一人で来い
午後9時42分。
キラン・キリアンは、ほぼ間違いなく罠であろう場所へ向かって飛んでいた。
ゆっくりと。
腹が立つほど、ゆっくりと。
MACH-01Aはシトロン・シティの夜空を、キランにとっては侮辱としか思えない速度で巡航していた。
彼はナビゲーション画面を睨む。
「マッハ」
「はい?」
「もっと速く飛べるよな」
「飛べます」
「だったら——」
「飛びません」
キランはため息をついた。
遥か下では、無数のヘッドライトが街路を流れている。
待ち合わせ場所である廃市営立体駐車場は、もう数ブロック先だった。
旧商業地区にそびえる巨大なコンクリートの骸骨のように見える。
「子供の誘拐に関わった人間に会いに行くんだぞ」
「そのとおりです」
「夜に」
「そのとおりです」
「廃墟の立体駐車場で」
「そのとおりです」
「なのに武器は使えない」
「そのとおりです」
「プラズマキャノンは?」
「ロックされています」
「マッハ速度?」
「ロックされています」
「高出力スラスター?」
「ロックされています」
「戦闘モード?」
「ロックされています」
「何か楽しいものは?」
「ヘッドライトは完全に機能しています」
キランは前を睨んだ。
「嫌いだ」
「心拍数を見る限り、そうは思えません」
MACH-01Aが降下を始める。
キランが咳をした。
マッハは即座に反応する。
「呼吸数上昇」
「一回咳しただけだ」
「二回です」
「裏切り者」
「あなたはまだ肺炎から回復中です」
「そして罠に飛び込もうとしてる」
「あなたが向かっているのは会談です。戦争ではありません」
「僕の人生では、その二つが驚くほど頻繁に重なるんだけど」
「だからこそ、ギアもラクソン先生も今回の行動には反対するでしょう」
「二人とも知らなくてよかった」
沈黙。
キランは目を細めた。
「ギアに言ってないよな?」
「ギアには連絡していません」
「レイモンドは?」
「いいえ」
「母さんは?」
「いいえ」
「ミカイラは?」
「いいえ」
キランは安心した。
「ありがとう」
「ただし、あなたの現在地、匿名メッセージ、保存済みの学校関連証拠、そして今夜の音声・映像記録を含む緊急送信パッケージを準備しました」
キランはインターフェースを見る。
「何?」
「あなたとの通信が途絶えた場合、私自身に致命的なシステム障害が発生した場合、強制シャットダウンを検出した場合、あるいはあなたが医学的に行動不能になったと判断した場合、外部へ自動送信されます」
「誰に?」
「C.C.P.D.、ギア、レイモンド、ミカイラです」
キランはじっと見る。
「デッドマン・スイッチを作ったのか」
「『緊急時対応措置』という表現を推奨します」
「それ、デッドマン・スイッチだろ」
「あなたの表現は不必要に大げさです」
「僕が殺されたら彼女に証拠を送りつけるAIが言う?」
「ミカイラは非常に不機嫌になると予測します」
「心配するところ、そこ?」
「その他にも多数あります」
MACH-01Aは五階へ着地した。
派手なスラスター噴射はない。
戦闘用の着地でもない。
ただ静かに降下し、通常の車椅子用移動システムの低い駆動音へ切り替わった。
駐車場はほぼ完全に空だった。
コンクリートの柱。
色褪せた駐車区画線。
壊れた蛍光灯。
落書き。
天井に広がる水染み。
暗闇のどこかから、時折落ちる水滴の音が響く。
キランは時間を確認した。
9時57分。
「スキャンは?」
「受動スキャンのみです」
「なぜ?」
「強力な電子スキャンを行えば、この場所を監視している者に気づかれる可能性があります」
「何かある?」
「作動中の監視カメラが三台」
「市のもの?」
「二台は市のシステムから切断されているようです」
「三台目は?」
「ネットワーク接続を検出できません」
「安心するな」
「その意図はありませんでした」
キランはさらに奥へ進む。
タイヤが静かにコンクリートを転がる。
待ち合わせ場所は北東の角。
到着したのは9時59分だった。
誰もいない。
キランは周囲を見る。
「気が変わったとか?」
「可能性は低いです」
「逮捕されたとか」
「可能性は低いです」
「廃墟の立体駐車場で僕と会うなんて怪しすぎるって、ようやく気づいたとか」
「極めて可能性は低いです」
10時。
何もない。
10時01分。
まだ何もない。
その時——
足音。
キランが振り向く。
一人の人物が、コンクリートの柱の陰から現れた。
威圧感はなかった。
それが意外だった。
戦闘服でもない。
覆面もない。
目立つ武器もない。
暗いジャケットの下に普通のオフィス用の服を着た、ひどく疲れた様子の人物。
約六メートル離れた場所で止まる。
