自由の代償
四十七人の名前。
四十七件の住所。
そして、本来なら知る権利などないはずの何者かによって、私生活を調べ上げられた四十七人の人々。
キラン・キリアンは、ギアの工房にある最大のモニターに映し出された一覧を見つめながら、このうち何人がすでに監視されているのだろうと考えていた。
捜査のため、名前の一部は伏せられていた。しかし、ノーススター総合警備の侵害されたネットワークから回収された情報は、それだけでも十分に不気味だった。
病院の予約。
バリアフリー対応の送迎予定。
住居への出入りの記録。
移動支援機器の仕様。
悪意ある人間の手に渡れば、普段どおり買い物へ出かけるだけの行為さえ、誘拐の絶好の機会に変わってしまう情報だった。
マーラ・エリソン刑事は作業台のそばに立ち、すっかり冷めたコーヒーの紙カップを手にしていた。
「関係する施設には連絡しました。各施設の管理者がアクセス権限を見直していますし、必要な場所には追加の警備を手配しています」
レイモンド・ハリソンは反対側の壁にもたれていた。
「四十七人だぞ。全員を守れるだけの警官はいないだろう」
「わかっています」
「なら、どうする?」
エリソンは額をさすった。
「記録を繰り返し閲覧されている人を優先します。本人には慎重に連絡を取り、不審な動きや予期しない整備依頼、送迎予定の変更などがあれば報告してもらいます」
ギアはスツールの上であぐらをかき、ネットワーク図を調べていた。
「慎重にっていうのが、一番難しいだろうね」
キランが振り返った。
「どうして?」
「自分の医療情報が、命を狙ってる連中に盗まれたかもしれないって言われたら、普通は色々聞きたくなるでしょ」
「当然の反応でしょうね」
マッハが答えた。
紫色のパイロットヘルメットを模したアバターが、ワークステーションの上に浮かんでいた。
「アクセス記録を分析し、繰り返される傾向を調査しました。しかし、残念ながら、次に誰が標的になるかを確実に予測できる規則性は見つかっていません」
エリソンは眉をひそめた。
「何も?」
「既知の失踪事件の直前に閲覧されたアカウントはいくつかあります。しかし、同じように閲覧されながら、その後事件が起きていないアカウントも多数存在します」
キランは画面を見た。
「つまり、連中が人を選んでることはわかってる。でも、誰を選んだのかはわからない」
「そのとおりです」
彼はため息をついた。
「素晴らしいね」
レイモンドがモニターに近づいた。
「時間帯はどうだ?」
「検索が集中する時間帯は存在します」
マッハは説明した。
「作戦の準備期間と関係している可能性がありますが、一定の間隔を特定するには証拠が不十分です」
ギアは図の一部を拡大した。
「相手は痕跡の消し方を知ってる。正規のアカウントを使って、複数の施設にアクセスを分散させて、一度に大量の情報を抜き出さないようにしてるんだ」
キランはデータを見つめた。
「締め出すことはできないの?」
「施設側に認証情報を変更してもらったり、危険なシステムを切り離したりすることはできる。でも、いくつのアカウントが侵害されてるのかわからないんだよ」
エリソンはコーヒーを置いた。
「追加の記録を入手するため、緊急の令状も請求しています」
レイモンドは工房の入口を見た。
「その間にも、犯人は自由に動き回ってるわけだ」
誰も反論しなかった。
キランは画面を流れていく名前を見つめた。
四十七人。
その中に、次に消える人がいるのかもしれない。
そして、時間はすでに動き始めていた。
オリヴィア・ブルックスが工房にやって来たのは、昼食の少し前だった。
前に会ったときよりも、さらに疲れ切っているように見えた。
髪は緩く結ばれ、服にはしわが寄っている。目の下の濃い隈からは、眠ることさえ難しくなっているのがうかがえた。
キランは入口の近くで彼女を迎えた。
「オリヴィアさん」
「何かわかりましたか?」
彼は少しためらった。
「誰かがヴェント使用者の情報を集めていた証拠が見つかりました。ナサニエルさんの失踪は、少なくともほかの二件とつながっているようです」
オリヴィアは彼を見つめた。
「ほかにも二人?」
「はい」
「その人たちは、生きているんですか?」
キランの沈黙は、彼が望んでいた以上に多くを物語ってしまった。
オリヴィアは唇を強く結んだ。
「ずっと携帯電話を確認してるんです」
彼女は小さく言った。
「着信があるたびに、あの子からだと思ってしまって……」
キランは彼女を応接スペースへ案内した。
オリヴィアはハンドバッグを抱えたまま腰を下ろした。
「前に来たとき、話していなかったことがあります」
キランは彼女を見た。
「何ですか?」
「ナサニエルは、あるプロジェクトに取り組んでいたんです」
「ソフトウェアですか?」
彼女はうなずいた。
「移動支援機器を守るためのセキュリティソフトです。メーカーは色々なものをネットワークにつなげるようになっているけど、誰かが不正にアクセスした場合のことを、必ずしも十分に考えていないって言っていました」
マッハのアバターが現れた。
「保護システムを開発していたのですか?」
