第5のレーサー
Vent Racing Federationがようやく正式な裁定を下した頃には、キランはもうプロレースとは一切関わりたくないと決めていた。
十分に見た。
十分に走った。
厳密に言えば、レースをしたのは一度だけ。
しかも正式なレースですらなかった。
だが、殺人ロボットに追い回されながらシトロン・レースウェイを駆け回った経験は、少なくとも三シーズン分に相当するとキランは思っていた。
彼は安全が確保されたホスピタリティエリアで、ミカイラの隣にいた。
関係者たちは、まだ騒動の後始末に追われている。
MACH-01Aは彼のそばで停止していた。
マッハは珍しく静かだった。
キランには理由が分かっていた。
「また映像を見てるだろ」
「いいえ」
キランは下を見た。
「マッハ」
「映像を分析しています」
「それを見てるって言うんだよ」
「両者には違いがあります」
「大した違いじゃないよ」
向かい側では、シバがヴェロシティのサイン入りキャップをかぶっていた。
一度も脱いでいない。
本当に一度も。
父親が食事中くらいは脱いだらどうかと提案した時、シバはキャップを燃やせとでも言われたような顔をした。
今はスマートフォンをじっと見つめている。
そして突然——
「やったあああ!」
全員が飛び上がりそうになった。
父親がため息をつく。
「シバ」
「決まった!」
キランは危うく飲み物をこぼすところだった。
「何が?」
シバがスマートフォンをこちらへ向ける。
画面いっぱいにVRFのロゴ。
公式声明が発表されたばかりだった。
彼女は声に出して読み始めた。
「本日シトロン・レースウェイで開催された競技について、緊急審査を行った結果、Vent Racing Federationは危険かつ競技規則に反する行為を理由に、VARK-01を正式に失格処分とすることを決定しました」
キランは背もたれへ身体を預けた。
「ついに決まったか」
シバは読み続ける。
「すべての最終順位は、VRF公式競技規則に従って再計算されます」
画面をスクロール。
目が大きくなる。
そして叫んだ。
「バロンが優勝した!」
父親は片耳を押さえた。
「室内の声で」
「バロンが優勝した!」
「さっきより大きいぞ」
ミカイラが笑う。
キランはマッハを見る。
「これでVARKも失格だって理解したかな?」
「いいえ」
「え?」
「輸送前に記録されたVARK-01の最後の表示は、依然として『1位』でした」
キランは目を見開く。
「冗談だろ」
「冗談ではありません」
「訂正した?」
「繰り返し」
「だろうね」
シバはすでに祝賀モードだった。
「やっぱり! バロンとヴェロシティが正式に一位!」
「厳密には」
キランが言う。
「先にフィニッシュラインを通過したのはVARKだけどね」
シバがゆっくり振り返る。
キランは即座に発言を後悔した。
「先生、仕事を続けたいですか?」
「君に解雇する権限はないと思うけど」
「調べます」
父親が笑った。
その時、部屋の隅に設置されたテレビが突然切り替わった。
VRFのロゴが消える。
映し出されたのはシトロン・レースウェイ。
観客の大半はすでに避難していたが、カメラはまだ稼働していた。
実況席に立っていたのはレヴ・シモンズ。
ジャケットは脱いでいる。
シャツの袖はまくり上げられていた。
それでも、あの有名な実況の声は健在だった。
「さて、皆さん……」
レヴはカメラを見つめる。
「実況生活三十七年。私は数え切れないほどのクラッシュを見てきました」
映像が切り替わり、VARKがアフターバーンへ激突する場面が流れる。
「口論も見ました」
別のレーサーへ怒鳴るバロンの映像。
「壮絶な機械トラブルも見ました」
車体の一部を吹き飛ばしながら走るVentが映る。
「ある時など、自分が失格になったと気づかず三周も走り続けたパイロットがいました」
キランは眉を上げた。
「その話、聞きたい」
マッハが答える。
「過去のVRF記録を検索します」
「いや、しなくていい」
「検索を開始しました」
レヴは続ける。
「ですが、私は一度たりとも——」
大げさに間を置く。
「本当に、一度たりとも——」
さらに間を置く。
