新人レーサー
キラン・キリアンが、その日の朝はろくなことにならないと悟った最初の瞬間は、ギアが作業場の扉を開けた時だった。
二度目は、ギアがMACH-01Aを見た時。
そして三度目は——
怒鳴り声が響き渡った時だった。
「いったい何をやらかしたんだぁぁぁ!?」
キランは目を閉じた。
「おはよう。そっちも元気そうだね」
ギアは作業場の入口に立っていた。
油染みのついたタンクトップに保護ゴーグル。そして、大切な家族が道端の溝に転がっているのを発見したかのような表情を浮かべている。
視線がMACH-01Aの紫色の装甲をなぞった。
擦り傷。
へこみ。
削れた右側面。
後部スタビライザーのハウジングに残る衝突痕。
ギアはゆっくりと片手を上げた。
指差す。
手を下ろす。
もう一度指差す。
キランは黙って待った。
ギアが大きく息を吸う。
「お前、レースを見に行ったんだよな!?」
「うん」
「観客として!」
「その予定だったよ」
「だったら、なんで車椅子が貨物列車と正面衝突したみたいになってるんだよ!?」
マッハのインジケーターが点灯した。
「厳密には、交戦相手は人型自律レーシングプラットフォームでした」
ギアがマッハへ振り向く。
「お前もだ!」
「おはようございます、ギア」
「おはようなんて言ってる場合か!」
キランは顔をしかめた。
マッハは少し考える。
「では、こんにちはの方がよろしいでしょうか?」
「まだ朝の九時だ!」
「それなら最初の挨拶が正しかったことになります」
キランは天井を見上げた。
誰か、僕に忍耐力をください。
ギアはMACH-01Aの周囲を歩き回り、損傷を調べ始めた。
右側の装甲パネルに長く刻まれた傷を指でなぞる。
「これは?」
「壁」
ギアの動きが止まる。
「壁?」
「整備用通路の壁」
「なんで整備用通路を飛んでたんだ?」
「ロボットに追いかけられてたから」
ギアは後方へ回る。
「じゃあ、これは?」
「ロボット」
別のへこみ。
「これは?」
「それもロボット」
さらに深い衝突痕。
「じゃあ、これは!?」
キランは少しためらった。
「たぶんロボット」
ギアがゆっくり振り返る。
「たぶん?」
マッハが答えた。
「確認済みです。VARK-01が高い相対速度でその部分に衝突しました」
ギアはキランを見つめた。
キランは弱々しく笑う。
「少なくとも原因は分かったね」
ギアの喉から、故障した工業用コンプレッサーのような音が漏れた。
「検査ベイに入れ」
「ギア——」
「今すぐ!」
キランはため息をついた。
MACH-01Aが前進する。
検査用プラットフォームが車椅子の位置に合わせて上昇し、天井から複数の診断アームが伸びてきた。
ギアはタブレットを手に取る。
「マッハ。損傷報告を全部出せ」
キランの目が見開かれた。
「ちょっと待って——」
「報告を開始します」
「裏切り者」
「右側装甲、表面的な擦過傷および局所的な変形。後部スタビライザーハウジング、衝撃による損傷。補助装甲マウント、応力上昇。推進ユニット、正常稼働。プラズマキャノン格納部、異常なし。主飛行制御システム、正常稼働」
ギアの表情が少し和らいだ。
しかし、マッハは続けた。
「さらに、パイロットは機体に対し、急激な方向転換、緊急制動、持続的な高加速、および通常の飛行運用とは一致しない機動を繰り返し実行しました」
ギアがゆっくりキランを見る。
キランは視線をそらした。
「また、そのうち複数の機動は一般的なレース理論とも一致していません」
「マッハ」
「一つは後方への加速でした」
「マッハ」
「もう一つは完全停止の直後に行われた、ほぼ垂直方向への急降下です」
「マッハ!」
ギアはタブレットを置いた。
とても慎重に。
「説明しろ」
キランはため息をつく。
「動画があるよ」
ギアは彼を見つめた。
「動画?」
「正確には何本も」
マッハが作業場のモニターに映像を投影した。
キリアン・シャッフル
キランは呻いた。
「なんで毎回そのタイトルから始まるんだよ……」
映像が再生される。
MACH-01Aが加速。
急停止。
急降下。
回転。
後方飛行。
ギアは黙って見ていた。
その沈黙は怒鳴り声より恐ろしかった。
映像が終わると、ギアはゆっくり保護ゴーグルを外した。
「キラン」
「はい」
「いったい……」
一拍。
「何なんだ……」
もう一拍。
「これはぁぁぁ!?」
「即興の機動?」
「工学に対する犯罪だろ、これは!」
マッハが答えた。
「的確な評価です」
「同意するなよ!」
ギアはモニターを指差す。
「お前の車椅子には高性能な推進システム、精密スタビライザー、予測飛行制御装置、それに毎秒何千もの変数を処理できるAIが搭載されてるんだぞ!」