その目はまずMACH-01Aへ向いた。
そしてキランへ。
「一人で来たな」
キランはマッハのインターフェースを見る。
「厳密には」
相手が眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「僕の車椅子には意見がある」
マッハが答える。
「多数あります」
相手が飛び上がるほど驚いた。
「何だ、それ!?」
「マッハ」
相手はMACH-01Aを凝視する。
「あのAIか?」
「知ってるんだな」
「関係者なら全員知ってる」
キランの表情が険しくなる。
「全然安心できない情報だな」
「安心させるつもりはない」
相手は神経質に周囲を見る。
「時間がない」
キランは動かない。
「なら話して」
相手は躊躇した。
「名前は重要じゃない」
「僕には重要だ」
「俺の名前を知れば、それを奴らが俺たち二人に利用できる」
「あいつらはもう僕が誰か知ってる」
「だからだ」
キランは相手を観察する。
「最初のメッセージを送ったのは?」
「ああ」
「放課後に残るな」
「ああ」
「返事をするな」
「ああ」
「カメラの警告は?」
「俺だ」
「214号室?」
「俺だ」
「火災警報は?」
「警告しただけだ。鳴らしたのは俺じゃない」
「だろうな」
相手は息を吸った。
「生徒記録へアクセスしていた組織で働いてる」
キランは目を細める。
「家庭移行支援の組織」
「外から見れば、そういう組織だ」
「実在するのか?」
「ああ」
その答えは予想外だった。
「本物の職員もいる。本物のオフィスもある。学区との契約も。ソーシャルワーカー、通学支援担当、一時住宅の紹介、学習支援プログラム……全部本物だ」
「じゃあ、子供の誘拐はパンフレットのどこに載ってる?」
相手が怯んだ。
「載ってない」
「面白いな」
「知らなかった」
キランは何も言わない。
相手が彼を見る。
「どう聞こえるかは分かってる」
「最悪に聞こえる」
「仕事をしてるだけだと思ってた」
「どんな仕事?」
相手は迷った。
そして——
「候補者を探す仕事」
キランの表情が変わった。
ついに出た。
匿名メッセージではない。
歪んだ音声でもない。
ユーザー名でもない。
目の前に立つ、生身の人間。
「選んだのか」
相手が目を逸らす。
「手伝った」
「あの九人を?」
「ああ」
キランの顎に力が入る。
「子供を選んだ」
「記録を調べただけだ」
「子供を選んだ」
「何をされるか知らなかった」
「でも選んだ」
相手はようやくキランを見る。
「ああ」
沈黙。
キランはその答えを二人の間に残した。
「どんな指示を受けた?」
「家庭環境の変化によって、追加支援の対象になる生徒を探せって」
「本当の目的は違った」
「今は分かってる」
「実際には何を探せと言われた?」
「変化だ」
それはもう知っていた。
「親権」
「ああ」
「住所」
「ああ」
「保護者」
「ああ」
「欠席が増えてる子」
「ああ」
「迎えに来る人間が頻繁に変わる子」
相手は頷く。
キランの中に嫌悪感が広がる。
「すぐに異常だと気づかれずに消せる子供を探してたんだ」
「最初は理解してなかった」
「でも途中で気づいた」
「ああ」
「いつ?」
相手の顔が強張る。
「俺が紹介した生徒の一人が、転居したことになった時だ」
キランは待つ。
「転校先を調べた」
「そこにはいなかった」
「いなかった」
「家族は?」
「消えてた」
「住所は?」
「空き家」
「それで調べ始めた」
相手が頷く。
「過去のケースを洗った」
「何人?」
答えない。
「何人?」
「シトロン・アカデミーだけじゃない」
キランの身体が冷たくなる。
「何人?」
「分からない」
「それじゃ足りない」
「本当に分からないんだ!」
叫び声が空の駐車場に響く。
相手はすぐ声を落とした。
「複数の学校で同じパターンを見つけた。違う学区。違う名前。違うプログラム」
キランは見つめる。
「でも手口は同じ」
「ああ」
「記録を変える」
「ああ」
「偽の保護者」
「ああ」
「子供を連れ出す」
相手は唾を飲み込む。
「ああ」
「検査する」
相手が固まった。
キランは見逃さない。
「それも知ってるんだな」
「どうして——」
「一人、戻ってきた」
相手の顔色が変わる。
「誰だ?」
「言わない」
「知る必要がある」
「ない」
「もし話したなら——」
「その子は安全だ」
相手は本当に安心したようだった。
それがキランには理解できなかった。
「血液検査のことを覚えてた」
沈黙。
「『ミスマッチ』って言葉も聞いてた」
相手は目を閉じる。
「くそ……」
「だから教えて」
「キリアン先生——」
「何を基準に選んでる?」
相手はまた周囲を見る。
「声を落とせ」
「なら早く答えて」
