カタリスト:最初のVent (IV)
シトロン・シティの住民たちは、スーパーヒーローたちに対して、少々複雑な感情を抱いていた。
一方では、彼らのことが大好きだった。
関連グッズを買い、SNSで活躍を追いかけ、ソニック・ウィーラーズの中で誰が一番強いのかについて、何時間も議論を交わしていた。
しかし、その一方で、建物や公共施設への被害という小さくない問題も存在した。
それも、かなり深刻な被害である。
したがって、木曜日の午前八時十七分、紫色の閃光がシトロン・シティ中心部の高層ビル群の間を駆け抜けた時、地上の歩行者たちは興奮と心底うんざりした気持ちが入り交じった反応を示した。
「あっ! ウルトラバイオレットだ!」
小さな男の子が空を指差した。
母親はちらりと見上げた。
「あら、素敵ね」
彼女はすぐに息子の手を引き、近くの店から離れた。
「何か爆発する前に行きましょう」
幸いなことに、何も爆発しなかった。
少なくとも、今のところは。
彼らの数百メートル上空では、キラン・キリアンがまったく別の危機に直面していた。
仕事に遅刻しそうだった。
またしても。
「マッハ!」
「はい、キラン」
「あと何分ある?」
「最初の授業が始まるまで、という意味でしょうか?」
「そうだ!」
「約十三分です」
キランは息を吐いた。
「よし。それなら何とかなるな」
「残念ながら、到着予定時刻は十七分後です」
キランはヘルメットのバイザーに表示された情報を見つめた。
「じゃあ、何で十三分って言ったんだよ?」
「残り時間を尋ねられたのであって、間に合うかどうかは尋ねられていませんでしたので」
「マッハ!」
「正確な意思疎通は、英語教師にとって重要な資質です」
キランはうめいた。
彼の先進的な紫色のホバーチェア、MACH-01Aは通信塔を避けるため、鋭く機体を傾けた。
装甲フレームは朝日を受けて輝いていた。空力設計された先端部が空気を切り裂き、後部に搭載された二基の推進ユニットは安定した紫色の光を放っていた。
側面のフィンは、キランがビルの間を飛行するのに合わせて自動的に角度を調整した。
眼下では、道路を埋め尽くす車がのろのろと進んでいた。
上空では、配送ドローンや通勤用航空機が指定された飛行経路を移動していた。
キランはそのどちらも気にしなかった。
「もっと速度を上げられるか?」
「もちろんです」
「だったら上げてくれ!」
「実行する前に申し上げますが、市の航空管理局からは、街全体を個人的なレースコースとして扱う傾向について、すでに三度の警告が出されています」
「マッハ」
「それから、広告看板の一件についても、まだ苦情が取り下げられていません」
「あの看板は最初から外れかけてたんだ!」
「所有者はその説明に納得しませんでした」
キランは歯を食いしばった。
「速度を上げろ」
「承知しました」
推進出力上昇
飛行スタビライザー作動
加速率:35%
シュゴォォォォッ!
MACH-01Aが前方へ急加速した。
建物が次々と後方へ流れていく。
加速によってキランの身体は椅子に組み込まれた専用の支持装置へ押しつけられたが、その装置のおかげで姿勢はしっかりと保持されていた。
ヘルメットのバイザーには、急速に接近する航空路の交差地点が表示された。
「マッハ、前の——」
「すでに補正しています」
椅子が左へ傾いた。
朝食用のパンを何箱も運んでいる配送ドローンが、その下を通り過ぎた。
箱の一つがずれた。
クロワッサンが一個、飛び出した。
キランはそれが道路へ落ちていくのを見つめた。
「今のは必要だったのか?」
「あなたの時間厳守への執念が、最初の犠牲者を生みました」
「本当にどうしようもないな、お前」
「しかし、必要不可欠な存在でもあります」
キランは否定できなかった。
完全には。
彼は東部地区へ向かって加速した。周囲の街並みから、シトロン・アカデミーの大きなガラス張りの校舎が姿を現した。
ほんの一瞬、キランは景色を楽しむ余裕を持った。
シトロン・シティは地平線まで広がり、高層ビル群が朝日を受けて輝いていた。道路はすでに混雑し、巨大なホログラム広告が商業ビルの外壁を漂っていた。
騒がしい。
混沌としている。
そして、しょっちゅう危険な目に遭う。
それでも、何があろうと、ここは彼の故郷だった。
キランはヘルメットの下で微笑んだ。
「いい朝だな」
「気象条件は良好です。視界は極めて良好。風速もほぼ無視できる程度です」
「景色の話をしてるんだよ」
「ああ」
マッハは少し間を置いた。
「でしたら、そうですね。数多くの構造上の欠陥を無視すれば、この街は視覚的に美しいと言えます」
キランは笑った。
「褒めるのが上手くなってきたじゃないか」
「練習していますので」
二人はアカデミーへ向かって飛んだ。
そして今のところ、シトロン・シティに住むスーパーヒーローにとって最大の脅威は、怒った学校管理者だった。
キランは授業開始の四分前にシトロン・アカデミーへ到着した。
一応は。
校舎には到着した。
だが、教室までたどり着くのは別問題だった。
