消えゆく人々の街
最初の失踪事件が発生したのは、午後十一時四十三分だった。
二十六歳のエイドリアン・ケラーは、シトロンシティ中心部にあるソフトウェア開発会社で十二時間の勤務を終えたばかりだった。ビルの外に広がる通りは、深夜の帰宅途中の人々や、ときおり交差点を通り過ぎる配送車両を除けば、ほとんど人影がなかった。
エイドリアンは疲れ切っていた。
一日の大半をコンピューターに向かって過ごしたせいで肩が痛み、ヴェント搭載型車椅子のバッテリー残量は十九パーセントまで減っていた。寄り道さえしなければ、アパートに帰るには十分なはずだった。
オフィスビルの間を冷たい風が吹き抜け、彼は上着の前を引き寄せた。
「送迎を頼めばよかったな……」
車椅子のナビゲーション画面が前方の歩道を照らし、ひび割れた舗装に差しかかると、サスペンションが自動的に調整された。
歩道橋を半分ほど渡ったところで、携帯電話が振動した。
【不明な番号】
【お使いの移動支援システムには、緊急のセキュリティ更新が必要です。その場で停止してください】
エイドリアンは眉をひそめた。
「何だ、これ?」
さらにメッセージが表示された。
【遠隔診断を実行中】
車椅子が減速した。
エイドリアンは加速操作を行った。
反応がない。
もう一度試した。
ディスプレイがちらついた。
【システム接続が失われました】
歩道橋の向こう側から、白い作業用バンが現れた。
エイドリアンの胃が締めつけられた。
三人の人物が降りてくる。
暗い制服に、何の特徴もない滑らかな仮面。
「ケラーさん」
一人が呼びかけた。
「お手伝いに参りました」
エイドリアンは、何かがひどくおかしいことをすぐに理解した。
「近寄るな!」
携帯電話を取ろうとした。
しかし、画面が真っ暗になった。
覆面の一人が小型装置を持ち上げた。
鋭い電子音が空気を震わせる。
バヂヂヂッ!
車椅子の電源が完全に落ちた。
エイドリアンは迫ってくる人影から逃れようと身体を動かしたが、狭い歩道橋には逃げ場がなかった。
「助けて!」
最も近くにいた工作員が車椅子の肘掛けをつかんだ。
エイドリアンは男の手首を叩いた。
「触るな!」
工作員はほとんど反応しなかった。
二人目が背後に回り、エイドリアンの上半身に拘束具を取り付けた。
車椅子の非常用ブレーキが解除され、バンへ押されていく間も、彼は必死に抵抗を続けた。
「誰か! お願いだ!」
彼の叫び声は、通り過ぎる貨物列車の轟音にかき消された。
バンが到着してから九十秒も経たないうちに、車両は姿を消していた。
歩道橋にはエイドリアンの携帯電話だけが残され、砕けた画面に街灯の光が映っていた。
午後十一時四十六分。
七十一歳のマーガレット・ホロウェイは、シトロンシティ東部にある診療所を出た。
診察が予定より長引いていた。
彼女は腹を立てていた。
怖がっていたわけではない。
何かを疑っていたわけでもない。
ただ、腹を立てていたのだ。
「二十分の診察に三時間もかけるなんてねえ」
そう独り言をこぼしながら、ヴェント補助式の移動用車椅子をバリアフリー送迎乗り場へ進めた。
彼女がその車椅子を使い始めて、もう九年近くになる。
信頼性が高く、座り心地もよく、身体の位置を細かく調整できる特殊な機構も備えていた。身体を動かせる範囲が年々狭くなっても、自立した生活を続けられるのは、この機器のおかげだった。
マーガレットには、その自立を手放すつもりなど毛頭なかった。
黒いセダンが縁石の横に停車した。
助手席の窓が下がる。
「ホロウェイさんですか?」
マーガレットは振り向いた。
医療用の制服を着た女性が微笑んでいた。
「送迎サービスの者です。いつもの車両が別の便に回されまして」
マーガレットは眉をひそめた。
「そんな話、聞いてないよ」
「申し訳ありません。今夜は配車に少し問題が起きておりまして」
マーガレットは車両を見た。
送迎会社のロゴがない。
識別番号もない。
それに、女性は身分証を見せていなかった。
「診療所に電話して確認するよ」
女性の笑みが消えた。
「その必要はありません」
セダンの後部ドアが開いた。
覆面の二人が姿を現した。
マーガレットは即座に車椅子を後退させた。
「冗談じゃないよ!」
彼女は診療所の入口へ向かって加速した。
車椅子が三メートルほど進んだところで、電磁パルスが制御装置を直撃した。
バヂッ!