「はい。不審な命令を検知して、遠隔からの不正な干渉を防ぐものだそうです」
ギアが作業台から顔を上げた。
「独立したセキュリティ層ってこと?」
「たぶん、そうだと思います。本人は安全装置って呼んでいました。自分の機器を使う人たちが、誰かに勝手に操作される心配をしなくて済むようにしたいって」
キランとマッハは顔を見合わせた。
「完成していたんですか?」
キランが尋ねた。
「わかりません。何かの試験を始められるところまで来たとは言っていました」
マッハは、以前オリヴィアから提供された情報を調べ始めた。
「ナサニエルの研究が十分に進んでいたなら、純化協定の電磁兵器に直接関係する知識を持っていた可能性があります」
ギアは眉をひそめた。
「あるいは、連中が悪用してる脆弱性に気づいてたのかも」
オリヴィアは二人を交互に見た。
「それって……研究のせいで、あの子が連れ去られたかもしれないってことですか?」
「まだわかりません」
キランは答えた。
「でも、可能性はあります」
彼女は視線を落とした。
「あの子、その研究を本当に誇りに思っていたんです」
声が震えた。
「自分と同じような人たちの心配事を、一つでも減らしたいって……」
キランは胸が締めつけられるのを感じた。
移動支援技術を安全にしようとしていた男性が、その技術を消し去ろうとする人々の手に落ちた。
もしそうなら、あまりにも残酷だった。
オリヴィアは顔を上げた。
「お願いです。あの子を傷つけさせないでください」
キランは彼女の目を見た。
「僕たちは、まだ捜すのをやめていません」
翌朝には、エイドリアン・ヴォスの顔を見ずに過ごすことが難しくなっていた。
カフェのテレビ画面。
ニュース記事の横に表示される広告。
何千人ものシトロンシティ市民のSNS。
前回のタウンホール集会は、大きな論争を巻き起こしていた。
しかしヴォスは、批判を受けて引き下がるどころか、それを利用していた。
【純化協定、責任あるヴェント監督制度を要求】
【公共の安全か、差別か? 登録制度をめぐり市民の意見が対立】
【女性教師、白熱した質疑で純化協定の広報担当者に反論】
キランは教室のコンピューターに表示された最後の見出しを見つめた。
その横には、市民会館で立ち上がるマイケイラの写真が掲載されていた。
「この写真、絶対に嫌がるだろうな」
画面の隅にマッハが現れた。
「自信に満ち、理路整然としているように見えますが」
「そういう意味じゃないよ」
「では、何が問題なのでしょう?」
「本人の知らないところで写真を撮られるのが嫌いなんだ」
「なるほど」
生徒たちが教室に入り始めたため、キランは記事を閉じた。
いつもより会話が騒がしかった。
「登録制度って、別に悪くないと思うけど」
「どうして車椅子を登録しなきゃいけないんだよ?」
「あれは普通の車椅子じゃないだろ」
「うちの父さん、政府は全部使用禁止にするべきだって言ってた」
キランは顔を上げた。
最後の発言は、窓際の生徒からだった。
全員が席に着くのを待ってから、キランは口を開いた。
「よし、みんな。今日の教材に入る前に、少し話し合いたいことがある」
生徒たちは顔を見合わせた。
キランは教室のディスプレイを起動した。
二つの言葉が表示された。
自由
安全
「この二つは、対立するものだろうか?」
最前列の女子生徒が手を挙げた。
「場合によると思います」
「説明してくれる?」
「みんなの安全を守るために、政府が人々の行動を制限することもあるからです」
「いいね。誰か例を挙げられるかな?」
いくつもの手が上がった。
それから数分間、生徒たちは交通法規、空港の保安検査、危険な機器の使用制限について話し合った。
キランは次の質問を投げかけた。
「では、人々を守るための法律が、特定の集団の生活を難しくしてしまったら、どうなるだろう?」
教室が少し静かになった。
後ろの席の男子生徒が答えた。
「その集団によるんじゃないですか?」
キランは彼を見た。
「そうかな?」
少年は居心地が悪そうに身じろぎした。
「だって、その集団が危険だったら……」
「危険かどうかは、どうやって判断する?」
「その人たちが何をしたかで」
「もし、その集団の中のごく一部だけが悪いことをしたのなら?」
少年はためらった。
別の生徒が手を挙げた。
「悪いことをした人を罰するべきです。ほかの人まで罰するのは違うと思います」
キランはうなずいた。
「一つの考え方だね」
別の生徒が口を開いた。
「でも、あとから同じことをする人が出てきたらどうするんですか?」
「大切な疑問だね」
キランは答えた。
「では、全員を有罪だと決めつけずに、その危険へ対処するにはどうすればいいだろう?」
議論は続いた。
規制を支持する生徒もいた。
差別を心配する生徒もいた。
テレビで聞いたことのある言葉を、そのまま繰り返す生徒もいた。
キランは、何を考えるべきかを教えなかった。
代わりに、なぜそう考えるのかを説明するよう求めた。
授業が終わる頃には、黒板が疑問で埋め尽くされていた。
何を危険とみなすかは、誰が決めるのか?
