避難
「違う」
キランの言葉が、施錠された教室のドアとの間に残った。
「阻止してるんだ」
数秒間、ドアの向こうにいる人物は何も言わなかった。
怯えた生徒はキランの机の後ろに残り、入口を見つめている。
キランはMACH-01Aを、生徒とドアの間に置いたままにしていた。
プラズマキャノンはない。
戦闘システムも使えない。
高出力推進もない。
あるのは、数百キロの重量を持つ高性能車椅子と、頑固な英語教師一人、それから、この状況が最悪の方向へ転ぶ十七通りくらいの可能性を計算していそうなAIだけだった。
やがて、見知らぬ人物が口を開いた。
「話を必要以上に難しくしていますよ、キリアン先生」
「前にも言われたことあるよ」
「正式に許可された保護者が生徒を迎えに来ることを、あなたが妨害する法的権限はありません」
キランはディスプレイを見る。
改ざんされた生徒の記録が、まだ表示されている。
正式な迎えの登録者へ引き渡し済み
思わず笑いそうになった。
「あんたたちの記録じゃ、もう迎えに来て連れて帰ったことになってるけど」
沈黙。
「だったら、なんでまだここにいる?」
返事はない。
キランはかすかに笑った。
「だろうな」
生徒が囁いた。
「あの人たちを怒らせないで」
キランは振り返った。
「怒ってるようには聞こえないけど」
「だから怖いんです」
キランの表情が変わった。
生徒は怯えきっていた。
「あの人たち、怒らないんです」
キランは待った。
「ただずっと話し続けるんです。相手が信じるまで」
ドアが軽く叩かれた。
三回。
乱暴ではない。
脅すようでもない。
ただ——
コン、コン、コン。
「キリアン先生」
「嫌だね」
「まだ何を言おうとしていたのかも聞いていないでしょう」
「効率化を試してるんだ」
マッハがプライベート通信で言った。
「キラン」
「何?」
「学校の警備員が接近しています」
「やっとか」
「二名です」
「到着まで?」
「約九十秒」
キランの緊張がわずかに緩んだ。
ほんの少しだけ。
「よし」
見知らぬ人物が再びドアを叩いた。
「ドアを開けてください」
「嫌だ」
「あなたは誤解をさらに大きくしています」
「僕は自分の教室に座ってるだけだけど」
「生徒を教室に閉じ込めています」
キランの表情が変わった。
来た。
別の角度から攻めてきた。
生徒を守っているのではない。
生徒を監禁している。
キランは、相手が何をしているのかすぐ理解した。
物語を作っている。
「僕はこの生徒を閉じ込めていない」
外で録音されている可能性を考え、少し声を大きくした。
「この生徒は僕に助けを求めました。この教室から出たければ、いつでも自由に出られます」
生徒はキランを見つめた。
キランは続ける。
「本人の意思で、あんたと一緒に出ることを拒否してるんだ」
沈黙。
マッハがプライベート通信で言った。
「良い対応です」
「ありがとう」
「発言内容についてです」
「それでも褒められたことには変わりない」
見知らぬ人物が答える。
「その生徒は未成年です」
「そして、本当の母親からあんたに引き渡すなと言われてる」
間。
そして——
「母親と話したんですか?」
初めて、キランは相手の声から本物の感情を感じ取った。
驚き。
ほんのわずか。
だが確かにあった。
「ああ」
「どうやって?」
「電話だよ。画期的な発明だろ」
返事はない。
キランの目が細くなる。
それが気に入らなかったらしい。
好都合だ。
マッハが割り込む。
「警備到着まで六十秒」
キランは利用可能なカメラ映像で廊下を確認した。
制服姿の学校警備員二人が、メインホールを急いでいる。
「早く来い」
五十秒。
四十秒。
突然、一人が止まった。
もう一人がぶつかりそうになる。
キランは眉をひそめた。
「なんで止まった?」
マッハがネットワーク通信を解析する。
「少々お待ちください」
警備員二人が方向転換した。
反対方向へ走り始める。
キランは画面を凝視した。
「マッハ」
「確認しています」
「どこ行くんだ?」
「西棟です」
「なんで?」
突然、学校の緊急通知が表示された。
セキュリティ警報
西棟――武器所持の可能性あり
キランの背筋が冷たくなる。
「何だって?」
生徒にも聞こえた。
「どうしたんです?」
「まだ何も起きてない」
マッハが即座に警報を解析する。
「キラン」
「言って」
「通報は学校内部の緊急システムから発信されています」
「確認できる?」
「監視映像上、それに対応する事象は確認できません」
「職員からの報告は?」
「ありません」
「911への通報は?」
「確認中です」
数秒。
「この警報に対応する外部への緊急通報は確認できません」
キランはドアを見る。
「警備を別の場所へ誘導したんだ」
「私もそう判断します」
ドアの向こうの人物は、いつの間にか喋るのをやめていた。
キランは気づいた。
「マッハ」
「はい?」
「あいつは?」
「まだドアの外です」
キランは入口を見つめる。
「警備が来てることを知ってたのか?」
「その可能性が高いです」
「だから警備を反対方向へ」
「はい」
生徒が囁いた。
「あの人たちは全部操れるんです」
キランは振り返る。
「違う」
生徒が彼を見る。
「そう感じるだけだ」
「でも同じことじゃ……」
「違う」
生徒は納得していない。
正直、キラン自身も完全には納得できなかった。
突然、マッハが言う。
「対象が移動しています」
キランはすぐに監視映像を見る。
教室の外にいた人物がドアから離れた。
そして廊下を歩き去っていく。
急がない。
慌てない。
ただ去っていく。
キランは眉をひそめた。
「帰るのか?」
「そのように見えます」
生徒は首を振った。
「違う」
キランは見る。
「違う?」
「あの人たちは諦めません」
足音が遠ざかる。
静寂が戻った。
キランは待つ。
十秒。
二十秒。
三十秒。
何もない。
「マッハ?」
「断続的に追跡しています」
「どこへ向かってる?」
「東階段です」
「じゃあ帰るんだな」
「可能性はあります」
キランはその答えが気に入らなかった。
生徒も同じだった。
さらに三十秒。
そして——
ビィィィィィィィィィィィッ!
