ゼロ病棟の秘密
イーストヘイブン医療研究センターは、三年前にその役目を終えていた。
少なくとも、公式記録にはそう記されていた。
シトロンシティ東部の郊外に建つ六階建ての施設は、ひび割れた駐車場と雑草に覆われた庭園、錆び始めた金網のフェンスに囲まれていた。窓は暗く、正面玄関には鎖が掛けられ、車道脇の色あせた看板には、施設が閉鎖されているため立ち入りを禁じる旨が書かれていた。
それなのに、電力メーターは回り続けていた。
そして建物の地下では、稼働中の病院を維持できるほど巨大な換気設備が、絶え間なく空気を循環させていた。
キラン・キリアンは、紫色の装甲飛行車椅子MACH-01Aで、放棄された駐車場の上空に浮かんでいた。機体の影が、ひび割れた舗装の上に長く伸びている。
「さて、と」
キランは建物を見つめた。
「三年前から誰かが電気を消し忘れてるか、とんでもなく金のかかる秘密を見つけちゃったか。どっちかだね」
マッハのアバターがバイザーに現れた。
「私は後者だと考えます」
「つまらないなあ」
「何度もそう言われています」
キランは微笑んだが、視線は建物から離さなかった。
上階の窓には遠くの街明かりが反射していた。ひび割れた窓もあれば、内側から板で塞がれた窓もある。東棟には色あせた救急車用の出入口があり、正面玄関はコンクリート製の障害物で封鎖されていた。
どこからどう見ても、廃墟だった。
地下から伝わる一定の振動を除けば。
「マッハ、電力消費量はどれくらい?」
「直近の計測では、およそ四百六十キロワットです」
キランは口笛を吹いた。
「幽霊病院にしては、ずいぶん電気を使うね」
「そのとおりです。さらに、消費パターンは断続的な設備保守ではなく、継続的な稼働を示しています」
「つまり、誰かがいる」
「誰か一人か、あるいは数十人でしょう」
黒いSUVが駐車場に入ってきた。
レイモンド・ハリソンが降り、続いてマーラ・エリソン刑事と制服警官二人が姿を現した。
キランは彼らの近くへ降下した。
「こんばんは、みんな」
レイモンドは巨大な建物を見上げた。
「ひでえ見た目の建物だな」
「まったくだよ。患者の悲鳴にまで追加料金を請求しそうな病院だね」
エリソンがタブレットを手に近づいた。
「周辺道路には、すでに警官を配置しています。誰かが出入りすれば把握できます」
「中には入れるんですか?」
「正面からは無理です。令状の請求を急いでいますが、今ある証拠では、敷地内のどの部分が使用されているのか特定できません」
キランは建物を見た。
「緊急事態なら?」
エリソンの表情が引き締まった。
「中にいる人が差し迫った危険にさらされていると判断できる合理的な根拠があれば、行動します。ただし、慎重に進めたいんです。捕らわれている人たちに必要なのは、病棟の真ん中で銃撃戦を始められることではありませんから」
レイモンドがうなずいた。
「同感だ」
マッハが会話に加わった。
「刑事、東棟の地下から断続的な電磁放射を検出しています」
エリソンはキランを見た。
「発生源は特定できますか?」
「ここからでは不可能です。建物には相当量の遮蔽材が使用されています」
キランは暗い入口を見つめた。
「じゃあ、もっと近づくしかないね」
放棄された病院の地下三階で、ナサニエル・ブルックスは、ベッドに鍵が掛かっていなくても、人間からどれほど自由を奪えるのかを思い知らされていた。
壁は白い。
床も白い。
天井のパネルまで白かった。
唯一の色彩は、ベッド脇の医療機器で点滅する緑色の表示灯だけだった。
ナサニエルは、細い診察用ベッドに横たわっていた。上半身は体位保持用のクッションで支えられていたが、その位置が快適かどうか、誰にも尋ねられていない。
車椅子はなかった。
携帯電話もなかった。
誘拐された夜に、どちらも奪われたのだ。
覆面の研究員が端末の横に立ち、いくつもの設計図を確認していた。
「実に高度な認証システムを開発されましたね、ブルックスさん」
ナサニエルは男を睨んだ。
「どうも。苦労して作ったんだ。もう帰っていいか?」
研究員は皮肉を無視した。
「あなたのソフトウェアは、不正な遠隔命令が移動支援機器の制御装置に到達する前に検出する」
「それが『不正命令防止機能』って言葉の意味だからな」
「さらに重要なのは、正規の保守命令と悪意ある干渉を区別できる点です」
ナサニエルの表情が強張った。
その機能については、誰にも詳しく話していなかった。
研究員は変化を見逃さなかった。
「驚きましたか?」
ナサニエルは天井の監視カメラを見た。
「俺のファイルを盗んだな」
「公共の安全に関係する資料を入手しただけです」
「俺を誘拐したくせに」
研究員はタブレットを操作した。
「我々は将来の危機を防ごうとしているのです」
「車椅子の使用者を誘拐して、機器を奪うことでか?」
男は答えなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
研究員がモニターを起動した。