車輪がロックされた。
マーガレットは非常警報ボタンを手のひらで叩いた。
けたたましいサイレンが鳴り響く。
一人の工作員が駆け寄り、警報装置を筐体から引きちぎった。
「このクソガキども!」
マーガレットは怒鳴った。
医療用制服の女性が拘束具を持って近づいた。
マーガレットはその顔に唾を吐きかけた。
女性がひるんだ。
ほんの一瞬だったが、診療所の誰かが気づくまでの時間を稼げたかもしれないと、マーガレットは思った。
しかし次の瞬間、手袋をはめた手が彼女の口を塞いだ。
セダンのドアが閉まった。
診療所の防犯カメラは、その後も誰もいない送迎乗り場を撮影し続けた。
のちに映像を調べたところ、十七秒間の記録が途切れていることが判明する。
午後十一時四十九分。
十九歳の大学生セリーナ・チョウは、ウェストブリッジ学生寮の外でバリアフリー対応のシャトルバスを待っていた。
彼女は翌日の試験について、ルームメイトとメッセージを交わしていた。
【セリーナ:明日落第したら、教授たちには私が勇敢に戦死したって伝えて】
【ルームメイト:六時間も勉強したじゃん】
【セリーナ:そう。悲劇的な学問への献身よ】
セリーナは自分の冗談に笑った。
そのとき、シャトルバスが近づいてくるのに気づいた。
予定より早い。
しかも、車体は大学で使われている青ではなく、白だった。
彼女はフロントガラスに表示された識別表示を見た。
【キャンパス・アクセス交通】
文字の形が、どこかおかしかった。
ドアが開いた。
交通サービスの制服を着た男が降りてきた。
「セリーナ・チョウさん?」
「私です」
「送迎車両が変更になりました」
セリーナはためらった。
「また?」
「残念ながら」
彼女は車両の登録番号を確認した。
予約アプリに表示されている番号とは一致しない。
「やっぱり、いつものシャトルを待ちます」
運転手の表情が険しくなった。
「チョウさん、こちらも予定が押しているんです」
「だったら、先に行った方がいいですよ」
セリーナはヴェント車椅子を学生寮の入口へ向けた。
男が耳元の通信機に触れた。
「標的が乗車を拒否」
セリーナは血の気が引くのを感じた。
すぐに加速した。
車椅子が勢いよく前進する。
背後から足音が響いた。
「止まれ!」
セリーナは入口に到達し、自動ドアの操作ボタンを叩いた。
ドアが開き始める。
しかし、その瞬間、建物のアクセスパネルが暗くなった。
強力な電磁放電が入口一帯を襲った。
車椅子が横へ大きく傾いた。
安定装置が機能を失い、セリーナは悲鳴を上げた。
姿勢を立て直す間もなく、二人の工作員が車椅子をつかんだ。
一人が彼女の腕を拘束した。
もう一人が電源を切り離した。
セリーナが最後に見た学生寮の光景は、ロビーの窓から漏れる温かな黄色い明かりだった。
その中では、ルームメイトがまだ次の冗談を待っているのかもしれない。
午前零時までに、セリーナ・チョウは姿を消した。
そして、彼女が最後ではなかった。
翌朝六時十二分、マーラ・エリソン刑事からキランに電話がかかってきた。
彼が応答したのは、四回目の呼び出し音が鳴ったときだった。
「もしもし?」
『キリアンさん、警察本部に来てください』
キランは目を開けた。
「おはようございます、くらい言ってくれてもいいのに」
『真剣な話です』
その声に含まれた緊張を聞き取り、キランは背筋を伸ばした。
「何があったんですか?」
『昨夜だけで、七人の失踪が確認されました』
キランは一瞬、息を止めた。
「七人?」
『少なくとも、です。今も通報が入っています』
ベッド脇のディスプレイに、マッハのアバターが現れた。
「キラン、ヴェント使用者の失踪に関する緊急通信が急増しています」
エリソンは続けた。
『レイモンドさんとギアさんには、すでに連絡しました。話し合う必要があります』
キランは窓へ目を向けた。
シトロンシティの上に朝日が昇っていた。
街のどこかでは、七つの家族が悪夢のような朝を迎えている。
「すぐに行きます」
警察本部は、いつになく混雑していた。
警官たちは事件資料や証拠袋、急いで印刷された写真を手に、机の間を行き来していた。電話はひっきりなしに鳴り、テレビ画面には昨夜の失踪事件に関する報道が流れている。
キランはレイモンドとギアを伴って会議室へ入った。
エリソンがデジタル地図の横に立っていた。
「来てくれてありがとうございます」
ギアは画面を見た。
「スナット……」
街の各所に、七つの赤い印が散らばっていた。