生徒が悲鳴を上げた。
キランも身体を跳ねさせる。
教室のドアの上で、赤い非常灯が点滅し始めた。
ビィィィィィィィィィィィッ!
火災報知器。
学校のスピーカーから自動音声が流れる。
「注意してください。火災発生が報告されました。全生徒および職員は、最寄りの指定避難経路を使用して直ちに校舎から避難してください」
キランは天井を見上げた。
「冗談だろ」
マッハはすでに確認を始めていた。
「消防設備を確認中」
警報が鳴り続ける。
ビィィィィィィィィィィィッ!
「煙感知器は?」
「作動なし」
「熱感知器?」
「正常」
「スプリンクラー?」
「待機状態」
「火元は?」
「火災を示す証拠は検出できません」
生徒がキランを見る。
「あいつらです」
キランはドアを見る。
当然だ。
中へ入れない。
なら全員を外へ出せばいい。
「マッハ、誤報だと確認できる?」
「自動火災検知システムが火災を検出していないことは確認できます」
「手動の非常ベルは?」
間。
「はい」
「場所は?」
「東階段」
あの人物が向かった場所。
キランは一瞬目を閉じた。
「やっぱりな」
避難放送が繰り返される。
「全生徒および職員は直ちに校舎から避難してください」
生徒の呼吸が速くなる。
「外に出ないと」
「いや」
「でも警報が——」
「まだだ」
キランは携帯電話を取り出した。
「まず確認する」
「キラン。実際に火災が発生している場合、校内に留まることは重大な危険を伴います」
「分かってる」
「私はそれを指摘する義務があります」
「分かってる」
「必要なら繰り返し——」
「それはやめて」
キランは事務室へ電話した。
応答なし。
もう一度。
誰も出ない。
警報は鳴り続ける。
廊下から、生徒や教師たちが出てくる音が聞こえ始めた。
ドアが開く。
声。
足音。
学校全体が避難を始めている。
まさに相手の狙いどおり。
キランは窓を見る。
まもなく何百人もの生徒が外へ集まる。
混雑。
混乱。
教師たちは点呼。
保護者が来る可能性もある。
緊急車両や職員も動き回る。
生徒一人を消すには完璧な環境。
キランのタブレットが鳴った。
ピン。
匿名メッセージ。
キランは画面を見る。
教室から出るな。
目が細くなる。
「最初の送信者?」
マッハが解析する。
「はい」
次のメッセージ。
火事じゃない。
キランはマッハを見る。
「それは安心だな」
「すでに得ていた結論を裏づけただけです」
三通目。
奴らが陽動してる教師は、あなただけじゃない。
キランが止まる。
「何?」
次のメッセージ。
たった三桁の数字。
214号室。
キランは画面を見つめた。
「マッハ」
「すでに検索中です」
シトロン・アカデミーの校内図が表示される。
214号室。
二階。
校舎の反対側。
「214は?」
「数学教室です」
「教師は?」
名前が表示された。
キランにも覚えがあった。
「これが僕らと何の関係がある?」
マッハが黙る。
そして——
「少々お待ちください」
改ざんされた生徒記録が表示される。
九人。
そのうち一人をマッハが強調表示した。
キランは凝視した。
「嘘だろ」
「事実です」
記録を改ざんされた別の生徒が、最終時限に214号室で授業を受けていた。
キランは机の後ろにいる生徒を見る。
「君だけじゃない」
生徒が唾を飲み込んだ。
「え?」
マッハが続ける。
「二人目の生徒は本日、出席として記録されています」
「まだ214にいる?」
「出席情報上では、はい」
「カメラは?」
「アクセスします」
映像が表示された。
誰もいない廊下。
生徒たちが避難している。
214号室のドアが開く。
数人の生徒が出てくる。
さらに続く。
最後に教師。
キランは画面を見る。
「対象の生徒は?」
「映像から識別中」
生徒たちが廊下を流れていく。
そしてマッハが映像を止めた。
「いました」
一人の生徒が教室の入口付近に立っている。
他の生徒と一緒に避難していない。
大人と話していた。
キランの胃が沈む。
「誰だ?」
「不明です」
大人は身分証のようなものを身につけている。
映像では文字までは読めない。
214号室の教師が近づき、何か話している。
大人が何かを見せた。
携帯電話。
あるいは身分証。
教師がそれを見る。
そして生徒を見る。
「マッハ」
「解析中です」
教師が頷いた。