ヴェントの移動制御装置の回路図と、ナサニエルのソフトウェア構造が並んで表示された。
「協調的な制御上書きが行われた場合、あなたの防御機構がどのように反応するのかを調べたいのです」
ナサニエルは背筋が冷たくなるのを感じた。
「防御を突破したいんだな」
「限界を把握したいのです」
「つまり、結局は人の車椅子を停止させられるようにしたいんだろ」
研究員は顔を近づけた。
「技術が、それを管理する責任を持つ組織よりも強大になってはならないのです」
ナサニエルは男を見つめた。
「あんたたちは、人に『嫌だ』と言われるのが怖いんだ」
初めて、男の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
しかし、ナサニエルは見逃さなかった。
研究員は姿勢を正した。
「次の診断手順を準備してください」
ドアの横に立っていた警備員が指示を受けた。
ナサニエルは再び端末を見た。
そこには、自分の書いたコードが表示されていた。
そして、その下では見覚えのない別のプログラムが動いていた。
名前の一部は権限確認ウィンドウに隠れていた。
【分散制御アーキテクチャ】
ナサニエルの心臓が速く打ち始めた。
連中が何を作っているにせよ、それは一台の車椅子だけを標的にするためのものではなかった。
地上では、ギアの声がキランの通信回線に響いた。
『よし、見つけたよ』
キランは病院の東棟へ向き直った。
「秘密の入口だって言ってくれると嬉しいな」
『正確には、古い保守用出入口だけどね』
「十分だよ」
三次元の設計図がバイザーに表示された。
ギアは、かつてのリハビリテーション棟の地下を通る細い通路を強調した。
『昔、リハビリ部門と地下の間で機材を運ぶためのサービス通路があったんだ。病院が閉鎖されたときに一般用の入口は塞がれたけど、この通路は外の保守用ハッチにつながってる』
レイモンドはエリソンのタブレットに表示された図面を調べた。
「幅は?」
『標準的な病院用搬送車椅子が通れるくらい。キランが側面スタビライザーを収納すれば、MACH-01Aも通れるはず』
キランは不満そうな顔をした。
「はず?」
『追加装甲を欲しがったのはキランでしょ』
「だって、みんな僕を撃ってくるんだよ!」
『その結果、通れないドアができちゃったってわけ。工学って面白いね』
マッハのアバターが現れた。
「正確を期すなら、追加装甲はこれまでに何度も致命的な負傷を防いでいます」
「ありがとう、マッハ」
「ただし、通路の幅に関してはギアが正しいです」
キランはため息をついた。
「お前もか、マッハ?」
ギアが笑った。
エリソンは保守用入口へ目を向けた。
「レイモンドさん、私と一緒にいてください。警官たちと連携して周囲を監視します。キランさんとマッハは通路を調べても構いませんが、内部の状況を確認するために必要な範囲を超えて進まないでください」
キランはうなずいた。
「了解です」
「もし捕らわれている人たちに遭遇したら?」
「助け出します」
「慎重に、ですよ」
キランは安心させるように微笑んだ。
「慎重に」
レイモンドは納得していない様子だった。
「坊主、お前の『慎重』の定義は見直した方がいいぞ」
保守用ハッチは、崩れたフェンスの裏側に隠れていた。
キランはMACH-01Aのマニピュレーターで錆びた南京錠を取り外した。
ハッチが不快な金属音を立てて開いた。
その先には、キランのヘッドライトだけが頼りのコンクリート通路が続いていた。
「居心地がよさそうだね」
マッハが元の設計図を表示した。
「リハビリテーション棟に到達するまで、およそ四十メートル続いているはずです」
キランは側面スタビライザーを収納した。
MACH-01Aの横幅がわずかに狭くなる。
彼は通路へ入った。
壁には古い配管と電線管が並んでいた。どこか頭上で水滴が落ち、湿ったコンクリートの臭いが漂っている。
二十メートルほど進んだところで、通路の様子が変わった。
古いコンクリート壁が、新しく設置された金属パネルに変わっていた。
天井には真新しいケーブルが走っている。
キランは停止した。
「マッハ?」
「はい。この改修は元の建築図面には記載されていません」
前方には重厚な防犯扉があった。
その横には、画面のない細長い操作パネルが取り付けられている。
キランは近づいた。
「開けられる?」
「アクセスシステムを特定しています」
数秒が過ぎた。
「興味深いですね」
「いい意味で? 悪い意味で?」
「扉は独立した制御回路で動作しているようです。アクセス可能な無線インターフェースがありません」
キランはパネルを調べた。
「つまり、ハッキングは無理?」
「遠隔操作では不可能です」
彼はマニピュレーターを扉へ伸ばした。
床下で、かすかな音がした。
カチッ。
マッハが即座に反応した。
「キラン! 止まってください!」
しかし、遅かった。
扉の上で赤い表示灯が点灯した。
【セキュリティ侵害を検出】
背後で鋼鉄製の隔壁が落下した。
ガラァァァン!
