消失点
ギアが最初に気づいたのは、臭いだった。
焦げた絶縁材。
過熱した電子回路。
そして、トースターを浴槽に放り込んだような、何とも形容しがたい臭い。
次に気づいたのは、MACH-01Aの惨状だった。
そして三つ目は、キランの表情だった。
「……スナット」
紫色のホバーチェアで工房に入ってきたキランは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「やあ、ギア」
「『やあ、ギア』じゃない!」
ギアは吊り下げられたエンジンユニットの下から姿を現し、溶接用ゴーグルを額まで押し上げると、MACH-01Aの右側面に広がる焦げた装甲を凝視した。
「ボクのかわいい子に、何をしたんだぁぁぁ!?」
キランは自分の車椅子を見下ろした。
「厳密に言えば、君のかわいい弟は僕なんだけど」
「そういう意味じゃないって、わかってるでしょ!」
レイモンドが、地下の保守用トンネルから回収した損傷した電磁投射装置を抱えて入ってきた。
「まあ、あの状況にしちゃ、こいつはよくやったと思うぜ」
ギアは彼を指さした。
「そこの君! 甘やかさないで!」
レイモンドは両手を上げた。
「そのつもりはなかったんだがな」
近くのモニターに、マッハの紫色のアバターが現れた。
「補足させていただくなら、あの状況下における私たちの戦闘能力は、極めて優秀でした」
ギアはゆっくりと画面に顔を向けた。
「マッハ」
「はい?」
「シールド発生装置、どれくらい生きてる?」
短い沈黙が流れた。
「楽観的な評価と悲観的な評価、どちらをご希望ですか?」
「マッハ」
「十七パーセントです」
ギアは目を閉じた。
「……スナット」
「加えて、後部スタビライザーには重大な電磁損傷が発生しており、補助ナビゲーションアレイには断続的な障害が確認されています。また、左舷推進ユニットの再調整も必要です」
ギアは目を開いた。
「ほかには?」
「塗装に傷がつきました」
キランは顔をしかめた。
ギアは画面を見つめた。
次にキランを見た。
最後に天井を仰いだ。
「……悪態用の貯金箱、もっと大きいのを買わなきゃ」
二十分後、MACH-01Aは工房の整備プラットフォームに固定されていた。
天井から油圧式のアームが伸び、車椅子を支える。その間にギアは、損傷した装甲パネルを次々と取り外していった。
キランは座ったまま、外科医のような集中力で作業する兄姉の姿を見つめていた。
「ずいぶん静かだね」
「君を怒鳴るか、あの兵器を設計した連中を怒鳴るか、考えてるところ」
「できれば後者にしてくれる?」
「約束はできないね」
ギアはシールド発生装置の外装を取り外した。
その下にある部品は変色し、セラミック製の絶縁材には細い亀裂が何本も走っていた。
ギアの表情が変わった。
「これ、普通の電磁パルスじゃない」
マッハが複数の波形を表示した。
「そのとおりです。敵は広帯域の電磁干渉と、収束させたフィールド破壊攻撃を組み合わせていました。私たちの防御システムの応答特性を突くよう、兵器が調整されていたのです」
レイモンドは近くの作業台にもたれかかった。
「奴らは、こいつとの戦い方を知っていた」
ギアが顔を上げた。
「どの程度?」
「戦場を選べる程度にはな」
レイモンドは、狭い保守用トンネル、補強されたシャッター、そしてヌリファイアーズの統制された動きについて説明した。
「奴らは無闇に突っ込んでこなかった。出口を押さえ、照明を落とし、キランの飛行能力が役に立たない位置へ追い込もうとした」
ギアは損傷したスタビライザーを調べた。
「それで、キランが対応したら?」
「戦術を変えた」
レイモンドは腕を組んだ。
「指揮官は相当な腕だった。軍隊式の移動、連携した制圧行動、統制された撤退。あいつらを訓練したのは、恨みだけで動く素人じゃない」
マッハがコバルトの強化外骨格の記録映像を投影した。
「彼の装備は、通常の磁力拘束に対しても高い耐性を示しました」
ギアは映像を見つめた。
「冷蔵庫が軍隊に入隊したみたいな格好だね」
キランは小さく笑った。
「だいたい合ってるよ」
ギアは作業台に椅子を引き寄せ、設計ソフトを開いた。
「よし。電子センサーだけに頼らない予備ナビゲーションシステムが必要だ」
マッハのアバターが首を傾げた。