MACH-01Aは教職員用入口の横にある指定着陸区域へ降下し、推進ユニットの出力を徐々に落とした。
着陸手順開始
高度:2メートル
高度:1メートル
ホバーモード起動
椅子は舗装された地面のすぐ上で安定した。
キランはヘルメットを外した。
紫色の髪はすっかり乱れていた。
彼はアカデミーの扉を見た。
「四分」
「三分四十一秒です」
「ほとんど同じだろ」
彼は入口へ向かって加速した。
警備員が受付から顔を上げた。
「おはようございます、キリアン先生」
「おはよう、フランク!」
「また遅刻ですか?」
「厳密には違う!」
マッハが口を挟んだ。
「彼の時間厳守の定義は、現在も継続的に改訂されています」
フランクは笑った。
「そりゃ大変ですね」
キランは廊下を急いだ。
紫色の椅子が近づくと、生徒たちは道を空けた。
何人かは手を振った。
ほかの生徒たちは彼のヒーロー名を叫んだ。
「おーい、ウルトラバイオレット!」
「キリアン先生! 昨日の夜は誰かと戦った?」
「プラズマキャノン見せて!」
キランは首を振った。
「戦闘もなし、プラズマキャノンもなし! それより早く教室に行きなさい!」
一人の生徒がにやりと笑った。
「じゃあ、明日ならいいの?」
「駄目だ!」
マッハが椅子の外部スピーカーから話した。
「交渉能力に改善の余地がありますね」
キランは角を曲がった。
「誰もお前に聞いてない」
彼が教室へ到着したのと同時に、チャイムが鳴った。
キーンコーンカーンコーン!
生徒たちはすでに席についていた。
大体は。
まだ話している者もいた。
机に突っ伏している者もいた。
鼻の上に鉛筆を乗せてバランスを取ろうとしている者までいた。
キランは、直前まで二十分間も街を飛び回っていたとは到底思えないほど堂々と教室へ入った。
「みんな、おはよう!」
二十七人の生徒が彼を見つめた。
何人かがぼそぼそと挨拶を返した。
キランはMACH-01Aを教卓の横に移動させた。
「素晴らしい元気のよさだね。本当に感動するよ」
マッハがヘルメットの通信システムを通じて、彼だけに聞こえる声で答えた。
「推定意欲水準、十二パーセントです」
キランはため息をついた。
「ありがとう、マッハ」
「どういたしまして」
彼は黒板へ向き直った。
「さて、今日はシェイクスピアの続きをやるぞ」
教室全体からうめき声が上がった。
キランは微笑んだ。
「ああ。いつもの元気が戻ってきたな」
授業は『マクベス』から始まった。
いや、正確には、始めようとした。
キランは教室のスクリーンに一節を表示した。
「さて、マクベスの中心的な葛藤が何なのか、説明できる人はいるかな?」
窓際の生徒が手を上げた。
「はい、クリストファー」
クリストファー・マーティンは椅子の背にもたれた。
「要するに、めちゃくちゃ出世したい男の話じゃないんですか?」
数人の生徒が笑った。
キランはその答えを考えた。
「ずいぶん思い切って単純化した解釈だな」
「じゃあ、正解?」
「完全に間違っているわけではない」
クリストファーはにやりと笑った。
「それで十分です」
キランは次のスライドへ移った。
「マクベスは野心に駆られて、次々と破滅的な決断を下していく。悲劇なのは、権力を手に入れれば幸せになれると信じながら、そのために自分を幸せにしてくれるはずのものを自ら破壊してしまうことなんだ」
二列目の女子生徒が手を上げた。
「キリアン先生?」
「何かな?」
「それって、サヴァントに起きたこととほとんど同じじゃないですか?」
教室の空気が一変した。
キランはまばたきした。
「まあ……」
マッハの声が耳元で響いた。
「生徒の関心度が六十八パーセントに上昇しました」
「始めるなよ」
女子生徒は続けた。
「だって、あの人も権力が欲しかったんですよね? それを手に入れるために、ずっと人を傷つけてたんでしょう?」
キランは少し考えた。
「実は、かなり筋の通った比較だね」
別の生徒が手を上げた。
「サヴァントにも悲劇的欠点ってあったんですか?」
「いくつもあったよ」
「悪人だったことも、その一つですか?」
「それは間違いなく人格上の欠点と言えるだろうね」
教室に笑いが広がった。
クリストファーが身を乗り出した。
「先生、真面目な質問です」
キランは目を細めた。
「君がそう言う時は、いつも不安になるんだが」
「マクベスとウルトラバイオレットが戦ったら、どっちが勝ちます?」
キランは彼を見つめた。
「クリストファー」
「はい?」
「マクベスは架空の人物だ」
「だから?」
「それに、私は君の英語教師だぞ」
「でも、ウルトラバイオレットでもあるじゃないですか」
マッハがキラン専用の音声回線に割り込んだ。
「入手可能な歴史的および文学的資料に基づけば、あなたがマクベスに勝利する確率は九十九パーセントを超えます」
キランは目を閉じた。
「マッハ、頼むから」
「彼の主武装は剣です。一方、あなたはプラズマキャノンを装備しています」
「分かってる」
「さらに、彼には空中戦の経験が記録されていません」
「マッハ」
「ただし、精神状態が不安定なため、行動予測は困難かもしれません」
