どこでもない場所
翌朝、キランはまるで誰かにMACH-01Aの荷物入れへ無理やり押し込まれ、そのまま階段を何時間もかけて引きずり下ろされたような気分で目を覚ました。
ゆっくりと目を開ける。
天井を見つめる。
そして、すぐに目を閉じた。
「……無理」
ベッド脇の充電ステーションからマッハの声が聞こえた。
「おはようございます」
「無理」
「現在、午前9時14分です」
「それでも無理」
「朝のお薬の時間です」
キランは毛布をさらに引き上げた。
「引退した」
「服薬からですか?」
「意識から」
「残念ながら、あなたの呼吸器系はその辞表を受理していません」
キランはうめいた。
全身の筋肉が一斉に苦情を申し立てているようだった。
肩が痛い。
首も痛い。
胸も痛む。
そして、そのすべての奥には肺に残った重苦しさがあった。
三人の子供を救出したからといって、肺炎まで魔法のように消えてくれるわけではない。
キランが咳き込んだ。
一度。
二度。
そして、さらに何度か。
マッハは即座に皮肉屋のAIから過保護な医療監視役へと切り替わった。
「呼吸数が上昇しています」
「咳してるからね」
「確認しています」
「じゃあ、なんでわざわざ言うの?」
「あなたには、無視すれば症状そのものが存在しなくなるかのように振る舞う傾向がありますので」
キランはようやく目を開けた。
「それ、レイモンドが言いそう」
「私は複数の有能な情報源から学習しています」
「裏切り者」
「お薬を」
キランはため息をついた。
「分かったよ」
午前9時30分までに、飲むべき薬をすべて飲んだ。
9時35分には呼吸療法も終えた。
9時41分には、すでに退屈していた。
キランは部屋の向こうにあるMACH-01Aを見つめた。
機体は充電ステーションの横に停められている。
紫色の装甲。
長く伸びたノーズ。
サイドフィン。
後部推進ユニット。
そして——
どう見ても隠しようのない、二つの弾痕。
キランはそれを見つめた。
マッハは黙っている。
キランは目を細めた。
「言うなよ」
「私は何も言っていません」
「思考がうるさい」
「そのような機能はありません」
「なのに、どういうわけかできるんだよな」
家のどこかから音がした。
ドア。
足音。
キランが固まる。
マッハが言った。
「ギアが到着しました」
キランは弾痕を見る。
それから寝室のドアを見る。
もう一度、弾痕を見る。
「……まずい」
「心配事でも?」
「これ、隠せる?」
「弾痕をですか?」
「そう」
「どのように?」
「知らないよ。椅子の向きを変えるとか」
「それでは一つしか隠せません」
「何か被せて」
「例えば?」
キランは周囲を見回した。
毛布。
枕。
呼吸器関連の機材。
本。
説得力のあるものなど何もない。
「飾り用のタオルとか?」
マッハは一瞬黙った。
「三発目を撃たれる方がましです」
寝室のドアが開いた。
ギアが工具箱を持って入ってくる。
「おはよ」
キランはあまりにも素早く笑顔を作った。
「やあ」
ギアが止まった。
キランを見る。
MACH-01Aを見る。
沈黙。
キランは笑顔を維持する。
ギアが機体へ近づいた。
「やめて」
ギアが止まる。
ゆっくり振り返った。
「何を?」
「何でもない」
「なんで『やめて』って言った?」
「言ってない」
マッハが口を挟む。
「言いました」
キランはMACH-01Aを睨んだ。
ギアは後部装甲の前にしゃがみ込んだ。
指先で一つ目の弾痕に触れる。
そして二つ目。
ギアの動きが止まった。
キランは選択肢を考えた。
嘘をつく。
当然、それは候補に入る。
逃げる。
それは無理。
「……えーっと」
ギアが立ち上がった。
「休んでなきゃいけない時に撃たれたの?」
キランは指を一本立てた。
「厳密に言えば——」
「二発です」
マッハが答えた。
キランは彼を睨んだ。
「なんで?」
「質問に測定可能な数量が含まれていましたので」
「誰もお前に聞いてない」
ギアがキランを見る。
「二発?」
「装甲はちゃんと機能したよ」
「二発?」
「かなり優秀だった」
「キラン」
「大げさに騒ぐ前に言っておくけど——」
「撃たれたんだよ?」
「撃たれたのは椅子」
「キランが乗ってる時に」
「まあ、普段は乗って使うものだから」
ギアはじっと見つめた。
キランは弱々しく笑う。
「……今の冗談、早すぎた?」
ギアは工具箱を開いた。
「装甲の修理代、払ってもらうから」