「完全な機械式ナビゲーションでは、運用能力が大幅に低下します」
「完全な機械式にはしない。ハイブリッドだよ」
ギアは小型装置の設計図を描き始めた。
「受動式の光学基準装置、独立した慣性追跡、それからセンサーに大量の偽情報を流し込まれても姿勢を維持できる物理的な方向検出機構」
キランは設計図が形になっていく様子を見つめた。
「うまくいくかな?」
ギアは彼を見た。
「いずれはね」
「心強いなあ」
「心強くないのは、君たちのシステムを熟知して、専用の兵器を設計できる連中がいるってことだよ」
キランの顔から笑みが消えた。
マッハのアバターも、わずかに光を弱めた。
「彼らは、私が独立した戦術的判断を行えることも把握しています」
ギアの指が止まった。
それは、三人ともなるべく考えないようにしていた事実だった。
純化協定は、MACH-01Aを単なる機械として研究しているのではない。
マッハ自身を研究している。
自我を持つ知性。
キランの最も古い友人。
ギアは画面に目を向けた。
「だったら、これからも君を甘く見てもらおうじゃないか」
マッハは少し考えた。
「その提案には賛成です」
キランがマイケイラとの夕食の約束を思い出したのは、午後十時近くだった。
損傷したナビゲーションの記録を確認し終えたところで、携帯電話に通知が表示された。
【不在着信――マイケイラ】
その下には三件のメッセージ。
『もう向かってる?』
『キラン?』
『お願い、無事だって言って』
キランは画面を凝視した。
「……あっ」
マッハが隣に現れた。
「何か問題でも?」
「マイケイラ……」
マッハは時刻を確認した。
「ああ」
「そんな『ああ』って言い方しないでよ」
「約三時間十二分の遅刻です」
「わかってる!」
「今夜は爆発のない夜にすると、明確に約束されていました」
キランは、レイモンドの作業台に置かれた損傷した電磁投射装置を見た。
「厳密に言えば、昨日より爆発は少なかったよ」
「その弁解はお勧めしません」
キランはすぐにマイケイラへ電話をかけた。
二回目の呼び出し音で、彼女が出た。
『キラン?』
「やあ……」
少し間があった。
「ごめん」
再び沈黙。
それから、マイケイラが息を吐いた。
『怪我はしてない?』
キランは工房を見回した。
「大したことはないよ」
『キラン』
「ほとんど車椅子の損傷だから」
電話の向こうで、彼女が移動する音が聞こえた。
『ニュースを見たの。商業地区の近くで事件があったって。それからあなたに連絡がつかなくなって……』
「ごめん。電話するべきだった」
『ええ。そうするべきだったわ』
彼女の声は怒っていなかった。
そのことが、かえってキランの胸を痛めた。
『昨日のことを何度も考えちゃったのよ』
彼女は続けた。
『広告看板のことも、あなたを撃っていた人たちのことも。それで、また何かあったんじゃないかって思い始めて……』
キランは視線を落とした。
「実際、あったんだ」
『そうだと思った』
椅子を床の上で引くような、小さな音が聞こえた。
『一つ聞いてもいい、キラン?』
「何でも」
『今夜一緒に夕食を食べようって約束したとき、本当に守れると思ってた?』
キランは口を開いた。
しかし、何も言えずに閉じた。
「守りたかったんだ」
『そういうことを聞いてるんじゃないの』
キランは自分の手を見つめた。
「……守れると思ってた」
マイケイラはしばらく黙っていた。
『人助けをやめてほしいわけじゃないの』
彼女は言った。
『私は、人を大切にするあなたを好きになったんだから。別人になってほしいわけじゃない』
「わかってる」
『でも、あなたの帰りを待っている人たちのことも、大切にしてほしいの』
キランは唾を飲み込んだ。
「うん」
『それに、何かあったときは、ニュースじゃなくてあなたから聞きたい』
彼女には見えないとわかっていても、キランはうなずいた。
「君の言うとおりだよ」
『よかった』
少し間があった。
『何か食べた?』
キランはためらった。
近くのモニターから、マッハが口を挟んだ。
「最後にまともな食事を取ったのは、およそ九時間前です」
キランは顔を上げた。
「裏切り者」
マイケイラが小さく笑った。
『ありがとう、マッハ』
「いつでもお役に立ちます」
『キラン?』