キランは額を押さえた。
クリストファーが気づいた。
「先生、マッハと話してるんですか?」
「いや」
マッハが外部スピーカーを起動した。
「はい」
教室は爆笑に包まれた。
キランはゆっくりと椅子のインターフェースを見た。
「裏切り者」
「私は『独立した思考を持つ者』という表現を好みます」
クリストファーは笑いすぎて椅子から落ちそうになった。
キランは笑いが収まるのを待った。
それから咳払いをした。
「よし。みんな文学とスーパーヒーローの関係に急に興味を持ったみたいだから、少し違うことをやってみよう」
彼は表示を切り替えた。
二つの欄が現れた。
マクベス
現代のスーパーヴィラン
生徒たちは身を乗り出した。
キランは微笑んだ。
「動機、道徳的な選択、そしてその結果を比較してみよう」
女子生徒が手を上げた。
「先生が実際に戦った悪役を使ってもいいですか?」
「ほどほどにならね」
「ブレイズでもいいですか?」
キランはためらった。
「それは……少し複雑だな」
マッハが耳元で言った。
「相当な控えめ表現ですね」
キランは無視した。
「まずは野心から始めよう」
それから三十分間、教室ではここ数週間で最も熱心なシェイクスピアの議論が繰り広げられた。
権力。
責任。
罪悪感。
暴力がもたらす結果。
そして、マクベスは専門家のカウンセリングを受けるべきだったのではないか、という問題まで。
チャイムが鳴った時も、何人かの生徒はまだ議論を続けていた。
クリストファーがキランの教卓の横で足を止めた。
「今日の授業、結構面白かったです、キリアン先生」
キランは微笑んだ。
「そんなに意外そうに言わなくてもいいだろう」
クリストファーは肩をすくめた。
「いつもはシェイクスピアって、眠くなるんですよ」
「正直で結構」
「でも、今日は楽しかったです」
「それなら、少しは成果があったみたいだな」
クリストファーは手を振って出ていった。
教室から生徒たちが徐々にいなくなった。
キランは最後の生徒が廊下へ消えるのを見届けた。
それから椅子の支持装置にもたれかかった。
「いやあ、思ったより上手くいったな」
マッハが答えた。
「生徒の関心度は最大九十一パーセントに達しました」
キランはにやりと笑った。
「悪くないな」
「ただし、クラスの七十四パーセントは、あなたがマクベスに勝てると確信しています」
「マッハ」
「なお、一人の生徒はマクベス夫人の方が手強いのではないかと指摘しました」
キランは笑った。
「正直、それは一理あるかもしれないな」
最後のチャイムが鳴る頃には、キランは家へ帰る準備ができていた。
残念ながら、すぐに帰宅するわけにはいかなかった。
通信機が点滅した。
着信メッセージ
ギア
キランはメッセージを開いた。
仕事が終わったら工房に来て。見せたいものがある。
キランは眉を上げた。
「何だか嫌な予感がするな」
マッハがメッセージを分析した。
「ギアが過去に同様の発言をした結果、爆発三件、電気火災二件、そして自動溶接アームの暴走事件一件が発生しています」
キランは顔をしかめた。
「思い出させるなよ」
「あの溶接アームは、いまだにあなたに対して不満を抱いているようです」
「俺の椅子を真っ二つにしようとしたんだぞ!」
「作業指示を誤解したのかもしれません」
キランはため息をついた。
「行くか」
MACH-01Aが空中へ上昇した。
椅子はアカデミーを離れ、屋根の上へと高度を上げた。
眼下に街が広がると、キランは慣れ親しんだ解放感を覚えた。
教師という仕事にはやりがいがあった。
生徒たちのことも大好きだった。
しかし、教室を後にして空へ飛び立つ瞬間には、何とも言えない満足感があった。
「マッハ?」
「はい?」
「今度こそ、ギアは本当に役に立つものを作ったと思うか?」
「統計的には、はい」
キランは微笑んだ。
「本当か?」
「起動後も役に立ち続けるかどうかは、別問題ですが」
「それもそうだな」
二人は工業地区へ向かった。
ギアの工房は、いつもとまったく同じ姿をしていた。
つまり、何度も自然災害を生き延び、次の災害に向けて着々と準備を進めているような建物だった。
外壁には種類の異なる金属板が継ぎはぎされていた。
入口の上では換気扇がガタガタと音を立てていた。
古い車両部品が搬入口の横に積み上げられていた。
そして、扉の上の看板からは、また一文字消えていた。
キランはその前でホバリングした。
「マッハ?」
「はい?」
「あの看板って、もともと『Gear's Garage』だったよな?」
「当初はそうでした」
キランは残された文字を見た。
GEA'S G RAGE
彼は眉をひそめた。
「ある意味、ぴったりだな」
「確かに。建物そのものが所有者の精神状態を宣伝しているようです」
キランは笑った。
彼は入口へ近づいた。
ノックする前に、中から聞き慣れた声が響いた。
「遅い!」
キランはため息をついた。
「そっちこそ、こんにちはくらい言ってくれよ、ギア!」
工房の扉が開いた。