三つは商業地区の近く。
二つは医療施設の周辺。
一つは大学の学生寮のそば。
もう一つはバリアフリー対応の交通ターミナル付近だった。
レイモンドは腕を組んだ。
「一晩で七人か」
「確認されているだけで七人です」
エリソンは訂正した。
「ほかにも三件の通報がありますが、まだ確認が取れていません」
マッハが時間軸を投影した。
「確認された七件は、すべて午後十一時四十三分から午前零時十六分までの間に発生しています」
キランは画面を見つめた。
「三十三分間?」
「そのとおりです」
ギアが身を乗り出した。
「複数の部隊だね」
「ほぼ間違いありません」
エリソンは答えた。
マッハは事件現場を強調表示した。
「現場同士が離れすぎています。一つの部隊が、この時間内に七件すべてを実行することは不可能です」
レイモンドは地図を調べた。
「連携した襲撃だ。別々の部隊が、時刻を合わせて動いてる」
エリソンはうなずいた。
「四か所で電磁妨害の痕跡が見つかりました。二か所では監視システムが無力化され、一人の目撃者が、無標識の輸送車両を使う覆面の集団を見ています」
キランは写真を見た。
「全員、ヴェント使用者なんですか?」
「はい」
「ノーススターとの関係は?」
「ある人もいます。でも、全員ではありません」
ギアは眉をひそめた。
「どういうこと?」
エリソンは別の画面を表示した。
「被害者の中には、ノーススター総合警備との関係が確認されていない会社の交通サービスを利用していた人もいます」
マッハが記録を調べた。
「犯人たちは、ほかの情報ネットワークにも侵入している可能性があります」
「そのとおりです」
エリソンは額をさすった。
「相手は、被害者がどこに住み、どこで働き、どう移動し、いつ最も無防備になるのかを把握しているんです」
レイモンドは刑事を見た。
「何人の警官を回せる?」
「足りません」
答えは即座に返ってきた。
「捜査には増員を要請しています。でも、シトロンシティのヴェント使用者全員を警護することはできません」
キランは地図を見た。
七つの赤い印。
七人の人間。
七つの家族。
しかも、それは警察が把握している人数にすぎなかった。
「僕たちに、何をしてほしいですか?」
エリソンは彼の目を見た。
「連れ去られた人たちが、どこへ運ばれているのかを突き止める手助けをしてください」
最初に訪れた家族は、街の北側にある質素なアパートに住んでいた。
エイドリアン・ケラーの母親がドアを開けた。
彼女はエリソンの警察手帳を見て、それからキランの車椅子に目を向けた。
表情が変わった。
「あなたが、ソニック・ウィーラーズの……」
キランはうなずいた。
「はい」
「息子は見つかりましたか?」
その質問はあまりにも早く、二人がきちんと自己紹介する暇さえなかった。
エリソンは穏やかな声で答えた。
「まだです、ケラーさん。いくつかの手がかりを追っています」
女性は横へ移動した。
「入ってください」
エイドリアンの部屋は、細い廊下の突き当たりにあった。
母親がドアを開けた。
そこには、彼が最後に使ったときのままの光景が残されていた。
作りかけの宇宙船模型が机の上に置かれている。
コンピューターの部品が、開いたノートの横に散らばっていた。
椅子の背もたれにはスウェットシャツが掛けられている。
壁には、いくつかの日付に丸がついたカレンダーがあった。
「あの子、日曜日に一緒に夕食を食べる予定だったんです」
ケラー夫人は言った。
キランはカレンダーを見た。
「ここに住んでいるんですか?」
「去年、自分のアパートに引っ越しました。でも、この部屋はそのままにしてあるんです。時間があれば、いつでも帰ってきますから」
彼女はスウェットシャツを手に取った。
「前に来たとき、忘れていったんです」
布を握る指に力がこもった。
「次に来たら、持って帰るように言おうと思っていました」
キランは何も言わなかった。
ケラー夫人はベッドに腰を下ろした。
「昨日の午後、電話をくれたんです。仕事の愚痴を言って、今週末はラザニアを作るのかって聞いてきて……」
彼女はかすかに笑った。
「自分で作ればいいでしょって言ったんです」
笑みが消えた。
「帰っておいでって、言えばよかった……」
キランは宇宙船の模型を見た。
この部屋には、胸が痛むほど平凡な日常が残っていた。
エイドリアンが大きな政治的対立に巻き込まれていたことを示すものなど、何一つない。
彼はSFが好きで、仕事の愚痴をこぼし、実家に服を忘れていく青年だった。