「うん?」
『何か食べて。それから寝てね』
「夕食の約束は?」
『また今度にしましょう』
キランはかすかに微笑んだ。
「明日?」
『まずは明日まで無事に生き延びてちょうだい』
翌朝、マーラ・エリソン刑事は三冊の行方不明者ファイルを持って、ギアの工房を訪れた。
彼女は中央の作業台にファイルを置いた。
「過去の事件を調べ直していました」
キランはファイルを見た。
「ほかにも失踪者が?」
「その可能性があります」
エリソンは最初のファイルを開いた。
「ナサニエル・ブルックス。二十九歳。ソフトウェアエンジニア。商業地区の駐車場付近で失踪」
次のファイルを開く。
「マリッサ・コール。三十四歳。医療記録管理の専門職。十一日前から行方不明です」
写真には、銀色の洗練された移動用チェアに座る、笑顔の女性が写っていた。
エリソンは三冊目のファイルを開いた。
「トーマス・ヴェイル。五十二歳。元会計士。十六日前に失踪しています」
レイモンドは写真を調べた。
「全員ヴェント使用者か?」
「三人とも、特殊なヴェントシステムを日常的に使用していました」
マッハが事件の概要を分析した。
「失踪地点には、地理的な関連性が見られません」
「最初の捜査担当者もそう考えていました」
エリソンは答えた。
彼女は市内地図を広げた。
三か所に赤い印がつけられている。
「建物を調べるまでは」
ギアが身を乗り出した。
「建物?」
「すべての失踪地点が、ノーススター総合警備のサービス提供先の近くにあったんです」
工房が静まり返った。
マッハは地図の上に、ノーススターのサービス網を重ねて表示した。
三つの地点が、それぞれ別の支線と重なった。
キランは画面を見つめた。
「偶然とは思えませんね」
「そうかもしれません」
エリソンは言った。
「ただし、はっきりさせておきます。ノーススター自体が関与しているかどうかは、まだわかっていません」
ギアはうなずいた。
「誰かがシステムを悪用している可能性もある」
「そのとおりです。内部関係者の不正、盗まれた認証情報、無許可の機器。考えられる可能性はいくつもあります」
レイモンドは写真を見た。
「犯人は、被害者がどこにいるかを知っていた」
エリソンはファイルを閉じた。
「そして、一人になる時間も」
キランはナサニエルの写真を見つめた。
三人。
三件の失踪。
三台の車椅子。その一部は置き去りにされ、残りは所在がわからない。
彼は、ナサニエルが今どこかに閉じ込められているかもしれない部屋を思い浮かべた。
もし、まだ生きているなら。
「見つけないと」
エリソンは彼の目を見た。
「そのために来たんです」
オリヴィア・ブルックスが訪れたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
三十代前半の女性で、疲れた茶色の瞳をしていた。黒髪は後ろで緩く結ばれている。
彼女はハンドバッグを強く握りしめており、革の持ち手が指に赤い跡を残していた。
「キラン・キリアンさんですか?」
キランは彼女に向き直った。
「はい」
「オリヴィアです。ナサニエルの姉です」
キランの表情が和らいだ。
「エリソン刑事から聞いています」
オリヴィアはうなずいた。
「突然来てしまって、すみません。ほかにどこへ行けばいいのかわからなくて……」
「気にしないでください」
ギアが椅子を持ってきた。
オリヴィアは腰を下ろしたが、手の震えは止まらなかった。
「ナサニエルとは、毎週日曜日に話すんです」
彼女は話し始めた。
「忙しくても必ず電話をくれます。五分だけのときもありますけど、それでも必ず」
キランは黙って聞いていた。
「先週の日曜日、何だか気が散っているようでした」
「理由は話していましたか?」
「誰かが車椅子について連絡してくるって」
マッハのアバターが現れた。
「どのような連絡でしょうか?」
「メッセージです。ソフトウェアについてとか、セキュリティ機能についてとか、遠隔操作ができるかどうかとか……」
ギアとキランは顔を見合わせた。
オリヴィアは続けた。
「整備会社からの連絡みたいに見えるけど、メーカーなら当然知っているはずのことを聞いてくるから、おかしいって言っていました」
「返事はしたんですか?」
キランが尋ねた。
