵の注意を引ける。警察が安全な進入経路を確保する間、僕たちは敵のドローンや電磁兵器を引きつける」
レイモンドは少し考えた。
「陽動か」
「うん。でも、無茶な突入はしない。警察が救出を担当して、僕たちは必要なところを支援する」
ギアは腕を組んだ。
「……それなら、少しはマシかな」
マッハが言った。
「私も、現在の機体性能に適した戦術だと判断します」
エリソンはしばらく考えた。
「ただし、施設内に被収容者がいることを確認するまでは、攻撃しません」
「もちろんです」とキランは答えた。
「そして、独断で追跡しないこと」
キランは少し苦笑した。
「みんな、僕のことを何だと思ってるんですか?」
レイモンドが即答した。
「独断で追跡する男だ」
ギアがうなずいた。
「正解」
マッハも続いた。
「過去の行動記録と一致しています」
キランは天井を仰いだ。
「味方がいない……」
午後七時三十二分。
ノースリッジ医療物流センターの周辺は、静まり返っていた。
建物は広大な工業地帯の端に位置していた。
巨大な倉庫が並び、使われなくなった貨物線路が敷地の脇を走っている。
正面には大型トラック用の搬入口。
側面には従業員用の出入口。
そして地下には、かつて医療機器を保管していた低温倉庫があった。
キランはMACH-01Aで、建物から数百メートル離れた高架道路の下に待機していた。
「マッハ、状況は?」
「建物の内部から複数の熱源を検出しています。ただし、壁面の遮蔽材によって正確な人数は特定できません」
「電磁干渉は?」
「現時点では低レベルです」
キランは建物を見つめた。
「静かすぎるね」
「同感です」
無線からエリソンの声がした。
『監視班より報告。北側搬入口で警備員二名を確認。武装している可能性があります』
レイモンドが応答した。
『こちらも確認した。軍用の配置に近いな』
キランは眉をひそめた。
「純化協定かな」
マッハが答えた。
「断定はできません。しかし、警備員の行動には組織的な巡回パターンが見られます」
そのとき、建物の裏手で大型のシャッターが開いた。
黒い輸送車両が一台、ゆっくりと姿を現した。
キランは身を乗り出した。
「マッハ!」
「確認しています」
車両の後部には、医療機器の輸送を示す偽のロゴが描かれていた。
マッハが画像を拡大した。
「ゼロ病棟から逃走した車両の一台と、外装の特徴が一致します」
キランの心臓が速く打ち始めた。
「エリソン刑事!」
『こちらでも確認しました』
「追跡しますか?」
『待ってください。まず車両の行き先を確認します』
キランは歯を食いしばった。
輸送車両は敷地内の道路を進んだ。
そして、別の倉庫へ向かって曲がった。
マッハが地図に経路を表示した。
「キラン。車両は施設の外へ出ていません」
「どういうこと?」
「同じ敷地内の別棟へ移動しています」
キランは目を細めた。
「つまり……」
「地下施設が複数の建物に分散している可能性があります」
地下の収容区画で、ナサニエルは遠くから聞こえる機械音に気づいた。
大型シャッターが開閉する音。
輸送車両のエンジン音。
そして、警備員たちの慌ただしい足音。
レイナも顔を上げた。
「何かあったのかな?」
ナサニエルは耳を澄ませた。
廊下から声が聞こえた。
「第二輸送班、準備完了」
「優先対象の移送は?」
「まだだ。司令部からの承認待ちだ」
ナサニエルの表情が変わった。
優先対象。
自分たちのことだ。
彼はレイナを見た。
「また移送するつもりだ」
彼女の顔が青ざめた。
「どこへ?」
「わからない」
そのとき、廊下の向こうで警報が鳴った。
ピピピピッ!
警備員が叫んだ。
「外周センサーに異常!」
別の声が続いた。
「北側で不審な航空目標を確認!」
ナサニエルは息をのんだ。
航空目標。
彼はゼロ病棟で聞いた爆発音を思い出した。
そして、ニュースで何度も見た紫色の飛行車椅子を思い浮かべた。
「……来た」
レイナが彼を見た。
「何?」
ナサニエルは微笑んだ。
「助けが来たんだ」
キランは、まだ攻撃していなかった。
ただ、上空へ姿を現しただけだった。
しかし、純化協定の警備員たちは即座に反応した。
建物の屋上から二基の電磁砲台がせり上がった。
キランは目を見開いた。
「えっ、ちょっと待って!」
マッハが警告した。
「敵対的な照準を検出!」
バヂヂヂィッ!
