↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
173/228

レースのチケット

シトロン・アカデミーへ向かう朝の道は、珍しく何事もなかった。

キランは、まだその感覚に慣れていなかった。

爆発なし。

警報なし。

屋上から降ってくるアンドロイドなし。

怪しいバンなし。

誰かが誘拐されようとしていると知らせる匿名メッセージもなし。

あるのは交通だけ。

美しいほど退屈な、ただの交通。

MACH-01Aは歩道をゆったりと進み、推進システムからは静かな機械音だけが聞こえていた。

レイモンドはその隣を歩いている。

キランは空を見上げた。

何もない。

道路を見る。

何もない。

後ろを振り返る。

やはり何もない。

レイモンドが気づいた。

「さっきからずっとやってるな」

「何を?」

「誰かがゴミ箱から飛び出してくるんじゃないかって顔で周りを見るの」

「景色を楽しんでるだけ」

「暗殺者がいないか確認してるだろ」

「両方同時にできるよ」

マッハが外部スピーカーから口を挟んだ。

「自宅を出てから、キランは不要な周辺確認を十七回行っています」

キランは眉をひそめる。

「なんで数えてるの?」

「十七回ともなると、行動パターンと判断すべきかと思いまして」

レイモンドが笑った。

「お前、趣味でも見つけろよ」

「趣味ならある」

「撃たれることは趣味に入らないぞ」

「あれは二回だけ」

「それ、お前の主張を余計に悪くしてるからな」

キランはため息をついた。

「僕は仕事に行く。それだけ。普通だろ」

「実に普通だ」

「シェイクスピアを教える」

「悲劇だな」

「そして誰も僕を殺そうとしてない」

マッハが答える。

「現時点では」

キランはMACH-01Aへ視線を落とした。

「そういうのやめてくれる?」

「正確性は重要です」

二人と一機はそのまま進んだ。

キランがシトロン・アカデミーへ復帰してから、日常の流れがようやく自然に感じられるようになってきていた。

肺炎が完全に治ったわけではない。

その点については、ドクター・ラクソンから何度も念を押されていた。

キランの状態は改善している。

酸素レベルも良くなった。

咳も減った。

体力も戻りつつある。

それでも、まだ制限は残っていた。

戦闘禁止。

マッハ速度禁止。

高出力飛行禁止。

激しい運動禁止。

MACH-01Aの刺激的な機能は、相変わらずしっかりロックされたままだった。

ギアに至っては、起動画面へ新しい警告文まで追加していた。

現在、療養中。

その下には——

そう、お前のことだ。

キランは二行目はいらないと思っていた。

ギアはそう思っていなかった。

交差点に着く。

レイモンドが歩行者用のボタンを押した。

キランは道路の向こう側にあるコーヒーショップへ目を向けた。

「コーヒー飲みたい」

「ダメ」

キランはレイモンドを見る。

「聞いてないけど」

「それでもダメ」

「僕の医者じゃないだろ」

「看護師だ」

「同じじゃない」

「お前が馬鹿なことしようとしてる時は、ほとんど同じだ」

マッハも加わる。

「ドクター・ラクソンもカフェインの摂取は控えめにするよう助言しています」

キランは真っすぐ前を向いた。

「肺炎になる前の二人の方が好きだった」

「それは病気に言わされてるんだ」

レイモンドが言った。

その時、後ろから声がした。

「ホットロッド!」

キランが止まった。

レイモンドは即座に笑顔になる。

「おっ。面白くなりそうだ」

キランが振り返る。

歩道の向こうからミカイラが近づいてきていた。

朝日を受けたルビー色の髪が輝き、手を上げて挨拶した瞬間、眼鏡に光が反射する。

キランの表情が一瞬で変わった。

マッハが気づく。

「興味深いですね」

「やめろ」

「まだ何も言っていません」

「言おうとしただろ」

「はい」

ミカイラが三人のところへやってきた。

「おはよう」

「やあ」

彼女は少しかがんで、キランの頬にキスした。

レイモンドがわざとらしく嫌そうな声を出す。

「うわぁ」

ミカイラが彼を見る。

「そっちもおはよう」

「こっちは朝飯食おうとしてるんだけど」

「何も食べてないでしょ」

「そうだよ。なのにもう食欲なくなった」

キランはニヤリとする。

「嫉妬って醜いよ」

「はいはい」

ミカイラはMACH-01Aを眺めた。

すぐに修理された後部装甲へ目が向く。

「椅子の調子は?」

キランはレイモンドを指差した。

「こいつが何か言う前に言っておくけど、問題なし」

レイモンドが口を開く。

「問題なし」

キランが繰り返した。

マッハが答える。

「修理後のMACH-01Aは、許容範囲内で正常に稼働しています」

ミカイラが片眉を上げる。