安全のためなら、自立した生活を制限してもよいのか?
人によって影響が違う法律は、公平と言えるのか?
誰かの自由を奪う前に、どんな証拠が必要なのか?
チャイムが鳴ったとき、キランは最後の質問を見つめた。
珍しく、気の利いた言葉が何も浮かばなかった。
発見があったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
ギアがノーススターの記録を調べていると、一つの名前が目に留まった。
「……スナット」
マッハのアバターが現れた。
「何か問題でも?」
ギアは記録を拡大した。
「これ、見覚えのある名前じゃない?」
マッハが確認した。
【イライアス・マーサー】
【年齢:23歳】
【大学交通サービス利用資格:有効】
【住居への出入りの記録:最近閲覧あり】
ちょうど学校から戻ったキランが、ワークステーションの横で立ち止まった。
「イライアス?」
ギアはうなずいた。
「大学の時間割、送迎予約、住居への出入りに関する情報。全部調べられてる」
マッハは時刻を強調表示した。
「過去四十八時間以内に、複数回アクセスされています」
キランはすぐに携帯電話を取り出した。
数回の呼び出し音のあと、イライアスが出た。
『もしもし?』
「イライアス? キランだよ」
『あっ! キリアン先生!』
「元気にしてる?」
『前よりは、まあ。大学がやっと送迎の手配を直してくれたんです』
キランは声を落ち着かせようとした。
「最近、何か変わったことはなかった?」
少し間があった。
『変わったことって?』
「誰かにつけられたり、変なメッセージが来たり、車椅子について質問されたり」
イライアスは黙った。
そして、少し声を落とした。
『実は……』
キランは携帯電話を強く握った。
「何があったの?」
『アパートの外に、変な男がいるんです。今週だけで三回見ました』
「知り合い?」
『いいえ。入口の近くに立って、携帯を見てるふりをしてるんです』
「ほかには?」
『昨日、誰かが大学の送迎窓口に、僕がまだ同じ時間に迎えを頼んでるかって聞いてきたらしいです』
キランはギアを見た。
ギアはすでにエリソンへ連絡していた。
「イライアス、よく聞いて。こちらで警護を手配するまで、安全な場所にいてほしい」
『警護?』
「誰かが君を狙っている可能性があるんだ」
イライアスはすぐには答えなかった。
ようやく聞こえてきた声は、小さかった。
『……またですか?』
キランは目を閉じた。
「その可能性がある」
長い沈黙が流れた。
そしてイライアスは、キランの心から離れない質問をした。
『僕はただ大学に行きたいだけなのに、あと何回助けてもらわなきゃいけないんですか?』
ヘレナ・ヴェイン司令官は、最新の作戦計画を無表情で見つめていた。
コバルトが投影台の横に立っている。
地下での戦闘によって左肩にはまだ硬さが残っていたが、その声に迷いはなかった。
「標的の行動予定を確認しました」
ヴェインは地図を調べた。
「回収経路は?」
「大学のバリアフリー送迎乗り場。東ターミナル地下の業務用通路。二次搬入口に装甲輸送車を待機させます」
「警備は?」
「大学の巡回警備員と市の交通職員です」
「対応までの時間は?」
「状況によって変動します」
ヴェインは画面に触れた。
「ならば、その不確定要素を取り除け」
二つ目の場所が表示された。
数ブロック離れたところにある、自動運行式の交通駅。
大規模な電力供給設備に接続されている。
コバルトは画面を見た。
「陽動ですか?」
「ウルトラヴァイオレットは、民間人の緊急事態に対して予測可能な反応を示す」
「救助を優先します」
「そのとおりだ」
ヴェインは電力供給設備を拡大した。
「制御を失った配送車両が、夕方の通勤時間帯に設備へ衝突する。停電によって、駅の内部に乗客が閉じ込められる」
コバルトは彼女を見た。
「実際の民間人を使うのですか?」
「当然だ」
彼は何も言わなかった。
ヴェインは続けた。
「ウルトラヴァイオレットは救助に向かう。その間に、回収部隊が標的を確保する」
「陽動だと気づかれた場合は?」
「簡単には見捨てられないほど、深刻な緊急事態にしておけ」
彼女は地図を閉じた。
「今度こそ、奴のAIを甘く見るな」
コバルトは姿勢を正した。
「了解しました」
ヴェインは、作戦室を見下ろす観察窓へ向き直った。
「開始しろ」
衝突が起きたのは、午後五時十七分だった。
大学地区近くの交差点で、一台の配送車両が突然進路を変えた。
コンクリートの防護壁に衝突し、そのまま自動運行式交通駅の横にある電力供給設備へ突っ込んだ。
ガシャアアアアンッ!