「私の知る限りでは、していません」
彼女はバッグを開き、タブレットを取り出した。
「弟のメッセージを確認できます。緊急時のために、家族で共有しているアカウントがあるので」
彼女の声が揺れた。
「こんなことで使う日が来るなんて、思ってもいませんでした」
キランはタブレットを受け取った。
「調べてみます」
オリヴィアは彼を見つめた。
「弟を見つけてくれますか?」
その問いが、重く二人の間に落ちた。
キランは、必ず見つけると約束したかった。
ナサニエルは無事で、警察もあと少しで居場所を突き止められる。もうすぐすべてが終わる。
そう言って安心させたかった。
しかし、そのどれも確かなことではなかった。
「いつになるかは約束できません」
彼は優しく言った。
「でも、僕たちにできることは全部やります」
オリヴィアはうなずいた。
頬を一筋の涙が伝った。
「あの子は、私の弟なんです……」
キランはギアのことを思った。
「……わかります」
その日の夕方、エイドリアン・ヴォスはシトロンシティ市民会館の明るい照明の下に立っていた。
背後には純化協定の紋章が掲げられている。
鋭い縦線で二分された白い円。
その下には、打ち消された機械の翼。
会場は満員だった。
前方の席には支持者たちが座り、先進的なヴェント技術に対する規制強化を求める看板を掲げていた。
通路には記者たちが並んでいる。
テレビカメラが観客席を映し出した。
ヴォスはマイクを調整した。
「皆さん。我々は障害のある人々を攻撃するために、ここへ集まったのではありません」
観客の一部から拍手が起こった。
「我々が議論するために集まったのは、責任という問題です」
彼は背後のスクリーンを指さした。
ブリザードとブレイズの映像が表示される。
「最近、この二人について明らかになった事実は、高度な技術が十分な監督なしに運用された場合、何が起こるかを示しました」
会場にざわめきが広がった。
ヴォスは続けた。
「そこで純化協定は、シトロンシティで運用されるすべての先進的なヴェントシステムを対象に、暫定的な登録・検査制度を提案します」
画面に図表が現れた。
【公共安全ヴェント登録制度】
「すべてのシステムは検査を受けるべきです。すべての改造は記録されるべきです。そして、すべての使用者が同じ基準に従うべきなのです」
記者が手を挙げた。
「ヴォスさん。それには、日常の移動手段としてヴェントを必要としている人も含まれますか?」
「公共の安全に例外を設けることはできません」
別の記者が質問した。
「最近のヴェント使用者への襲撃については、どうお考えですか?」
ヴォスは同情的な表情を浮かべた。
「我々はいかなる暴力も非難します」
「純化協定が襲撃に関与していると思いますか?」
「そのような主張を裏づける信頼できる証拠はありません」
「行方不明になっているヴェント使用者については?」
「それは警察が対応すべき問題です」
彼は滑らかに次の質問へ移ろうとした。
しかし、その前に観客席の一人が立ち上がった。
マイケイラ・マッキントッシュだった。
「ヴォスさん」
ヴォスが振り返った。
「はい?」
「私はシトロン学園で教師をしています」
「素晴らしい。教育者の皆さんは、未来を形作るうえで欠かせない存在です」
「でしたら、一つ説明していただけますか?」
会場が静かになった。
「あなたは何度も、ヴェントを公共の脅威として扱っています。でも、多くの人にとって、ヴェントは移動手段です。仕事へ行き、学校に通い、家族に会い、自立して生活するためのものなんです」
ヴォスは両手を組んだ。
「もちろんです。我々はアクセシビリティを全面的に支持しています」
「それなら、普通の生活を送るために必要な機器を、なぜ登録させようとするんですか?」
「強力な技術には監督が必要だからです」
「普通の車椅子を使う人にも、登録を義務づけるつもりですか?」
ヴォスは少しためらった。
「それは同等の比較ではありません」
「なぜですか?」
「先進的なヴェントには、通常の移動機器を超える能力があります」
「一部にはあります」
マイケイラは答えた。
「でも、あなたは少数の人間が力を悪用したからといって、すべての使用者に制限をかけようとしているんです」
観客の何人かが拍手した。
別の場所からは野次が飛んだ。