キランは振り向いた。
前方でも別の隔壁が降下した。
ドォォォン!
通路が封鎖された。
「いやあ」
キランは言った。
「ずいぶん歓迎してくれるね」
マッハの声が緊迫した。
「床下の圧力センサーです。物理的に独立した警報回路へ接続されています」
低いサイレンが鳴り始めた。
赤い非常灯が壁に沿って点滅する。
ギアの声が通信回線に飛び込んできた。
『キラン! 何があったの!?』
「どうやら、病院の歓迎マットを踏んじゃったみたい」
『スナット! 待ってて!』
マッハがナビゲーションモードを切り替えた。
【耐妨害ナビゲーション――作動中】
電磁干渉が通路を満たし、主センサーの表示がちらついた。
しかし、新しい補助システムは慣性測定と受動式の光学基準を使い、MACH-01Aの位置を追跡し続けた。
「ナビゲーションは正常です。ギアの改良は想定どおりに機能しています」
「最高だね。で、脱出できる?」
ギアは建物の設計図を確認した。
『通路の上に古い設備用シャフトがある。そこから換気設備の保守室につながってるはず』
キランは頭上を見た。
二本の天井支持材の間に、長方形の点検パネルがあった。
「マッハ、グラップラー」
「準備完了です」
ガシュンッ!
磁力グラップラーがパネルの補強枠に命中した。
キランは引っ張った。
ギギギギンッ!
パネルが引き剥がされた。
彼は狭いシャフトを覗き込んだ。
「入れるって言って」
「スタビライザーを収納した状態なら、通過可能です」
「その言葉、だんだん嫌いになってきたよ」
MACH-01Aが開口部へ上昇した。
その直後、下の通路に装甲兵たちの足音が響き始めた。
ヌリファイアーたちが戻ってきた。
キランが保守室へ出ると、反対側の出入口に三人の装甲兵が待ち構えていた。
以前、シトロンシティの地下で戦った部隊とは装備が異なっていた。
ヘルメットは細身になっている。
電磁兵器には追加の冷却装置が取り付けられていた。
装甲には、純化協定の白い交差した翼の紋章が描かれていた。
一人がライフルを構えた。
「標的を確認」
キランはうめいた。
「君たち、たまには休暇を取ったらどう?」
バヂヂヂッ!
電磁弾がMACH-01Aのシールドに命中した。
【シールド耐久値――86%】
キランは横へ加速した。
二発目が壁に命中する。
コンクリートの破片が室内に飛び散った。
「マッハ、分析!」
「改良型の電磁ライフルです。放電周波数が、こちらの主シールドの応答特性を突くよう調整されています」
「もちろん、そうだよね!」
キランは低出力のプラズマ弾を二発撃った。
ピュン! ピュン!
一発目がライフルに命中した。
武器が兵士の手から吹き飛ぶ。
二発目は別の兵士の肩装甲を直撃し、後方へよろめかせた。
三人目のヌリファイアーが拘束ケーブルを発射した。
キランは磁力グラップラーで受け止めた。
「ありがと!」
彼はグラップラーを逆方向へ引いた。
兵士が前につんのめる。
キランは加速した。
ドガンッ!
MACH-01Aの補強された側面装甲が兵士の胸部装甲に激突した。
兵士は収納棚へ叩きつけられた。
金属製のトレーが床に散乱した。
「一人!」
「残り二人です」
最初の兵士が武器を拾い直した。
新たな電磁弾がシールドに命中する。
【シールド耐久値――64%】
キランは顔をしかめた。
「今のは痛かったな」
「衝撃はシールドが吸収しました」
「精神的にだよ、マッハ!」
彼は次の射撃の下へ潜り込んだ。
そのとき、天井を走る露出した配管に気づいた。
「マッハ、あの蒸気管――」
「現在は使用されていませんが、構造物としては利用可能です」
「まさにそれ!」
キランは重い支持金具へグラップラーを発射した。
ケーブルが張った。
彼は最も近い兵士の周囲を旋回し、その勢いで支持金具を引き剥がした。
ガラァァン!