「家族だろ?」
「倍額ね」
「家族ってそういうものじゃないだろ」
「今日はそうなの」
マッハが言った。
「ギアの料金体系を支持します」
「敵しかいないのか、この家には」
文句を言いながらも、ギアはその後一時間かけてMACH-01Aを隅々まで点検した。
損傷の大部分は表面的なものだった。
装甲の変形。
外装パネル二枚の損傷。
後部マウントの一つに軽微な負荷痕。
修理できないものは何もない。
だが、昨夜があと少しで取り返しのつかないことになっていた可能性を思えば、決して軽い話ではなかった。
キランは近くから作業を見守った。
珍しく、ギアに休めと言われても反論しなかった。
ほとんど。
それから数日が過ぎた。
移送ハブ7での逮捕をきっかけに始まった捜査について、キランが知ることのできる情報は断片的だった。
事情聴取。
捜索令状。
証拠の解析。
資金記録。
暗号化されたドライブ。
表向きは正規の学生支援団体だった組織は、裏で行われていた犯罪について一切知らなかったと公表した。
一方、捜査当局は、本当に支援活動をしていた職員と、その組織を隠れ蓑として利用していた人間たちを切り分け始めていた。
そして刑事がキランを訪ねてきた。
自宅ではない。
シトロン・アカデミーだった。
なぜなら、ついに——
キランは戻ってきたのだ。
捜査官としてではない。
誘拐犯を追いかけ、改ざんされたデータベースと一週間も格闘した男としてでもない。
キリアン先生として。
英語教師として。
彼が一番好きな仕事。
もっとも、マッハが聞いているところでは「一番好き」という言葉を絶対に認めようとはしないだろうが。
教室の匂いは記憶のままだった。
ホワイトボードマーカー。
紙。
古い本。
そして、どうやらデオドラントを任意選択だと思っているらしい十代の生徒たち。
キランは教室へ入ったところで止まった。
マッハがプライベート音声で話しかける。
「感情反応を検出」
「始めるなよ」
「単なる観察結果です」
「……ここが恋しかった」
「知っています」
キランは教卓へ向かう。
そして、止まった。
三つの席が空いていた。
救出された生徒たちは、まだ学校へ戻ってきていない。
医師の診察は受けた。
捜査官による慎重な聞き取りも行われた。
家族とも再会した。
だが、回復には救出よりも時間がかかる。
そのことを、キランは誰よりも理解していた。
彼は数秒間、その三つの机を見つめた。
そして再び前へ進む。
「準備ができたら戻ってきます」
マッハが言った。
「分かってる」
今度は、本当にそう思えた。
刑事がやってきたのは、キランの授業準備時間だった。
手にはファイルを持っている。
キランは即座に眉をひそめた。
「それ宿題だったら、組合に電話するよ」
「捜査の進展です」
「そっちの方が嫌だな」
刑事は向かいに座った。
「捜査範囲が広がっています」
キランから冗談めいた表情が消える。
「どこまで?」
「シトロン・アカデミーの外まで」
刑事はファイルを開いた。
すべてを見せたわけではない。
見せられないものもある。
だが、十分だった。
別の学校との繋がり。
別の学生支援プログラム。
不審な移送記録。
押収された資料に記された名前。
複数の管轄区域をまたぐ資金の流れ。
移送ハブ7が終着点だったわけではない。
あそこも、ただの一拠点だった。
「今は他の機関とも連携しています」
刑事が言った。
「合同捜査?」
「複数の機関が参加しています」
キランは背もたれに寄りかかった。
「子供は何人?」
「まだ分かりません」
その答えは重かった。
キランは視線を落とした。
刑事が続ける。
「ですが、今は記録があります」
キランが顔を上げる。
「人もいる」
一拍。
「施設も」
さらに一拍。
「そして証人も」
キランは理解した。
情報提供者。
逮捕された回収チーム。
受け取り側の人間たち。
その先の組織へ捜査官を導ける人間たち。
「それで、これからどうするの?」
「追います」
キランはMACH-01Aへ視線を落とした。
「手伝おうか?」
「結構です」
「即答だな」
「キリアン先生」
「一応聞いただけ」
「あなたは十分やりました」
キランはその言葉があまり好きではなかった。
だが、今回は——
拒絶には聞こえなかった。
許可のように聞こえた。
刑事が立ち上がる。
「捜査はこちらに任せてください」
キランは教室を見回した。
「じゃあ僕はシェイクスピア担当か」
