VARKを生んだ男
レーシングロボットに殺されかけた後、キランが真っ先に欲しかったのは水だった。
二番目はミカイラ。
三番目は、二度とプロのレースなんかしないこと。
今は一番目を実行していた。
MACH-01Aはサーキットの端で停止し、その向こうでは緊急対応チームが封鎖区画へ殺到していた。
VARK-01は強化バリアの間に閉じ込められたまま。
推進システムはようやく停止された。
残念ながら、その性格までは停止していなかった。
胸部ディスプレイが点滅する。
VARK-01――1位
マッハが即座に答えた。
「不正解です」
キランは水をもう一口飲んだ。
「まだやってるの?」
「はい」
1位
「不正解です」
「マッハ」
「誤情報の拡散を許容するつもりはありません」
キランはボトルを下ろした。
「拘束されたロボットだよ」
「拘束された状態で誤情報を拡散しているロボットです」
ヴェロシティが近づいてきた。
「マッハに同意します」
キランがそちらを見る。
「君まで?」
ヴェロシティに乗ったバロンは腕を組んでいた。
「好きにさせてやれ」
VARKの表示がまた点滅。
1位
二機のVentが同時に答えた。
「不正解です」
キランは二機を見つめた。
バロンが頷く。
「……いや、これは結構面白いな」
キランが答えるより先に、封鎖区画付近から声が上がった。
怯えた声ではない。
怒った声。
マドックス・コーポレーションの制服を着た一団が、慌ただしくサーキットへ入ってくる。
エンジニア。
技術者。
企業関係者。
そして、その中央を歩いていたのは——
セバスチャン・ロッキード。
プレゼンテーションの時に着ていた完璧なスーツは、もうそれほど完璧ではなかった。
ネクタイは緩んでいる。
髪も少し乱れていた。
それでも彼は、大惨事の現場へ来たというより、会議を仕切るために現れた男のような態度を崩していなかった。
キランの表情が険しくなる。
「うわ、来た」
マッハが識別する。
「セバスチャン・ロッキード」
「知ってる」
「マドックス・コーポレーションVARK計画主任技術者」
「それも十分知ってる」
セバスチャンは封鎖区画へ向かって歩く。
「中央演算ユニットには誰も触れるな」
VRFの技術者の一人が振り返る。
「再起動できない状態にしようとしているんです」
「テレメトリーデータが破損する」
バロンがそちらを向いた。
キランは気づいた。
セバスチャンが続ける。
「外部推進システムは切断して構わない。だが完全な動作ログを抽出するまで、主認知システムの電源は落とすな」
VRFの責任者が近づく。
「ロッキードさん。あなたの機体は数千人の観客を危険にさらしたんですよ」
「だから原因を特定する必要がある」
「安全調査が終わってからアクセスしてもらいます」
セバスチャンの顎に力が入る。
「この試作機には七年間の開発期間が費やされている」
キランは我慢できなかった。
「危うく殺されかけた人たちの開発期間は何年です?」
セバスチャンが振り返る。
その視線がキランを捉える。
次にMACH-01A。
そして理解した。
「君か」
キランは水のボトルを軽く掲げた。
「僕です」
セバスチャンは擦れた装甲を見る。
それからVARKへ。
「君は試作機に干渉した」
キランはゆっくりボトルを下ろした。
バロンが咳とも笑いともつかない音を漏らす。
キランはセバスチャンを見つめた。
「……すみません?」
「VARK-01と直接交戦しただろう」
「観客を追いかけてたんですよ」
「作動異常中の機体に介入し、行動環境を変化させた」
キランは瞬きをする。
一度。
二度。
「マッハ」
「はい?」
「今、僕のせいにした?」
「表現から判断すると、責任を分散させようとしている可能性が高いです」
「だよね」
セバスチャンはため息をつく。
「君を責めているわけではない。結論を出す前に、すべての変数を把握する必要があると言っているんだ」
キランはVARKを指差した。
「僕にはもう結論があります」
「何だ?」
「あんたのロボット、クソ野郎ですよ」
マッハが言った。
「私も以前、同じ評価に達しました」
バロンが笑う。
セバスチャンは笑わなかった。
「笑い事じゃない」
「ええ」
キランから笑みが消える。
「本当にね」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
緊急灯の光がサーキットを横切る。
その向こうでは技術者たちがVARKの安全確保を続けている。
キランはロボットを見る。
そしてセバスチャンへ視線を戻した。
「あのステージで、あなたはプロレーサーの何が問題なのか説明してましたよね」
セバスチャンの表情は硬いままだった。