それなのに、何者かが彼を切り捨てても構わない存在だと決めつけたのだ。
二軒目の家族は、街の反対側に住んでいた。
セリーナ・チョウの両親は、ルームメイトから連絡を受け、夜通し移動してきたという。
父親は居間の窓のそばに立ち、印刷された大学の時間割を握っていた。
「あの子、今日は試験だったんです」
「明日は指導教員との面談。来週には研究インターンシップの面接がありました」
彼はその紙をエリソンに渡した。
「何か月も前から、その面接の話をしていたんです」
キランは時間割を見た。
セリーナは、いくつかの予定の横に小さなメモを書き込んでいた。
その一つには、こうあった。
【マヤとコーヒー! 忘れないこと!】
別の場所には、
【試験が終わったらママに電話】
父親がキランを見た。
「あの子は、エンジニアになりたかったんです」
キランはうなずいた。
「素晴らしい目標ですね」
「人々の生活を楽にする技術を設計したいって、言っていました」
男性は視線を落とした。
「今は、その技術のせいで連れ去られたんじゃないかって考えてしまうんです」
キランには答えられなかった。
窓の外では、子供たちが学校へ向かって歩いていた。
配送トラックが隣の建物の前に停車した。
歩道から誰かの笑い声が聞こえた。
日常は続いていた。
いつだって、そうだった。
たとえ、誰かの世界が止まってしまっても。
正午までに、失踪事件はシトロンシティのあらゆるニュース番組で取り上げられるようになっていた。
エイドリアン・ヴォスは、純化協定の公開本部の前に集まった報道陣の前に姿を現した。
銀色の髪は完璧に整えられている。
黒いスーツにも、しわ一つなかった。
背後には、白い背景に純化協定の紋章が掲げられていた。
「はっきり申し上げておきます」
ヴォスは語り始めた。
「純化協定は、これらの失踪事件を非難し、法執行機関に対して犯人を法の裁きにかけるよう強く求めます」
一人の記者が手を挙げた。
「貴団体の主張が、最近のヴェント使用者に対する暴力を助長した可能性については、どうお考えですか?」
ヴォスは落ち着いた笑みを浮かべた。
「公共の安全を訴えることが、暴力の扇動に当たるという考えには同意できません」
「一晩で七人が失踪しています」
「だからこそ、より厳格な管理体制が必要なのです」
彼はカメラへ向かって身振りを交えた。
「一元化された登録制度があれば、当局は脆弱な機器を特定し、異常を監視し、緊急事態により効果的に対応できるようになります」
別の記者が質問した。
「批判する人々は、登録制度によって機密情報が一か所に集められ、犯罪者に悪用される危険性が高まると指摘しています」
「無責任に運用すれば、そうでしょう」
ヴォスの表情は変わらなかった。
「しかし、恐怖によって合理的な安全対策が妨げられることを、我々は許してはなりません」
街の至るところで、その言葉がテレビから流れた。
警察に即時の対応を求める市民もいた。
被害者が障害を理由に狙われたのだと訴える人々もいた。
そして、中には失踪事件そのものが捏造だと主張する者までいた。
シトロン学園では、マイケイラ・マッキントッシュが職員室でそのような発言を耳にした。
「正直なところ、あの人たちが本当に誘拐されたかどうかは、まだわからないでしょう」
同僚の教師が言った。
マイケイラはコーヒーをかき混ぜる手を止めた。
「何ですって?」
教師は肩をすくめた。
「自分の意思で姿を消す人だっているじゃないですか。注目を集めたかったのかもしれませんよ」
マイケイラはスプーンを置いた。
「三十三分間で七人も?」
「いや、ただ可能性として……」
「特殊な移動支援機器を使う七人が、不審な状況で一斉に姿を消したのに、最初に思いつくのが自作自演だということですか?」
教師は居心地が悪そうな顔をした。
「そういう意味で言ったんじゃありません」
「では、どういう意味ですか?」
沈黙。
マイケイラは息を整えた。
「あの人たちには家族がいます。仕事があります。授業があります。生活があるんです。政治的な議論のために存在する登場人物じゃないんですよ」
同僚は目をそらした。
マイケイラはコーヒーを手に取った。
「反対の証拠が見つかるまでは、失踪事件を売名行為みたいに扱うのをやめたらどうですか?」
それ以上会話が続く前に、彼女は職員室を出た。
その日の夕方、マッハが奇妙な事実を発見した。
キランはギアの工房に戻り、レイモンドやエリソンとともに監視カメラの映像を確認していた。