「誘拐犯を追いかける方がましですね」
キランは笑った。
「賢い人だ」
刑事が去った。
キランは教室に残った。
もう一度、空席を見る。
それから教卓に積まれた授業計画を見る。
まだやるべき仕事はある。
ただ、種類が違うだけだった。
救出された一人目の生徒が戻ってきたのは、翌週の月曜日だった。
キランは授業が始まる前から知っていた。
学校側が教師たちに知らせていたからだ。
家族は静かな復帰を望んでいた。
校内放送なし。
集会なし。
派手な歓迎なし。
他の生徒たちが群がって質問攻めにすることもなし。
キランはすぐに同意した。
その生徒は始業ベルの約二分前に教室へ入ってきた。
何人かのクラスメイトが気づく。
小さな囁き声が上がった。
キランは教卓から顔を上げた。
目が合う。
一瞬、どちらも何も言わなかった。
そしてキランは微笑んだ。
「遅刻」
生徒が瞬きをする。
「まだ二分前ですけど」
「危険な時間だ」
小さな笑みが浮かぶ。
「すみません」
「次から気をつけるように」
生徒は自分の席へ向かった。
座る。
ノートを開く。
それだけだった。
それでよかった。
二人目は二日後に戻ってきた。
三人目は、その翌週。
一つずつ。
空席が埋まっていった。
キランは、何があったのか自分から尋ねることはなかった。
話したいなら、聞いた。
宿題について話したいなら、宿題について話した。
シェイクスピアに文句を言いたいなら——
残念ながら、それでも授業は免除されなかった。
ある日の放課後。
救出された生徒の一人が教室に残っていた。
キランは気づいた。
プリントを整理しながら尋ねる。
「大丈夫?」
生徒は頷いた。
それから首を振った。
最後に肩をすくめた。
実に情報量の多い回答だった。
キランは待った。
やがて——
「キリアン先生?」
「うん?」
「先生が……僕たちを助けたんですか?」
キランの手が止まった。
マッハは完全に沈黙していた。
生徒が続ける。
「先生が、僕たちの居場所を見つけたって聞きました」
キランは教室のドアを見る。
それから生徒へ視線を戻した。
「僕たちが見つけた」
「先生とマッハが?」
「もっと大勢だよ」
生徒は待った。
キランは教卓の後ろから移動した。
「警察がバンを見つけた。救急隊員が君たちを診てくれた。家族は絶対に捜すのを諦めなかった。学校では先生たちが生徒を守った。そして、あの組織の中にいた誰かが、ようやく真実を話す決心をした」
彼はMACH-01Aを軽く叩いた。
「それから、こいつがだいたい120億回くらい計算した」
「その推定値は誇張されています」
「せっかくのスピーチを邪魔するな」
生徒が笑った。
キランは続ける。
「それから君自身も、僕たちが見つけるまで生き抜いた」
生徒は視線を落とした。
「じゃあ……誰が僕たちを助けたんですか?」
キランは少し考えた。
そして答えた。
「僕たちだよ」
生徒が顔を上げる。
「僕たち?」
「みんなで」
少しの沈黙。
やがて、生徒は頷いた。
「……分かりました」
キランは微笑む。
「じゃあ帰りなさい」
生徒はリュックを持ち上げた。
「また明日」
「残念ながらね」
生徒は笑いながら教室を出ていった。
ドアが閉まるまで、マッハは待った。
「良い答えでした」
キランが彼を見る。
「褒めてる?」
「慣れないでください」
「もう遅い」
やがて、学校は再び学校らしくなっていった。
すぐにではない。
しばらくの間、見慣れない大人がいるだけで警戒した。
ネットワークに不具合が起きれば、キランは疑った。
スマートフォンに通知が届くたび、以前の緊張がわずかに蘇った。
だが、少しずつ——
日常が戻ってきた。
少なくとも、それに近いものが。
ある火曜日の朝。
キランはホワイトボードに大きく書いた。
ウィリアム・シェイクスピア
教室全体から一斉にうめき声が上がる。
キランは振り返った。
「みんな嬉しそうで何より」
救出された生徒の一人が手を挙げた。
キランが指差す。
「はい」
「誘拐から生還したら、シェイクスピアは免除されてもいいと思います」
教室が静まり返った。
キランは生徒を見る。
生徒もキランを見る。
そしてキランは、重々しく頷いた。
「残念ながら、避けられない恐怖というものもある」
教室が爆笑に包まれた。
その生徒自身も笑った。
マッハがプライベート音声で言う。
「不適切でした」
「ウケたからいい」