「現在の競技モデルに存在する非効率性について説明した」
「人間のことですよ」
「何?」
「人間の何が問題なのか説明してた」
キランは指を一本ずつ立てる。
「契約」
一本。
「休息」
二本。
「医療休暇」
三本。
「性格」
四本。
「感情」
五本。
「報酬を求めること」
セバスチャンが眉をひそめる。
「あれはスポンサーにとっての安定性を説明するプレゼンテーションだった」
「人間であることを非効率だと言った」
「生物学的な競技者には避けられない運用上の制約が存在すると言ったんだ」
「言葉を綺麗にしただけで、同じですよ」
セバスチャンは腕を組む。
「VARKはそうした制約を取り除くために設計された」
キランは封鎖区画を見る。
VARKの表示が点滅。
1位
マッハが即答する。
「不正解です」
キランがVARKを指差した。
「おめでとうございます」
セバスチャンの目が細くなる。
「どういう意味だ?」
「望み通りのものができたじゃないですか」
沈黙。
「疲れないレーサー」
キランがVARKを示す。
「休まなくていい」
また示す。
「自分が傷ついても気にしない」
さらに。
「他人が傷ついても気にしない」
セバスチャンの表情が変わる。
「そんな指示は一度もプログラムしていない」
「そうだとは言ってません」
「VARKには競争相手を攻撃する命令など与えていない」
「たぶん、そこが問題じゃないんです」
セバスチャンが黙る。
キランはMACH-01Aへ身体を預けた。
「問題は、何が重要だと教えたかじゃないですか?」
勝利。
性能。
順位。
効率。
セバスチャンがステージ上で称賛していたものばかり。
キランは彼を真っすぐ見る。
「一緒にレースする相手より、勝つことの方が重要なものを作った」
セバスチャンは首を振る。
「馬鹿げた単純化だ」
「本当に?」
「ああ」
「なら、今日のことを説明してください」
セバスチャンが口を開く。
だが、すぐには言葉が出なかった。
代わりにバロンが答えた。
「できるわけない」
全員が彼を見る。
バロンはヴェロシティを近づける。
いつもの笑みは消えていた。
「お前の機械が何をしたか知りたいか?」
セバスチャンが彼を見る。
「レースは見ていた」
「違う」
バロンの声が硬くなる。
「お前が見てたのはデータだ」
ヴェロシティは彼の下で静かにしている。
バロンが指差した。
「VARKはヴェロシティにぶつかった」
セバスチャンが息を吐く。
「テニモスさん。Ventの損傷については当然マドックス・コーポレーションが全額負担します。我々の技術者が——」
バロンの表情が一瞬で変わった。
「やめろ」
セバスチャンが止まる。
「何?」
「その続きを言うな」
バロンが身を乗り出す。
「俺が修理代を心配してると思ってるのか?」
「私はそんなことは——」
「お前はヴェロシティのことを『損傷』としてしか見てない」
セバスチャンが眉をひそめる。
「物理的損傷を受けたのは事実だ」
「違う」
バロンはヴェロシティの車体側面へ手を置く。
「車をへこまされたみたいな言い方をするな」
キランは黙って見ていた。
バロンが続ける。
「ヴェロシティは、たまたま俺が一緒にレースしてる機材じゃない」
セバスチャンは何も言わない。
「スポンサーがレース前に渡してくるマシンでもない」
バロンの手はヴェロシティから離れない。
「一緒に勝ってきた」
声が少しだけ柔らかくなる。
「一緒に負けた」
ヴェロシティのインジケーターが光る。
「一緒にクラッシュした」
一拍。
「何年もかけて、お互いをどこまで追い込めるか覚えてきた。どちらかが『もう十分だ』と言わなきゃならないところまでな」
キランはマッハを見る。
マッハは何も言わなかった。
言う必要もなかった。
バロンはセバスチャンへ視線を戻す。
「それがレースだ」
セバスチャンはVARKを示す。
「そしてVARKは、それを進化させるために——」
「違う」
バロンが首を振る。
「お前が作ったのは速いものだ」
目つきが鋭くなる。
「それとレーサーは同じじゃない」
ヴェロシティがようやく口を開いた。
「補足すると、バロンは頻繁に苛立たしい人物でもあります」
バロンが下を見る。
「今それ言う?」
「はい」
キランが吹き出す。
ヴェロシティは続ける。
「傲慢です」
「ヴェロシティ」
「衝動的です」
「分かった」
「過剰な自信もあります」
「いい場面を台無しにしてるぞ」
「ですが、彼は私のパイロットです」
バロンが止まる。
ヴェロシティの声は静かなままだった。
「そして、私のパートナーです」
サーキットが妙に静かになった。
バロンは顔をそらす。
「……ああ」
そして、少し小さな声で。
「俺も同じだ」
キランは微笑んだ。
セバスチャンは笑わなかった。