吊り下げられていた配管の一部がヌリファイアーたちの間に落下した。
兵士たちが後ずさる。
キランはその隙を突き、出入口の制御装置へ集中プラズマ弾を撃った。
ピュンッ!
火花が散った。
防犯扉が半開きの位置で停止した。
「行くよ!」
MACH-01Aがその下を飛び抜けた。
兵士の一人が追おうとした。
損傷した扉がさらに三十センチほど落下する。
ガシャン!
ヌリファイアーは慌てて後退した。
キランは広い廊下へ飛び出した。
「マッハ、患者たちは?」
「私たちの下です。およそ二階層下にいます」
キランはナビゲーション画面を見た。
「じゃあ、下へ行こう」
ナサニエル・ブルックスは、ずっと機会を待っていた。
そして、施設の警報が鳴ったとき、その機会が訪れた。
研究員は通信に応答するため、端末から離れた。
ドアの横にいた警備員も廊下へ注意を向けた。
数秒間、誰もナサニエルを見ていなかった。
彼は診断画面を調べた。
自分のソフトウェアは、まだ動作している。
それ以上に重要なのは、端末が限定的な操作を受け付けるモードのままになっていたことだった。
ナサニエルはキーボードに手が届かなかった。
しかし、このシステムには音声入力機能が備わっていた。
その機能の設計には、彼自身も関わっていた。
彼は小声で命令した。
「診断コマンド。アクセシビリティ・インターフェースを開け」
端末から小さな電子音が鳴った。
【アクセシビリティモード――有効】
ナサニエルは研究員をちらりと見た。
男はまだ通信に気を取られている。
「稼働中の移動支援機器を表示」
一覧が現れた。
二十三台。
そのほとんどに、こう表示されていた。
【遠隔制御――無効】
ナサニエルは息をのんだ。
二十三台。
少なくとも二十三人が、自分の移動機器を操作する権利を奪われている。
彼には命令構造がわかった。
純化協定は、正規の保守機能を土台にして、そこへ不正な上書き機能を追加していた。
ナサニエルのソフトウェアなら、その不正な命令を検出できる。
しかし、そのためには機器のネットワークにアクセスする必要があった。
「認証確認を実行」
警告が表示された。
【権限不足】
ナサニエルは画面を見つめた。
そのとき、保守診断機能の一つが、まだ操作可能な状態で残されていることに気づいた。
本来は、機器が正常に応答しているかを確認するための機能だ。
これを利用すれば、自分のソフトウェアに組み込んだ保護用の代替動作を起動できるかもしれない。
「ローカル安全確認を開始」
端末は一瞬、反応をためらった。
そして、いくつかの表示が変わった。
【機器認証エラー】
【不正な命令経路を検出】
【保護用代替動作を開始】
近くの部屋で、押収されたヴェント車椅子が小さな電子音を発した。
続いて、もう一台。
さらにもう一台。
ナサニエルは思わず微笑んだ。
「頼む……」
端末に新しい表示が現れた。
【ローカル制御が使用可能――制限モード】
成功した。
すべての機器ではない。
完全な復旧でもない。
しかし、純化協定による制御を妨害するには十分だった。
遠くで誰かが叫んだ。
「移動支援システムに何が起きている!?」
ナサニエルの笑みが消えた。
研究員が振り向いた。
男の視線が端末へ移る。
そして、ナサニエルへ。
「何をした?」
ナサニエルは真正面から男を見た。
「あんたたちが予想しておくべきだったことさ」
研究員は警報ボタンを押した。
「警備員! この部屋を確保しろ!」
数分後、キランは観察廊下へ到達した。
片側の壁には、補強ガラスが長く続いていた。
その向こうには、大きな医療病棟が広がっている。
並んだベッド。
診断機器。
監視カメラ。
そして、人々。
何十人もの人々がいた。
キランは速度を落とした。
「……なんてことだ」
見慣れない病院用の椅子に座らされている人もいた。
体位保持用の器具で身体を支えられ、ベッドに横たわっている人もいた。
怯えている人。
疲れ切っている人。