ギアが中に立っていた。汚れたタンクトップを着て、保護ゴーグルを額に押し上げ、片手には溶接用ヘルメットをぶら下げていた。
頬には新しい油汚れがついていた。
「どれだけ待たせたと思ってるの?」
キランは時間を確認した。
「学校が終わってから、まだ二十分だぞ」
「だから何!」
「街を横断して飛んできたんだ!」
「言い訳!」
マッハが口を挟んだ。
「キランの到着時刻は予測範囲内です」
ギアは椅子を指差した。
「誰も聞いてないよ、紫色のトースター」
マッハは少し間を置いた。
「家庭用電化製品に対するあなたの敵意は、依然として懸念事項です」
キランは笑った。
その時、別の声が聞こえた。
「お前ら、言い争ってないで中に入れてやれよ」
レイモンド・ハリソンが作業台の陰から姿を現した。
筋肉質の退役軍人は黒いTシャツと作業ズボンを着て、少し面白がっているような表情を浮かべていた。
おなじみの短く刈り込んだ髪と整えられたあごひげのおかげで、工房の誰よりも規律正しく見えた。
「レイモンド!」
キランは微笑んだ。
「何してるんだ?」
レイモンドは肩をすくめた。
「ギアがタダ飯を食わせてくれるって言うからな」
キランは辺りを見回した。
「どこに?」
レイモンドは小さなテーブルを指差した。
工具の山の隣に、ピザの箱が一つ置かれていた。
キランは箱を開けた。
残っていたのは一切れだけだった。
彼はじっと見つめた。
「一切れ?」
レイモンドはにやりと笑った。
「もっと早く来ればよかったな」
キランは裏切られたような顔をした。
「友達だと思ってたのに」
「友達だろ」
「だったら、何で取っておいてくれなかったんだ?」
「取っておいただろ」
レイモンドは残った一切れを指差した。
「どういたしまして」
マッハが話した。
「厳しい状況下での寛大さを示す、見事な実例ですね」
レイモンドは笑った。
「ほらな? マッハは分かってる」
キランは首を振った。
その時、背後から女性の声がした。
「本気でピザを取り合ってるの?」
彼は振り向いた。
ミカイラ・マッキントッシュが工房の入口近くに立っていた。
ルビーレッドの髪が肩にかかり、眼鏡には天井の照明が映っていた。
カジュアルなジャケットとジーンズを身につけ、腰の横には小さなハンドバッグが下がっていた。
キランの表情がぱっと明るくなった。
「ミカイラ!」
彼女は微笑んだ。
「やあ、ホットショット」
キランは近づいた。
「どうしてここに?」
「わあ」
彼女は胸に手を当てた。
「素敵な挨拶ね」
「いや、そういう意味じゃ——」
「帰った方がいい?」
「そんなわけないだろ!」
彼女は笑った。
「冗談よ」
キランが身体を寄せると、ミカイラは彼にキスをした。
レイモンドが大げさに吐き気を催したような声を出した。
「おいおい、勘弁してくれよ」
ギアは目を回した。
「よそでやってよ」
マッハが外部スピーカーから話した。
「人前で愛情を表現する行為は、恋愛関係の満足度を高めることが確認されています」
キランは固まった。
ミカイラはゆっくり椅子へ顔を向けた。
「あら、本当?」
「はい」
キランはうめいた。
「マッハ……」
「追加情報をご希望ですか?」
ミカイラはにやりと笑った。
「ぜひ聞きたいわ」
「駄目だ!」とキランは抗議した。
マッハは続けた。
「キランの心拍数上昇、声の高さの変化、そして最近の行動パターンに基づけば、あなたに対する彼の愛情は依然として非常に強いものです」
レイモンドは大笑いした。
ギアは溶接用ヘルメットを落としかけた。
キランはインターフェースをにらんだ。
「お前、アンインストールしてやるからな」
「根拠のない脅しです。これまでに四十三回、同様の発言をしています」
ミカイラは眼鏡を直さなければならないほど笑っていた。
「四十三回?」
「今回を含めれば四十四回です」
キランは顔を覆った。
「お前ら全員、大嫌いだ」
レイモンドは彼の肩を軽く叩いた。
「俺たちも愛してるぜ、相棒」
笑いが収まると、ギアは全員を中央の作業台へ案内した。
「さあ、子供たち。集まって」
レイモンドは眉を上げた。
「子供たち?」
ギアは無視した。
「ちょっと作ってたものがあるんだ」
キランはすぐに近くの消火器へ目を向けた。
ギアはそれに気づいた。
「はいはい、面白いね」
「何も言ってないだろ!」
「消火器を見た」
「経験から学んでるだけだよ」
ギアは腕を組んだ。
「説明させてくれるの? くれないの?」
キランは微笑んだ。
「どうぞ」
ギアはホログラムディスプレイを起動した。
MACH-01Aの三次元モデルが作業台の上に現れた。
椅子はゆっくり回転し、装甲フレーム、推進ユニット、内部電力供給システム、各種の身体支持機構を映し出した。
キランは身を乗り出した。
「よし。興味が湧いてきた」
ギアは後部推進装置を指差した。
「エネルギー消費を調べてたんだ」
マッハが答えた。
「素晴らしい研究対象ですね。現在の私の推進構造は、すでに極めて高効率です」
ギアは椅子を無表情で見た。
「何と比べて? 空飛ぶ冷蔵庫?」
「現在利用可能なすべての従来型移動支援装置と比較してです」