破損した設備から火花が噴き上がった。
駅の照明が点滅する。
そして、すべてが暗闇に沈んだ。
非常警報が鳴り響いた。
駅の内部では、自動ドアが閉じたまま動かなくなった。
エレベーターは階の途中で停止した。
高架ホームでは列車が動かなくなり、何十人もの乗客が取り残された。
キランがレイモンドと移動していたとき、緊急警報が表示された。
マッハが場所を示した。
「イーストブリッジ交通駅付近で、大規模な電力障害が報告されています」
レイモンドは地図を見た。
「近いな」
「複数の乗客が閉じ込められています。緊急車両が現場へ向かっています」
キランは、イライアスの大学へ続く道を見た。
エリソンとは、そこで合流する予定だった。
「消防隊だけで対応できそう?」
「可能性はあります。しかし、駅の非常用システムにも障害が報告されています」
キランの表情が引き締まった。
「じゃあ、行こう」
レイモンドはうなずいた。
「俺はイライアスのところへ向かう。お前は乗客を助けろ」
「何かあったら連絡して」
「任せとけ」
MACH-01Aが加速した。
紫色のスラスターが道路を照らし、キランは車の列の上へ浮かび上がった。
数分後、交通駅が見えてきた。
損傷した電力設備から煙が立ち上っている。
通りには緊急車両が集まっていた。
消防士がキランを見つけ、ホームの方を指さした。
「上の階に人が閉じ込められてる!」
キランは消防士の横に着地した。
「何人ですか?」
「少なくとも三十人だ! 非常扉が開かない!」
マッハが建物を走査した。
「電気制御システムが応答していません」
キランは駅の入口を見た。
「だったら、手動で開けよう」
駅の内部では、怯えた乗客たちが閉じられたホームの扉の近くに集まっていた。
一人の女性が泣いている子供を抱きしめていた。
年配の男性は床に座り、荒い息をしている。
二人の駅員が保安ゲートを開けようとしていた。
キランが近づいた。
「みんな、扉から離れて!」
MACH-01Aの磁力グラップラーが展開した。
ガシュンッ!
ケーブルが補強されたゲートの枠に固定された。
「マッハ、張力最大!」
スラスターが唸りを上げた。
金属が軋む。
ギギギギギッ!
ゲートが動いた。
キランはさらに引っ張った。
バキンッ!
施錠機構が壊れた。
ゲートが横へ滑り、出口が開いた。
乗客たちは非常階段へ向かい始めた。
「一列になって! 押さないで!」
マッハは床に進行方向を示す矢印を投影した。
「落ち着いてお進みください。外では救助隊員が待機しています」
キランはエレベーターシャフトへ目を向けた。
「まだ閉じ込められてる人は?」
「四人です。エレベーターが二階と三階の間で停止しています」
キランは保守用の出入口へ加速した。
そのとき、マッハのアバターがちらついた。
「キラン」
「何?」
「異常な電磁反応を検出しました」
キランは速度を落とした。
「壊れた電力設備から?」
「はい。その波形には、ヌリファイアーズの装備と類似する特徴が含まれています」
キランは背筋が冷たくなるのを感じた。
「冗談でしょ?」
「冗談ではありません」
彼はエレベーターを見た。
まだ四人が閉じ込められている。
そして、イライアスの顔が頭に浮かんだ。
「レイモンド」
通信回線を開いた。
「レイモンド、これ、罠かもしれない!」
イライアス・マーサーは、大学のバリアフリー送迎乗り場で十五分近く待っていた。
いつものシャトルバスが遅れている。
携帯電話で交通サービスのアプリを確認した。
【運行遅延――指定された乗車場所でお待ちください】
彼はため息をついた。
「まったく、もう……」
一時的に使用している代替の車椅子は修理されていたが、以前の襲撃以来、電子機器を完全には信用できなくなっていた。
彼はターミナルの入口を見た。
三人の人物が近づいてくる。
暗い上着。
深くかぶった帽子。
一人は四角い機器ケースを持っていた。
イライアスの胃が締めつけられた。
彼には、その動きに見覚えがあった。
顔ではない。
目的がわかったのだ。
彼は車椅子を大学の建物へ向けた。
一人が進路を塞いだ。
「マーサーさんですね?」
イライアスは答えなかった。
「交通サービスの者です。予定が変更になりました」
イライアスは男性の手元を見た。
身分証はない。
会社の制服も着ていない。
「だったら、窓口に電話します」
「その必要はありません」
二人目が機器ケースを開いた。
小型の電磁装置が充電を始める。
イライアスは即座に反応した。
最初の事件のあと、キランが設定を手伝ってくれた緊急通報アイコンを押した。
【緊急信号――送信完了】
次の瞬間、携帯電話の通信が途切れた。
車椅子の操作パネルが点滅した。
心臓が激しく脈打つ。
「嫌だ!」
最初の男が車椅子に手を伸ばした。
「落ち着いてください」
イライアスは身を引いた。
「近寄るな!」
電磁装置が放電した。
バヂヂッ!
