狩人たちの足音
シトロンシティの朝は、いつもどおりに始まった。
通勤客を乗せたバスが交差点を通り過ぎ、カフェの店員たちは開店前の準備に追われていた。学校へ向かう子供たちが歩道を行き交い、街の中心部では高層ビルの窓に朝日が反射していた。
しかし、その平穏な風景の裏側では、何かが確実に変わっていた。
人々が消えていた。
一人、また一人と。
そして、その数は増え続けていた。
午前七時二十三分。
マーラ・エリソン刑事は警察本部の会議室で、壁一面のモニターを見つめていた。
画面には、昨夜までに確認された失踪者の名前が並んでいる。
【エイドリアン・ケラー】
【マーガレット・ホロウェイ】
【セリーナ・チョウ】
その下には、さらに多くの名前が続いていた。
エリソンは新しい報告書を開いた。
「……また一人」
隣に立っていた若い刑事が顔を上げた。
「何ですか?」
「昨夜、南部の住宅地区で二十八歳の男性が行方不明になったそうです。ヴェント使用者で、最後に目撃されたのは午後十時四十分」
「家出の可能性は?」
エリソンは報告書を机に置いた。
「自宅の玄関前に車椅子の破損した制御装置が落ちていたそうです」
若い刑事は黙った。
エリソンは椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
昨日まで、彼女はこの事件を連続誘拐事件として捜査していた。
しかし、今ではそれだけでは足りない気がしていた。
これは、組織的な狩りだった。
そして、シトロンシティ全体が、その狩り場になろうとしていた。
ギアの工房では、朝から金属を叩く音が響いていた。
カンッ! カンッ!
「スナット! このネジ、誰がこんなに固く締めたの!?」
ギアはMACH-01Aの側面装甲を開きながら叫んだ。
作業台の横では、キランが眠そうな顔でコーヒーを飲んでいた。
「たぶん、前に整備した人じゃない?」
ギアはゆっくりと振り返った。
「……僕が整備したって言いたいわけ?」
キランは微笑んだ。
「言ってないよ」
「顔に書いてある!」
マッハのアバターが現れた。
「記録によれば、そのネジを最後に締めたのはギアです」
ギアは天井を見上げた。
「裏切り者が二人もいる!」
キランは笑った。
しかし、その笑いは長く続かなかった。
工房の大型モニターには、昨夜発見した貨物集積所の写真が表示されていた。
拘束具。
壊れた車椅子の部品。
そして、あの通信装置。
キランはコーヒーカップを置いた。
「マッハ、録音はもう一度調べた?」
「はい。音声の復元可能な部分はすべて解析しました」
「何かわかった?」
「背景音に、周期的な低周波振動が含まれています」
ギアが工具を置いた。
「振動?」
「大型の換気設備、産業用冷却装置、あるいは地下鉄に類似した機械設備の可能性があります」
キランは眉をひそめた。
「それで場所がわかる?」
「残念ながら、現時点では特定できません」
ギアは椅子を引き寄せた。
「じゃあ、街中の施設と照合してみようよ」
「すでに開始しています」
マッハが答えた。
キランは画面に表示された文字を見つめた。
【WARD ZERO】
ゼロ病棟。
あの女性は、確かにそう言っていた。
そこにナサニエルがいるのだろうか。
エイドリアンやセリーナも。
そして、もし見つけたとして、全員を救い出せるのだろうか。
「キラン?」
ギアの声で我に返った。
「何?」
「また考え込んでる」
「……ちょっとね」
ギアは工具を置き、彼の横へ来た。
「全部一人で背負わなくていいんだよ」
キランは小さく笑った。
「背負ってるつもりはないよ」
「じゃあ、その顔は何?」
マッハが口を挟んだ。
「睡眠不足、精神的負荷、そして朝食を十分に摂取していないことが原因と推測されます」
キランは目を細めた。
「マッハ」
「はい?」
「僕の味方じゃなかったの?」
「もちろんです。だからこそ申し上げています」
ギアは満足そうにうなずいた。
「さすがマッハ」
キランはため息をついた。
「二人とも、本当に容赦ないね」