企業、交通駅、公共の交差点などから、何百もの録画データが集められていた。
そのほとんどには、有益な情報が映っていなかった。
いくつかには、不審な車両の姿が部分的に残されていた。
マッハは三時間近く、それらの動きを比較していた。
「キラン」
キランが顔を上げた。
「何か見つけた?」
「可能性のあるものを発見しました」
地図が現れた。
複数の色分けされた線が、誘拐に使われたと考えられる車両の移動経路を示していた。
最初は、どの経路にも関係がないように見えた。
一台は南へ。
別の一台は東へ。
三台目は工業地区を横断していた。
そのとき、マッハが短い道路区間を強調表示した。
三本の線が、そこで重なっていた。
「面白いね」
ギアがつぶやいた。
レイモンドが近づいた。
「何がわかった?」
「誘拐に関与した疑いのある三台の輸送車両が、二十分以内に同じ工業地区の道路を通過しています」
マッハが説明した。
エリソンは眉をひそめた。
「偶然かもしれません」
「その可能性はあります。しかし、各車両はその後、異なる方向へ出発しています」
ギアは周辺を拡大した。
古い貨物倉庫。
放棄された積み込み施設。
使われなくなった鉄道の接続線。
「スナット」
キランがギアを見た。
「何?」
「ここ、乗り換え地点にぴったりだよ」
レイモンドはゆっくりとうなずいた。
「被害者を別の車に移す。運転手を替える。経路も変える」
「そのとおり」
ギアが答えた。
「最初の車を追ってた人は、そこで手がかりを失うってわけ」
エリソンは地図を見つめた。
「どの建物かわかりますか?」
「まだです」
マッハが答えた。
「ただし、この道路沿いで輸送車両が進入できるほど大きな施設は、四か所しかありません」
キランは身を乗り出した。
「だったら、調べよう」
レイモンドは時計を見た。
「もう遅いぞ」
キランはかすかに笑った。
「それが僕たちを止めたこと、あったっけ?」
マッハのアバターが彼を向いた。
「過去の記録によれば、ありません。残念ながら」
夜の工業地区は、昼間とはまるで違って見えた。
昼間は配送トラックや倉庫作業員、機械の音であふれている。
しかし日が暮れると、同じ通りが影の長い通路へと変わった。
古い工場が金網の向こうにそびえ立っている。
壊れかけた街灯が、誰もいない駐車場をちらちらと照らしていた。
遠くで列車の警笛が響いた。
キランは慎重な速度で工業地区の上空を飛んでいた。
MACH-01Aの紫色の装甲に、下の街灯が反射している。
「何かある?」
「放棄された建物が複数あります。しかし、疑わしい乗り換え地点での活動は確認できていません」
キランは倉庫の屋根を走査した。
「もう移動したのかな」
「その可能性はあります」
かすかな機械音が、二人の会話を遮った。
キランは顔を上げた。
「今の音、何?」
マッハが走査を開始した。
「所属不明の飛行物体を検出しました」
煙突の陰から、三つの小さな影が現れた。
角張った装甲を持つ小型機械で、細い翼と回転式の推進装置を備えていた。
装甲の下では、青いセンサーが光っている。
キランは眉をひそめた。
「またドローン?」
「以前遭遇したものとは異なる機種です」
機械が散開した。
上空に四機目が現れた。
そして、五機目。
マッハの声が鋭くなった。
「キラン、回避してください!」
最初のドローンが発砲した。
バヂヂヂッ!
電磁弾がMACH-01Aの横をかすめた。
キランは機体を横へ回転させた。
「本気で!?」
二機目が拘束ケーブルを発射した。
シュバッ!
キランはその下へ加速した。
ケーブルが換気塔に命中した。
ガキンッ!
マッハがドローンの装備を表示した。
「電磁追跡システム。拘束ケーブル発射装置。適応型照準ソフトウェア」
キランはうめいた。
「もちろん、学習機能つきだよね」
ドローンたちが陣形を組んだ。
二機が左右から接近する。
一機が上空に留まる。
残りは背後を回り込んだ。
「逃走経路を制限しようとしています」
マッハが警告した。
キランは開けた空を見た。
「じゃあ、どれだけ速いか試してみよう」
スラスターの出力を上げた。
フォオオオオッシュ!
MACH-01Aが二つの倉庫の間へ飛び込んだ。
ドローンたちが追ってきた。
追跡戦は工業地区を駆け抜けた。
キランは狭い通りの上をかすめるように飛び、頭上の配管をくぐり抜けた。
背後では電磁弾が舗装に命中していた。
バヂッ! バヂッ!