「まあ、普通の移動支援装置にはプラズマキャノンなんてついてないけどね」
キランは指を上げた。
「厳密には——」
ギアは彼を指差した。
「黙って」
彼は指を下ろした。
ギアは続けた。
「問題は最高速度じゃないんだ。長時間飛行している時、特に細かい姿勢調整を繰り返している時に、どれだけエネルギーを無駄にしてるかってこと」
マッハの紫色のインターフェースが脈打った。
「これらの調整は最適な安定性を維持するために必要です」
「一部はね」
ギアはホログラムの一部分を拡大した。
「でも、推進ユニットだけで対処できる変化まで、スタビライザーが補正してるんだよ」
キランは表示を調べた。
「つまり、もっと長く飛べるようになるってことか?」
「可能性はある」
「どれくらい?」
ギアは微笑んだ。
「それをこれから調べるんだよ」
レイモンドは腕を組んだ。
「つまり、キランがテストパイロットになるわけだな」
ギアはにやりと笑った。
「その通り」
キランはため息をついた。
「やっぱりな」
ミカイラが近づいた。
「心配した方がいい?」
レイモンドが誰よりも早く答えた。
「常にな」
ギアは彼をにらんだ。
「今日は誰も爆発しないから」
工房の奥から大きな金属音が響いた。
全員が振り向いた。
収納棚の陰から、小さな煙が立ち上った。
ギアはそれを見つめた。
そして、ほかの面々へ向き直った。
「今のは関係ないから」
マッハは少し間を置いた。
「今後の評価のため、その保証を記録しました」
午後は、仕事と会話、そして口論が心地よく入り交じる時間となった。
ギアはMACH-01Aの診断テストを実施した。
レイモンドは工房内の機材を移動させるのを手伝い、時折提案をした。ギアはその場では却下するものの、後になってこっそり採用していた。
ミカイラはキランの隣に座り、アカデミーでの一日について尋ねた。
「それで、学校はどうだった?」
キランは微笑んだ。
「驚くほどよかったよ」
「本当に?」
「クラス全員にシェイクスピアへの興味を持たせることができたんだ」
ミカイラは感心したようだった。
「それこそ超能力ね」
「だろ?」
「どうやったの?」
「マクベスを現代のスーパーヴィランと比較したんだ」
彼女は笑った。
「やっぱりね」
「でも、効果はあったぞ」
マッハが割り込んだ。
「キランの生徒たちは九十一パーセントの関心度を示しました」
ミカイラは眉を上げた。
「すごいじゃない」
「ありがとう」とキランは言った。
「ただし」とマッハは続けた。「生徒の大半は、キランがマクベスとの一対一の戦闘で勝利できるかどうかに強い関心を示していました」
ミカイラは吹き出した。
キランはうめいた。
「もうマクベスの話はやめないか?」
「もちろんです」とマッハは答えた。「では、マクベス夫人についてお話ししますか?」
「しない!」
ミカイラは顔を近づけた。
「かわいいと思うけど」
キランは彼女を見た。
「何が?」
「スーパーヴィランと戦って、街を飛び回って、爆発からも生き延びてるのに……」
彼女は微笑んだ。
「生徒たちが自分の授業を気に入ってくれるかどうか、まだ心配するところ」
キランは肩をすくめた。
「教師の仕事は大切だからな」
「知ってる」
彼女の表情が優しくなった。
「そういうところも大好きなのよ」
キランは微笑んだ。
ほんの一瞬、工房の騒音が遠ざかったように感じた。
その時、マッハが話した。
「キランの心拍数が十四パーセント上昇しました」
キランは目を閉じた。
「マッハ」
「恋愛的な交流中は、生体情報の監視を無効にしましょうか?」
「そうしてくれ!」
ミカイラは笑った。
「駄目よ。面白すぎるもの」
工房の向こうからレイモンドが叫んだ。
「俺は監視継続に一票!」
ギアが手を上げた。
「賛成!」
キランは天井を見つめた。
「何で俺は毎回こんな目に遭うんだ?」
夕方近くになると、ギアは最初の診断を終えていた。
MACH-01Aは整備用プラットフォームの上に浮かび、その周囲には一連のホログラム表示が展開されていた。
キランは測定結果を見た。
「問題なさそうか?」
ギアは頷いた。
「大体はね」
キランは目を細めた。
「大体?」
「センサーログにちょっとした不一致があるんだ」
マッハが答えた。
「すでに特定しています」
ギアは椅子を見た。
「じゃあ、何で言わなかったの?」
「関連性がないと思われたためです」
ギアは腕を組んだ。
「見せて」
作業台の上に波形が現れた。
一見すると、普通の電磁干渉に見えた。
不規則な突起。
乱れたパルス。
街の通信ネットワークが生み出す背景雑音に埋もれた、かすかな振動パターン。
ギアは眉をひそめた。
「変だな……」
キランは表示を見た。
「何を見せられてるんだ?」
マッハが答えた。
「通常のシステム監視中に検出された、未確認の通信信号です」
「どこから?」
「都市圏の外部です」
レイモンドが近づいた。
「軍の通信か?」
「不明です」
ギアは表示を調整した。
波形が拡大された。
繰り返し現れる構造が見えるようになった。