「恋人とレースを観戦しに来た男性が、うっかりレーサーの一人になってしまう光景など、見たことがありません!」
キランの手が止まった。
ミカイラがゆっくり彼を見る。
シバの口が開く。
「まさか」
画面が切り替わった。
MACH-01A。
キランはテレビを凝視する。
「おいおい……」
映像には、VARKの上を飛ぶ彼の姿。
続いて急降下。
急停止。
後方への加速。
回転。
ジグザグ飛行。
まともなレーサーなら絶対に選ばない方向へ、ありとあらゆる飛び方をしている。
レヴが実況する。
「さあ皆さん、ご覧ください。レースの専門家たちがすでにこう呼び始めている——」
キランはテレビを指差した。
「誰も名前なんかつけてないだろうな」
「キリアン・シャッフルです!」
キランは目を閉じた。
シバが爆発した。
「キリアン・シャッフル!」
「やめて」
ミカイラが笑い始める。
「絶対やめて」
笑い声がさらに大きくなる。
キランは彼女を指差した。
「面白がらないで」
「何も言ってないわよ!」
「顔が面白がってる!」
マッハが言う。
「キリアン・シャッフル」
「君まで始めるな」
「用語を記録しているだけです」
「用語じゃない!」
レヴは続けた。
「優雅だったか?」
映像のキランが空中で突然停止。
VARKが行き過ぎる。
「いいえ!」
続いてほぼ垂直に降下。
「技術的に正しかったか?」
レヴは少し間を置く。
「議論の余地があります!」
キランはテレビを見つめた。
「おい」
「プロのVRFレーシングインストラクターが教える走り方に似ていたか?」
映像ではMACH-01Aが後ろ向きに加速している。
「まったく似ていません!」
シバは笑いすぎて息も絶え絶えだった。
「ですが! 数百万クレジットの自律型レーシングマシンを混乱させ、数千人の命を救うほど効果があったか?」
レヴが笑う。
「もちろんですとも!」
それにはキランも反論できなかった。
映像が変わる。
今度は最終ラップ。
先頭のMACH-01A。
後方のVARK。
迫るヴェロシティ。
レヴの声が少し落ち着いた。
「本日の主役は、バロン・テニモスとヴェロシティでした」
公式結果が表示される。
1位――バロン・テニモス/ヴェロシティ
シバが両拳を突き上げる。
「やったあ!」
「ですが、VRFファンが今日という日を思い出す時、もう一人のレーサーを思い浮かべることでしょう」
キランは即座に嫌な予感を覚えた。
「やめろ」
画面が変わる。
キラン・キリアン/マッハ
「やめろって!」
ミカイラの笑い声がさらに大きくなる。
レヴがニヤリとする。
「非公式の第5のレーサーです!」
キランはマッハを見る。
「なんで五番目?」
「おそらく修辞的な表現です」
「正式な出場者は九組いたよね」
「その通りです」
「だったら五番目って意味が分からないだろ」
「その通りです」
「じゃあ、なんで——」
「語感がいいからでしょう」
キランはテレビを睨んだ。
「スポーツメディア、大嫌い」
レヴは締めくくる。
「キリアンさん。どこでご覧になっているか分かりませんが、私からの助言は一つだけです」
キランは目を細めた。
「言うなよ」
「次に走る時は——」
レヴが笑う。
「まず予選を通過してください!」
放送がCMへ切り替わった。
沈黙。
キランはテレビを見つめる。
シバはキランを見つめる。
ミカイラもキランを見つめる。
父親までキランを見つめる。
マッハのインジケーターが光った。
「やめろ」
マッハは何も言わない。
「何か言おうとしてるのは分かってる」
「何も言おうとしていません」
「何か考えてるだろ」
「私は常に思考しています」
「やめて」
「それを停止すると私の機能に致命的な影響が生じます」
シバが突然テーブルへ身を乗り出した。
「先生、有名人ですよ!」
「もともと多少は有名だったよ」
「レース界の有名人です!」
「それはもっと嫌だ」
彼女のスマートフォンが振動する。
また。
さらに。
画面を見下ろす。
目が見開かれた。
「うそ……」
「何?」
「キリアン・シャッフルがトレンド入りしてる」
キランの魂が身体から抜けた。
「嘘だろ」
ミカイラもスマートフォンを取り出す。
「本当だわ」
「見ないで」