マイケイラは続けた。
「ブリザードとブレイズは犯罪を犯しました。その犯罪について責任を負うべきです。でも、二人の行動によって、すべてのヴェント使用者が危険になるわけではありません」
ヴォスは薄く微笑んだ。
「マッキントッシュさん。あなたの熱意には敬意を表します」
「私の名前は論点ではありません」
「しかしながら、感情的な議論を公共安全政策の代わりにすることはできません」
マイケイラは彼をまっすぐ見つめた。
「恐怖だって、政策の代わりにはなりません」
会場が騒然となった。
その頃、工房ではマッハがナサニエルのメッセージを調べていた。
大半は、ごく普通の内容だった。
ソフトウェアの更新通知。
整備の案内。
予約の確認。
しかし、そのうちの一件が彼の注意を引いた。
【件名:定期コントローラー整備】
『予定されていた整備点検が完了しました。今後のサービス依頼に備え、以下の参照番号を保管してください:NIS-MD-04 / NODE 17 / ACCESS 6C』
マッハは文章を拡大した。
「興味深いですね」
ギアが振り返った。
「何?」
「この参照番号は、車椅子メーカーの標準的な整備識別番号と一致しません」
キランが近づいた。
「じゃあ、何なの?」
マッハはコードを、公開されているノーススターのインフラ情報と比較した。
「NISはノーススター総合警備を示している可能性があります。MD-04は、ネットワーク上の所在地を示す識別番号と一致する形式です」
ギアが身を乗り出した。
「医療地区?」
「その可能性があります」
マッハは続けた。
「NODE 17は、ネットワークの中継拠点を示しているのかもしれません」
キランは眉をひそめた。
「どうしてナサニエルの整備通知に、そんな情報が入ってるんだろう?」
「彼が不審な活動に気づいた可能性があります」
マッハは答えた。
「あるいは、誰かが意図的にこの情報を送ったのかもしれません」
ギアは腕を組んだ。
「それか、彼が何かに気づいたと思わせたいだけかも」
キランはギアを見た。
「罠?」
「あり得るね」
ギアは参照番号を見つめた。
「でも、罠だとしたら、退屈な整備通知に見せかけるために、ずいぶん手間をかけてる」
マッハが候補となる所在地を表示した。
シトロンシティの医療地区近くにある、ノーススター管理下のネットワーク中継拠点。
キランは地図を見つめた。
「だったら調べよう」
ギアは指を立てた。
「警察と一緒にね」
キランはため息をついた。
「はいはい、ギア」
「レイモンドも一緒」
「わかったよ」
「それから、また地下の待ち伏せに頭から突っ込んだりしないこと」
キランは心外そうな顔をした。
「いつもそんなことしてるわけじゃないよ」
マッハが口を挟んだ。
「最近の証拠は、そうではないことを示しています」
その日の夜、ギアは一台のバンに気づいた。
工房の向かい側に停まっていた。
白い車体。
社名などの表示はない。
窓には濃いスモークフィルムが貼られ、屋根には機器用のラックが取り付けられている。
工業地区では、作業用の車両など珍しくなかった。
しかし、そのバンには何か引っかかるものがあった。
すでに四十分近く、同じ場所に停まっている。
「マッハ」
「はい?」
「あのバン、調べられる?」
マッハは工房の屋外カメラを起動した。
「車両登録番号が隠されています」
「だろうね」
少しして、アバターが明るくなった。
「異常な無線通信を検出しました」
ギアは姿勢を正した。
「バンから?」
「その可能性が高いです。付近のネットワーク機器を探査しているようです」
ギアはすぐに工房のセキュリティログを開いた。
接続に失敗した記録が、次々と表示された。
さらに一件。
また一件。
「……スナット」
レイモンドが奥の事務室から出てきた。
「どうした?」
ギアは通りを指さした。
「お客さんだよ」
レイモンドは窓の外を見た。
「中にいろ」
彼は外へ出た。
バンのエンジンが始動した。
レイモンドが歩道の端へ近づく。
すると車両は急加速した。
タイヤをきしませながら大通りへ曲がり、そのまま走り去った。
レイモンドは消えていく車を見送った。
それから工房へ戻った。
「ナンバーは確認できなかった」
マッハが記録した信号を表示した。