コンクリートの破片が道路に飛び散る。
「マッハ、何機?」
「追跡中の機体は五機です」
「振り切れる?」
「通常の回避機動では困難です」
キランは倉庫の角を急旋回した。
二機のドローンは、その動きを予測していた。
正面に姿を現す。
「うわっ!」
キランは急上昇した。
拘束ケーブルが車椅子の下を通り過ぎた。
もう一本が頭上を横切った。
キランはかろうじて、その隙間をすり抜けた。
マッハの表示が点滅した。
【予測照準を検出】
「敵は私たちの移動パターンを学習しています」
「失礼な連中だね!」
「同感です」
キランは低出力のプラズマ弾を二発発射した。
ピュン! ピュン!
一機が横へ回避した。
もう一機は攻撃の下へ回転して潜り込んだ。
キランは眉をひそめた。
「避けた?」
「こちらの武器使用にも適応しているようです」
「最高だね。空飛ぶ宿題だ」
ドローンたちが加速した。
キランは高架鉄道へ向かって急旋回した。
頭上を列車が通過し、その窓が夜の闇に明るく浮かび上がっていた。
キランは線路の下を飛んだ。
二機が追ってきた。
三機目は上空から迎撃しようとした。
「マッハ、新しいナビゲーションシステム!」
「すでに起動しています」
表示が切り替わった。
電子センサーの情報に代わり、慣性追跡と受動式の光学基準を利用した簡略地図が現れた。
切り替えは完全に滑らかというわけではなかった。
MACH-01Aがわずかに揺れた。
しかし、姿勢は安定していた。
【耐妨害ナビゲーション――作動中】
キランはにやりと笑った。
「いい仕事したね、ギア」
「ええ」
マッハが答えた。
「ただし、ギアはもう少し破壊的でない状況で試験してほしかったでしょうが」
背後で電磁パルスが炸裂した。
主ナビゲーション表示がちらついた。
しかし、補助システムは安定したままだった。
「まだ動いてる!」
「はい。生き延びるまでは、お祝いを控えていただけると助かります」
ドローンたちは高架線路を越え、建設途中の高層ビルが並ぶ地区までキランを追ってきた。
鉄骨だけの建物が夜空に伸びている。
建設用クレーンが、コンクリートむき出しの階の上に長い腕を広げていた。
キランはMACH-01Aを鉄骨の間へ滑り込ませた。
一機のドローンが近づきすぎた。
「マッハ、左!」
キランは柱の周囲を急旋回した。
ドローンも同じ動きをしようとした。
しかし、遅すぎた。
ガァァンッ!
翼がコンクリートに激突した。
機体は制御を失って回転し、仮設の安全柵を突き破った。
ドォォン!
「一機撃破!」
「残り四機です」
キランは建設途中のフロアを飛び抜けた。
一機が背後から進入してくる。
さらに二機が、反対側の出口で迎撃しようと動いた。
マッハが飛行経路を計算した。
「出口を予測されています」
キランは天井を見た。
「だったら、出口を使わなきゃいい」
頭上の梁に磁力グラップラーを発射した。
ガシュンッ!
ケーブルが張った。
MACH-01Aは急角度で上方へ振り上げられた。
キランはほんの一瞬、推進力を切った。
追ってきたドローンが、その下を通り過ぎた。
そして、グラップラーを解除した。
重力が車椅子を引き下ろす。
「今だ!」
スラスターが点火した。
フォオオッシュ!
キランはドローンの背後へ降下し、発砲した。
ピュンッ!
プラズマ弾が推進装置に命中した。
ドンッ!