彼女が笑う。
「動画がある」
「見ないで」
「ミームも」
「ミカイラ」
「音楽をつけた人もいる」
「スマホ貸して」
彼女は手を遠ざける。
「嫌よ」
キランが手を伸ばす。
ミカイラはさらに離す。
「貸してって!」
「ホットロッド、座って」
「もう座ってる!」
それで彼女はさらに笑った。
マッハが言う。
「複数のユーザーがMACH-01Aの理論上のVRF分類を議論しています」
キランの動きが止まった。
「何?」
「オンライン上では意見が分かれているようです」
「何について?」
「MACH-01Aが通常のVentレーシングプラットフォームとして認められるべきかどうかです」
「認められるわけないだろ」
「反対意見もあります」
「なんで?」
「VARK-01およびヴェロシティに対し、競争力のある性能を実証したためです」
「追いかけられてただけだよ!」
「その事情は重要視されていないようです」
シバが突然息を呑む。
「みんな、先生とバロンのレースを見たがってる!」
「嫌だ」
「投票もある!」
「嫌だ」
「六十八パーセントがヴェロシティの勝ちだって」
「よかった」
「二十四パーセントが先生の勝ち」
「間違ってる」
「八パーセントが最初のコーナーでクラッシュするって」
キランは少し止まった。
「それは失礼だな」
ミカイラが彼を見る。
「レースしたくないって言ったばかりじゃない」
「したくないよ」
「でも負けると思われるのは嫌なの?」
「複雑な人間なんだ」
マッハのインジケーターが明るくなる。
「理論上のラップタイムを計算しましょうか?」
「いや」
一拍。
キランは下を見た。
「……どのくらいかかる?」
ミカイラが指差す。
「ほら」
「何が?」
「今のよ」
「何もしてないよ」
「レースしたいんでしょ」
「情報が欲しいだけ」
「レースしたいんだ」
「絶対に違う」
シバが身を乗り出す。
「レースしたいんですね」
「シバ先生、宿題を出すよ」
彼女は即座に背筋を伸ばした。
「職権乱用です」
「効果的な職権乱用だね」
背後から声がした。
「その子が正しい」
キランが固まる。
聞き覚えのある声だった。
シバにも分かった。
彼女の姿勢が完璧になる。
キランはゆっくり振り返った。
バロン・テニモスが立っていた。
隣にはヴェロシティ。
シバはサイン入りキャップに触れ、まだそこにあることを確かめる。
キランはため息をつく。
「お願いだから、彼女を調子に乗らせないでください」
バロンは無視した。
視線はテレビへ。
キリアン・シャッフルのリプレイが再び流れている。
バロンはキランが後ろ向きに飛ぶ映像を見る。
顔をしかめた。
「うわ、ひどいな」
「ありがとうございます」
「あれはレースじゃない」
「そうですよね!」
バロンは少し間を置く。
「でも効果はあった」
キランは彼を見つめる。
「なんでみんな最後にそれをつけるんですか?」
「実際に効果があったからだ」
ヴェロシティのインジケーターが光る。
「非効率的ではありましたが、キランの機動パターンはVARK-01の予測システムに重大な不安定性を発生させました」
マッハが答える。
「その通りです」
ヴェロシティが続ける。
「戦術的には有効でした」
マッハの光が明るくなる。
「ご理解に感謝します」
キランは二機を交互に見る。
「僕の悪い判断を肯定するの、二人ともやめてくれない?」
「いいえ」
二機が同時に答えた。
ミカイラが笑う。
バロンは椅子を引いた。
「さて」
座る。
キランは即座に警戒した。
「さて?」
「公式結果が出た」
「聞きました」
「俺が勝った」
シバは今にも椅子から飛び出しそうだった。
キランは彼女を見る。
「ええ、全員聞きました」
だがバロンはそれほど嬉しそうではなかった。
キランは意外に思う。
「自慢しないんですか?」
「何を?」
「優勝を」
バロンは肩をすくめる。
「俺は勝ってない」
シバは個人的に傷つけられたような顔をした。
「でも結果は——」
「結果がどうなってるかは知ってる」
バロンは彼女を見る。
「VARKは失格になった。だから公式には俺が優勝だ」
テーブルを軽く叩く。
「でもフィニッシュラインを通過した時、俺はあいつの後ろだった」