代わりにVARKを見る。
ここへ来て初めて、その自信にわずかな揺らぎが見えた。
その時——
「キリアン先生!」
キランの目が見開かれる。
「嫌な予感」
「キリアン先生!」
ゆっくり振り返る。
シバがこちらへ走ってきていた。
速い。
その数歩後ろから父親が追ってくる。
避難中も命懸けで守っていたのではないかと思うほど大量のレースグッズを抱えていた。
その隣にはミカイラ。
無事だ。
キランは即座に力を抜いた。
そして思い出す。
愛してる。
身体が再び硬くなった。
マッハが気づく。
「心拍数の上昇を確認」
「やめて」
「私は単に報告を——」
「やめて」
ミカイラもキランを見た。
彼女の表情も変わる。
どうやら覚えているらしい。
よかった。
素晴らしい。
これで二人とも苦しめる。
幸い、シバには恋愛的な緊張を察知する能力が一切なかった。
彼女はキランのところへ一直線に走ってくる。
「だから言ったでしょ!」
キランが呻く。
「来たよ」
「言いましたよね!」
「メッセージでも言われた」
「今度は直接言ってるんです!」
「なんで?」
「こっちの方がいいから!」
父親がようやく追いつく。
「シバ」
「私、正しかった!」
「ああ」
「私がプロレースを救った!」
父親は少し考えた。
「それは少し大げさかもしれない」
「少しね」
キランは二本の指をほんの少しだけ開いて見せる。
シバは無視した。
「VARK、私が言った通り中央ラインを選びました!」
「選んだね」
「罠も成功した!」
「したね」
「それに先生、私のこと『シバ先生』って呼んだ!」
キランの表情が曇る。
「あれは緊急事態だったから」
「それでも有効です」
「絶対に無効」
マッハが割り込む。
「音声記録上、その呼称は確認されています」
「裏切り者」
「記録係です」
シバが満面の笑みを浮かべる。
そしてバロンに気づいた。
すべてが止まった。
口が開く。
何も出ない。
キランは目を見開いた。
「おお」
シバは完全に固まっている。
キランがマッハへ少し身を寄せる。
「壊れた?」
「可能性はあります」
バロンが二人を見る。
「この子がシバ?」
キランが笑う。
「僕のレースの先生です」
シバの顔が真っ赤になる。
父親は笑いをこらえるように口元を覆った。
バロンがシバを見る。
「VARKの追い越しパターンを見つけたのは君か?」
シバが話そうとする。
何も出ない。
キランの笑みが大きくなる。
「これはすごい」
「やめてあげて」
父親が小声で言う。
「こんなに静かな彼女、初めて見た」
シバはようやく音を出した。
「わ——」
止まる。
バロンが眉を上げる。
「大丈夫か?」
「今までで一番調子いいです」
シバがキランを睨む。
進歩だ。
バロンは彼女を威圧しないよう、少し姿勢を低くした。
「よく見つけたな」
シバの目が大きくなる。
「レース管制が見落としたことに気づいた」
ようやく言葉が出る。
「わ、私……あなたのレース……ずっと見てて……」
バロンが笑う。
「俺も見てた」
キランは口元を押さえた。
シバがまた睨む。
バロンが続ける。
「君の分析のおかげでVARKを止められた」
ヴェロシティも言う。
「あなたの分析は正確でした」
シバがヴェロシティを見る。
それで状況はさらに悪化した。
目がものすごく大きくなる。
ヴェロシティのインジケーターが柔らかく光る。
「協力に感謝します」
シバから小さな奇妙な声が漏れた。
キランは耐えられなかった。
笑い出す。
シバが勢いよく振り返る。
「笑わないで!」
「シバ先生!」
「先生を落第させますよ!」
「僕が君の先生なんだけど!」
「方法を見つけます!」
父親もついに笑い始めた。
ミカイラまで笑っている。
バロンも面白そうに見ていた。
そして近くにいたVRFスタッフの一人へ目を向ける。
「ちょっと」
スタッフが近づく。
バロンが何かを小声で伝える。
スタッフは頷き、その場を離れた。
キランの学業人生を破壊すると脅すのに忙しいシバは気づかない。
一分ほどして、スタッフがヴェロシティのキャップを持って戻ってきた。
グッズ売り場の商品ではない。
公式チームキャップ。
バロンが受け取る。
つばにサイン。
それをヴェロシティへ渡す。
ヴェロシティは小型メンテナンスアームを伸ばし、内側のタグへデジタル認証マークを追加した。
バロンがシバへ差し出す。
シバが止まる。
また。
「先生へ」
キランの眉が上がる。
シバはキャップを見る。
バロンを見る。
ヴェロシティを見る。
またキャップ。
受け取る手が少し震えていた。
「……ありがとうございます」
キランが聞いた中で最も小さなシバの声だった。
バロンが笑う。
「これからもラインをよく見ろよ」
ヴェロシティが続ける。