一人の女性は、覆面の係員に向かって激しく抗議していた。
高齢の男性は、自分の車椅子がどこへ運ばれたのかを繰り返し尋ねていた。
遠くの壁際で、キランはエリソンから見せられた失踪者の写真に写っていた若い女性を見つけた。
「セリーナ……」
マッハが警察のデータベースと顔を照合し始めた。
「セリーナ・チョウを確認。マーガレット・ホロウェイを確認。マリッサ・コールを確認」
キランは操縦装置を強く握った。
「何人いる?」
「視認できるのは二十一人です。ほかの部屋にも収容されている可能性があります」
彼は病棟を見渡した。
「エイドリアンは? トーマスは? ナサニエルは?」
マッハは少し沈黙した。
そして、小さな印が画面に現れた。
「キラン。隣接する診察室でナサニエル・ブルックスを確認しました」
キランは勢いよく振り向いた。
「どこ!?」
マッハが病棟の先にある扉を強調表示した。
「約三十メートル先です」
キランは再びガラス越しに病棟を見た。
セリーナが観察廊下へ顔を向けていた。
二人の視線が合った。
彼女は一瞬、自分の見ているものが信じられない様子だった。
それから、片手を上げた。
キランも手を上げた。
彼女の表情が変わった。
希望。
壊れてしまいそうなほどかすかで、恐怖に震えた希望だった。
キランは胸が締めつけられるのを感じた。
「連中は、この人たちから何もかも奪ったんだ」
マッハの声が柔らかくなった。
「すべてではありません」
キランは友人のアバターを見た。
「彼らはまだここにいます。そして、今も抵抗しています」
キランはうなずいた。
「じゃあ、脱出する道を作ってあげよう」
純化協定本部で、ヘレナ・ヴェイン司令官は侵入の報告を受けても、驚いた様子を見せなかった。
コバルトが隣に立っていた。
「ウルトラヴァイオレットが、イーストヘイブンの下層階に侵入しました」
ヴェインは監視映像を調べた。
キランの紫色の装甲車椅子が観察廊下を進んでいる。
「予想より早いな」
「追加のヌリファイアーを投入しますか?」
「優先度の高い被収容者を移送するまでは待て」
コバルトは眉をひそめた。
「それでは一般病棟が無防備になります」
「一般病棟は失っても構わん」
コバルトは何も言わなかった。
ヴェインは指令画面を起動した。
「ホワイトアウト緊急計画を開始。最優先対象を移送し、機密研究記録を消去しろ。下層医療区画を隔離する」
確認表示が次々と現れた。
【ホワイトアウト緊急計画――承認】
【優先対象移送――実行中】
【データ消去――待機中】
ヴェインは別のモニターを調べた。
そこには、MACH-01Aの通信活動が表示されていた。
「それから、隔離手順の準備も始めろ」
コバルトは彼女を見た。
「車椅子に対するものですか?」
「AIに対するものだ」
彼女はマッハの信号特性を拡大した。
「あの知性は単なる制御システムではない。独立して判断する存在だ」
コバルトはうなずいた。
「そして、重大な障害でもあります」
「そのとおりだ。奴が依存する支援基盤から、どう切り離すかを調べなければならん」
彼女は少し間を置いた。
「操縦者も侮るな。あの男は民間人を守るためなら、繰り返し自分を危険にさらす」
「そこは利用できます」
ヴェインの目が細くなった。
「すでに利用している」
コバルトは扉へ向かった。
「撤収は私が直接監督します」
「最優先対象を無傷で運び出せ」
「ほかの者たちは?」
ヴェインはモニターへ視線を戻した。
「移送が完了するまで、侵入者の足止めに使え」
キランは病棟の防犯扉へ磁力グラップラーを撃ち込んだ。
ガシュンッ!
補強された扉が震えた。
「マッハ、解除できる?」
「制御回路は独立しています。しかし、施錠機構には機械式の解除装置があります」
「どこ?」
バイザーの中で、扉枠の一部が光った。
「そこです」
キランは正確に狙いを定め、プラズマ弾を撃った。
ピュンッ!
施錠機構から火花が散った。
彼はグラップラーで引っ張った。
ギギギギギンッ!
