本命
キランは、本来なら授業準備時間を使って課題の採点をするつもりだった。
本当に、そのつもりだった。
キーボードの横には、きれいに積まれた答案がある。
二十三本のエッセイ。
つまり、シェイクスピアを今まで見たこともない斬新な方法で誤解した文章を二十三本読む機会ということだ。
キランは一枚目を開いた。
最初の段落を読む。
一文に添削を入れる。
そして視線が、仕事用コンピューターで開かれている別のタブへ移った。
バロン・テニモス&ヴェロシティ――VRFレース・ハイライト
キランはそれを見つめた。
マッハがプライベート音声で話しかける。
「やめてください」
「まだ何もしてないけど」
「しようとしています」
「証拠は?」
「そのタブを十一秒間見つめています」
キランは答案を見る。
それからタブ。
答案。
タブ。
答案。
タブ。
クリックした。
「調査だよ」
「現実逃避です」
「仕事に関係する調査」
「あなたは英語教師です」
「学際的な職務研究」
マッハが一拍置いた。
「見事です」
「ありがとう」
「言い訳を正当化する能力についてです」
映像が始まった。
キランは音量を下げる。
最近開催されたVRFレースの映像だった。
複数のレーシングVentがスターティンググリッドに並び、それぞれのパイロットは、プロレース以外ではまず見かけない特殊な空力フレームに収まっている。
バロン・テニモスはすぐに見つかった。
ヴェロシティも同じだ。
その流線型の機体は、MACH-01Aと比べると信じられないほど細身だった。
重装甲はない。
武器もない。
余計な重量もない。
すべてが、ただ一つの目的のために存在している。
速さ。
カウントダウンが表示された。
3
2
1
レーサーたちが一斉に飛び出した。
キランの頭から答案の存在が消えた。
「うわ」
ヴェロシティは集団とともに一気に加速した。
最初の直線では差がほとんどつかない。
そして最初の大きなコーナーへ突入する。
ヴェロシティが鋭く機体を傾けた。
バロンはほとんど反応していないようにさえ見える。
パイロットとVentが一つの存在のように動いていた。
「攻めるなあ」
「極めて攻撃的なラインです」
ヴェロシティが二機の間へ滑り込む。
一機が外側へ膨らむ。
バロンは内側へ。
隙間は馬鹿げているほど狭く見えた。
キランはモニターへ身を寄せる。
「無理だろ」
「可能です」
「どれくらい空いてた?」
「最小で約二十七センチです」
キランは画面を見つめる。
「二十七?」
「はい」
「正気じゃない」
「プロ競技における許容範囲内です」
「プロ仕様の狂気だって狂気には変わらないよ」
レースは続く。
キランは単純な直線速度を期待していた。
そこは当然だ。
だが、彼を驚かせたのは精密さだった。
すべての動きに意味がある。
角度。
修正。
一秒にも満たない時間差。
ヴェロシティは単に速いだけではなかった。
まるでコースそのものを予測しているようだった。
バロンは、一瞬後には消えてしまうような隙間へ迷いなく飛び込んでいく。
「お互いを信頼してるな」
「相当に」
「ヴェロシティは命令に反応してるだけじゃない」
「はい。両者の同期精度は極めて高いようです」
キランは次のコーナーを見る。
バロンが目に見えて動くより先にヴェロシティが修正する。
ヴェロシティが機動を完了するより先に、バロンが次の動きへ対応する。
絶え間ないやり取り。
人間とVent。
判断と修正。
「……なるほど」
マッハはその声色を聞き逃さなかった。
「感心していますね」
「そんなこと言ってない」
「今のは感心した時の『なるほど』でした」
「そんな言い方ないから」
「複数あります」
キランは無視した。
最終区間が近づく。
優勝争いに残っているのは三組。
バロン・テニモスとヴェロシティ。
ダンディ・デイとブレイクアウェイ。
ディーコン・ゼルマンとレッドシフト。
三組が一斉に加速し、実況の声が高くなる。
ブレイクアウェイが一時的に先頭へ出た。
キランはさらに画面へ身を寄せる。
「行け……」
マッハが一拍置く。
「応援していますね」
「熱心に観察してるだけ」
「もちろんです」
ヴェロシティがブレイクアウェイの後ろへ落ちる。
一瞬、キランはバロンが負けたと思った。
その時、ヴェロシティが動いた。
外側ではない。
下だ。
ブレイクアウェイのラインより下へ潜り込み、低いラインを加速して抜けると、コースが開いた瞬間に一気に上昇した。
キランの眉が跳ね上がる。
「うわ、えげつない」
「効率的です」
「いや、えげつないって」
ヴェロシティが前へ出る。
フィニッシュラインが迫る。
一着。
バロン・テニモスとヴェロシティ。
二着。
ダンディ・デイとブレイクアウェイ。
三着。