「ありがとうございます」とマッハ。
「それだけの技術を使って、酔っ払った蚊みたいに飛び回ったのか!?」
キランは口を開いた。
そして閉じた。
「……新しい表現だね」
ギアは額を押さえた。
「頼むから、この後は家に帰るって言ってくれ」
キランはためらった。
ギアは見逃さなかった。
目が細くなる。
「キラン」
「いや、その……」
「キラン」
「ちょっとしたプライベート練習があって」
ギアは彼を見つめた。
「何の練習?」
「バロン・テニモスと」
沈黙。
ギアが瞬きをする。
「レーサーの?」
「うん」
「昨日の?」
「うん」
「プロレーサーの?」
「その人」
ギアはゆっくり息を吸った。
「なんで?」
キランは肩をすくめる。
「挑戦されたから」
ギアは彼を見つめた。
「それで断ったんだろ」
「何度も」
「よし」
「でも、どうやら断ったことになってないみたいで」
ギアの口が開く。
マッハが付け加えた。
「キランはレース性能の予備計算も要求しました」
キランは下を見る。
「君は本当に助けにならないな!」
ギアは目を閉じた。
数秒間、診断装置の作動音だけが作業場に響く。
やがてギアが口を開いた。
「重要なシステムを全部点検し終わるまで、どこにも飛ばせないからな」
キランは頷く。
「それは分かる」
「損傷したスタビライザーでレースなんかさせない」
「それも分かる」
「あと武器は禁止だ」
「バロンもそう言ってた」
ギアが彼を見る。
「よし」
一拍。
「待て。ちゃんとルールがあるのか?」
キランは笑う。
「どうやらね」
ギアは彼を見る。
次にMACH-01A。
そしてモニターの映像。
「信じられない……」
レンチを手に取る。
「よし。この空飛ぶ災害を修理するぞ」
マッハのインジケーターが明るくなった。
「今後はMACH-01Aではなく、その名称を使用しますか?」
ギアはレンチをマッハへ向けた。
「調子に乗るなよ」
ギアが修理と安全点検を終える頃には、キランは予定より遅れていた。
致命的な遅刻ではない。
ただし、マッハが三十秒ごとに指摘するには十分な遅刻だった。
「到着予定まで十 分四十二秒」
「分かってる」
「予定開始時刻は午前十時です」
「分かってる」
「現在時刻は九時五十六分」
「マッハ」
「現在の移動速度では——」
「分かってるってば!」
MACH-01Aは指定された飛行ルートに沿って、プライベートレース施設へ向けて加速した。
施設はシトロン・シティの繁華街から離れた広大な土地に建設されていた。
大観衆を収容するために設計されたシトロン・レースウェイとは異なり、こちらはほぼ完全に試験走行と訓練のための施設だった。
巨大な観客席はない。
大型広告スクリーンもない。
歓声を上げる観客もいない。
代わりに、複数のコース、整備ガレージ、テレメトリータワー、そしてメインサーキットを見渡す中央管制棟が並んでいた。
キランは上空から接近した。
そして止まった。
「おお……」
マッハのインジケーターが光る。
「感心しましたか?」
「ちょっとね」
眼下には、キランがこれまでの飛行経験で見たことのないようなサーキットが広がっていた。
中央管制棟の脇を長いストレートが走っている。
その先ではコースが急激に曲がり、複雑な連続コーナーへ入っていた。
一部は高架構造に沿って上昇し、大きく下降するカーブへ続く。
別の区間は補強されたパイロンの間を通っていた。
さらに奥では、左右交互に曲がる連続カーブが、舗装路と指定された低高度レース空間を縫うように伸びている。
キランはコースを見つめた。
「複雑そうだな」
「普段の飛行経路と比較すれば、そうですね」
「どういう意味?」
「通常の移動では、同じコースを可能な限り効率よく走破する必要はありません」
キランは考えた。
彼はシトロン・シティの上空を飛べる。
建物の間を縫って進める。
攻撃を回避できる。
犯罪者を追跡できる。
だが、レースは違う。
単に目的地へ到達するだけではない。
ほかの誰よりも速く到達しなければならない。
何度も。
同じコーナーを通りながら。
すべてのミスを計測されながら。
キランは施設の入口へ降下した。
中央管制棟のそばでは、ミカイラ、シバ、そしてシバの父親が待っていた。
シバはヴェロシティのサイン入りキャップをかぶっていた。
当然だ。
さらにノートを持っていた。
かなり分厚いノートだった。
キランは即座に警戒した。
「それ、何?」
シバが顔を上げる。
「おはようございます、生徒さん」
キランが止まった。
ミカイラは口元を覆った。
キランはシバを見つめる。
「……何だって?」
「遅刻ですよ」
「僕は君の先生なんだけど」
「今日は違います」