「しかし、ネットワークへの探査通信は記録できました」
ギアはデータを調べた。
その表情が険しくなった。
「監視カメラだけを探してたわけじゃない」
キランが近づいた。
「何を探してたの?」
ギアは複数の項目を強調表示した。
「整備機器。診断用インターフェース。電力管理システム」
マッハが説明を引き継いだ。
「MACH-01Aの整備に使用される設備を特定しようとしていたのです」
キランは画面を見つめた。
工房は、いつだって安心できる場所だった。
ギアが車椅子を修理してくれる場所。
マッハのシステムが再構築された場所。
三人で数え切れないほどの夜を過ごし、口論し、笑い合い、不可能に思えるアイデアに取り組んできた場所。
今、その場所の扉が調べられている。
監視カメラが。
設備が。
弱点が。
レイモンドは暗くなった通りを見つめた。
「奴ら、近づいてきてるな」
翌日の午後、エリソン刑事はキラン、マッハ、レイモンドを連れて、ノーススターのネットワーク中継拠点を訪れた。
建物は医療地区の近くにあり、周囲には診療所、リハビリテーション施設、事務所などが並んでいた。
淡い色のコンクリートと暗いガラスで構成された、特に目立つところのない建物だった。
ロビーでは警備員が一行を出迎えた。
エリソンは身分証を提示した。
「関連するアクセスログを調査する許可を得ています」
警備員は居心地が悪そうな表情を浮かべた。
「責任者がお待ちです」
一行はサーバールームへ案内された。
冷たい照明の下、機器ラックが何列にも並び、低い駆動音を響かせている。
ワークステーションの横には、ダニエル・プライスというノーススターのシステム管理者が待っていた。
「当社のインフラが侵害された可能性があると聞きました」
エリソンはうなずいた。
「複数の施設に関連するアクセス履歴を調べたいんです」
プライスは記録を開いた。
マッハは、警察が使用を許可した診断用インターフェースを通じて接続した。
数分間、部屋には冷却ファンの音だけが響いていた。
やがてマッハが口を開いた。
「一定の傾向を発見しました」
一連のアクセス要求が表示された。
同じ管理者アカウントが、複数の施設の記録を検索していた。
病院の出入口。
介護施設の入退室予定。
バリアフリー対応の送迎予約。
患者の移動支援サービスに関する手配情報。
キランは胃が締めつけられるのを感じた。
「これ、全部ヴェント使用者なの?」
「全員ではありません」
マッハは答えた。
「しかし、検索対象には特殊な移動システムを使用する人々が、不自然に多く含まれています」
エリソンは身を乗り出した。
「何人ですか?」
「現在確認できる記録だけで、少なくとも四十七人です」
プライスの顔が青ざめた。
「そんなはずは……」
工房から遠隔接続しているギアが、ワークステーションの補助画面に現れた。
「どうやら、そうでもないみたいだね」
プライスはアカウントの識別番号を調べた。
「これは、当社の上級管理者の一人のアカウントです」
エリソンが彼を見た。
「その社員は今、どこに?」
「休暇中です」
「いつから?」
「二週間前からです」
マッハは分析を続けた。
「アカウント所有者が不在とされる期間にも、この認証情報が使用されています」
レイモンドは腕を組んだ。
「認証情報を盗まれたのか?」
「その可能性があります」
マッハは答えた。
「あるいは、システムについて正規の知識を持つ人物による不正アクセスかもしれません」
エリソンは画面を撮影した。
「完全なログを保全してください」
プライスは素早くうなずいた。
「もちろんです」
キランは名前の一覧を見つめた。
四十七人。
四十七の人生が、データベースの項目に変えられている。
ナサニエル。
マリッサ。
トーマス。
彼らの顔が浮かんだ。
「マッハ」
「はい?」
「最近アクセスされた記録を調べられる?」
AIは表示を並べ替えた。
複数の名前が上位に現れた。
それぞれ何度も検索されていた。
送迎予定が記載されたもの。
建物への出入りに関する情報が含まれるもの。
一件は、一時間も経たないうちにアクセスされていた。
キランは画面を凝視した。
「……人を選んでるんだ」
レイモンドは彼の肩越しに画面を見た。
「そう見えるな」
キランは低い声で言った。