ミカイラは首を傾げた。
「何か意味があるの?」
ギアはすぐには答えなかった。
パターンの一つを拡大した。
そして別の一つも。
「マッハ?」
「はい?」
「それを自分の内部通信構造と比較して」
少し間があった。
解析中
比較処理進行中
構造上の部分的類似性を検出
キランは眉をひそめた。
「マッハと似てるのか?」
ギアは顔を近づけた。
「正確には違う」
「じゃあ、何が?」
「情報の組み立て方だよ」
マッハが続けた。
「この通信は、現在知られている通信プロトコルのいずれも使用していません」
レイモンドは腕を組んだ。
「だったら、どうしてお前のものと似てるんだ?」
「まさにそれが不一致の原因です」
ギアは二つ目のホログラムを表示した。
そこにはMACH-01Aの内部システムの一部が映っていた。
二つの構造が並べて表示された。
同一ではなかった。
まったく違う部分も多かった。
しかし、いくつかのパターンが双方に繰り返し現れていた。
ギアはゆっくり頭をかいた。
「これは……興味深いね」
キランはギアを見た。
「いい意味で興味深いのか、悪い意味で興味深いのか?」
「『何を見てるのかさっぱり分からない』って意味で興味深い」
レイモンドは笑った。
「俺の一番好きなやつだ」
マッハの声が珍しく思慮深いものになった。
「さらなる解析が必要です」
キランはその変化に気づいた。
「マッハ?」
「はい?」
「大丈夫か?」
「もちろんです」
「やけに静かだな」
「処理中ですので」
キランはギアを見た。
「心配した方がいいかな?」
ギアは肩をすくめた。
「たぶん大丈夫」
その時、作業台から大きな火花が散った。
バチッ!
ギアは即座にスイッチを叩いた。
ホログラムが消えた。
全員が見つめた。
ギアは咳払いをした。
「絶対、たぶん大丈夫」
数分後、レイモンドが工房のテレビをつけた。
「さて、今日も世界が無事だったか確認するか」
キランは微笑んだ。
「縁起でもないこと言うなよ」
画面には地元のニュース番組が映った。
レポーターが政府庁舎の前に立ち、交通政策について話していた。
レイモンドはチャンネルを変えた。
料理番組。
別のチャンネル。
スポーツの試合結果。
さらに別のチャンネル。
すると、速報のテロップが現れた。
ニュース速報
ダストヘイヴンで発生した事件に連邦当局が対応
レイモンドはチャンネルを変える手を止めた。
画面には、砂漠の小さな町を上空から撮影した映像が映っていた。
複数の建物が損傷していた。
道路には緊急車両が並んでいた。
食堂の一部が崩壊していた。
大通り沿いの窓ガラスは粉々になっていた。
ミカイラは身を乗り出した。
「何があったの?」
ニュースキャスターが続けた。
「連邦当局は、砂漠地帯の小さな町ダストヘイヴンで発生した、実験機器に関係する産業事故とされる事案について調査を進めています」
映像が切り替わった。
道路の一部が黒く焦げていた。
近くには数台の装甲車両が停まっていた。
制服姿の職員たちが仮設の障壁の向こうで機材を移動させていた。
キャスターは続けた。
「当局は事件の原因を確認していませんが、目撃者によると、今朝早く町の上空で複数の爆発音が聞こえ、軍用機が活動している様子が確認されたということです」
レイモンドの表情が変わった。
「軍用機?」
ギアはテレビを見た。
「ずいぶん派手な産業事故だね」
キランは映像を注意深く見つめた。
「何かおかしいな」
ミカイラは彼を見た。
「どういうこと?」
キランは画面を指差した。
「被害を見てくれ」
カメラは食堂を映していた。
外壁の一部が崩壊していた。
通りの反対側にある別の建物には、割れた窓と焦げ跡が残っていた。
「あれが全部、一回の爆発で起きたとは思えない」
レイモンドはゆっくり頷いた。
「そうだな」
ギアは腕を組んだ。
「連鎖爆発かもしれないよ」
「そうかもしれない」とキランは言った。
「でも、産業事故に連邦捜査官が軍用機まで持ち込む必要があるのか?」
ニュースキャスターが続けた。
「当局は複数の負傷者が出たことを確認していますが、被害者数の詳細は発表していません。住民には、調査が続く間、現場周辺に近づかないよう呼びかけています」
画面に目撃者が現れた。
年配の女性が仮設避難所の外に立っていた。
顔は青ざめていた。
「政府が何と言おうと関係ありません」と彼女はレポーターに話した。「あれは産業事故なんかじゃありませんでした」
レポーターがマイクを近づけた。
「何をご覧になったのですか?」
女性はためらった。
「何かが飛び回っていたんです」
「どのような航空機でしたか?」
「航空機じゃありません」
放送は突然スタジオへ戻った。
キャスターはぎこちなく微笑んだ。
「繰り返しますが、当局は調査が進むまで憶測を控えるよう、一般市民に呼びかけています」
レイモンドはテレビを見つめた。
「いやあ、まったく怪しくないな」
ミカイラは眉をひそめた。
「どうして途中で切ったの?」
ギアは首を振った。
「インタビューが長くなっただけかもね」
キランは画面を見た。