午前九時。
シトロン学園では、いつもより重苦しい空気が漂っていた。
キランが教室へ入ると、生徒たちは普段のように騒いでいなかった。
数人が携帯電話を見つめている。
ほかの生徒たちは小声で話していた。
キランは教卓の前に移動した。
「おはよう、みんな」
返事はまばらだった。
彼は少し考えてから、授業を始めた。
今日の教材は、社会の圧力と個人の選択を扱う文学作品だった。
しかし、本文を読み始めて十分ほど経ったところで、一人の生徒が手を挙げた。
「先生」
「どうしたの?」
「ニュースで、また人が消えたって言ってました」
教室が静かになった。
キランはうなずいた。
「そうだね」
「先生は、その人たちを助けに行くんですか?」
キランは少し間を置いた。
「できる限りのことをするつもりだよ」
別の生徒が口を開いた。
「でも、先生だって一人ですよね?」
その言葉に、キランは思わず微笑んだ。
「正確には、僕は一人じゃないけどね」
マッハのアバターが教室のディスプレイに現れた。
「私を忘れないでいただきたいですね」
何人かの生徒が笑った。
しかし、質問した生徒は真剣なままだった。
「それでも、街中の人を全員助けるのは無理じゃないですか?」
キランは答えに詰まった。
それは、彼自身が何度も考えていたことだった。
「……そうだね」
彼は静かに答えた。
「僕たちだけで全員を守ることはできない」
生徒たちは彼を見つめた。
「でも、それは何もしなくていい理由にはならないんだ」
キランは黒板に向き直った。
そして、チョークで一つの言葉を書いた。
【責任】
「誰かが困っているとき、その人を助ける責任は誰にあると思う?」
一人の生徒が答えた。
「警察?」
「そうだね。ほかには?」
「政府」
「家族」
「友達」
キランはうなずいた。
「全部、正しい答えだと思う」
彼は教室を見渡した。
「でも、僕はもう一つあると思うんだ」
黒板に新しい言葉を書き加えた。
【私たち】
「困っている人を助けることは、必ずしも悪者と戦うことじゃない。誰かの話を聞いたり、間違った噂を広めないようにしたり、危険を見つけたら大人に知らせたりすることだって、立派な助けになる」
教室の後ろで、一人の生徒が小さくうなずいた。
キランは教材へ戻った。
しかし、その日、生徒たちが最も長く覚えていたのは、文学作品の内容ではなかった。
黒板に書かれた、二つの言葉だった。
昼休み。
マイケイラは職員室の窓際で、キランを待っていた。
彼が入ってくると、彼女はすぐに声をかけた。
「キラン」
「やあ」
「ちょっと話せる?」
彼は彼女の表情を見て、軽口を言うのをやめた。
「もちろん」
二人は人の少ない廊下へ移動した。
マイケイラは腕を組んだ。
「昨夜も、ほとんど寝てないでしょう?」
キランは苦笑した。
「マッハに聞いた?」
「聞かなくてもわかるわ」
彼女は彼の目の下を指さした。
「顔に書いてあるもの」
キランはため息をついた。
「ギアと同じこと言うね」
「それだけわかりやすいってことよ」
マイケイラは少し声を落とした。
「昨日のニュース、見た?」
「うん」
「また登録制度の話ばかりだった」
彼女は窓の外を見た。
「人が消えているのに、まるでその人たちが悪いことをしたみたいに話す人がいるのよ」
キランは黙って聞いていた。
「怖いわ」
マイケイラは続けた。
「事件そのものも怖い。でも、周りの人たちが少しずつ、それを当たり前みたいに受け入れ始めているのがもっと怖い」
キランは彼女を見た。
「……僕もだよ」
マイケイラは彼の手に触れた。
「だから、お願い。無茶をしないで」
「約束するよ」
彼女は眉を上げた。
「本当に?」
「……できるだけ」
「キラン」
「わかった。ちゃんと気をつける」
マイケイラはようやく微笑んだ。
「それならいいわ」
そして、少しためらってから言った。
「今夜、夕食は?」
キランは彼女を見た。
前に約束を破ってしまったことを思い出した。
「……今度こそ、行きたい」
「じゃあ、七時に」
「うん」
彼女は彼の頬に軽くキスをした。