シバが眉をひそめる。
「でも反則したんです」
「その通り」
「だから優勝ですよ」
「公式にはな」
バロンは背もたれへ身体を預けた。
「だが、殺人トースターがスタジアムの半分を殺しかけて、書類のおかげでトロフィーをもらった日を、俺の最高のレースとして語りたくはない」
マッハが訂正する。
「VARKはトースターではありません」
バロンがMACH-01Aを見る。
「まだあいつを擁護するのか?」
「いいえ。トースター技術を擁護しています」
キランは口元を押さえた。
バロンは一瞬見つめる。
そして笑った。
「いいな、こいつ」
「何年もそれを阻止しようとしてるんですけどね」
マッハが答える。
「成功していません」
バロンの注意がキランへ戻る。
「とにかく、本物のレースがしたい」
キランが頷く。
「頑張ってください」
「お前と」
キランが止まった。
シバも止まった。
ミカイラも止まった。
シバの父親まで顔を上げた。
キランは自分を指差す。
「僕?」
「いや、テーブルとだ」
「そっちを期待してました」
バロンが笑う。
「お前とマッハだ」
キランも笑った。
バロンは笑わない。
キランの笑いがゆっくり消える。
「あ、本気なんですね」
「大真面目だ」
「嫌です」
「怖いのか?」
「違います」
「よかった」
「嫌だって言いましたよね」
「聞こえた」
「じゃあ、なんで笑ってるんです?」
「考えてるからだ」
「どれだけ馬鹿げた話か考えてるんです」
「それでも考えてる」
キランは目を細めた。
「僕は英語教師ですよ」
「それで?」
「武装した飛行車椅子に乗ってます」
「知ってる」
「プロレーサーじゃありません」
「VARKだってそうだった」
「その例え、全然説得力ありませんよ」
バロンが身を乗り出す。
「VRFの公式レースに出ろと言ってるんじゃない」
キランは少し止まる。
「じゃあ何です?」
「プライベートコースだ」
ヴェロシティのインジケーターが点灯する。
バロンが続ける。
「観客なし」
指を一本立てる。
「スポンサーなし」
二本。
「ポイントなし」
三本。
「殺人ロボットなし」
キランは考えた。
「最後の条件は魅力的ですね」
「俺たちだけだ」
バロンは自分とヴェロシティを指差す。
「お前たち二人と勝負する」
キランはマッハを見下ろした。
マッハは何も言わない。
不自然なほど何も。
バロンが続ける。
「練習で一周だけ」
キランは首を振る。
「僕なんか簡単に負かすでしょう」
「たぶんな」
「うわ」
「正直な答えが欲しかったんだろ」
「そこまで正直じゃなくていいです」
「だからこそ、やりたいんだ」
キランは眉をひそめる。
バロンはMACH-01Aを示す。
「今日の走りだけじゃ、お前がどれだけ速いか分からない」
「その場にいたじゃないですか」
「見てたさ」
「なら分かるでしょう」
「俺が見たのは、お前が生き残るところだ」
キランは黙った。
バロンが身を乗り出す。
「即興で対応するところを見た」
テーブルを叩く。
「ほかの誰にも使えない高度を利用するところを見た」
もう一度。
「VARKに自分を追わせるところを見た」
さらに。
「走りながら学んでいくところを見た」
キランは耳を傾ける。
「だが、レースをするお前は見ていない」
バロンが笑う。
「それを見たい」
シバが突然、両手をテーブルへ叩きつけた。
「やってください!」
全員が飛び上がる。
父親は目を閉じた。
「シバ」
「やって!」
キランは彼女を指差す。
「宿題」
「構いません!」
「追加の宿題」
「それでもいい!」
バロンが感心したように見る。
「すごい覚悟だな」
「褒めないでください」
シバはバロンへ向く。
「先生とレースしてください!」
次にキラン。
「先生もバロンとレースしてください!」
「僕にそんな義務はないよ!」
「これは重要なんです!」
父親がため息をつく。
「この子にとって、バロンが関わることは何でも重要なんです」
「その通り!」
ミカイラがテーブルへ寄りかかる。
「どう思う、ホットロッド?」
キランは彼女を見る。
「僕を助ける側でしょ」
「助けてるわよ」
「そうは感じないんだけど」
彼女は笑う。
「知りたいんでしょう?」