機体は回転しながら建設資材の山へ突っ込んだ。
金属製のパイプが床一面に散らばった。
「二機目!」
マッハのアバターは真剣なままだった。
「キラン、異常を発見しました」
「何?」
「敵のドローンは、最も効率的な迎撃経路を選択していません」
キランは残りの機体を見た。
「どういう意味?」
「特定の通りへ進むことを、繰り返し妨害しています」
地図が表示された。
ドローンの配置が、移動する通路のような形を作っていた。
キランはその先を目で追った。
そこは工業地区でも最も古い区域だった。
放棄された貨物施設が集まっている。
キランの笑みが消えた。
「僕たちを誘導してるんだ」
「そのように判断しています」
「どこへ?」
マッハが、通路の先にある大きな建物を強調表示した。
【放棄された貨物集積所――東ターミナル】
キランは地図を見つめた。
「……いかにも怪しいね」
「極めて怪しいです」
キランは通信回線を開いた。
「レイモンド、エリソン刑事。何か見つけたかもしれない」
放棄された貨物集積所は、錆びた金網の向こうに建っていた。
巨大な搬入口の扉が半開きになっている。
舗装のひび割れから雑草が伸び、壁には色あせた貨物番号が残っていた。
キランは慎重に近づいた。
残ったドローンたちは頭上を旋回していた。
しかし、突然、陣形を崩した。
三機とも加速し、遠ざかっていった。
キランはその姿を見送った。
「これは絶対、ろくなことにならないね」
マッハが建物を走査した。
「現時点では、敵対的な反応は検出されていません」
キランは入口へ降下した。
「それが余計に怖いんだけど」
内部には、ほこりと油、そして古くなった消毒液の臭いが漂っていた。
空の保管棚が暗闇の奥まで並んでいる。
古い貨物用エレベーターが、奥の壁に設置されていた。
キランはMACH-01Aの照明を起動した。
紫がかった白い光が、コンクリートの床を照らした。
タイヤの跡が見えた。
新しいものだった。
そして、別のものにも気づいた。
積み込み台の横に、医療用拘束具の切れ端が落ちていた。
キランは停止した。
「マッハ」
「確認しています」
彼は近づいた。
ほかにも拘束具があった。
捨てられた食品の包装。
壊れた車椅子のフットレスト。
取り外された電子モジュールがいくつも転がっている。
そして、小さなプラスチック製の識別用リストバンド。
キランは車椅子のマニピュレーターで慎重に拾い上げた。
印刷された名前の一部は読めなくなっていた。
しかし、残った文字だけでも、彼の胃が締めつけられるには十分だった。
【……KELLER】
キランはそれを見つめた。
「エイドリアン……」
マッハが失踪者の記録と照合した。
「昨夜誘拐されたエイドリアン・ケラーのものである可能性が高いです」
キランは集積所を見渡した。
「ここにいたんだ」
「はい」
彼は空になった搬入口へ目を向けた。
「そして、もういない」
二十分後、レイモンドとエリソンが警官たちを連れて到着した。
パトカーの警告灯が、放棄された集積所を赤と青に照らしていた。
鑑識担当者たちが内部の写真を撮り始めた。
エリソンは拘束具を調べた。
「これは普通の荷締めベルトではありませんね」
「違うな」
レイモンドが答えた。
「人間を輸送中に固定するためのものだ」
ギアが遠隔映像通信に現れた。
「電子モジュールを見せて」
警官が一つをカメラの前に持ち上げた。
ギアはそれを調べた。
「ヴェントの制御インターフェースの一部だよ」
キランは捨てられた車椅子の部品を見た。
「車椅子を分解したの?」
「その可能性があります」
マッハが答えた。
「別の場所へ移送する前に、使用者を機器から引き離したのかもしれません」
レイモンドは顎に力を込めた。
「それじゃ、逃げるのは相当難しくなるな」
エリソンは積み込み区域の近くにある机へ向かった。
数枚の紙の記録が残されていた。
ほとんどは裁断されていたが、一枚だけ部分的に読めるものがあった。
【移送グループC】
【医学的スクリーニング――完了】
【第二移送先――閲覧制限】
エリソンは写真を撮った。
「医学的スクリーニング?」
キランは再び拘束具を見た。
「連中は、あの人たちに何をしてるんだ……?」
誰も答えなかった。
マッハが通信を検出したのは、午後十時三十八分だった。
その信号は弱かった。
集積所の老朽化した設備から発生する電気的な雑音と、ほとんど区別できないほどだった。
「キラン」
彼は顔を上げた。
「何?」
「低出力の緊急信号を検出しました」
「どこから?」
マッハが発信源を追跡した。
「東側の保管用プラットフォームの下です」
キランは示された場所へ向かった。
二本の支持梁の間に、破損した通信装置が挟まっていた。
外装にはひびが入っている。
バッテリーもほとんど残っていなかった。
キランは慎重に取り出した。
「中身を確認できる?」
「試みます」
装置から雑音が流れた。
そして、声が聞こえてきた。
女性の声だった。
怯えていた。
息が荒かった。
『……誰かに聞こえているか、わかりません……』
キランは動きを止めた。
マッハが音量を上げた。
『どこかへ連れてこられました。場所はわかりません。何もかも白いんです。壁も、照明も、ベッドも……』
録音の中で、かすかな金属音が響いた。
『警備員がいます。みんな仮面をつけています。何も教えてくれません』
キランはエリソンを見た。
彼女はすでに音声の記録を始めていた。
女性の声が震えた。
『車椅子を取り上げられました。車椅子がなければ動けない人もいるのに……。あの人たちは、私たちの安全のためだって言い続けるんです』
少し間があった。
押し殺したすすり泣きが聞こえた。
『ここは、ゼロ病棟って呼ばれています』
キランは胸が締めつけられるのを感じた。
「ゼロ病棟?」
録音は続いた。
『健康診断を受けさせられます。血液検査や、スキャン……。ヴェントについて、色々質問されます』
遠くでドアが閉まる音がした。
女性が息をのんだ。
『検査が終わると、別のドアの向こうへ連れていかれるんです。警備員の一人が言っているのを聞きました。そこへ連れていかれた人は――』
激しい雑音が噴き出した。
ザザザザッ!