車椅子が激しく揺れた。
操作パネルが暗くなった。
イライアスはその場から動けなくなった。
三人が近づいてくる。
ギアの工房で警報が鳴り響いた。
【緊急警報――イライアス・マーサー】
ギアはスツールから転げ落ちそうになった。
「スナット!」
マッハの遠隔インターフェースが現れた。
「緊急信号を受信しました。イライアスの最後の位置情報は、大学の送迎乗り場です」
ギアはすぐにレイモンドへ連絡した。
「襲われてる!」
スピーカーからレイモンドの声が聞こえた。
『あと二ブロックだ!』
「車椅子を止められた!」
『エリソンを呼べ!』
ギアは別の回線を開いた。
「もう呼んでる!」
その頃、キランは停止したエレベーターの横に浮かんでいた。
四人の乗客が非常用ハッチの向こうで救助を待っている。
マッハが警報を表示した。
「イライアスが緊急信号を発信しました」
キランの顔が青ざめた。
「襲われてるんだ」
「はい」
キランはエレベーターを見た。
それから、遠くの大学地区へ目を向けた。
操縦装置を握る手に力がこもった。
「消防隊がこの人たちにたどり着くまで、あとどれくらい?」
「約六分です」
「僕たちなら?」
「二分以内です」
キランは唾を飲み込んだ。
「だったら、終わらせよう」
彼はエレベーターの非常解放装置へグラップラーを撃ち込んだ。
「マッハ! これを開けるのを手伝って!」
最初に引っ張ったとき、エレベーターの扉はびくともしなかった。
キランは張力を上げた。
ギギギギッ!
金属製の枠が曲がり始めた。
内部で誰かが悲鳴を上げた。
「扉から離れて!」
キランは叫んだ。
マッハはエレベーターの位置を監視した。
「構造的な安全性は維持されています」
キランはもう一度引っ張った。
バキィィンッ!
非常用の留め具が壊れた。
閉じ込められた乗客たちから、キランの姿が見える程度に扉が開いた。
「みんな、大丈夫?」
怯えた女性がうなずいた。
「出られないんです!」
「今なら出られます!」
キランはMACH-01Aの装備区画から、補強された救助用プラットフォームを展開した。
乗客たちは一人ずつ外へ出た。
最後の一人が安全な場所に移動したところで、消防士が到着した。
「こちらで引き受ける!」
消防士が叫んだ。
キランはうなずいた。
そして、開いた保守用通路へ向き直った。
「マッハ!」
「経路を計算しました」
紫色のスラスターが点火した。
フォオオオオッシュ!
MACH-01Aは駅の外へ飛び出し、夕暮れの空へ急上昇した。
レイモンドが大学の送迎乗り場に到着したとき、覆面の工作員たちはイライアスを装甲輸送車へ押し込もうとしていた。
「おい!」
最も近くにいた工作員が振り返った。
武器を構えるより早く、レイモンドの拳が飛んだ。
ドガッ!
男が後ろによろめいた。
二人目が電磁弾を発射した。
レイモンドはコンクリートの柱の陰へ飛び込んだ。
バヂヂッ!
弾が壁に命中した。
コンクリートの粉が歩道に飛び散る。
レイモンドは拳銃を抜いた。
「警察が来るぞ! 武器を捨てろ!」
工作員たちは無視した。
一人が拘束装置を起動した。
ケーブルがレイモンドへ飛んでくる。
彼は横へ転がった。
ガキンッ!
ケーブルが金属製の手すりに命中した。
イライアスは、別の工作員が車椅子の固定具を外そうとする中で必死にもがいていた。
「放せ!」
男が肘掛けをつかんだ。
レイモンドは工作員の武器を狙って発砲した。
バンッ!
装置が砕けた。
男がひるむ。
レイモンドは突進した。
肩を工作員に叩きつけ、イライアスから引き離した。
「大丈夫か、坊主!」
イライアスは必死にうなずいた。
「動けないんです!」
「何とかしてやる!」
重いエンジン音が響いた。
装甲輸送車が二人へ向かって動き始めた。
後部の積載用スロープが下りる。
内部から機械式のウインチが伸びてきた。
レイモンドは顔を上げた。
「おいおい、冗談だろ……」
その数秒後、キランが到着した。
紫色の光がターミナルを横切った。
フォオオオッシュ!
MACH-01Aはイライアスと輸送車の間へ降下した。
突然の風圧で、地面に落ちていた紙が舞い上がる。
キランはプラズマ砲を構えた。
「彼から離れろ!」
残った工作員たちが散開した。
一人が電磁妨害装置を起動した。
マッハの表示がちらつく。
【警告――ナビゲーション妨害】
キランは顔をしかめた。
「またこれ?」
「ギアの試作した受動式ナビゲーションシステムを起動します」
補助ディスプレイが現れた。
偽情報で乱されたセンサー表示の代わりに、簡略化された方向指標が表示された。
車椅子の反応が変わった。
精度は落ちている。
応答も鈍い。
しかし、安定していた。
「どう?」
「予想以上に良好です」
マッハが答えた。
キランは微笑んだ。
「あとでギアに伝えなきゃね」
最初の工作員が発砲した。
バヂヂッ!