「学校ってそういう仕組みじゃないよ」
「ここは学校じゃありません」
シバはノートを開いた。
「プロレースの第一回授業へようこそ」
キランはミカイラを見る。
「助けて」
ミカイラは笑う。
「おはよう、ホットロッド」
「助けになってない」
彼女は頬にキスした。
「頑張ってね」
シバが咳払いする。
「始めてもいいですか?」
キランは父親を見る。
「これ、許してるんですか?」
父親は肩をすくめた。
「昨夜はほとんどこれを準備していたんです」
キランは目を見開く。
「どのくらい?」
「親としては、もう少し寝てほしかったですね」
シバがページをめくる。
「二十七ページのノートがあります」
キランは瞬きをする。
「二十七?」
「参考文献を含めると二十八ページです」
キランはマッハを見下ろした。
「参考文献まであるよ」
「素晴らしい学術的習慣です」
「調子に乗らせないで」
シバはサーキットを指差す。
「まず、バロン・テニモスについて説明します」
キランはため息をつく。
「やっぱりね」
彼女は図を開いた。
「バロンはコーナーへの進入が非常に攻撃的です。でも、本当の強みは加速じゃありません」
キランは眉を上げた。
「違うの?」
「違います」
シバは曲線を指差した。
「速度をほとんど落とさないことです」
キランは身を乗り出した。
ノートにはレーシングラインの図が手描きされていた。
コーナーへの異なる進入方法。
加速ポイント。
ブレーキングゾーン。
ヴェロシティのエネルギー消費に関する注釈まである。
シバは続ける。
「初心者は、できるだけ速くコーナーへ入ればいいと思いがちです」
「合理的に聞こえるけど」
「間違いです」
キランは眉をひそめた。
シバは彼を指差す。
「まさにそれです」
「何が?」
「先生、もう初心者らしい間違いをしています」
「まだ走ってもいないよ!」
「それほど深刻なんです」
ミカイラが笑う。
シバは続けた。
「速すぎる速度で進入すると、強くブレーキをかける必要があります。すると速度が落ちます。そして再加速でエネルギーを無駄にします」
キランは図を見つめた。
「つまり、勢いを維持することが重要なんだ」
シバは少し止まった。
そして笑う。
「よくできました」
キランは彼女を見つめた。
「今、僕を褒めた?」
「正の強化は学習効率を高めます」
マッハが答える。
「正しい見解です」
キランは空を見上げた。
「どうして僕の人生はこうなったんだろう……」
バロン・テニモスは午前十時ちょうどに現れた。
隣にはヴェロシティ。
キランが到着したばかりであることなど、まったく気にしていない様子だった。
バロンはMACH-01Aを見る。
「来たな」
キランは頷く。
「どうやら」
「ギアの許可は出たか?」
「僕を分解すると脅された後でね」
「いい整備士じゃないか」
「そうですね」
ヴェロシティのインジケーターが点灯する。
「おはようございます、マッハ」
「おはようございます、ヴェロシティ」
「コース仕様は確認しましたか?」
「徹底的に」
キランは下を見る。
「どのくらい徹底的に?」
「十分な程度です」
「安心できない答えだな」
バロンが笑う。
「さあ、ルールを確認しよう」
彼は一行をサーキットの入口へ案内した。
管制ブースのそばにはVRFの技術者が待機していた。
複数のモニターにはコース状況、安全区域、自動緊急バリアの位置が表示されている。
バロンはコースを指差した。
「一周勝負」
キランは頷く。
「分かりやすいですね」
「武器は禁止」
「賛成」
「故意の接触は禁止」
「当然です」
「相手のVentへの妨害も禁止」
「問題ありません」
「それから、指定されたレース区域の外へ出るのは禁止だ」
キランが止まった。
「ちょっと待って」
バロンが振り返る。
「何だ?」
キランはMACH-01Aを示した。
「僕が飛べること、分かってますよね?」
「昨日見た」
「だったら、なんで地上のコースを走らせるんです?」
バロンが笑う。
「レースだからだ」
「でも、僕の最大の強みは三次元で動けることですよ」
「俺の最大の強みはレースの仕方を知っていることだ」
キランは眉をひそめた。
「それ、不公平じゃありません?」
「競争ってのはそういうものだ」
シバが手を上げた。
全員が彼女を見る。
バロンが笑う。
「何だ、先生?」
シバは危うくノートを落としかけた。
だが、すぐに立て直す。
「このコースには指定された垂直方向のレース空間があります」
ヴェロシティが確認する。
「その通りです」
シバはパイロンを指差した。
「キラン先生は、境界内にいる限り高度を変えてもいいはずです」
バロンは少し考えた。
そして頷く。
「いいだろう」
キランは驚いた。