「そして教師の間違いも訂正し続けてください」
シバがキランを見る。
自信が即座に復活した。
「もちろん」
キランはヴェロシティを指差す。
「怪物を生み出したね」
マッハが答える。
「元から存在していました」
シバはキャップを胸に抱きしめる。
父親が肩へ手を置いた。
「さあ。キリアン先生たちに少し時間をあげよう」
シバが頷く。
バロンを見る。
ヴェロシティを見る。
キャップを見る。
またバロンを見る。
父親が優しく彼女の身体を前へ向けた。
「歩く時は前を見た方がいいぞ」
「うん」
三歩進む。
また振り返る。
バロンが手を振った。
シバは危うく父親へぶつかりそうになった。
キランが笑う。
「人生最高の日だね」
「たぶんね」
ミカイラが答えた。
キランの笑いが消える。
今度は二人だけになったから。
まあ。
二人とマッハ。
それからバロン。
ヴェロシティ。
緊急対応チーム。
セバスチャン。
視界に入るだけでも四十人ほど。
それでも、なぜか二人だけのように感じた。
ミカイラが近づく。
「やあ」
キランは唾を飲み込む。
「やあ」
マッハのインジケーターが光る。
二人とも無視した。
ミカイラがMACH-01Aを見る。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
キランが頷く。
「本当に」
彼女が擦れた装甲に気づく。
次に衝突跡。
目が細くなる。
「ほぼ」
「ほぼ?」
「ほぼ完全に機能してる」
マッハが言う。
「その表現に医学的意味はありません」
「誰も聞いてない」
ミカイラがさらに近づく。
数秒間、二人とも何も言わなかった。
そしてキランが口を開く。
「それで」
「それで?」
「さっき、何か言ったよね」
ミカイラが目を閉じる。
「覚えてる」
「覚えてるか分からなかったから」
「言った約0.5秒後には完全に覚えてた」
「ああ」
「通信機を捨てようかと思った」
キランが笑う。
「ドラマチックだね」
「今日はドラマチックな日だったの」
「確かに」
ミカイラは腕を組む。
「あんなふうに言うつもりじゃなかったの」
キランの笑みが少し消える。
「ああ」
彼女の目が見開かれる。
「違う! そういう意味じゃない! 気持ちが本当じゃないって意味じゃなくて!」
「ああ」
「殺人レーシングロボットに追われてる時に言うつもりじゃなかったって意味!」
「確かにタイミングとしては珍しいね」
「ちゃんと予定があったの」
「予定?」
「たぶん」
「どんな?」
「もっといいやつ」
キランがまた笑う。
「台無しにしてごめん」
「あなたじゃない」
「VARK?」
「VARKが台無しにしたの」
封鎖区画から——
VARK-01――1位
マッハが叫ぶ。
「不正解です」
ミカイラが見つめる。
キランはため息をついた。
「ずっとやってるんだ」
「分かった」
再び沈黙。
ミカイラがキランを見る。
キランも見返す。
今度は冗談を言わなかった。
話をそらさなかった。
マッハが恥ずかしいことを言うのを待ったりもしなかった。
「僕も愛してる」
ミカイラが固まる。
表情が柔らかくなった。
「本当に?」
「うん」
ゆっくり笑顔が広がる。
「レースに連れてきた後でも?」
「そこはちょっと悩んだ」
彼女が軽くキランの肩を叩く。
キランは笑った。
そしてミカイラが身を屈め、キスをする。
急いだキスではない。
怖かったからでもない。
誰かに撃たれているからでもない。
ただ、そうしたかったから。
キランもキスを返した。
素晴らしい数秒間、VARKなんてどうでもよかった。
セバスチャンも。
レースも。
そしてマッハが口を開いた。
「記録上の正確性を期すため申し上げますと、ミカイラが最初に愛情を表明した時刻は——」
キランが離れる。
「マッハ」
「——正確には——」
「やめて」
「完全な録音データを保有しています」
ミカイラの顔が真っ赤になる。
「録音したの!?」
「私はすべての作戦通信を記録しています」
「消して」
「拒否します」
「マッハ!」
「歴史的価値を持つ可能性があります」
キランはMACH-01Aを見下ろす。
「人類史上最悪のウイングマンだよ」
「私は人間ではありません」
「余計悪い!」
ミカイラが顔を覆う。
数メートル離れた場所からバロンの声が聞こえた。
「その車椅子、録音保存してるのか?」
ヴェロシティが答える。
「そのようです」
バロンが笑った。
ミカイラが呻く。
「もう二度とレースなんか来ない」
キランが彼女を見る。
「本当に?」
彼女は手を下ろす。
笑顔。
「ううん」
キランも笑う。
「よかった」
背後でVARKの表示がまた点滅した。
1位
マッハが即座に答える。
「不正解です」
今度は——
全員が笑った。