「効果がなかったとは言っていません」
キランは再びホワイトボードへ向き直った。
「はい。じゃあ教科書開いて」
再びうめき声。
素晴らしい。
完全に普通のうめき声。
キランは、これが恋しかった。
その日の午後。
最後のベルが鳴った。
生徒たちが廊下へ流れ出していく。
声が遠ざかる。
ドアが閉まる。
やがて、教室にはキランだけが残った。
彼はそこに座っていた。
待っていた。
何を待っているのか、自分でも分からない。
スマートフォンは沈黙したまま。
匿名の警告はない。
歪められた声もない。
返事をするなというメッセージもない。
家に帰さないでくれと懇願する生徒もいない。
警報もない。
駐車場から悲鳴も聞こえない。
何もない。
キランは周囲を見回した。
「マッハ?」
「はい?」
「何かある?」
「具体的にお願いします」
「分かってるだろ」
それでもマッハは確認を行った。
「あなたの対応を必要とする緊急警報はありません」
「警察無線は?」
「通常業務です」
「学校のセキュリティは?」
「正常です」
「怪しいネットワーク活動?」
「検出されていません」
「脅迫メッセージ?」
「ありません」
キランはスマートフォンを見つめた。
何もない。
マッハが少し待った。
そして——
「残念ですか?」
「いや」
一拍。
「戸惑ってる」
「理解できます」
キランは窓を見る。
夕方の光が教室へ差し込んでいた。
「じゃあ……」
「はい?」
「何する?」
マッハは少し考えた。
「直近の診察結果では、ドクター・ラクソンから提示された制限を守ることを条件に、軽度のレクリエーション飛行が許可されています」
キランは目を細める。
「レクリエーション?」
「低高度。低加速。戦闘機動禁止。マッハ速度禁止。身体への大きな負荷を伴う操作禁止」
「なんだか楽しそうだな」
「それが目的かと思われます」
キランは微笑んだ。
教室のコンピューターを終了する。
プリントを片づける。
照明を消す。
そして廊下へ出た。
シトロン・アカデミーは静かだった。
珍しく、キランはそれを嫌だと思わなかった。
外へ出ると、夕暮れの空がシトロン・シティの上に広がっていた。
地平線付近はオレンジ色。
頭上は深い青。
MACH-01Aが飛行前チェックを実行する。
戦闘システム――ロック
プラズマキャノン――ロック
マッハ速度――ロック
そして——
レクリエーション飛行――使用可能
キランは表示を見つめた。
「これ、ギアが追加した?」
「はい」
「だと思った」
キランは校舎の外にある開けた場所へ移動した。
推進システムが静かに唸る。
激しくない。
強力でもない。
必要な分だけ。
MACH-01Aが浮かび上がる。
一メートル。
三メートル。
五メートル。
キランはゆっくり呼吸した。
苦しくない。
警報も鳴らない。
マッハからの警告もない。
二人は学校より高く上がった。
そして周囲の建物より少し上へ。
高すぎない。
速すぎない。
眼下にシトロン・シティが広がる。
道路を車が流れていく。
人々が家路につく。
レストランには客が入り始める。
アパートの窓に一つずつ明かりが灯っていく。
どこかでは警察が働いている。
どこかでは消防士が通報に応えている。
どこかでは、きっと誰かが助けを必要としている。
だが、キランの助けではない。
今夜は。
マッハが尋ねる。
「目的地は?」
キランは前を見る。
街は地平線まで続いていた。
病院で交わした約束を思い出す。
いつか。
任務なし。
緊急事態なし。
目的地なし。
キランは微笑んだ。
「どこでもない場所」
マッハは黙った。
そして——
「ルートを算出しました」
キランは笑った。
「どこでもない場所へのルートなんて計算できないだろ」
「では、即興で」
「分かってきたじゃん」
MACH-01Aがゆっくり前へ傾く。
二人は飛んだ。
ゆっくりと。
マッハ速度は使わない。
プラズマキャノンもない。
追いかけてくる悪党もいない。
燃えている建物もない。
怯えた生徒もいない。
救助を待っている人間もいない。
いるのは、キラン。
マッハ。
街。
そして、どこまでも広がる空。
この瞬間だけは、誰かに必要とされたから飛んでいるのではなかった。
何かを証明するためでもない。
止まったら誰かが傷つくからでもない。
飛びたいから飛んでいた。
そして、本当に久しぶりに——
どこでもない場所こそが、キランが行くべき場所だった。