一発目の電磁弾が夜空を切り裂いた。
キランは急旋回した。
二発目がMACH-01Aの後方をかすめた。
「まだ何もしてないのに!」
「敵は私たちの存在を脅威と判断したようです」
「それはわかるよ!」
キランは建物から距離を取った。
エリソンの声が無線に響いた。
『キランさん! 状況を報告してください!』
「屋上から撃たれています!」
『こちらでも発砲を確認しました。警察部隊は防御態勢に移行します!』
レイモンドが叫んだ。
『坊主! 無理に近づくな!』
「わかってる!」
マッハが砲台の位置を表示した。
「屋上の二基は固定式です。射角に制限があります」
キランは画面を見た。
「つまり、死角がある?」
「はい」
キランはにやりと笑った。
「じゃあ、そこを使おう」
MACH-01Aは急降下した。
建物の側面へ沿うように飛行し、砲台の射角から外れる。
フオォォッ!
電磁弾が頭上を通過した。
キランはプラズマ砲を構えた。
「マッハ、砲台の電源装置を狙える?」
「可能です。ただし、建物内部への被害を最小限に抑える必要があります」
「わかってる」
マッハが照準を調整した。
「発射可能です」
ピュン!
プラズマ弾が屋上の外部電源装置に命中した。
バチィィッ!
火花が散った。
一基目の砲台が停止した。
キランは反対側へ旋回した。
「もう一基!」
二基目が発砲した。
バヂヂヂッ!
MACH-01Aのシールドが衝撃を受けた。
【シールド耐久値――54%】
キランは顔をしかめた。
「マッハ!」
「シールドは維持されています」
キランは高度を下げた。
砲台の真下を通過する。
そして急上昇した。
「今!」
ピュン!
二基目の電源装置が破壊された。
砲台が停止した。
キランは息を吐いた。
「よし!」
しかし、マッハの声は緊迫していた。
「キラン。新たな航空目標を検出しました」
キランは振り向いた。
倉庫の屋根の向こうから、三機のハンター・ドローンが姿を現した。
キランはうめいた。
「また君たちか……」
警察部隊は、建物の北側入口を確保し始めていた。
エリソンは拡声器を使い、施設内の警備員へ投降を呼びかけた。
しかし、返答はなかった。
代わりに、内部から銃声が響いた。
バン! バン!
警官たちは遮蔽物へ身を伏せた。
レイモンドはエリソンのそばにいた。
「向こうは交渉する気がなさそうだな」
エリソンは無線を握った。
「負傷者は?」
『現時点で確認なし!』
「よし。無理に進まないでください」
レイモンドは建物の側面を見た。
そこには、古い搬送用エレベーターがあった。
「刑事」
「何ですか?」
「あれを使えるかもしれん」
エリソンは図面を確認した。
「地下保管区画につながっていますね」
「しかも、正面入口とは別の経路だ」
彼女は少し考えた。
「建物内に被収容者がいる可能性が高く、武装警備員が発砲しています。緊急救助の必要性は十分にあります」
レイモンドはうなずいた。
「なら、行こう」
地下の収容区画では、ナサニエルが再び端末を見つめていた。
今度は、前回のように簡単には操作できなかった。
警備員たちは彼の能力を警戒し、すべての端末から音声入力機能を無効化していた。
それでも、ナサニエルは諦めなかった。
彼は室内を見渡した。
壁の隅に、古い緊急呼出装置があった。
医療施設で使われる、患者が職員を呼ぶための装置だ。
ナサニエルはそれを見つめた。
「レイナ」
「何?」
「あの呼出装置、届く?」
彼女は壁を見た。
「たぶん」
「押してみて」
「でも、警備員が来ちゃうよ」
「それでいい」
レイナは戸惑った。
「どういうこと?」
ナサニエルは小声で説明した。
「警備員が来たら、扉が開く。そのとき、廊下の様子を確認できる」
レイナはしばらく考えた。
そして、うなずいた。
彼女は呼出装置を押した。
ピンポーン。
数秒後、廊下から足音が聞こえた。
扉が開いた。
警備員が顔を出した。
「何だ?」
レイナは苦しそうな表情を作った。
「すみません。座っている姿勢がつらくて……」
警備員は舌打ちした。
「後にしろ」
「でも、痛いんです」
ナサニエルが口を開いた。
「体位を調整しないと、皮膚を傷める可能性がある」
警備員は彼を睨んだ。
「黙ってろ」
しかし、その瞬間、廊下の向こうから大きな衝撃音が響いた。
ドォォン!
警備員が振り向いた。
無線から叫び声が聞こえた。
『地下搬送口が突破された!』
ナサニエルの心臓が跳ねた。
警備員は扉を閉めようとした。
そのとき、ナサニエルが叫んだ。
「レイナ! 今だ!」
彼女は手を伸ばし、扉の内側にある非常用の開放ボタンを押した。
ピピッ!