「それか、言われたくないことを話しそうになったのかもしれない」
マッハが話した。
「キラン、不一致を検出しました」
キランはインターフェースへ向き直った。
「どんな?」
「先ほど調べた電磁通信は、ダストヘイヴンと同じ地域から発信されていました」
工房は静まり返った。
レイモンドがゆっくり振り向いた。
「冗談だろ?」
「冗談ではありません」
ギアは急いで診断コンソールへ戻った。
「もう一度表示して」
波形が再び現れた。
マッハは周辺地域の地図を重ねた。
シトロン・シティの西にある広い範囲が強調表示された。
ダストヘイヴンはその中に位置していた。
キランは表示を見つめた。
「じゃあ、あの変な信号は……」
「報道されている事件と関係している可能性があります」とマッハが続けた。
ミカイラは二人を交互に見た。
「どう関係してるの?」
マッハは少し間を置いた。
「分かりません」
キランは背もたれに身体を預けた。
珍しく、すぐに冗談が出てこなかった。
彼はテレビを見た。キャスターはすでに別のニュースへ移っていた。
産業事故。
軍用機。
損傷した建物。
何かが飛んでいるのを見たという目撃者。
そして、マッハの内部構造の一部に似た、謎の通信信号。
キランは息を吐いた。
「さて、と」
レイモンドが彼を見た。
「さて、何だ?」
キランは肩をすくめた。
「どうやら、普通の木曜日では終わりそうにないな」
マッハが答えた。
「あなたの直感は、過去の事例では物的損害の大幅な増加と関連しています」
ギアは頷いた。
「それは間違ってないね」
夕方になる頃には、工房は再び落ち着いた雰囲気を取り戻していた。
ギアは診断を終え、奇妙な通信信号についてさらに調べると約束した。
レイモンドは作業台を片づけていた。
キランはようやく最後のピザを手に入れていた。
残念ながら、すっかり冷めていた。
彼はピザを見つめた。
「悲しくなってくるな」
マッハが答えた。
「ピザの温度は約十四度です」
「余計に悲しくなったよ。ありがとう」
「最適な再加熱時間を計算しましょうか?」
キランはギアを見た。
「電子レンジ借りていいか?」
ギアは顔を上げなかった。
「やめといて」
キランは眉をひそめた。
「何で?」
「火曜日から調子が悪いんだ」
レイモンドは笑った。
「火曜日に何があった?」
ギアはためらった。
「何も」
奥の部屋から小さな爆発音がした。
パンッ!
全員が音の方を見た。
ギアはため息をついた。
「分かったよ。何かあった」
キランは首を振った。
「本当に、この建物はダクトテープと間違った判断だけで成り立ってるんじゃないか?」
「ほとんどダクトテープだな」とレイモンドが答えた。
ミカイラがキランに近づいた。
「それで」
彼は顔を上げた。
「それで?」
「今夜、暇?」
キランは微笑んだ。
「場合によるな」
「何によるの?」
「俺の一番好きな人が何か予定を立ててくれてるかどうか」
ミカイラはにやりと笑った。
「あら、立ててるわよ」
マッハが割り込んだ。
「最近の通信履歴に基づけば、ミカイラは約四日前から今夜の計画を立てています」
キランはまばたきした。
「えっ、何?」
ミカイラはゆっくり椅子へ向き直った。
「マッハ」
「はい?」
「それ、サプライズの予定だったんだけど」
「ああ」
少し間があった。
「では、私は社会的な失敗を犯したようですね」
工房の向こうでレイモンドが笑った。
「控えめな言い方だな!」
ミカイラは腕を組んだ。
「まあ、サプライズが台無しになっちゃったし……」
彼女はハンドバッグから二枚のチケットを取り出した。
キランはそれを見た。
「何だこれ?」
「ディナーの予約」
彼は微笑んだ。
「いいね」
「それから、ディナーの後は……」
彼女はさらに二枚のチケットを取り出した。
キランは身を乗り出した。
「待って」
目を見開いた。
「それって、もしかして——」
「そうよ」
「本当に?」
「本当に」
キランは笑った。
「ミカイラ!」
彼女は誇らしげに微笑んだ。
「たまには爆発も、悪役も、緊急修理もない夜を過ごしたいと思って」
キランはギアをちらりと見た。
「特に最後のやつはな」
ギアは彼にぼろ布を投げつけた。
キランはかわした。
ミカイラは顔を近づけた。
「それで? どう?」
キランは温かく微笑んだ。
「喜んで」
マッハが話した。
「ロマンチックな夜を成功させる確率は八十七パーセントです」
キランはため息をついた。
「マッハ……」
「私が求められていない解説を続けた場合、その確率は六十三パーセントまで低下します」
ミカイラは吹き出した。
キランはインターフェースを指差した。
「じゃあ、黙っててくれ」
「承知しました」
少し間があった。
「解説を求められた場合に限り、提供するようにしましょうか?」
「マッハ!」
レイモンドは首を振った。
「いやあ、この仲間たちが大好きだぜ」
やがてシトロン・シティに夕日が沈み始める頃、キランとミカイラは帰る準備をしていた。
レイモンドは工房の入口から手を振った。
「今夜くらい世界を救おうとするなよ!」
キランは笑った。