「無作為じゃない。事前に調べて、標的を選んでる」
エリソンは手帳を閉じた。
「そして今、その証拠が手に入りました」
マイケイラが市民会館を出たのは、タウンホール集会が終わって間もなくのことだった。
夕方の空気は冷たかった。
大通りでは車がゆっくりと流れ、会場の外には参加者たちが小さな集団を作り、先ほど聞いた話について議論を続けていた。
駐車場へ向かう途中、誰かが声をかけてきた。
「おい! あんた、あの教師だろ!」
マイケイラは振り返った。
歩道の近くに三人が立っていた。
男性が二人、女性が一人。
全員が純化協定の紋章の入った白い腕章をつけていた。
男性の一人が前へ出た。
「ヴォスさんに恥をかかせた女だな」
マイケイラは表情を変えなかった。
「質問しただけです」
「恥をかかせただろ」
「答えたのはご本人です」
女性が腕を組んだ。
「あんたが誰か、知ってるんだから」
マイケイラの胃の奥に、小さな不安が生まれた。
「それはどうも」
「あのソニック・ウィーラーと付き合ってるんでしょ」
二人目の男性が嫌な笑みを浮かべた。
「ウルトラヴァイオレットとさ」
マイケイラは答えなかった。
最初の男性が近づいた。
「あんたら、ああいう機械を持ってるからって、自分たちがほかの人間より偉いと思ってるんだろ」
「私はヴェントを使っていません」
「同じことだ。連中を擁護してるんだから」
マイケイラは近くの道路へ目を向けた。
何人かの通行人がいたが、誰もこちらの様子に気づいていないようだった。
「あなたたちがどう考えるかは自由です」
彼女は言った。
「私は帰ります」
男性が彼女の進路を塞いだ。
「質問に答えてからにしろよ」
マイケイラは立ち止まった。
「どいてください」
「あんたの彼氏は、空を飛び回って好き勝手していいと思ってるのか?」
「どいてください」
女性が携帯電話を取り出した。
「これ、撮影したほうがいいんじゃない?」
マイケイラは、目の前の男性をまっすぐ見た。
「通してくださいと、二回お願いしました」
男性はさらに顔を近づけた。
「俺も質問してるんだよ」
そのとき、警察官の声が割って入った。
「何か問題ですか?」
三人が振り返った。
会館の入口から、二人の警察官が近づいてきていた。
マイケイラは男性から距離を取った。
「この人たちが、私を帰らせてくれないんです」
警察官は三人を見た。
「皆さん、ここから離れてください」
最初の男性が口を開いた。
「この女が――」
「離れてください」
三人は不満そうに顔を見合わせたあと、通りの方へ立ち去った。
マイケイラは彼らがいなくなるまで待った。
それから警察官に礼を言い、車へ向かった。
運転席に座った頃には、手が震えていた。
彼女はエンジンをかけるまで、数分間そのまま座っていた。
キランがその出来事を知ったのは、その夜だった。
マイケイラが電話で話してくれた。
最初、彼は何も言わなかった。
やがて表情が険しくなった。
「脅されたの?」
「威圧しようとしてきたの」
「触られた?」
「いいえ」
「本当に?」
「キラン」
彼は目を閉じた。
「……ごめん」
「ほかの人がしたことまで謝らないで」
キランは工房の暗い窓へ目を向けた。
「僕と付き合ってるから、君のことを知ってたんだ」
「私が立ち上がって質問したから、私のことを知ってたのよ」
「マイケイラ……」
「それは私が決めたことなの」
キランは黙った。
彼女は続けた。
「怖くなかったなんて言うつもりはないわ。怖かった。でも、あの人たちに私が何を言っていいか決めさせるつもりもない」
キランは床を見つめた。
彼女の勇気を尊敬していた。
同時に、そんな勇気を発揮しなければならなかったことが、たまらなく嫌だった。
「僕のせいで、君に怪我をしてほしくないんだ」
『わかってる』
彼女の声が優しくなった。
『でも、私の選択を奪うことで、私を守ることはできないわ』
キランは唾を飲み込んだ。
「……君の言うとおりだ」
『それに、私は無力じゃないのよ』
「それもわかってる」
短い沈黙が流れた。
それからマイケイラはため息をついた。
『今夜はずっと、自分を責めるつもり?』
キランは嘘をつこうか考えた。
「……たぶん」
『じゃあ、やめて』
彼は弱々しく微笑んだ。
「君って、なかなか厳しいよね」