「本当に?」
「本当だ」
「飛んでいいんですか?」
「境界内ならな」
「どのくらい高く?」
技術者が答えた。
「許可高度の上限は頭上の誘導ビーコンで示されています。区間によって制限は異なります。すべての参加者は、その上限以下、かつ左右の安全マーカー内を走行してください」
キランはコースを見る。
発光する複数のマーカーが、飛行可能な空間を区切っていた。
自由飛行ではない。
だが、機動するには十分な余裕がある。
バロンは腕を組む。
「これで公平か?」
キランは笑った。
「公平です」
バロンも笑う。
「よし。負けても言い訳するなよ」
キランの笑みが消えた。
「本当に楽しんでますね」
「最高にな」
最初の練習ラップは悲惨だった。
壊滅的な惨事というわけではない。
何も爆発しなかった。
誰も怪我をしなかった。
MACH-01Aも正常に稼働していた。
だが、レースという観点では屈辱的だった。
キランは最初のストレートを加速する。
「よし!」
速度は素晴らしかった。
ヘルメットの周囲を風が吹き抜ける。
コースが前方へ伸びている。
マッハがテレメトリーを監視する。
「最初のコーナーに接近」
「分かってる」
「推奨減速ポイントまで、三——」
キランは加速した。
「キラン」
「二——」
「見えてるよ!」
「一——」
キランは急ブレーキをかけた。
MACH-01Aが前方へ傾く。
スタビライザーが補正する。
キランは大きく膨らみながらコーナーへ入った。
慌てて修正。
そして早すぎる再加速。
車椅子が外側の境界へ流れる。
「うわっ!」
マッハが追加の姿勢安定制御を作動させた。
MACH-01Aはコーナーを抜けた。
ぎりぎりで。
「今のは問題なかったね」
「問題だらけでした」
「曲がれたじゃないか」
「大幅に速度を失いました」
キランは前を見る。
「次だ」
二つ目のコーナーが迫る。
今度は早めに減速した。
早すぎた。
MACH-01Aはゆっくりとカーブを通過する。
キランは出口で加速した。
「今度は?」
「安全でした」
「いいことだ」
「遅かったですが」
「それは悪いことだ」
「正解です」
三つ目のコーナーで、キランは挽回しようとした。
攻撃的に進入。
機体を傾ける。
加速。
そして次のコーナーが反対方向へ曲がっていることに気づく。
「嘘だろ!」
再び急ブレーキ。
マッハがため息をついた。
合成音声によるため息。
キランはマッハがそれをするのが嫌いだった。
「エネルギーを浪費しています」
「練習中なんだよ!」
「驚くべき速度で消費しています」
四つ目のコーナーはさらにひどかった。
五つ目も大差ない。
高架区間へ到達する頃には、キランはすっかり苛立っていた。
「みんなどうやってるんだ?」
「練習です」
「僕だって飛行訓練はしてるよ!」
「レースの訓練ではありません」
「速く飛ぶことがレースだろ!」
「違います」
キランは大きく曲がる下降カーブへ向かった。
「じゃあ何が違うんだよ?」
マッハが答える。
「高速飛行は速度の問題です。レースとは、競技上の制約の中で速度を制御し、活用することです」
キランは考えた。
残念ながら、次のコーナーへ進入しながら考えてしまった。
MACH-01Aが外側へ流れる。
警告が点滅した。
コース境界接近
「うわあっ!」
キランは機体を修正した。
車椅子が安定する。
マッハは続ける。
「注意力の配分も重要です」
「どうもありがとう!」
ようやくフィニッシュラインを通過した時、キランは疲れ果てていた。
肉体的にではない。
精神的に。
彼は一周ずっと、幾何学に侮辱され続けた気分だった。
管制エリアへ戻る。
シバが待っていた。
クリップボードを持って。
キランが止まる。
「嫌だ」
シバが顔を上げる。
「お帰りなさい」
「嫌だ」
「成績を聞きますか?」
「絶対に嫌だ」
彼女はクリップボードを裏返した。
評価:D+
キランは凝視した。
「Dプラス?」
シバは頷く。
「どういたしまして」
「どういたしまして?」
「甘く採点しました」
キランはミカイラを見る。
彼女は笑いをこらえていた。
失敗していた。
盛大に。
キランはコースを指差した。
「完走したよ」
シバは頷く。
「最終的には」
「境界から出なかった」
「ほとんど」
「クラッシュもしなかった」
「最低限の安全条件を満たせて、おめでとうございます」
キランは目を閉じた。
マッハが言う。
「彼女の評価は私のテレメトリー分析とおおむね一致しています」
キランは下を見る。
「君たち二人ともひどいな」
シバはノートを開いた。
「では、間違いを復習しましょう」
キランは呻いた。
「全部?」
彼女は笑う。
「ノートがもう一冊必要かもしれません」