キランは眉をひそめる。
「何を?」
「自分にできるかどうか」
キランは口を開く。
そして閉じる。
くそ。
バロンが気づいた。
「ほらな」
キランは彼を見る。
「何が?」
「その顔だ」
「どんな顔です?」
「レーサーが馬鹿なことに同意する直前の顔」
「僕はレーサーじゃありません」
バロンが笑う。
「証明してみろ」
キランは彼を見つめた。
卑怯だ。
実に卑怯だ。
マッハがようやく口を開いた。
「キラン」
「嫌だ」
「MACH-01Aとヴェロシティの予備比較を完了しました」
全員が下を見る。
キランはマッハを凝視した。
「やるなって言っただろ」
「所要時間を質問されました」
「やれとは言ってない!」
「興味を示されました」
「マッハ」
「結果を聞きますか?」
「嫌だ」
沈黙。
キランが耐えられたのは三秒だった。
「……どのくらい不利?」
ミカイラが吹き出す。
シバが指差す。
「やっぱり!」
キランは無視した。
マッハが答える。
「標準的なVRFサーキットでは、コーナリング効率、レース最適化、エネルギー管理においてヴェロシティが大幅に優位です」
バロンはこれ以上ないほど満足そうだった。
「しかし——」
その笑みが少し薄れる。
マッハが続ける。
「MACH-01Aは三次元機動能力で優れています」
バロンの眉が上がる。
「さらに、通常のVRFレーシングラインは、競技者が規定された高度範囲内を走行することを前提としています」
キランは理解し始めた。
バロンも。
ヴェロシティが言う。
「キランはその前提に従いません」
マッハのインジケーターが明るくなる。
「はい」
キランはバロンを見る。
バロンもキランを見る。
二人の顔にゆっくり笑みが浮かんだ。
シバが気づく。
「うそ……」
キランは首を振る。
「嫌だよ」
だが笑っていた。
ミカイラは腕を組む。
「説得力のない断り方ね」
「それでも嫌だ」
バロンが立ち上がる。
「明日だ」
キランは瞬きをする。
「何?」
「プライベート練習コース。午前十時」
「同意してません!」
「マッハを連れてこい」
「バロン!」
「シバ先生に審判を頼もう」
シバが、人間には出せないはずの音を発した。
父親が顔をしかめる。
バロンは歩き始めた。
キランは背中へ叫ぶ。
「僕、やるなんて言ってませんよ!」
バロンは振り返らず、片手を上げた。
ヴェロシティが後に続く。
シバがゆっくりキランへ向き直る。
目が巨大になっている。
「十時」
「嫌だ」
「午前」
「嫌だ」
「プライベートコース」
「嫌だ」
「バロン・テニモスと」
「嫌だ」
「ヴェロシティと」
「嫌だ」
彼女が身を乗り出す。
「私も行っていいですか?」
キランは彼女を見つめた。
「駄目」
シバの表情が崩れ落ちる。
キランが耐えられたのは二秒だった。
「……お父さんに聞いて」
シバが椅子から飛び上がる。
「やったあああ!」
キランは目を閉じた。
ミカイラが頬へキスする。
「楽しんでね、ホットロッド」
「行かないから」
「もちろん」
「本気だよ」
「ええ、分かってる」
キランは下を見る。
「マッハ」
「はい?」
「明日はレースしないからね」
「了解しました」
一拍。
「加速プロファイルの最適化を開始しましょうか?」
キランは正面を見つめた。
もう一拍。
「……仮に、だよ」
「もちろんです」
「仮に、ね」
「当然です」
「あと、ヴェロシティのコーナリングデータも調べて」
「すでに実行中です」
キランはため息をついた。
部屋の向こうでは、シバが父親に向かって、明日が人生で最も重要な日になるかもしれないと説明していた。
またしても。
キランはテレビを見る。
リプレイが戻ってきた。
MACH-01AがVARKの上を飛ぶ。
その下でヴェロシティが加速。
画面に再び文字が現れる。
キリアン・シャッフル
キランは顔をしかめた。
「この名前だけは何とかしないと」
マッハは少し考えた。
「明日、別の名前に変えられるかもしれません」
キランは下を見る。
「何に?」
マッハのインジケーターが光る。
「勝利です」
キランは彼を見つめた。
そして、ゆっくり笑った。
「今度はどっちが悪い判断を勧めてるの?」
「パイロットから学びました」