扉が横へ開いた。
中にいた数人が驚いて声を上げた。
キランはゆっくりと入った。
「みんな、聞いて! 助けに来たよ!」
高齢の女性が振り向いた。
「警察の人かい?」
「警察も外にいます。これから皆さんを助け出します」
セリーナが彼を見つめた。
「本当に、あなたなの?」
キランは微笑んだ。
「誰を期待してるかによるかな」
「ソニック・ウィーラーズ……」
「だったら、大当たりだね」
緊張した笑い声が、病棟に少しだけ広がった。
マーガレット・ホロウェイが病院用の搬送椅子で近づいてきた。
「まったく、やっと来たのかい!」
キランは彼女を見た。
「お待たせしてごめんなさい」
「本当にそうだよ!」
マッハが割って入った。
「キラン、西側の廊下から警備員が接近しています」
キランは扉へ向き直った。
「レイモンド! エリソン刑事! 捕らわれていた人たちを見つけた!」
エリソンが即座に応答した。
『こちらも中へ向かっています。警官たちがサービス入口を確保中です』
続いてレイモンドの声がした。
『そこを動くな。避難経路を作る』
キランは病棟の人々を見た。
「よし、みんな。何組かに分かれて脱出するよ。誰も置いていかないからね」
マッハが病棟の壁面ディスプレイに、移動しやすい避難経路を投影した。
「移動機器を操作できる方は、東側のサービス通路へ進んでください。介助が必要な方には支援を手配します」
若い男性が手を上げた。
「僕の車椅子、動かないんです」
キランは、押収された機器が並ぶ保管区域を見た。
「マッハ?」
「一部の機器はローカル制御を限定的に回復しています。ほかはまだ停止したままです」
キランはかすかに微笑んだ。
「ナサニエルだ」
「その可能性は十分にあります」
数人の警官が病棟に入ってきた。
レイモンドも続いた。
彼は収容者たちを見渡した。
「よし、みんな! 慎重に移動するぞ! 走る必要はない。誰もはぐれないようにな!」
マーガレットは機器保管区域を指さした。
「私の車椅子はあそこにあるんだよ!」
レイモンドはうなずいた。
「取り戻しましょう」
キランは隣接する診察室へ向き直った。
ナサニエルは、その先にいる。
「マッハ、あとどれくらい?」
「二十八メートルです」
キランは加速した。
そのとき、警報音が変わった。
低い機械音が建物全体に響き渡る。
【ホワイトアウト緊急計画――開始】
重厚な防爆扉が降下し始めた。
「キラン!」とマッハが叫んだ。
彼は開口部へ向かって加速した。
しかし、間に合わなかった。
ガラァァァァン!
鋼鉄製の隔壁が、病棟と診察室の間に落下した。
キランは、その数センチ手前で停止した。
「そんな!」
彼は扉へグラップラーを撃ち込んだ。
磁力クランプが固定される。
引っ張った。
びくともしなかった。
「マッハ!」
「隔壁は補強され、機械式のロックが掛かっています」
「切断できる?」
「可能だとしても、移送経路が閉鎖される前には間に合わないでしょう」
二つ目の警報が鳴った。
【優先対象輸送車両――出発】
キランは表示を見つめた。
「ナサニエル……」
レイモンドが無線で叫んだ。
『キラン! こっちに戻ってこい!』
キランは病棟へ目を向けた。
数人の患者が避難を始めていた。
ほかの人々は、まだ介助を待っている。
別の廊下からは警備員たちが接近していた。
そして隔壁の向こうでは、ナサニエルが連れ去られようとしている。
マッハのアバターが現れた。
「キラン」
彼は答えなかった。
「この経路からでは、ナサニエルに間に合いません」
キランは歯を食いしばった。
「……わかってる」
「病棟の人々には、まだ私たちが必要です」
彼はしばらく目を閉じた。
そして、開いた。
「……うん」
MACH-01Aを反転させた。
「あの人たちを家に帰そう」
避難は、決して整然としたものではなかった。
故障した搬送椅子が狭いサービス通路を塞いでいた。
一人の患者は、安全に移動するために専用の体位保持具が必要だった。
別の患者は、隣の診察室へ連れていかれた友人を残しては行けないと、避難を拒んでいた。
キランはレイモンドや警官たちと協力し、MACH-01Aのマニピュレーターで瓦礫を動かし、損傷した扉を開いた状態で支えた。
マッハは避難経路を管理し、防犯隔壁が閉まり始めるたびに警告した。
「次の封鎖サイクルまで三分です」
レイモンドは警官たちを見た。
「次の組を移動させろ!」
マーガレット・ホロウェイが、取り戻した自分の車椅子で彼の横へ進んできた。
「ちょっと、そこの若い人!」
レイモンドは振り向いた。
「はい、何でしょう?」
「奥に、ジョイスティックの取り付け部品がないと車椅子を動かせない女の子がいるんだよ」
レイモンドはうなずいた。
「場所を教えてください」
マーガレットは指さした。
「部品を忘れるんじゃないよ!」
「もちろんです」
キランは状況にもかかわらず、微笑んだ。
彼女は、生涯を通じて誰にも無視されまいとしてきた人なのだろう。
そのとき、廊下の先にヌリファイアーが現れた。
「止まれ!」
兵士が武器を構えた。
キランは即座に、銃口と避難者たちの間へ移動した。
バヂヂヂッ!