キランは横へ回避した。
弾は彼の下を通り過ぎた。
キランはそのまま攻撃者へ加速した。
ガンッ!
MACH-01Aの装甲側面が男の武器にぶつかり、手から弾き飛ばした。
二人目の工作員が拘束ケーブルを振りかざして突進した。
キランは攻撃を避けられる高さまで浮上した。
「マッハ、グラップラー!」
ガシュンッ!
ケーブルが支持梁に固定された。
キランはその周囲を振り子のように旋回し、勢いを利用して工作員の背後へ回り込んだ。
「残念!」
低出力のプラズマ弾が、男の装甲バックパックに命中した。
ドンッ!
工作員が倒れた。
レイモンドは輸送車の近くで別の工作員に飛びかかった。
二人は金属製の防護柵へ激突した。
ガランッ!
レイモンドの重い拳が振り下ろされた。
工作員は手首の武器を起動しようとした。
レイモンドはその腕をつかんだ。
「今度はそうはいかねえぞ」
武器をひねり取った。
バキッ!
装置が手すりに叩きつけられて壊れた。
工作員は膝をついた。
その頃、輸送車のエンジン音がさらに大きくなっていた。
運転手は業務用道路へ向かって後退し始めた。
キランは振り返った。
「マッハ! あの車!」
「推進系の無力化を試みます」
強烈な電磁妨害が周囲に広がった。
MACH-01Aが揺れた。
【警告――センサー障害】
キランは操縦装置を強く握った。
「試作機は持ちこたえてる?」
「はい。ただし、急激な高度変更は強くお勧めしません」
「了解!」
輸送車が加速した。
キランは追跡を開始した。
紫色のスラスターが燃え上がり、業務用道路を疾走する。
運転手は配送トラックを避けて急ハンドルを切った。
キランも追った。
キィィィッ!
装甲車がコンクリートの分離帯に接触した。
火花が散った。
キランはプラズマ砲を構えた。
しかし、ためらった。
輸送車は交通量の多い交差点へ近づいている。
直接攻撃すれば、一般車両の列に突っ込ませてしまうかもしれない。
「マッハ、ほかの方法は?」
「選択肢は限られています」
キランは交通ターミナルへ目を向けた。
そして、業務用道路の保安バリケードに気づいた。
「イライアス!」
彼はギアの緊急中継回線を通じて通信を開いた。
「イライアス、聞こえる?」
雑音の向こうから声が返ってきた。
『は、はい!』
「ターミナルの非常用バリケードの操作方法、わかる?」
『わかります! 大学のアクセシビリティ担当部署の試験を手伝ったことがあるんです!』
キランはにやりと笑った。
「業務用道路の出口を封鎖できる?」
イライアスは、送迎乗り場の横に設置された非常用操作盤を見た。
車椅子はまだ動かなかった。
しかし、レイモンドが近くにいた。
「レイモンドさん!」
レイモンドが振り返った。
「どうした!」
「あの操作盤! 入口の横です!」
レイモンドは駆け寄った。
イライアスが操作を指示する。
「非常用アクセスメニューを開いてください!」
レイモンドは画面を押した。
「開いたぞ!」
「業務用道路の封鎖を選んで!」
警告が表示された。
【認証された緊急操作が必要です】
イライアスは、アクセシビリティ担当部署で教わった緊急操作手順を素早く説明した。
レイモンドは認証手順に従って入力した。
システムが受け付けた。
【業務用道路バリケード――展開中】
逃走する輸送車の前方で、頑丈な鋼鉄製の車止めが路面からせり上がり始めた。
運転手は急ブレーキを踏んだ。
キィィィィィッ!
車体が横滑りした。
後部バンパーが車止めに激突する。
ガァァンッ!
キランは輸送車の後方に降下した。
「ここまでだよ!」
輸送車の後部扉が勢いよく開いた。
さらに二人の工作員が飛び出してきた。
一人は小型の発射装置を持っていた。
マッハは即座に武器を検知した。
「キラン! 高出力の電磁弾です!」
キランはシールドを展開した。
工作員が発砲する。
バヂヂヂッ!
電磁弾が紫色の障壁に命中した。
ドォォォン!
MACH-01Aが後方へ押し戻された。
【シールド完全性――42%】
キランは歯を食いしばった。
「いい加減、飽きてきたよ!」
二人目の工作員が拘束ケーブルを発射した。
キランは横へ回避した。
ケーブルは街灯に巻きついた。
マッハが張力を計算した。
「キラン、ケーブルが固定されています」
キランは微笑んだ。
「じゃあ、ちょっと借りようか」
磁力グラップラーを起動した。
ガシュンッ!
グラップラーがケーブルの装置に接続された。
キランは横方向へ急加速した。
工作員の手から拘束装置が引きちぎられた。
装置は輸送車の開いた後部扉に激突した。
ガランッ!