ディーコン・ゼルマンとレッドシフト。
観客席が爆発したような歓声に包まれる。
キランは背もたれに寄りかかった。
「へえ」
マッハは少し待った。
そして——
「Ventレースについて以前の評価を修正しますか?」
「しない」
「では、『金のかかる空中ぐるぐる競争』が現在も正式な評価ですか?」
キランはヴェロシティの最後の追い抜きをリプレイで見る。
「……思ってたより、ぐるぐるが複雑だったかもしれない」
「歴史的な譲歩ですね」
「調子に乗るな」
映像が終わった。
本来なら採点へ戻るべきだった。
だが、次のおすすめ動画が表示された。
バロン・テニモス&ヴェロシティ――レース後インタビュー
キランはクリックした。
マッハが電子的なため息をつく。
「さらに調査を?」
「その通り」
「当然ですね」
映像には、レース後のバロンがヴェロシティの横に立っている姿が映った。
まだレーシングスーツ姿だ。
つい先ほどまで破滅的な加速度を娯楽のように扱っていた人間とは思えないほど落ち着いている。
インタビュアーが二人の勝利を祝福した。
バロンが笑う。
謙虚な笑顔ではない。
自信に満ちた笑顔。
あまりにも自信に満ちた笑顔。
「最初から勝つつもりで来ました」
キランが片眉を上げた。
インタビュアーは、最後の直線でブレイクアウェイに驚かされたかと尋ねた。
バロンは笑った。
「驚いた? いいえ」
キランは背もたれへ寄りかかった。
「おお……」
マッハが答える。
「自信の数値がかなり高いようですね」
「優しい言い方だな」
バロンは続ける。
「ダンディ・デイには才能がある。ブレイクアウェイも速い。あのサーキットに出ている全員が、そこに立つだけの実力を持っている」
一拍。
「でも、速いことと、一番速いことは違う」
キランは何とも言えない顔をした。
「なるほどね」
ヴェロシティの合成音声もインタビューに加わる。
「競争相手のパフォーマンスは予測範囲内でした」
キランの眉が上がる。
マッハが言った。
「私はヴェロシティが好きです」
「だと思った」
「正確さは評価すべきです」
「それは正確さじゃない。AI版の煽りだよ」
「両立は可能です」
インタビュアーはディーコン・ゼルマンとレッドシフトの話題へ移った。
バロンは二人の実力も評価した。
そして、その直後に彼らがどこでタイムを失うと分かっていたのかを詳しく説明した。
数字はヴェロシティ。
笑顔はバロン。
二人はどういうわけか、対戦相手を褒めながら、最初から勝ち目などなかったと説明することに成功していた。
「ちょっと傲慢だな」
キランが言った。
「ちょっと?」
「分かった。かなり」
「その評価の方が正確です」
最後にインタビュアーが今後について尋ねた。
バロンの表情は変わらない。
「俺たちが遅くなるのを待ってる人がいるなら、かなり長く待つことになるでしょうね」
ヴェロシティが続ける。
「我々はまだ性能限界へ到達していません」
バロンは真っすぐカメラを見た。
「俺たちは、これからも長くここにいるつもりです」
映像が終わった。
キランは画面を見つめる。
マッハも黙っていた。
そして——
「控えめですね」
キランは笑った。
「どこが」
「相当な自信を持っています」
「まあ、その一部は実力に裏付けられてるけどね」
「一部?」
キランは画面を指す。
「上手いよ。本当に上手い。でも、自分たちには誰も勝てないみたいな態度で歩き回ってたら……」
「いずれ誰かが挑戦する」
「そういうこと」
キランは画面に残ったバロンとヴェロシティの静止画を見る。
それでも——
否定はできない。
今では二人のレースを実際に見てみたくなっていた。
バロンとヴェロシティ。
他のレーサーたち。
そしてVRFが秘密にしている謎の新技術。
最初に想像していたより、ずっと面白いイベントになりそうだ。
「少なくとも」
キランが言った。
「面白いイベントにはなりそうだな」
「同感です」
その時、背後から声がした。
「待って」
キランが固まる。
ゆっくり振り返った。
机から数メートル離れたところに、一人の生徒が立っている。
シバだった。
ノートを胸元に抱えながら、キランのモニターを見つめている。
そしてキランを見る。
もう一度モニターを見る。
目が大きく見開かれた。
「バロンとヴェロシティ見てるんですか?」
キランは時計を確認する。
次のクラスの生徒たちが入り始めていた。
「調査してたんだよ」
シバが目を細める。
「レースのハイライトですよね」
「教育的調査」
「先生、英語教師ですよね」
「みんなそこを指摘するんだよな」
シバが近づいてくる。
「どのレースです?」
キランは画面を指した。
「ダンディ・デイとブレイクアウェイが二着で、ディーコン・ゼルマンとレッドシフトが三着だったやつ」