扉の閉鎖機構が停止した。
警備員が驚いて振り向いた。
「何を――」
その直後、廊下の向こうから声が響いた。
「警察だ! 武器を捨てろ!」
レイモンドだった。
地下通路で、レイモンドは二人の警備員を制圧した直後だった。
彼の背後には、エリソンと数人の警官が続いていた。
「右側の部屋を確認!」
警官が叫んだ。
「被収容者を発見!」
エリソンは無線で報告した。
「こちら地下班! 複数の被収容者を確認しました!」
レイモンドは廊下を進んだ。
そのとき、開いた扉の向こうから声がした。
「待って!」
レイモンドは振り向いた。
搬送椅子に座った若い男性が、こちらを見ていた。
「あなた、レイモンド・ハリソン?」
レイモンドは驚いた。
「そうだが……」
「キランの仲間だよね?」
「そうだ」
若い男性の目に涙が浮かんだ。
「俺、ナサニエル・ブルックスです」
レイモンドは息をのんだ。
「……ナサニエル?」
「はい」
レイモンドはすぐに無線を握った。
「キラン!」
上空では、キランとマッハが最後のハンター・ドローンと交戦していた。
MACH-01Aの推進装置は過熱し始めていた。
シールドも残り少ない。
キランは荒い息を吐いた。
「マッハ、あと一機!」
「確認しています。しかし、これ以上の高負荷飛行は危険です」
「わかってる!」
そのとき、無線が鳴った。
『キラン!』
レイモンドの声だった。
キランは即座に応答した。
「レイモンド!?」
『ナサニエルを見つけた!』
キランの動きが止まりかけた。
「……え?」
『ナサニエル・ブルックスだ! 生きてる!』
キランは目を見開いた。
一瞬、周囲の戦闘音が遠ざかったように感じられた。
「本当に?」
『本人が名乗った。警察が保護してる!』
キランの顔に笑みが広がった。
「マッハ……」
「聞こえています」
マッハの声も、わずかに柔らかくなった。
「ついに見つけましたね」
キランは目を閉じた。
オリヴィアとの約束。
ゼロ病棟の隔壁。
救出できなかった夜。
そのすべてが胸をよぎった。
「……うん」
しかし、その瞬間、ドローンが突進してきた。
マッハが叫んだ。
「キラン! 回避!」
キランは反射的に機体を傾けた。
ドローンが頭上をかすめた。
「危なっ!」
マッハが照準を合わせた。
「敵機の推進装置に損傷を確認。今なら撃墜できます」
キランは深く息を吸った。
「よし」
彼はプラズマ砲を構えた。
「これで終わりだ!」
ピュン! ピュン!
二発のプラズマ弾がドローンの推進装置に命中した。
カブォォォン!
機体が爆発した。
燃える破片が夜空に散った。
キランはMACH-01Aを安定させた。
「やった……」
マッハが報告した。
「周辺の航空脅威は排除されました」
キランは地下施設の方を見た。
「マッハ」
「はい」
「ナサニエルに会いに行こう」
救出作戦は、まだ完全には終わっていなかった。
警察は地下施設の残りの区画を捜索し、さらに複数の被収容者を発見した。
トーマス・ヴェイルも、その中にいた。
ほかにも、ゼロ病棟から移送された人々が確認された。
医療チームは、被収容者たちの体調を一人ずつ確認していた。
失われた移動機器を探す者。
家族への連絡を求める者。
長時間の不適切な姿勢によって痛みを訴える者。
そして、何が起きているのか理解できず、ただ泣いている者もいた。
キランは、警察の許可を得て地下の救護区域へ入った。
MACH-01Aの推進装置は低出力に制限されていたが、地上走行用の機構は問題なく機能していた。
彼はゆっくりと廊下を進んだ。
そして、一人の男性を見つけた。
搬送椅子に座った、二十九歳の男性。
ナサニエル・ブルックス。
キランは停止した。
「……ナサニエル?」
男性が顔を上げた。
「キラン・キリアン?」
キランは微笑んだ。
「うん」
ナサニエルはしばらく彼を見つめた。
それから、弱々しく笑った。
「本当に来たんだな」
キランは近づいた。
「遅くなってごめん」
ナサニエルは首を振った。
「来てくれただけで十分だよ」
マッハのアバターがバイザーに現れた。
「ナサニエル・ブルックスさん。私はマッハです」
ナサニエルは驚いた。
「君が……あのAI?」
「はい」
「ゼロ病棟で、警備員たちが君のことを話してた」
マッハは少し間を置いた。
「どのような内容でしたか?」
ナサニエルは苦笑した。
「連中にとって、君は相当厄介な存在らしい」
キランは笑った。
「それは僕も知ってる」
マッハが答えた。
「私は、厄介であることを目的として行動しているわけではありません」
「でも、結果的にはそうなってるよね」とキランが言った。