バロンは最初のラップをずっと見ていた。
笑わなかった。
それがかえってつらかった。
代わりに、ヴェロシティのそばでテレメトリーを調べていた。
キランが近づくと、バロンは顔を上げた。
「さて」
キランは腕を組む。
「どうぞ」
バロンは眉を上げる。
「何が?」
「どれだけひどかったか言ってください」
バロンは考えた。
「ひどかったな」
キランはため息をつく。
「ありがとうございます」
「でも普通だ」
キランは顔を上げた。
「そうなんですか?」
「当たり前だろ」
バロンはコースを示す。
「お前は何年も自由な空間で飛ぶ方法を学んできた」
キランは頷く。
「そうですね」
「反応はいい」
「普段は」
「即興にも強い」
「どうやら」
「予想外の障害への対処なら、大抵のレーサーより上手いかもしれない」
キランは考えた。
「なるほど」
バロンは最初のコーナーを指差した。
「だが、レースは毎秒即興で対応する競技じゃない」
キランはコースを見る。
「次に何が来るか知っておくことが大切なんですね」
「その通り」
バロンが笑う。
「見てろ」
ヴェロシティがスタートラインへ移動した。
バロンが姿勢を整える。
管制ブースで練習用タイマーが起動する。
シバはすぐに観覧エリアへ駆け寄った。
父親も後に続く。
ミカイラはキランの隣に立った。
マッハのインジケーターが明るくなる。
「テレメトリーを記録します」
キランは頷く。
「絶対にね」
スタートランプが点灯した。
一つ。
二つ。
三つ。
青。
ヴェロシティが発進した。
激しくはない。
キランが予想していたような爆発的加速でもない。
動きは滑らかだった。
制御されている。
ほとんど無駄がない。
バロンが最初のコーナーへ接近する。
限界ぎりぎりまでブレーキを我慢することはなかった。
カーブへ入る前に速度を調整する。
ヴェロシティは正確な弧を描いた。
進入。
旋回。
脱出と同時に加速。
すべてが一つの流れるような動作だった。
キランは見つめた。
「おお……」
マッハが答える。
「コーナー出口の速度に注目してください」
キランのバイザーにテレメトリーが表示された。
ヴェロシティはキランより遅い速度でコーナーへ入っていた。
だが、出口でははるかに速かった。
「待って」
キランは身を乗り出す。
「どうして?」
「修正ブレーキの削減。優れたライン選択。最小限のエネルギー消費です」
ヴェロシティが二つ目のコーナーへ向かう。
また完璧な移行。
そして三つ目。
バロンはほとんど動いていないように見えた。
コースと戦っていない。
流れるように走っていた。
MACH-01Aのテレメトリー表示では、キラン自身のラップとヴェロシティの走行データが並べられていた。
その違いは残酷だった。
キランの加速グラフは地震計の記録のようだった。
ヴェロシティのグラフは滑らか。
予測可能。
効率的。
ミカイラが比較画面を見る。
「うわ、すごい」
キランはため息をつく。
「お願いだから」
「何も言ってないわよ」
「顔が言ってた」
ヴェロシティが高架区間へ到達する。
バロンは進入角度を調整した。
機体が上昇。
旋回。
下降。
無駄な動きは一つもない。
キランは見つめた。
彼は自分のラップで、MACH-01Aを無理やりコーナーへ押し込もうとしていた。
バロンは機体がどこへ進むべきか、最初から分かっているようだった。
シバは今にも震え出しそうだった。
「見てください!」
キランは頷く。
「見てるよ」
「ほとんど減速してない!」
「分かってる」
「これがさっき説明したことです!」
「分かってるってば!」
ヴェロシティが最終ストレートへ入る。
加速。
フィニッシュラインを通過。
タイマーが止まった。
キランは結果を見つめた。
次に自分の結果を見る。
差は圧倒的だった。
バロンが管制エリアへ戻ってきた。
実に余裕そうだった。
キランは凝視する。
「今のをやって、息も上がらないんですか?」
バロンが笑う。
「なんで上がるんだ?」
キランはコースを指差した。
「だって今の、すごすぎるでしょう!」
「普通の練習ラップだぞ」
「それがもっとひどい!」
ヴェロシティが口を開いた。
「マッハ、エネルギー配分プロファイルが必要ですか?」
「はい」
「送信します」
マッハがデータを処理した。
一瞬後、キランのバイザーに二つの図が表示される。
一つはヴェロシティのエネルギー消費。
もう一つはMACH-01Aのもの。
キランは眉をひそめた。
「なんで僕のだけ山脈みたいになってるの?」
マッハが答える。
「不要な減速を補うため、繰り返し加速したからです」
「なるほど」
「また、適切な位置取りによって回避できたミスを、垂直推力で修正していました」