「遅刻したら、今度は私が迎えに行くから」
キランは笑った。
「それは怖いな」
「でしょう?」
午後三時四十分。
ギアの工房に、エリソンから緊急連絡が入った。
「新しい情報が見つかりました」
キランは通信画面を見た。
「何ですか?」
「昨夜の貨物集積所で回収した書類の一部です。鑑識が破れた紙片を復元しました」
画面に画像が表示された。
【TRANSFER GROUP C】
【MEDICAL SCREENING — COMPLETE】
その下に、かすかに読める文字があった。
【WZ-0 / EASTERN MEDICAL SECTOR】
ギアが身を乗り出した。
「WZ-0?」
マッハが答えた。
「Ward Zeroの略称である可能性があります」
キランの表情が引き締まった。
「東部医療地区……」
エリソンはうなずいた。
「その周辺にある閉鎖済みの医療施設を調べています」
レイモンドが通信に加わった。
『東部医療地区は広いぞ。古い病院も、研究施設もある』
「わかっています」
エリソンが答えた。
「ですが、これまでで最も具体的な手がかりです」
ギアは地図を開いた。
「マッハ、閉鎖された施設を全部表示して」
「了解しました」
地図上に複数の印が現れた。
古い診療所。
使われなくなったリハビリ施設。
閉鎖された民間病院。
そして、街の外れにある大きな医療研究施設。
キランはその最後の建物を見つめた。
「ここは?」
ギアが説明した。
「数年前に閉鎖された施設だね。今は使われてないはず」
マッハが情報を調べた。
「施設名はイーストヘイブン医療研究センター。三年前に運営を終了しています」
キランは眉をひそめた。
「……怪しいね」
レイモンドが答えた。
『怪しいだけじゃ踏み込めねえぞ』
エリソンもうなずいた。
「まずは証拠を集めます。監視カメラ、電力使用量、車両の出入り。何か見つかれば令状を請求できます」
キランは地図を見た。
「じゃあ、僕たちも調べよう」
その夜。
シトロンシティ東部の外れに、巨大な建物が静かに佇んでいた。
イーストヘイブン医療研究センター。
三年前に閉鎖されたその施設は、今では窓の大半が暗く、敷地内には雑草が生い茂っていた。
しかし、地下では違っていた。
白い廊下。
蛍光灯。
規則正しく並んだ扉。
そして、静かに作動する医療機器。
一つの部屋で、ナサニエル・ブルックスが目を覚ました。
彼は簡素なベッドに横たわっていた。
車椅子はない。
腕には医療用の識別バンドが巻かれている。
天井の白い光が眩しかった。
「……ここは?」
彼は身体を動かそうとした。
しかし、自由には動けなかった。
ベッドの横には、見慣れない医療機器が置かれていた。
ナサニエルは息を整え、周囲を見渡した。
壁には小さな監視カメラがあった。
ドアには窓がない。
そして、その上に一つの表示があった。
【WARD ZERO】
ナサニエルは目を見開いた。
「……ゼロ病棟?」
そのとき、ドアの向こうから足音が聞こえた。
鍵が外れる音。
扉が開いた。
白衣を着た男性が入ってきた。
顔には医療用マスクをつけている。
「お目覚めですね、ブルックスさん」
ナサニエルは男を睨んだ。
「ここはどこだ?」
「安全な場所です」
「ふざけるな。俺を誘拐しただろ!」
男は答えなかった。
代わりに、手に持ったタブレットを操作した。
「あなたの研究について、お話を伺いたいのです」
ナサニエルの表情が変わった。
「……研究?」
「移動支援機器への不正な遠隔アクセスを防ぐソフトウェア」
男は静かに続けた。
「非常に興味深い技術ですね」
ナサニエルは唇を結んだ。
「何も話さない」
男はため息をついた。
「それは残念です」
彼はドアの方を見た。
「ですが、時間は十分にあります」
二人の警備員が入ってきた。
ナサニエルの顔が青ざめた。
「何をする気だ?」
男はタブレットを閉じた。
「まずは、あなたのシステムがどこまで我々の装置に抵抗できるのか、確認させていただきます」
ナサニエルはベッドの上で必死に身体を動かした。