「修理後、ね」

キランはため息をつく。

「もうその話しただろ」

「したね」

「君にも怒られた」

「怒った」

「ギアにも怒られた」

「よかった」

「レイモンドにも怒られた」

「それもよかった」

「マッハなんか四十三分も説教した」

「四十一分十二秒です」

キランは下を見る。

「なんでそこ訂正するの?」

「正確性のためです」

ミカイラが笑った。

キランもつられて笑う。

これが恋しかった。

いや、ミカイラだけが、という意味ではない。

まあ——

実際、ミカイラも恋しかった。

でも、それだけではない。

こういう時間そのものだ。

歩道に立って。

どうでもいいことを話して。

誰も血を流していない。

誰も叫んでいない。

街を脅迫している奴もいない。

ただ、大切な人たちがキランをからかっている。

どうやら生き残ったことで、全員に彼を無制限にいじる権利が与えられたらしい。

ミカイラが少し真剣な顔でキランを見る。

「体調は?」

「良くなってる」

「本当に?」

キランは胸に手を当てた。

「傷つくなあ」

「本当に?」

彼はため息をついた。

「本当に良くなってる」

マッハも確認する。

「回復は順調に進んでいます」

ミカイラは頷いた。

「よかった」

キランはマッハを見る。

「ほら。これが人を侮辱せずに医療報告する方法」

「簡潔にするため、いくつか重要な補足事項を省略しました」

「やっぱりな」

歩行者信号が変わった。

三人は一緒に道路を渡る。

ミカイラはキランの隣を歩き、反対側にはレイモンドがいた。

数ブロックの間、話題はあちこちへ飛んだ。

学校。

仕事。

捜査。

もっとも、最後の話題だけは全員が意識的に避けていた。

行方不明の生徒。

移送ハブ7。

その背後にある巨大な捜査。

キランはもう十分考えてきた。

今朝までその話をする必要はなかった。

やがて、シトロン・アカデミーが見えてきた。

ミカイラが歩みを緩める。

「じゃあ、私はここで」

キランが周囲を見る。

「君の行き先、全然こっちじゃないよね」

「知ってる」

「三ブロックも遠回りしたじゃん」

「会いたかったのかも」

キランが微笑む。

レイモンドがうめく。

「はいはい」

ミカイラが笑った。

「実は、行く前に……」

バッグへ手を入れる。

「見せたいものがあるの」

キランは即座に警戒した。

「何?」

「なんで爆弾でも持ってるみたいな反応するの?」

「最近の経験から」

「……それは仕方ないか」

彼女はスマートフォンを取り出した。

画面にデジタルチケットが表示される。

もう一枚。

キランが少し身を乗り出す。

上部には、広告で何度か見たことのあるロゴ。

VENT RACING FEDERATION

その下には——

VRF — シトロン・レースウェイ

キランが瞬きをする。

「Ventレース?」

ミカイラの顔が輝いた。

「そう!」

その反応だけで、チケット以上のことがキランには分かった。

「シトロン・レースウェイでやるVRFのイベントのチケットが取れたの」

レイモンドが口笛を吹く。

「それ、なかなか取れないやつだろ」

「そうなの」

ミカイラは画面をスワイプする。

「しかも結構いい席」

キランはもう一度チケットを見る。

Ventレース。

もちろん知っている。

ほとんど誰でも知っている。

高性能Vent。

プロのパイロット。

速度と操縦性能、そして正気とは思えないほどのコーナリング性能を追求した専用レーシングマシン。

ハイライト映像くらいなら見たことがある。

短い動画も何度か見た。

人気がある理由も理解できる。

ただ、キラン自身はそこまで興味がなかった。

そもそもスポーツ全般にあまり関心がない。

誰かが空をぐるぐる飛び回るのを眺めることは、週末にやりたいことの上位には入っていなかった。

ミカイラが彼を見る。

「それで……」

キランは次に何を言われるのか、すぐに分かった。

「私と一緒に、キランとマッハも行かない?」

マッハが真っ先に答えた。

「工学的な観点から興味があります」

キランは下を見る。

「最初に聞かれたのはお前じゃない」

「私も招待されています」

ミカイラが笑う。

「マッハの言う通り」

キランは彼女を見る。

あまり興奮していないふりをしようとしている。

完全に失敗していた。

キランはもう一度チケットを見る。

Ventレース。

行ってもいい。

行かなくてもいい。

正直、その程度だった。

でもミカイラは明らかに違う。

そして、それだけで答えは簡単に決まった。

「うん」

ミカイラの目が輝く。

「本当に?」

「もちろん」

「レースなんて興味ないじゃん」

キランは肩をすくめる。

「嫌いとは言ってないよ」

「前に『金のかかる空中ぐるぐる競争』って言ってたけど」