電磁弾がMACH-01Aのシールドを直撃した。
【シールド耐久値――38%】
キランは歯を食いしばった。
「マッハ!」
「対抗措置を起動!」
キランは磁力グラップラーを発射した。
ケーブルが兵士のライフルに巻きつく。
彼は引っ張った。
ガシャン!
武器がヌリファイアーの手から吹き飛んだ。
レイモンドが突進し、兵士を壁へ叩きつけた。
ドガンッ!
「そのまま進め!」とレイモンドが叫んだ。
キランは避難者たちへ振り向いた。
「みんな、大丈夫?」
セリーナが震えながらうなずいた。
「うん……」
「よし。そのまま行こう」
最初の避難者たちが地上へ到達する頃には、駐車場はパトカーと救急車で埋め尽くされていた。
医療チームが、ストレッチャーや体位保持具、代替の移動支援機器を携えて駆け寄った。
エリソンが到着者の対応を指揮していた。
「身元確認と家族への連絡が済むまで、救助された人たちをできるだけ一緒にしておいてください!」
キランは最後の組に続き、保守通路から姿を現した。
MACH-01Aの装甲は焦げていた。
シールド発生装置は過熱していた。
片側のスタビライザーも、電磁干渉によって損傷していた。
しかし、彼が連れ出した人々は生きていた。
セリーナが振り返った。
「ありがとう」
キランは微笑んだ。
「どういたしまして」
彼女はためらった。
「みんな、見つかったの?」
キランの笑みが消えた。
「……まだだよ」
マーガレットが近づいてきた。
「だったら、探し続けるんだよ」
キランはうなずいた。
「もちろんです」
レイモンドが合流した。
「十六人、救出できた」
キランは建物を見た。
「十六人……」
マッハが最新情報を表示した。
「私たちが確認した区域だけでも、少なくとも五人の所在が不明です。到着前に、さらに多くの被収容者が移送された可能性もあります」
キランは暗い病院を見つめた。
ナサニエルは、まだ中にいるのだろうか。
それとも、すでに連れ去られたのか。
オリヴィアは今も待っている。
そしてキランは、弟の居場所を地図上で確認できるほど近づいたのに、連れ帰ることができなかったと伝えなければならない。
エリソンが近づいた。
「全面捜索を正当化できるだけの証拠は確保しました。追加の特殊部隊が向かっています」
キランはうなずいた。
「よかった」
「ですが、建物の安全が確認されるまで、ここにいてください」
彼は彼女を見た。
「刑事、あの病棟の下には、まだ何かあります」
「何ですって?」
「マッハが、さらに下の階層を検出したんです。元の設計図には載っていません」
エリソンは彼を見つめた。
「そこへ行けますか?」
キランは病院へ目を向けた。
「確かめる方法は、一つしかありません」
隠された研究室は、最下層の医療フロアのさらに下にあった。
入口は保守設備の仕切り壁の裏に隠されていた。
キランが到着したとき、研究室はすでに放棄されていた。
コンピューター端末は暗くなっている。
収納棚のいくつかは空だった。
診断用の椅子が一列に並び、床へ固定されていた。
その上には、センサーや接続端子を備えた関節式の機械アームが吊り下げられている。
キランは設備の間をゆっくり進んだ。
「マッハ……」
「確認しています」
部屋の中央には、大型の制御卓があった。
画面は消去されていた。
しかし、補助保守端末には運用データの断片が残っていた。
マッハがファイルへアクセスした。
「ほとんどの記録が破壊されています」
「何か残ってる?」
「断片的な情報なら」
一連の図面が表示された。
何十台もの移動支援機器が、一つの命令ネットワークに接続されている。
複数の制御経路。
中央集権的な認証機構。
キランは画面を見つめた。
「これは保守システムじゃない」
「ええ、違います」
マッハが図面を拡大した。
「この構造は、複数のヴェントシステムへ同時に命令を送信するために設計されているようです」
キランは背筋が冷たくなるのを感じた。
「何台に?」
「現在のデータでは、最大数を判断できません」
「全部停止させることもできる?」
マッハは少し間を置いた。
「それも可能な機能の一つと思われます」
キランは並んだ診断椅子を見た。
拘束具。
廃棄された機器。
盗まれた研究成果。
すべてが、少しずつつながり始めていた。
「連中は、ただ人を誘拐してるんじゃない……」
彼はつぶやいた。
「何かを実験してるんだ」
マッハが最後のファイル断片を復元した。
【プロジェクト:分散型服従ネットワーク】
【実地展開――準備中】
【承認権限――制限付き】
キランは文字を見つめた。
「服従……?」