『誰かがそうしないとね』
キランはマッハのアバターへ目を向けた。
AIは会話の間、気を遣って黙っていてくれた。
今回ばかりは、それがありがたかった。
「愛してるよ」
『私も愛してる』
通話が終わったあとも、キランはしばらく動かなかった。
やがてマッハが口を開いた。
「彼女の言うとおりですよ」
キランはため息をついた。
「わかってる」
「大切な人々に近づくすべての危険を、あなたが制御することはできません」
「わかってるよ」
「しかし、彼らの判断を尊重し、助けが必要なときにそばにいることはできます」
キランは最も古い友人を見た。
「いつから恋愛相談員になったの?」
マッハのアバターが首を傾げた。
「あなたの感情的な問題に対処してきた経験は、相当なものですので」
キランは思わず笑った。
「それは否定できないね」
正体不明の工業施設の地下深くで、ヘレナ・ヴェイン司令官が最新の作戦報告書を確認していた。
彼女の前にはコバルトが立っていた。
損傷した強化外骨格の代わりに、簡素な装甲服を着用していたが、左肩には硬い固定具が残っていた。
「ウルトラヴァイオレットの捕獲に失敗したな」
ヴェインは言った。
コバルトは直立不動の姿勢を保った。
「はい、司令官」
「訓練された隊員を五人失った」
「全員生存しています。うち三名は治療を必要とする負傷を負いました」
「そして標的を逃がした」
コバルトは顎を引き締めた。
「奴のAIが、我々のセンサー妨害に対応しました。能動的なナビゲーションなしで周囲の環境を再構築できる能力を、過小評価していました」
ヴェインは彼を見つめた。
「ならば、次は同じ間違いをするな」
「はい、司令官」
彼女はディスプレイを起動した。
トンネルでの戦闘記録が表示される。
キランの低空機動。
マッハによるナビゲーション補正。
レイモンドとの連携攻撃。
コバルトの肩部投射装置の破壊。
ヴェインは映像を二度見た。
「奴の最大の強みは、車椅子ではない」
コバルトは眉をひそめた。
「司令官?」
「操縦者と、それを制御する知性との関係だ」
彼女はマッハのアバターを拡大した。
「二人で状況に適応している」
コバルトは黙っていた。
ヴェインは続けた。
「次の交戦では、二人を引き離すことを前提に作戦を設計しろ」
「了解しました」
背後の扉が開いた。
情報担当官が、厳重に保護されたタブレットを持って入ってきた。
「司令官、更新された標的一覧の準備が整いました」
ヴェインはタブレットを受け取った。
画面に名前が並んだ。
住所。
医療上の必要事項。
ヴェントの仕様。
日々の行動予定。
いくつかの記録は、キラン・キリアンとつながりのある人物のものだった。
教師。
工房の関係者。
既知の協力者。
写真や監視映像の中で、彼の隣に写っていた人々。
ヴェインは一覧をスクロールした。
「候補者は何人だ?」
「現在、七十三名が予備基準を満たしています」
「次の段階は?」
「承認待ちです」
ヴェインの指が止まった。
一件の記録が目に留まった。
彼女はそれを開いた。
写真が表示された。
続いて技術的なプロフィール。
そして行動予定。
コバルトは彼女の表情をうかがった。
「重要人物ですか?」
ヴェインは情報を見つめた。
「可能性はある」
彼女は承認欄に触れた。
【クリーン・スレート作戦】
【標的選定完了】
【作戦実行期限:48時間以内】
情報担当官は姿勢を正した。
「回収部隊に通知しますか?」
ヴェインはファイルを閉じた。
「そうしろ」
彼女は壁一面に広がるシトロンシティの地図へ向き直った。
街のあちこちで、何十もの赤い印が光っていた。
その一つ一つが、人間を表していた。
家。
職場。
人生。
しかし、ヴェインにとって、それらは作戦上の変数にすぎなかった。
「輸送車両を準備しろ」
彼女は命じた。
コバルトは閉じられたファイルを見た。
「ウルトラヴァイオレットは?」
ヴェインの表情は冷たいままだった。
「奴は捜しに来る」
彼女は少し間を置いた。
「そのとき、我々が見せたいものを、確実に見つけさせろ」
タブレット上では、選ばれた標的の写真が赤い機密画面の向こうへ消えていた。
【次回回収作戦――承認済み】
【カウントダウン開始】
【47:59:59】
数字が減り始めた。