「やめろ!」
警備員が近づいてきた。
扉が閉まった。
同じ頃、ギアの工房では、キランがMACH-01Aの最終点検を受けていた。
ギアは新しいナビゲーション装置の状態を確認していた。
「よし。耐妨害システムは正常」
マッハが答えた。
「すべての主要機能が安定しています」
キランは時計を見た。
午後六時四十五分。
マイケイラとの約束まで、あと十五分だった。
「ギア、今日はここまでにしよう」
ギアは驚いたように顔を上げた。
「え?」
「夕食の約束があるんだ」
ギアはにやりと笑った。
「おお! ついに学習した!」
キランは苦笑した。
「うるさいな」
マッハが口を挟んだ。
「今回の判断は合理的です。なお、私は三十分前から同じ提案を行っていました」
「わかってるよ」
キランは工房の出口へ向かった。
そのとき、モニターに新しい警報が表示された。
【不審な電力使用量を検出】
ギアが振り返った。
「……何?」
マッハが情報を表示した。
「イーストヘイブン医療研究センターにおいて、閉鎖済み施設としては異常な電力消費が確認されました」
キランは停止した。
「どれくらい?」
「現在の消費量は、稼働中の中規模医療施設に相当します」
ギアの表情が変わった。
「スナット……」
キランは時計を見た。
午後六時四十七分。
そして、モニターを見た。
イーストヘイブン医療研究センター。
ゼロ病棟。
行方不明者たち。
マイケイラとの約束。
彼は目を閉じた。
「……マッハ」
「はい」
「マイケイラに電話をつないで」
マイケイラは、レストランの前で携帯電話を確認していた。
キランからの着信が表示された。
彼女は少しだけ眉をひそめた。
「もしもし?」
『マイケイラ』
その声を聞いた瞬間、彼女は何かあったことを察した。
「……どうしたの?」
『新しい手がかりが見つかったんだ』
彼女は目を閉じた。
「そう」
『今夜、行けなくなるかもしれない』
マイケイラはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「わかったわ」
キランは驚いた。
『怒らないの?』
「怒ってないわけじゃないわよ」
彼女は苦笑した。
「でも、今度はちゃんと連絡してくれたでしょう?」
キランは少し笑った。
『……うん』
「それに、誰かが助けを待ってるんでしょう?」
『たぶんね』
マイケイラはレストランの明かりを見た。
「じゃあ、行ってきて」
『ありがとう』
「ただし、条件があるわ」
『何?』
「必ず帰ってくること」
キランは少し黙った。
そして答えた。
『約束する』
マイケイラは微笑んだ。
「愛してるわ」
『僕も愛してる』
通話が切れた。
彼女はしばらく携帯電話を見つめていた。
それから、レストランのドアを開けた。
「一人分の席、まだ空いてますか?」
午後七時十二分。
MACH-01Aがギアの工房から飛び立った。
紫色のスラスターが夜空を照らした。
キランは東部医療地区へ向かって加速した。
「マッハ、目的地までどれくらい?」
「現在の速度では、約八分です」
「警察には?」
「エリソン刑事へ連絡済みです。レイモンドも現場へ向かっています」
キランは遠くの街並みを見つめた。
「今度こそ、見つけられるかな」
マッハのアバターが現れた。
「可能性はあります」
「それだけ?」
「確実なことは申し上げられません」
キランは小さく笑った。
「相変わらず正直だね」
「あなたに嘘をつく理由はありませんから」
キランはうなずいた。
「……そうだね」
MACH-01Aはさらに加速した。
その先には、暗闇に沈んだ医療研究施設が待っていた。
そして、その地下では、何十人もの人々が救助を待っていた。
しかし、キランたちはまだ知らなかった。
その施設の奥深くで、純化協定が新たな実験を始めていることを。
そして、その実験が、ヴェント使用者たちの未来を根底から変えてしまう可能性を秘めていることを。
夜空を、一筋の紫色の光が駆け抜けた。
狩人たちの足音は、すぐそこまで迫っていた。