ナサニエルは笑った。
それは、監禁されて以来初めての自然な笑いだった。
しばらくして、キランは真剣な表情になった。
「ナサニエル」
「何?」
「オリヴィアから伝言を預かってる」
ナサニエルの表情が変わった。
「姉さんから?」
キランはうなずいた。
「君に伝えてほしいって」
彼は一度息を吸った。
「『私は、探すのをやめなかった』って」
ナサニエルは動かなかった。
数秒後、彼の目から涙がこぼれた。
「……姉さん」
キランは何も言わなかった。
ナサニエルは顔を伏せた。
「ずっと……心配してると思ってた」
「うん」
「俺が生きてるって、知ってる?」
「知ってるよ。ゼロ病棟で君を確認したときに伝えた」
ナサニエルは涙を拭った。
「じゃあ……もう一度、伝えてくれないか?」
「何を?」
彼はキランを見た。
「今度は、ちゃんと帰るって」
キランは微笑んだ。
「もちろん」
深夜。
ギアの工房では、ギアが通信画面を見つめていた。
そこには、救出されたナサニエルの写真が表示されていた。
ギアは大きく息を吐いた。
「……よかった」
マッハの声がスピーカーから聞こえた。
「はい」
「本当によかったね」
「同感です」
ギアは椅子にもたれかかった。
「これで、ナサニエルの研究も本人に返せる」
「彼が望むなら、共同開発の可能性について相談することもできます」
ギアは微笑んだ。
「そうだね」
そのとき、画面に新しい通知が現れた。
【回収データ解析――完了】
ギアは眉をひそめた。
「ん?」
マッハが続けた。
「ノースリッジ施設から回収された記録の中に、興味深いものがありました」
「何?」
画面に、暗号化された計画書の断片が現れた。
【分散型服従ネットワーク】
【都市規模実証試験――準備段階】
【対象区域:シトロンシティ】
ギアの表情が強張った。
「……都市規模?」
「はい」
マッハがさらに解析を進めた。
新しい文字列が表示された。
【最終運用段階――PURGE PROTOCOL】
ギアは画面を見つめた。
「パージ・プロトコル……?」
マッハは静かに答えた。
「詳細は不明です。しかし、これまでに確認した分散制御技術と関連している可能性が高いです」
ギアは背筋を伸ばした。
ナサニエルは救出された。
トーマスも戻ってきた。
ゼロ病棟から移送された人々の多くが、ようやく自由を取り戻した。
しかし、純化協定の計画は終わっていなかった。
むしろ、今までの事件は、その準備にすぎなかったのかもしれない。
ギアはゆっくりと息を吐いた。
「……スナット」
マッハのアバターが画面に現れた。
「ギア」
「何?」
「私たちは、まだ戦いの全体像を見ていないようです」
ギアは画面に表示された文字を見つめた。
PURGE PROTOCOL
その言葉は、不気味なほど静かに光っていた。
「……そうみたいだね」
同じ頃、純化協定本部では、ヘレナ・ヴェインがノースリッジ施設の陥落報告を受けていた。
コバルトが彼女の前に立っていた。
「被収容者の大半が救出されました」
ヴェインは無言で報告書を読んだ。
「ナサニエル・ブルックスも?」
「はい」
「研究データは?」
「一部が押収されました」
ヴェインは報告書を閉じた。
「……なるほど」
コバルトは慎重に尋ねた。
「次の命令は?」
ヴェインは窓の外を見た。
遠くに、シトロンシティの明かりが広がっていた。
何千もの建物。
何万もの道路。
そして、その街で暮らす数え切れない人々。
彼女は静かに言った。
「クリーン・スレート作戦は、予定より早く次の段階へ進める」
コバルトは顔を上げた。
「次の段階?」
「そうだ」
ヴェインは新しい画面を開いた。
そこには、シトロンシティ全域の地図が表示されていた。
複数の区域が赤く強調されている。
「ゼロ病棟もノースリッジも、実験施設にすぎなかった」
彼女は地図の中央に触れた。
「本当の目的は、もっと大きい」
コバルトは画面を見つめた。
「都市全体……」
ヴェインは微笑んだ。
「ウルトラヴァイオレットは、数十人を救ったことで勝利したと思っているだろう」
彼女はシトロンシティの地図を拡大した。
「ならば、次は数十人では済まない状況を作ってやる」
コバルトは黙っていた。
ヴェインの声が冷たく響いた。
「準備を進めろ」
「了解しました」
彼女は最後に、あるファイルを開いた。
【PURGE PROTOCOL】
【最終承認――保留中】
【都市規模展開――準備中】
ヴェインは画面を閉じた。
「次に奴らが救わなければならないのは、一つの施設に閉じ込められた人間ではない」
彼女は窓の外の街を見つめた。
「シトロンシティそのものだ」