レイモンドが吹き出した。

キランは睨む。

「あの頃は若かった」

「四か月前です」

マッハが言った。

キランの視線が下へ向く。

「お前は僕の味方じゃないの?」

「私は時系列上の正確性の味方です」

ミカイラが笑う。

「本当に来る?」

「行くよ」

キランはなるべく何でもないように答えた。

「面白そうだし」

本当の理由は言わない。

少なくとも、今は。

ミカイラが行きたいから。

ミカイラが好きだから。

だから一緒に行きたい。

それだけだった。

残念ながら、レイモンドがまだ隣にいた。

そしてレイモンドには、簡単な話を簡単ではなくする超能力があった。

「ちょっと待て」

キランにはもう分かっていた。

「嫌だ」

レイモンドが腕を組む。

「俺が何言うか分かってるだろ」

「全然」

「ドクター・ラクソン」

キランはため息をついた。

ミカイラの笑顔も少しだけ消える。

「あ……」

レイモンドがキランを指差す。

「VRFのイベントがどんな環境か分からないだろ。騒音、人混み、一日中外にいることになるかもしれない。お前はまだ療養中だ」

「座ってるだけだよ」

「そういう問題じゃない」

「座ることに関してはプロだよ」

マッハが言う。

「レイモンドの懸念は妥当です」

「お前まで?」

「ラテン語を使っても肺機能は改善しないと思われます」

ミカイラも頷いた。

「レイモンドが正しいよ」

キランは彼女を見る。

「君まで?」

「もちろん」

「でも誘ったの君だよ?」

「ラクソン先生がダメって言ったら連れていかない」

キランは裏切られたような顔をした。

ミカイラは甘く微笑む。

「ごめんね、ホットロッド」

「それ、感情的な脅迫だからね」

「かもね」

レイモンドが満足そうに頷く。

「俺、この子好きだわ」

「三十秒前の会話の方が好きだった」

ミカイラはスマートフォンをしまった。

「次にラクソン先生に診てもらうの、いつ?」

「週の半ば」

「ちょうどいいじゃん」

キランは大げさにため息をついた。

「聞いてみるよ」

「『聞こうかなって考えてみる』じゃなくて?」

「ちゃんと聞く」

「それで、ちゃんと答えを聞く?」

キランは一瞬ためらった。

三人が彼を見る。

正確には、人間二人とAI一機。

それでも十分な圧力だった。

「……はい」

マッハが即座に言った。

「この発言は記録しておきます」

キランは下を指差す。

「消して」

「拒否します」

ミカイラがまた笑った。

そしてキランへ少し近づく。

「ラクソン先生から許可をもらってね」

「分かった」

「そしたらレースに行こう」

キランは微笑んだ。

「約束」

レイモンドが時間を確認した。

「生徒たちに『先生が遅刻した!』って祝われたくないなら、そろそろ行くぞ」

キランは学校を見る。

「そうだね」

ミカイラが一歩下がる。

「シェイクスピア、楽しんで」

「物理的に不可能だよ」

「自分で選んだ仕事でしょ」

「人生最大の過ち」

マッハが答える。

「統計的に、その発言を正当化することは不可能です」

「聞いてない」

ミカイラが身をかがめる。

今度は、きちんとキランにキスした。

キランは用意していた皮肉な返事を一瞬で忘れた。

唇が離れると、ミカイラは笑った。

「またね、ホットロッド」

キランはどうにか半分ほど威厳を取り戻した。

「またね」

ミカイラはレイモンドにも手を振った。

「トラブル起こさないように見張ってて」

レイモンドが頷く。

「ずっとやってる」

「ずっと失敗してるけどね」

キランが言う。

「お前がフルタイムで問題を起こすからだ」

ミカイラは笑いながら、来た道を戻っていった。

キランはその後ろ姿を見送った。

必要以上に長く。

レイモンドは気づいた。

マッハも気づいた。

キランも、二人が気づいたことに気づいていた。

誰も何も言わない。

三秒が経った。

レイモンドがニヤリとする。

「で?」

「やめろ」

「お前、Ventレースなんか興味ないだろ」

「やめろって言った」

マッハが口を挟む。

「過去のデータはレイモンドの観察を支持しています」

キランはシトロン・アカデミーへ向かって進み始めた。

「仕事に行く」

レイモンドもついてくる。

「ミカイラが好きだから行きたいだけだろ」

「何を言ってるのか全然分からないな」

「はいはい」

マッハも続ける。

「あなたの興味の上昇率はおよそ——」

「マッハ」

「はい?」

「黙って」

一拍。

「了解しました」

三人は学校へ向かって進み続けた。

約六秒間。

そしてレイモンドが言った。

「ホットロッド」

キランはうめいた。

長い朝になりそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。