キランは低出力のプラズマ弾を発射した。
パンッ!
装置が破裂した。
その直後、レイモンドがエリソンと二人の制服警官を連れて到着した。
「警察だ! 両手を見える位置に上げろ!」
一人の工作員が武器を落とした。
もう一人はためらった。
そして、腰の装置へ手を伸ばした。
エリソンは拳銃を構えた。
「動かないで!」
工作員は凍りついた。
ゆっくりと両手を上げた。
勝利の余韻が続いたのは、一分にも満たなかった。
マッハが、装甲輸送車から発信される通信を検知した。
「キラン、暗号化されたデータ転送が進行しています」
キランは振り返った。
「止められる?」
「試みています」
車内で赤いランプが点滅し始めた。
【遠隔データ消去開始】
「キラン!」
輸送車のコンピューターから鋭い電子音が鳴った。
次の瞬間、ダッシュボードから煙が噴き出した。
パンッ! パンッ!
複数の電子モジュールが破裂した。
キランは思わず身を引いた。
「本気で!?」
マッハのアバターがちらついた。
「車両の作戦データは破壊されました」
レイモンドは煙を上げる輸送車に近づいた。
「何か残ってるか?」
「断片的な情報が残存している可能性はあります。しかし、主要な記憶装置は機能していません」
エリソンは拘束された工作員たちを見た。
「なら、本人たちから聞くしかありませんね」
一人の男が、両手を背中で拘束され、地面に座らされていた。
ヘルメットは外されていた。
キランが思っていたよりも若い。
二十五歳くらいだろうか。
額には汗が流れていた。
エリソンは彼の前にしゃがんだ。
「イライアス・マーサーをどこへ連れていくつもりだったの?」
男は地面を見つめた。
「知らない」
「誰が命令したの?」
沈黙。
レイモンドが近づいた。
「よく聞け。お前らは障害のある一般市民を誘拐してる。ナサニエル・ブルックスのことも知ってるぞ」
工作員の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
しかし、十分だった。
キランはそれに気づいた。
「彼を知ってるの?」
男は唾を飲み込んだ。
「名前なんて知らない」
「じゃあ、何を知ってる?」
工作員は壊れた輸送車をちらりと見た。
「……ほかの連中は移された」
キランは動きを止めた。
「何?」
「前のグループだ。もう移送された」
エリソンが身を乗り出した。
「どこへ?」
「知らない」
「いつ?」
男はためらった。
「この作戦の前だ」
キランは血の気が引くのを感じた。
「ナサニエル・ブルックスも、その中にいたの?」
工作員は顔を背けた。
「言っただろ。名前なんて知らない」
レイモンドの表情が険しくなった。
「だが、生きてることは知ってるんだな?」
男は何も言わなかった。
キランが近づいた。
「お願いだ」
工作員はようやく彼を見た。
その目には、初めて恐怖が浮かんでいた。
「お前らには見つけられない」
キランは顎に力を込めた。
「どうして?」
男は声を落とした。
「お前らが一か所を見つける頃には、全員もう別の場所へ移されてるからだ」
その日の夕方、イライアスは家族と再会した。
母親は、彼が涙を流しながら笑い始めるほど強く抱きしめた。
「母さん! 息ができないよ!」
母親は少しだけ腕を緩め、息子の顔を見た。
「もう二度と、こんな心配させないで!」
「僕だって、こんなことになる予定じゃなかったよ!」
キランは少し離れたところから、その光景を見守っていた。
隣にはレイモンドが立っていた。
「あの坊主、よくやったな」
キランはうなずいた。
「輸送車を止めるのを手伝ってくれたんだ」
「根性あるぜ」
イライアスがこちらを見た。
「キリアン先生?」
キランは近づいた。
「何?」
「ありがとうございました」
キランは微笑んだ。
「君も自分を救うために頑張ったんだよ」
イライアスは損傷した車椅子を見下ろした。
「でも、こんなことが何度も起きるのは嫌です」
キランの笑みが消えた。
「……わかるよ」
「僕はただ、大学を卒業したいだけなんです」
「それができて当然なんだ」
イライアスは彼を見た。
「いつか終わるんでしょうか?」
キランは街の向こうに広がる空を見つめた。
「わからない」
そして、イライアスに向き直った。
「でも、僕たちは諦めないよ」
オリヴィア・ブルックスが知らせを受けたのは、その夜だった。
キランは、新たな誘拐が阻止されたことを伝えた。
捕らえた工作員の一人が、すでに拘束されている人々の移送について証言したことも。
そして、ナサニエルがまだ生きている可能性があることも。
オリヴィアは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
話が終わると、彼女は床を見つめた。
「じゃあ、あの子はまだどこかにいるんですね」
「はい」
「でも、場所はわからない」
「まだです」
彼女の肩が震え始めた。