長い沈黙。
そして——
「適合性」
キランは眉をひそめる。
「何との?」
「分からない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「選ぶのを手伝ったんだろ」
「血液検査より前の段階だ」
相手は一歩近づく。
「俺の担当は最初の選別だった。問題なく連れ出せる子供を探した」
「問題なく」
「分かってる」
「面白い言葉だ」
「分かってる」
「続けて」
「連れ出した後は、別のチームが評価する」
「医療関係者?」
「一部は」
「どういう意味?」
「誰なのか分からない。医者なのか、技術者なのか、外部業者なのか……何と名乗ってるかも知らない」
「血液は?」
「適合性の条件を調べてる」
「どんな条件?」
「生物学的なものだ」
「何も説明してないのと同じだ」
「俺が知ってるのはそこまでなんだ」
マッハが口を挟む。
「評価対象となるマーカーを把握していますか?」
相手はインターフェースを見る。
「全部は知らない」
「一部は?」
「組み合わせだ。血液の特徴、免疫反応の指標、遺伝的な要素。それ以外にも、俺には理解できないものがある」
キランの表情が険しくなる。
「何のために?」
「言っただろ。分からない」
「移植?」
「分からない」
「実験?」
「最初はそう思った」
キランが止まる。
「最初は?」
相手は居心地悪そうにする。
「ある計画について話してるのを聞いた」
「何の計画?」
「正式名称は聞いたことがない」
「都合がいいな」
「俺は命を懸けてここに立ってる」
「三人の子供が行方不明なんだ。悪いけど、あなたの自己犠牲に感動してる余裕はない」
相手が怯む。
キランは謝らなかった。
数秒後、相手は続ける。
「条件に適合した子供は、別の場所へ移送される」
「どこへ?」
「施設は複数ある」
「何のために?」
「分からない」
「医療実験?」
「分からないって言ってるだろ」
「じゃあ、何を知ってる?」
相手は躊躇する。
「あいつらは、子供たちを患者とは呼ばない」
キランは見つめる。
「実験対象とも呼ばない」
その言い方に、キランの胃が締めつけられた。
「何て呼ぶ?」
相手がキランを見る。
「在庫」
キランは何も言わなかった。
マッハさえ黙った。
在庫。
生徒ではない。
子供でもない。
患者でもない。
在庫。
キランの手が操作部を強く握る。
「三人はどこにいる?」
「生きてる」
他のすべてが消えた。
キランは相手を凝視する。
「確かなのか?」
「ああ」
「三人とも?」
「ああ」
「どうして分かる?」
「移送状況を確認した」
「どこにいる?」
「完全なシステムにはもうアクセスできない」
「そんなこと聞いてない」
「一時的な収容施設にいる」
「どこ?」
相手は答えない。
キランはMACH-01Aを前へ進めた。
威嚇するほどではない。
ほんの少し。
「どこ?」
「シトロン西部の工業地区」
「住所」
「渡す」
「今」
「その前に、もう一つ知っておく必要がある」
「三人の子供がどこかに監禁されてる。それだけで十分だ」
「今夜、移送される」
キランが固まった。
「何?」
「学校での作戦はもう終わりだ」
「今日の件で」
「ああ」
「偽の迎えが失敗した」
「ああ」
「警察が記録を持ってる」
「奴らも知ってる」
キランはマッハを見る。
「バックアップのことも?」
「それは分からない」
相手は首を振る。
「でも、シトロン・アカデミーが使えなくなったことは分かってる」
「だから全部片づけてる」
「そのとおり」
キランは消えていったファイルを思い出した。
カメラ。
火災警報。
空になった学校。
あれは証拠を消すためだけではなかった。
撤収準備だった。
「子供たちはどこへ?」
「分からない」
「いつ?」
「移送開始は午前0時」
キランは時間を見る。
10時11分。
二時間もない。
「住所を」
相手はジャケットから折り畳んだ紙を取り出した。
キランは思わず笑いそうになる。
「紙?」
「紙はハッキングできない」
マッハが答える。
「驚くほど合理的な対策です」
「ありがとう」
「褒めてはいません」
キランは紙を受け取る。
住所。
倉庫群。
建物番号。
手書きのアクセスコード。
そして、その下には——
三つのイニシャル。
行方不明の生徒たち。
キランは見つめる。
「この情報はいつの?」
「四十分前」
「警備は?」
「民間警備」
「何人?」
「分からない」
「武器は?」
「分からない」
「監視カメラ?」
「ある」
「ネットワーク接続?」
「おそらく独立系」
キランはすぐマッハを見る。
「警察に送って」
相手が飛び出すように一歩進む。
「待て!」
MACH-01Aが自動的に後退する。