キランは図を見る。
「なるほど……」
ヴェロシティが付け加えた。
「あなたの機体は高性能ですが、計画性の代わりに出力へ頼っています」
キランは下を見る。
その言葉は少し胸に刺さった。
主に、正しかったからだ。
バロンはヴェロシティに寄りかかった。
「いいか、キラン」
キランは顔を上げる。
「お前には、ほかのレーサーが持っていないものがある」
「死にかける悪い癖ですか?」
バロンが笑う。
「それもな」
彼はMACH-01Aを指差した。
「自由だ」
キランは眉をひそめた。
「自由?」
「ほとんどのVentレーサーは、コースを二次元で考えなきゃならない」
ヴェロシティが補足する。
「許可された移動システムの制約内において、です」
バロンは頷く。
「お前は違う」
キランはコースを見る。
発光する垂直方向のマーカーがコーナーの上に伸びている。
突然、違うものが見え始めた。
ただのコーナーではない。
ただの舗装路でもない。
空間。
経路。
角度。
バロンが笑う。
「俺みたいに走ろうとするな」
キランはゆっくり振り返る。
「何です?」
「俺の真似をしても、俺の劣化版にしかなれない」
キランは考えた。
「たぶん、そうですね」
「なら、やめろ」
バロンはコースを指差す。
「俺の機体にはできないことを、お前の機体でやってみろ」
二度目の練習ラップは、最初から違っていた。
キランはすぐには加速しなかった。
待った。
最初のコーナーを観察する。
バイザーに投影されたレーシングラインを確認する。
マッハが言う。
「準備は?」
キランは頷く。
「できてる」
スタートランプが青になる。
MACH-01Aが加速した。
ただし最大推力ではない。
キランは最初のコーナーへ近づく。
「減速ポイントは?」
「接近中です」
「教えて」
「三」
キランは速度を調整した。
「二」
機体を傾け始める。
「一」
MACH-01Aがコーナーへ入った。
滑らかに。
完璧ではない。
だが、滑らかだった。
キランは笑う。
「おお」
マッハのインジケーターが明るくなる。
「改善しました」
車椅子がコーナーを抜けて加速する。
キランは速度表示を見る。
「さっきより速い!」
「その通りです」
「早めに減速したのに!」
「その通りです」
「おかしいだろ!」
「それがレースです」
二つ目のコーナーが迫る。
キランは形状を調べた。
通常のレーシングラインは内側へ曲がっている。
だが、その上には数メートルの許可空域があった。
キランはマーカーを見る。
そしてコーナー。
一つの考えが浮かんだ。
「マッハ」
「はい?」
「地上のラインを通らなかったらどうなる?」
「詳しく説明してください」
キランは笑う。
「上を通ったら?」
マッハが形状を計算する。
「許可された垂直空間の範囲内で、ですか?」
「その通り」
軌道が表示された。
最短経路ではない。
厳密には。
だが、地上で必要とされる急激な方向転換を避け、より緩やかな旋回半径を維持できる。
マッハは提案されたルートを分析した。
「実行可能な可能性があります」
キランはニヤリとする。
「試してみよう」
MACH-01Aが上昇した。
劇的な上昇ではない。
必要な分だけ。
キランは通常のレーシングラインの上で機体を傾けた。
眼下にコーナーが広がる。
彼は大きな空中の弧を描いた。
車椅子が出口へ向けて下降する。
そして加速。
速度表示が上昇した。
キランの目が見開かれる。
「マッハ!」
「確認しています」
「さっきほど速度が落ちなかった!」
「確認しました」
キランは笑った。
「やった!」
管制ブースでは、シバがモニターへ身を乗り出していた。
「待って」
父親が彼女を見る。
「どうした?」
「今の、普通のラインじゃない」
バロンは隣に立っていた。
テレメトリーを見る。
そして笑った。
「ああ」
ヴェロシティのインジケーターが点灯する。
「興味深いですね」
シバは画面を凝視した。
「高度制限を利用して、コーナーの形状そのものを変えてるんだ」
バロンは頷く。
「その通り」
コース上では、キランが次の区間へ近づいていた。
左右交互の二連続コーナー。
通常のレーサーにとって難しい区間だ。
彼はマーカーを確認した。
ここでは垂直方向の空間が狭くなっている。
すべてを飛び越えることはできない。
だが、その必要もなかった。
「マッハ。コーナーの間で高度を変えたらどうなる?」
「説明してください」
「左へ曲がってすぐ同じ高さで右へ曲がる代わりに、最初のコーナーで上昇して、次のコーナーへ下降するんだ」
マッハが計算する。
「より連続的な三次元軌道を取ることが可能になります」
「速くなる?」
「可能性はあります」