キランは待った。
やがてオリヴィアは両手で顔を覆った。
「私……あとどれくらい、こんなことに耐えられるかわからない……」
キランは安易な慰めを口にしなかった。
ただ、彼女のそばにいた。
しばらくして、オリヴィアは手を下ろした。
「一つ、約束してくれますか?」
「何ですか?」
「あの子を見つけたら、伝えてください。お姉ちゃんは、一度だって捜すのを諦めなかったって」
キランはうなずいた。
「必ず伝えます」
ギアの工房では、耐妨害ナビゲーションシステムの最初の実用版が、ついにMACH-01Aへ取り付けられた。
ギアは手についた油を拭きながら、車椅子から一歩離れた。
「よし、できた」
キランは新しいインターフェースを調べた。
「見た目はあまり変わらないね」
「大事な部分は中にあるからね」
マッハがシステムを起動した。
簡略化された三次元地図が表示された。
「独立した慣性追跡は正常に機能しています。受動式の方向基準装置も安定しています」
ギアは微笑んだ。
「まだ完璧じゃないけど、次に誰かが君たちのセンサーをスクランブルエッグにしようとしても、壁に突っ込まずに済むはずだよ」
キランはにっこり笑った。
「やっぱりギアは最高だね」
「当然でしょ」
マッハのアバターが二人の間に現れた。
「私の貢献も相当なものだったと、ここで申し上げておきます」
キランは笑った。
「二人とも最高だよ」
ギアは腕を組んだ。
「それならよし」
ほんの一瞬、工房にはいつもの日常が戻ってきた。
機械の低い駆動音。
はんだの臭い。
何年もの間、ともに途方もないものを作り続けてきた三人の、慣れ親しんだ軽口。
しかし、窓の向こうでは、シトロンシティが変わり始めていた。
そして、三人ともその事実から目を背けることはできなかった。
ヘレナ・ヴェイン司令官は、失敗した回収作戦の記録映像を、苛立ち一つ見せずに眺めていた。
コバルトが隣に立っていた。
「回収部隊は失敗しました」
彼は報告した。
「見ればわかる」
「工作員四名が拘束されました」
「残念な損失だ」
「標的も逃走しました」
「そうだな」
ヴェインは映像を閉じた。
コバルトは眉をひそめた。
「司令官、作戦を再検討するべきでは?」
「必要ない」
「敵は我々の装備に適応しています」
「ならば、我々がそれ以上の速さで適応すればいい」
彼女は壁一面の地図を起動した。
街の各所に、何十もの赤い印が現れた。
すでに監視下に置かれている人物を示すもの。
標的として確定した人物を示すもの。
即時回収の対象として指定された人物を示すもの。
ヴェインは配置を調べた。
「クリーン・スレート作戦は、最初から一件の回収成功に依存する計画ではない」
コバルトは地図を見た。
「では、ご命令は?」
「作戦を拡大する」
「何部隊を投入しますか?」
「使用可能な回収部隊すべてだ」
コバルトはためらった。
「それでは、我々の活動が発覚する危険性が高まります」
「標的一人につき一つの作戦を行うという考え方を続ければ、そうなるだろうな」
ヴェインは複数の地点を選択した。
その周囲に赤い円が現れた。
「回収時間を調整しろ。複数の経路を使え。収容場所は一時的なものにとどめる」
コバルトはうなずいた。
「ウルトラヴァイオレットは?」
ヴェインは地図の横に表示されたキラン・キリアンの写真を見つめた。
「奴は、すべての場所に同時に存在することはできない」
彼女は承認ボタンを押した。
【クリーン・スレート作戦】
【第二段階――承認】
【複数回収部隊――起動】
シトロンシティの各地で、エンジンが始動し始めた。
白い輸送用バンが、港湾地区近くの地下駐車場から出発した。
別の一台が、工業地区の倉庫から走り出した。
三台目は、医療施設の裏手にある業務用出入口から姿を現した。
続いて四台目。
五台目。
六台目。
それぞれのヘッドライトが、夜の道路を照らした。
車両は街の異なる地区へ向かって走り出した。
各車両の中には、覆面の工作員たちが座っていた。
全員が、ヴェントシステムを無力化するための装備を持っていた。
全員に名前が与えられていた。
住所が。
行動予定が。
そして、命令が。
その頭上では、街がいつもどおりの夜を過ごしていた。
家族が夕食の食卓を囲んでいた。
学生たちが宿題を終わらせていた。
仕事を終えた人々が帰宅していた。
人々は移動支援機器を充電し、翌日の通院に備え、週末の予定を立てていた。
自分たちの人生を、すでに誰かが切り捨てても構わないものと決めているなど、ほとんどの人は知る由もなかった。
ギアの工房では、キランがマッハの冗談に笑っていた。
彼には、隠された施設から走り出す車両の姿は見えなかった。
これから何人が姿を消すことになるのかも、知らなかった。
そして、純化協定の暗号化された通信網を通じて発せられた命令も、聞こえるはずがなかった。
【特定せよ】
【孤立させよ】
【排除せよ】
狩りは、始まったのだった。