マッハの声は、いつになく静かだった。
「課された規則や命令に従うことを表す言葉です」
キランは友人のアバターを見た。
「連中は、すべてのヴェントを自分たちの命令に従わせたいんだ」
「その解釈には合理性があります」
「もし、誰かが拒否したら?」
マッハはすぐには答えなかった。
やがて、こう言った。
「もっと情報が必要です」
キランはうなずいた。
「……うん」
彼は研究室を最後にもう一度見渡した。
「もっと、ずっと多くの情報が必要だ」
ナサニエル・ブルックスは、輸送車両が動き始めるのを感じた。
彼は診察室から、厳重に管理された医療用区画へ移されていた。
車椅子は、まだ返されていない。
向かいには二人の警備員が座っていた。
搬送ベッドの横では、医療モニターが規則正しく電子音を鳴らしていた。
ナサニエルは天井を見つめた。
警報は聞こえていた。
叫び声も。
遠くで響く武器の音も。
誰かが来てくれた。
誰かがゼロ病棟を見つけてくれた。
しかし、自分のところまでは到達できなかった。
彼は唾を飲み込んだ。
「どこへ連れていくんだ?」
どちらの警備員も答えなかった。
ナサニエルは細い窓へ目を向けた。
そこから、シトロンシティの明かりが遠ざかっていくのが見えた。
彼はオリヴィアを思った。
自分が開発していたソフトウェアを思った。
そして、純化協定が成功すれば、自分の移動機器を操作する権利を二度と取り戻せなくなるかもしれない人々を思った。
ナサニエルは目を閉じた。
探すのをやめないでくれ、姉さん。
お願いだ。
純化協定本部で、ヘレナ・ヴェインはイーストヘイブン作戦の結果を確認していた。
十六人の被収容者が救出された。
医療施設一か所が露見した。
複数のヌリファイアーが戦闘不能となり、あるいは逮捕された。
機密研究記録は破壊された。
優先度の高い対象の移送は成功した。
コバルトが机の前に立っていた。
「施設を失いました」
ヴェインはうなずいた。
「そうだな」
「ウルトラヴァイオレットは分散制御計画の証拠も回収しています」
「断片にすぎん」
「奴は調査を続けるでしょう」
「当然だ」
彼女は新しい画面を起動した。
ギアの工房の三次元模型が現れた。
電力接続。
通信システム。
出入り口。
周辺の建物。
それぞれが強調表示されていた。
ヴェインは画像を調べた。
「だからこそ、奴の調査を今後は相当困難なものにしなければならん」
コバルトは画面へ近づいた。
「工房ですか?」
「奴の技術者は、すでに我々の電磁兵器に対する対抗措置を開発している。AIも予想以上の速度で適応を続けている。あの二人は、我々にとって重大な障害になりつつある」
彼女は建物の東側の壁を拡大した。
「あの工房こそ、奴らの活動の基盤だ」
コバルトはうなずいた。
「破壊すれば、奴らの能力は低下します」
「単に破壊するだけではない」
ヴェインの目が細くなった。
「孤立させろ。通信を遮断し、外部電源を停止させる。増援が近づけないようにするのだ」
彼女はコバルトへ向き直った。
「そして、技術者が後からすべてを簡単に再建できないようにしろ」
コバルトの表情が険しくなった。
「了解しました」
ヴェインは街の地図へ視線を戻した。
「攻撃部隊を準備しろ」
「直ちにですか?」
「配置を始めろ。実行の時機はこちらで選ぶ」
彼女は少し間を置いた。
「それから、コバルト」
「司令官?」
「ウルトラヴァイオレットは、民間人を守るためなら攻撃を中断することがわかった」
「はい」
「次は、守らなければならないものを一つ以上用意してやれ」
コバルトはうなずき、部屋を出ていった。
ヴェインは、画面の中でゆっくり回転する工房の模型を見つめた。
今頃あの建物では、キラン・キリアンとその仲間たちが、救った命を喜んでいるのだろう。
十六人がゼロ病棟から脱出した。
十六人が家族のもとへ帰る。
十六人が、純化協定の行いを世界へ語ることになる。
ヴェインは、その結果が何を意味するのか理解していた。
ただ、気にしていないだけだった。
組織には、ほかにも施設がある。
ほかにも研究室がある。
ほかにも被収容者がいる。
そして、一つの廃病院の壁をはるかに超える計画が存在していた。
彼女は机の操作パネルに触れた。
【クリーン・スレート作戦――第三段階準備】
確認メッセージが現れた。
【支援ネットワーク無力化――承認】
ヴェインはかすかに微笑んだ。
「勝利を楽しむがいい、ウルトラヴァイオレット」
目の前には、工房の設計図が明るく表示されたままだった。
「しばらくは、それが最後の勝利になるかもしれんぞ」