「今日はその言葉が一番好きだ」
キランは最初のコーナーへ入った。
上昇。
旋回。
そして制御された下降へ移る。
MACH-01Aは滑らかに反対方向へ機体を傾けた。
その動きは自然だった。
まるで空中障害物コースを飛んでいるような感覚。
ただし今回は、すべての動作に意味があった。
車椅子は以前よりはるかに速い速度で二つ目のコーナーを抜けた。
キランが叫ぶ。
「よっしゃあ!」
マッハのインジケーターが点滅する。
「素晴らしい」
キランは笑う。
「今、僕を褒めた?」
「慣れないでください」
高架区間が迫る。
キランはコースの形状を調べた。
ここはさらに複雑だった。
垂直方向の境界が高架コースに沿って設定されている。
空中を直線的に横切れば、許可されたレース空間から外れてしまう。
マッハが制限区域を強調表示した。
「その境界を越えないでください」
「見えてる」
キランはラインを調整した。
区間全体を横切るのではなく、コースの大まかな形状に沿いながら、小さな高度変化で移行を滑らかにする。
先ほどの機動ほど派手ではない。
だが、うまくいった。
MACH-01Aが上昇。
旋回。
下降。
そして最終ストレートへ加速する。
キランはタイマーを確認した。
目が見開かれる。
「マッハ」
「はい?」
「本当に速くなってる?」
「大幅に」
「どのくらい?」
「集中を維持することを推奨する程度には」
キランはニヤリとする。
「つまり、そういうことだね」
フィニッシュラインが迫る。
MACH-01Aが加速。
通過。
タイマーが止まった。
キランは即座に結果を見る。
二度目のラップは、最初より劇的に速かった。
まだバロンには及ばない。
だが、もう恥ずかしいほどの差ではなかった。
キランは笑った。
「やったあ!」
マッハのインジケーターが明るくなる。
「改善を確認しました」
「最高の気分だ!」
「エネルギー消費も大幅に減少しています」
「もっと最高だ!」
キランは速度を落とし、管制エリアへ戻った。
その間ずっと笑っていた。
シバが待っていた。
クリップボードを持って。
キランは彼女の前で止まる。
「さて?」
シバは下を見る。
そして上。
もう一度下。
キランは腕を組んだ。
「どうかな、先生?」
シバは咳払いした。
「コーナーへの進入は改善しました」
キランは頷く。
「ありがとう」
「加速のタイミングもよくなりました」
「ありがとう」
「エネルギー管理も大幅に改善しました」
「ありがとう」
「そして空中レーシングラインは……」
彼女はためらった。
キランが身を乗り出す。
「ラインは?」
シバはバロンを見る。
そしてキランへ視線を戻す。
「……実際、かなりよかったです」
キランは大げさに息を呑んだ。
「みんな聞いた?」
シバは目を回す。
「台無しにしないでください」
「僕のこと、上手いって言った!」
「かなりよかったって言ったんです!」
「マッハ、記録して!」
「すでに記録済みです」
シバはクリップボードを裏返した。
評価:B+
キランは凝視した。
「Bプラス?」
彼女は頷く。
「よくできました」
キランは笑った。
そして目を細める。
「待って。なんでAじゃないの?」
シバは彼を指差した。
「最終ストレートでまだエネルギーを無駄にしてました」
キランは口を開いた。
そして閉じる。
「……それはそうだね」
バロンが近づいてきた。
ヴェロシティも後に続く。
チャンピオンはコースを見る。
そしてキラン。
「さて」
キランは笑う。
「さて?」
「面白かったぞ」
「いい意味で? 悪い意味で?」
バロンは腕を組む。
「もう一度見たくなるくらいにはな」
キランはヴェロシティを見る。
「僕、どのくらいひどかった?」
ヴェロシティが答える。
「二度目のラップではエネルギーの浪費が大幅に減少し、複数の技術的区間で型破りながら有効なアプローチを示しました」
キランは頷く。
「それなら十分」
バロンがニヤリとする。
「まだ俺より遅いけどな」
キランはため息をつく。
「やっぱり言いますよね」
「だが……」
キランは顔を上げる。
バロンは左右交互のコーナーを指差した。
「あの区間で使ったライン」
「はい?」
「俺にはできない」
キランは瞬きをする。
「できないんですか?」
「ヴェロシティではな」
ヴェロシティが確認する。
「私の車体構造では、あの軌道を取ることはできません」
キランはコースを見る。
そしてMACH-01A。
初めて、バロンが何を伝えようとしていたのか理解した。
彼は普通のレーサーではない。
MACH-01Aも普通のレーシングマシンではない。
バロンを真似しようとすれば、バロンの劣化版になるだけだ。
だが、飛ぶことなら?