録音が途切れた。
キランは装置を見つめた。
「マッハ?」
「残りのデータの復元を試みています」
数秒が過ぎた。
そして、マッハが再び口を開いた。
「ファイルは不完全です。これ以上の音声は復元できません」
集積所に沈黙が広がった。
エリソンは通信装置を見た。
「ゼロ病棟……」
レイモンドは腕を組んだ。
「収容施設みたいな名前だな」
キランは、誰もいない搬入口へ目を向けた。
シトロンシティのどこか。
あるいは、街から遠く離れた場所で。
人々が、本人の意思に反して拘束されている。
エイドリアン・ケラー。
セリーナ・チョウ。
マーガレット・ホロウェイ。
マリッサ・コール。
トーマス・ヴェイル。
そして、ナサニエル・ブルックス。
キランは操縦装置を強く握った。
「その場所を見つけなきゃ」
マッハのアバターが彼を向いた。
「必ず見つけましょう」
ヘレナ・ヴェイン司令官は、キランとハンタードローンの交戦映像を見つめていた。
画面の中では、MACH-01Aが建設途中の高層ビルの階層を飛び抜けていた。
一機のドローンがコンクリートの柱に衝突し、爆発した。
ヴェインは映像を停止した。
「興味深い」
コバルトが隣に立っていた。
「新しいナビゲーションシステムは、我々の妨害に耐えました」
「そうだな」
「電磁兵器を改良しますか?」
「いずれはな」
彼女は映像を再開した。
キランの即興の機動が、再び画面に映る。
グラップラー。
突然の運動方向の変化。
そして、二機目のドローンの破壊。
ヴェインは注意深く観察した。
「奴のAIは、センサー情報が劣化した状態を補う方法を学習している」
コバルトはうなずいた。
「操縦者も戦術を変化させています」
「それこそ、我々が知りたかったことだ」
コバルトは彼女を見た。
「司令官?」
ヴェインは映像を閉じた。
「最初から、あのドローンで奴を倒せるとは考えていない」
彼女は別の画面を起動した。
放棄された貨物集積所が表示された。
「あの施設は、すでに撤収を完了していた」
コバルトは地図を調べた。
「奴に発見させるつもりだったのですか?」
「当然だ」
「なぜです?」
「奴が空っぽの建物を調べている間にも、ほかの部隊は作戦を続けられるからだ」
新しい報告が表示された。
【最優先標的――確保】
【移送完了】
【所在地――機密】
コバルトは情報を見た。
「また一件、回収に成功しました」
「非常に重要な標的だ」
ヴェインは別のモニターへ目を向けた。
そこには、ギアの工房のライブ映像が表示されていた。
工業地区の街灯の下に建物が立っている。
複数のカメラ映像が、入口や窓、周辺道路を映し出していた。
「ウルトラヴァイオレットの最大の弱点は、奴を支える人間関係にある」
コバルトは腕を組んだ。
「技術者。退役軍人。刑事」
「そして、AIだ」
ヴェインは工房の設計図を拡大した。
「MACH-01Aの防御機構については、次の段階を計画するのに十分な情報が得られた」
コバルトは建物を見た。
「直接攻撃ですか?」
「まだだ」
彼女は工房の外部電力接続と保守用出入口を強調表示した。
「まず観察する。それから、奴らの活動を支えるシステムを特定する」
その視線が、キランの紫色のホバーチェアの映像に止まった。
「そして、それらを奪う」
コバルトはうなずいた。
「偵察部隊を準備します」
ヴェインは再び街の地図へ向き直った。
シトロンシティの各所に、赤い印が増え続けていた。
さらに多くの名前。
さらに多くの住所。
そして、作戦データベースの一項目にまで貶められた、さらに多くの人生。
「ウルトラヴァイオレットには、あの小さな倉庫を見つけたことを喜ばせておけ」
彼女の表情は冷たいままだった。
「奴が本当の敵の姿を理解する頃には、戦うために必要なものを、すべて奪っているだろう」
純化協定本部のはるか地下では、別の輸送車両が厳重に警備された搬入口へ入っていた。
後部扉が開いた。
車内にいた怯えたヴェント使用者は、蛍光灯の下で待ち構える覆面の警備員たちを見つめた。
「どこへ連れていくんですか?」
拘束された人物が尋ねた。
誰も答えなかった。
警備員たちが近づいてくる。
そして、その背後で扉が閉まった。