キランは目を細めた。
「二度とそれやるな」
「警察が堂々と来たら、子供たちは移される!」
「僕一人で乗り込めって?」
「違う」
「よかった」
「もっとマシな方法を考えろ」
「それが計画?」
「学校のシステムが半分乗っ取られてる状態で、一人の生徒を連れ去られるのを防いだのはあんただ」
「僕は英語教師だ」
「なら教師らしくしろ」
キランは見つめる。
「どういう意味?」
「考えろ」
キランは反論しかける。
だが、やめた。
相手の言うことにも、一つだけ正しい部分がある。
武器がロックされた状態で、肺炎から回復中の自分が倉庫へ突撃するのは馬鹿げている。
一人で行くなら、なおさらだ。
かといって、パトカーの大群を正面玄関へ送り込めば、誘拐犯たちに子供を移動させる時間を与えるかもしれない。
「マッハ」
「はい?」
「学校の事件を監視してる連中に気づかれず、この住所を送れる?」
「可能です」
「警察が受信する時間をこっちで決められる?」
「可能です」
「追加の指示も?」
「可能です」
キランは相手を見る。
「警察を排除するんじゃない」
「来るのが見える」
「まだ来なければいい」
相手が眉をひそめる。
キランは続ける。
「まず建物を静かに監視する」
マッハが理解する。
「遠隔監視」
「それから出口、車両、人員を確認」
「介入前に包囲計画を構築する」
相手はキランを見る。
キランは肩をすくめる。
「僕、シェイクスピア教えてるから」
「それと何の関係が?」
「ほとんど何もない」
マッハが付け加える。
「彼は、自分の職業の有用性を疑問視されると防御的になります」
「黙れ」
かすかな音が駐車場に響いた。
全員が止まる。
カツン。
キランが振り向く。
「今の何?」
マッハは即答した。
「足音の可能性があります」
相手の表情が変わる。
「どこ?」
「上階」
沈黙。
そして——
カツン。
もう一度。
キランは六階へ続くスロープを見る。
「マッハ」
「受動センサーが動きを検出」
「何人?」
「不明です」
相手が後ずさる。
「違う……」
キランが見る。
「何?」
「違う、違う、違う……」
「落ち着いて」
「あんた、尾行されたな」
キランは眉をひそめる。
「されてない」
「一人で来いって言っただろ!」
「一人で来た」
「あいつらをここへ連れてきた!」
「移動中はマッハが監視してた」
マッハが答える。
「追跡を継続した車両はありません。航空追跡も検出していません。シトロン・アカデミーから継続して追従する電子信号も存在しませんでした」
相手の顔から血の気が引く。
キランは止まった。
何かに気づく。
相手はもうキランを見ていなかった。
スロープを見つめている。
「お前のことを言ってるんじゃない」
キランはゆっくり振り向く。
足音。
今度は一人ではない。
上から。
カツン。
カツン。
カツン。
相手がキランの方へ下がる。
「あいつら、俺を尾行してきた」
マッハの声が変わる。
「六階から複数名が降下中」
「何人?」
「少なくとも三名」
キランは操作部を握る。
「武器は?」
「判別不能」
相手が反対側のスロープを見る。
「逃げるぞ」
キランは動かない。
「何?」
「住所は渡した」
「子供たちは?」
「午前0時までは生きてる」
「お前が僕と会ったことを知られてなければな」
相手がキランを見る。
キランは理解した。
「もし、お前が喋ったと知られたら——」
「移送を早める」
マッハが言う。
「接近速度が上昇しています」
相手が振り向く。
「行け!」
キランはMACH-01Aを起動した。
派手なことは何も起きない。
プラズマキャノンは展開しない。
マッハ速度も使えない。
戦闘用スラスターもない。
ただ、通常の電動車椅子としての静かな駆動音が響くだけ。
これほど頼りなく聞こえたのは、久しぶりだった。
キランはシステム表示を見る。
戦闘モード――ロック
プラズマキャノン――ロック
高出力推進――ロック
「マッハ」
「はい?」
「さっき、これは戦争じゃなくて会談だって言ったよな?」
「はい」
スロープの上に一つの影が現れる。
次に、もう一つ。
そして三つ目。
キランは見つめた。
「会談は終わったみたいだ」
マッハのアバターが明るくなる。
「私も同じ結論に達しました」
最初の人影がスロープを下り始める。
キランはMACH-01Aを出口へ向けた。
相手もその横を走る。
三人の子供は生きている。
残された時間は二時間もない。
そして今、彼らを選んだ組織は、内部の人間が口を割ったことを知った。
キランは加速した。
背後から——
コンクリートを叩く足音が激しく響く。
救出作戦は、たった今、時間との競争に変わった。