それはキランが理解していることだった。
彼は何年もシトロン・シティの空を飛び回ってきた。
上昇の仕方を知っている。
下降の仕方も。
空中で方向を変える方法も。
勢いを利用する方法も。
直線的な経路が使えない時、即興で対応する方法も。
そして今、それらの技術をレースへ応用する方法が少しずつ分かり始めていた。
バロンが笑う。
「分かってきたか?」
キランはゆっくり頷いた。
「ええ」
「よし」
バロンはスタートラインへ向き直った。
「だったら、今度はお前の本当の実力を見せてもらおう」
キランの笑みが少し消えた。
「待って」
バロンが振り返る。
「何だ?」
キランはコースを指差した。
「次は練習ラップじゃないんですね」
「違う」
シバの目が見開かれる。
ミカイラが笑う。
マッハのインジケーターが明るくなる。
バロンはヴェロシティへ乗り込み、位置についた。
「一周勝負だ」
キランは凝視した。
「今から?」
バロンは頷く。
「もうお手本は終わりだ」
ヴェロシティのシステムが点灯する。
「単独走行も終わりです」
チャンピオンが笑う。
「お前と俺の勝負だ」
キランはコースを見る。
そしてマッハ。
「どう思う?」
マッハは即答した。
「全システム正常稼働中です」
キランは笑う。
「勝てると思う?」
一拍。
「可能性は低いです」
キランは呻いた。
「少しくらい希望を持たせてよ!」
「しかし……」
マッハのインジケーターが光る。
「今朝と比較すると、彼の勝利確率はそれほど圧倒的ではなくなりました」
キランの笑みが戻る。
「そういう答えが聞きたかったんだ」
シバがクリップボードを上げた。
「待って!」
全員が彼女を見る。
彼女は急いで前へ出た。
「やるなら、一つ条件があります!」
キランはため息をつく。
「もちろんあるよね」
「先生が勝ったら……」
彼女はキランをまっすぐ指差した。
「私が先生を指導したことを、公の場で認めてください!」
キランは凝視した。
「自分の先生を脅迫してるんだね」
「交渉です」
「もっと悪いよ」
バロンが笑う。
「公平じゃないか」
キランはミカイラを見る。
彼女は笑う。
「同意した方がいいわよ、ホットロッド」
キランはため息をついた。
「分かったよ」
シバは満面の笑みを浮かべる。
「素晴らしい!」
キランは彼女を指差す。
「でも僕が負けたら、採点は禁止だからね」
シバは考えた。
そして笑う。
「約束はできません」
キランは呻いた。
ミカイラが笑う。
バロンはコースへ向き直った。
「さあ、新人」
キランは彼を見る。
「新人?」
「もっといい呼び名でもあるのか?」
キランはモニターをちらりと見る。
そこでは、まだ最初のラップのリプレイが流れていた。
キリアン・シャッフル
彼は顔をしかめた。
「それ以外なら何でもいいです」
マッハが答える。
「同感です」
キランはスタートラインへ加速した。
ヴェロシティが隣で待っている。
生まれて初めて、キランはロボットから逃げるために走るのではなかった。
観客を救うためでもない。
命懸けで戦っているわけでもない。
ただ、レースをするためにそこにいた。
そして不思議なことに……
彼は楽しみにしていた。
バロンが横を見る。
「準備は?」
キランはバイザーを下ろした。
「できてます」
ヴェロシティのインジケーターが点灯する。
「幸運を祈ります、マッハ」
「こちらこそ、ヴェロシティ」
バロンが笑う。
「ついてこられるよう頑張れよ」
キランも笑う。
「恥をかかないように気をつけてくださいね」
管制ブースから、シバの声がスピーカーを通して響いた。
「レーサーの皆さん、スタート準備をしてください!」
キランは瞬きをする。
「誰があの子にマイクを渡したの?」
マッハが答える。
「バロンです」
「やっぱりね」
シバは続ける。
「これより、バロン・テニモスとヴェロシティ——」
一拍。
「——そして私の生徒、キラン・キリアンとマッハによる、一周限りのプライベート・エキシビションレースを開始します!」
キランは目を閉じた。
「絶対に後悔するぞ、これ」
マッハのインジケーターが光る。
「ほぼ確実に」
スタートランプが点灯する。
赤。
赤。
赤。
キランは操縦装置を握り直した。
隣では、ヴェロシティの推進システムが低く唸っている。
バロンが身を乗り出す。
シバが声を張り上げた。
「スリー!」
キランはコースへ集中した。
「ツー!」
マッハがバイザーにレース空間の境界を投影する。
「ワン!」
最後のランプが青に変わった。
「ゴー!」
そしてキラン・キリアンは、生まれて初めて——
本当に勝ちたいと思って、レースへ飛び込んだ。