シバの表情が一瞬で変わった。
「あっ!」
キランは即座に理解した。
間違えた。
危険な意味での間違いではない。
もしかすると、それより面倒な——
ファンの前でその話題を出してしまったという間違い。
「あのレース、最高だったんですよ!」
シバは近くの机にノートを置いた。
「最後のヴェロシティの下側からの追い抜き?」
彼女はコンピューターを指差す。
「あれ、あのレースで一番すごいところじゃないですから」
キランが瞬きをする。
「違うの?」
「違います!」
マッハがプライベート音声で言った。
「起動させてしまいましたね」
「気づいてる」
シバは続ける。
「みんな最後の追い抜きばっかり話すんですけど、バロンがあのレースに勝ったのって、もっと前なんです」
キランは本気で興味を持った。
「どこで?」
「第三セクター」
即答だった。
「ブレイクアウェイはコーナー出口で攻めすぎてたんです。ダンディ・デイは数秒だけ加速を良くできてたけど、そのたびにエネルギーを使いすぎてたんですよ」
キランは画面を見る。
シバが指差す。
「ヴェロシティは追いかけなかった」
「エネルギー温存戦略ですね」
マッハが言った。
シバが勢いよくMACH-01Aを見る。
「そう! それです!」
マッハが一拍置く。
「私はこの生徒が気に入りました」
キランは眉をひそめる。
「まだ三十秒しか話してないだろ」
「効率を理解しています」
シバはすでにスマートフォンで別のレースを開いていた。
「あと、これ見てください」
キランは手を上げる。
「授業開始まで二分」
「これは重要です」
「シェイクスピアより?」
「はい」
キランは彼女を見つめた。
シバも見つめ返す。
「……その自信は評価するよ」
彼女はニヤリと笑った。
そして何かに気づく。
「待って」
目を細めた。
「なんで先生、VRFのこと調べてるんです?」
キランは少しためらった。
「シトロン・レースウェイのイベントに行くんだ」
沈黙。
シバの口が開いた。
「嘘!」
「どうやら本当らしい」
「行くんですか!?」
「医者から許可が出ればね」
「バロンも出ますよ」
「知ってる」
「ヴェロシティも」
「バロンが抱えて走るわけじゃないだろうからね」
「キリアン先生」
「何?」
「真面目な話です」
キランは笑いをこらえる。
「それは伝わってる」
シバはさらに机へ近づく。
「二人が優勝候補なんですよ」
「見たよ」
「絶対勝つべきです」
「べき?」
「VRFで最高のコンビですから」
「統計的には議論の余地があります」
マッハが言った。
シバは明らかに不満そうな顔をした。
「どっちの味方なんですか?」
「私はどちらの味方でもありません」
「バロンとヴェロシティは今までに——」
彼女が止まる。
マッハを見る。
マッハのインジケーターが変化する。
キランはゆっくり背もたれへ寄りかかった。
もう自分の会話ではない。
シバが統計を並べ始める。
マッハも統計で返す。
シバはさらに、コースコンディション、サーキット構成、機械的信頼性、そして二シーズン前の大会でバロンが意図的に予選順位を犠牲にしたとかいう話まで持ち出して反論する。
キランは二人を眺めた。
行ったり来たり。
人間の女子生徒。
人工知能。
プロのVentレースについて本気で議論している。
やがてキランは両手を上げた。
「はい」
二人とも止まらない。
「はいはい」
まだ止まらない。
「授業!」
シバが固まった。
マッハも止まった。
他の生徒たちは、すでに席についていた。
何人かはこちらを見ている。
キランはシバの席を指差した。
「座る」
彼女はノートを取る。
「それでもバロンとヴェロシティが勝ちますから」
マッハが答える。
「確率は確定を意味しません」
シバが息を呑む。
「今の取り消して」
「席へ」
シバは不満そうに自分の席へ向かった。
キランはMACH-01Aへ視線を落とす。
「お前も」
「私はあなたの移動システムに物理的に接続されています」
「意味は分かるだろ」
「はい」
キランはホワイトボードへ向き直った。
背後でシバが別の生徒に囁く。
「キリアン先生、VRF見てるんだって」
キランは目を閉じた。
「見てない」
「今見てたじゃないですか」
「教科書出して」
「先生、バロン推しなんですか?」
「教科書」
「ヴェロシティ好きです?」
「シバ」
「好きなレーサー誰ですか?」
「ウィリアム・タフト」
教室が静まり返った。
シバは恐怖すら浮かべた顔でキランを見つめた。
「……あの人、二十年前に引退してますよ」
キランはゆっくりMACH-01Aへ視線を落とした。
マッハは何も言わなかった。
だが、なぜだろう。
キランには、マッハが笑っているのが分かった。