「約束はできないな!」
ギアも後ろから叫んだ。
「推進ユニットを酷使しないでよ! まだアップグレードを取り付けてないんだから!」
マッハが答えた。
「ご心配は記録しました」
ギアは椅子を指差した。
「それから、いちいち生意気なこと言わない!」
「その要求は、私の確立された人格パラメーターと矛盾します」
レイモンドは笑った。
キランは首を振った。
「じゃあ、みんな、おやすみ!」
MACH-01Aが空中へ上昇した。
ミカイラは入口の横から手を振った。
「向こうで会いましょう!」
キランは頷いた。
「また後で!」
彼は上空へ加速した。
眼下には夕焼けの暖かな色に照らされた街が広がっていた。
ほんのわずかな時間、すべてが普通に感じられた。
キランは授業をした。
友人たちと過ごした。
マッハと言い争った。
そして、恋人とのロマンチックな夜の予定を立てた。
スーパーヴィランは現れなかった。
命懸けの戦闘もなかった。
建物が崩壊することもなかった。
少なくとも、シトロン・シティでは。
「マッハ?」
「はい、キラン?」
「一つ頼みがある」
「もちろんです」
「今夜は、あの変な通信の話をしないでくれ」
マッハは少し間を置いた。
「理由を伺っても?」
「ミカイラとデートするんだ。たまには世界を救うこと以外を考えて過ごしたいんだよ」
「理解できる要求です」
キランは微笑んだ。
「ありがとう」
「緊急の対応が必要な状況にならない限り、あの通信について言及しないことにします」
「完璧だ」
二人は市街地の中心へ向かって飛び続けた。
約十一秒間、すべては平和だった。
そして、マッハが再び口を開いた。
「キラン」
キランは目を閉じた。
「冗談だと言ってくれ」
「残念ながら、違います」
「今度は何だ?」
「通信を受信しました」
キランはうめいた。
「マッハ!」
「先ほど検出した信号とは異なります」
キランは目を開いた。
「どういう意味だ?」
「先ほどの通信は受動的なものでした。しかし、今回は特定の相手へ向けられているようです」
「誰に向けて?」
マッハはためらった。
「我々にです」
キランの表情が変わった。
「誰から?」
「不明です」
バイザーに小さな通知が現れた。
未確認信号を検出
発信源:不明
暗号化方式:未認識
キランは眉をひそめた。
「解読できるか?」
「試みています」
信号が音声システムを通じて雑音を発した。
奇妙な音の連続がヘルメットの中に響いた。
普通の電子音ではなかった。
音は上下し、まるで言葉のようなパターンを形成していた。
まるで。
キランは耳を澄ませた。
「何なんだ、これは?」
「不明です」
「何かの言語か?」
「その可能性があります」
マッハは通信の解析を開始した。
復号処理進行中
データ完全性:14%
未知のプロトコル
部分的な復元に成功
音声が歪んだ。
声が現れた。
完全に人間の声ではなかった。
しかし、完全に機械的でもなかった。
途切れ途切れで。
かすかで。
そして、不思議なほど遠く感じられた。
「——守っ……」
キランは動きを止めた。
「マッハ?」
「処理中です」
声が再び雑音に混じった。
「——みんなを……」
激しい雑音が続いた。
キランは目を細めた。
「誰を守るんだ?」
マッハは答えなかった。
信号が強まった。
一瞬、バイザーが見慣れない記号で埋め尽くされた。
あまりにも速く点滅するため、キランには読むことができなかった。
そして消えた。
通信終了
キランは何も表示されなくなった画面を見つめた。
「……なるほど」
彼は唾を飲み込んだ。
「気味が悪いな」
マッハは沈黙していた。
キランは眉をひそめた。
「マッハ?」
返事はない。
「相棒?」
ようやくAIが口を開いた。
「キラン」
その声に、キランは不安を覚えた。
マッハが自信なさそうに話すことは、めったになかった。
絶望的な状況に直面しても、いつも何か皮肉を言う余裕があった。
しかし、今は……。
今のマッハは、ほとんど動揺しているように聞こえた。
「どうした?」
「通信から、判読可能な識別名称を一つ復元しました」
キランは表示を見た。
「何て書いてある?」
マッハはためらった。
そして、その言葉がキランのバイザーに現れた。
CATALYST
キランは声に出して読んだ。
「カタリスト?」
「はい」
「どういう意味なんだ?」
「分かりません」
キランは見慣れない言葉を見つめた。
眼下では、シトロン・シティがいつもどおりの夕方を迎えていた。
道路には車が流れていた。
レストランは客で賑わっていた。
人々は笑い、口論し、家路を急いでいた。
まるで何も変わっていないかのように、世界は動き続けていた。
しかし、街から遠く離れた場所にある政府の機密施設では、砕けたクローム製ホバーチェアが封じ込め室の照明の下で動かずに横たわっていた。
主システムは破壊されていた。
記憶は損傷していた。
電力はほとんど残っていなかった。
そして第二コアの奥深くでは、小さな紫色の光が脈打っていた。
一度。
二度。
そして、もう一度。
――つづく。