大人が優しく生徒の肩に手を置く。
キランの表情が険しくなる。
「ダメだ」
その大人が生徒を連れて歩き始めた。
「マッハ、記録を確認して」
生徒のファイルが開く。
緊急連絡先。
変更済み。
迎えの許可。
十二日前に追加。
キランは歯を食いしばった。
「同じだ」
「はい」
「あの大人は?」
マッハが映像と迎えの登録情報を比較する。
「外見上、新たに追加された連絡先の身分証写真とおおむね一致します」
「また正式な迎えってわけか」
「はい」
キランは教室のドアを見る。
最初の人物は、もう無理やり中へ入ろうとはしていなかった。
その必要がなかったのだ。
キランはずっと、違うドアばかり見ていた。
「今まさにやってる」
「はい」
机の後ろの生徒が囁く。
「何を?」
キランは振り返った。
「別の生徒だ」
生徒の表情が変わる。
「他の子?」
キランは頷いた。
生徒の顔に恐怖が広がる。
「そんな……」
マッハが言う。
「対象の大人と生徒は北階段へ移動中です」
「教師に連絡できる?」
「学校のネットワークは侵害されています」
「電話は?」
「職員として公開登録されている内線番号は確認できますが、内部通話は監視される可能性があります」
キランは考える。
「警備は?」
「依然として偽の武器所持通報へ対応中です」
「警察は?」
「システムが正常に設定されていれば、火災警報によって緊急対応が開始される可能性があります」
「可能性?」
「確認中です」
キランはカメラに映るもう一人の生徒を見る。
もう階段のすぐ近く。
時間がない。
「教師に直接電話して」
「何を使いますか?」
「僕の携帯。外部の携帯回線」
マッハが発信する。
二回目の呼び出しで教師が出た。
「もしもし?」
「キランです」
「キラン? 今避難中なんだけど、何が——」
「今あなたの教室から出た生徒」
「その子がどうした?」
「誰と一緒です?」
「保護者だけど」
「違う」
沈黙。
「え?」
「学校の記録が改ざんされてる。その生徒を誰にも連れていかせないで」
「キラン、何を言って——」
「本人に聞いて」
「何を?」
「あの人を知ってるか」
教師は答えない。
双方の電話越しに警報音が聞こえていた。
やがて、向こうから小さな声。
「そこで待ってて」
教師が動き始めた。
キランはカメラ映像を見る。
教師が廊下を急ぐ。
階段へ。
大人と生徒はもうすぐそこだった。
「間に合え」
教師が追いついた。
何かを言う。
大人が振り返る。
音のない映像越しでも、変化が分かった。
教師が生徒を指す。
大人が落ち着いて何かを答える。
おそらく、また迎えの許可を見せている。
教師は首を振った。
生徒が大人から離れる。
大人が手を伸ばした。
教師が二人の間へ入った。
キランは息を吐いた。
「よし」
マッハが言う。
「対象の大人が離れます」
キランは見守った。
偽の保護者は言い争わない。
暴れない。
騒ぎもしない。
ただ背を向ける。
そして歩き去った。
最初の人物とまったく同じように。
キランの安堵はすぐに消えた。
「簡単すぎる」
「同意します」
警報はまだ鳴っている。
その時、キランの画面が切り替わった。
別の生徒記録。
現在の状況:正式な迎えの登録者へ引き渡し済み
214号室の生徒。
今も教師の隣に立っている姿がカメラに映っているのに。
「まただ」
「はい」
「もう連れていったことにしてる」
「はい」
キランは画面を見つめた。
机の後ろにいる生徒が静かに聞く。
「何人?」
キランは答えなかった。
「何人の子に、こんなことしてるんですか?」
キランは改ざんされた九人の記録を見る。
そして、すでにシトロン・アカデミーから姿を消した三人。
分からない。
それこそが問題だった。
突然、マッハが割り込む。
「キラン」
「何?」
「最初の送信者から再び連絡です」
匿名メッセージ。
よくやった。
続いて——
一人は止めた。
キランは見つめる。
三通目。
でも、まだ分かってない。
キランは眉をひそめた。
「何が?」
まるで聞こえていたかのように、次のメッセージが届く。
火災警報は、あなたの生徒を外へ出すためじゃない。
キランの身体が止まった。
生徒も画面を見つめている。
次のメッセージ。
学校を空にするためだ。
キランの胃が沈んだ。
教室の窓を見る。
何百人もの生徒が運動場や駐車場へ流れ出している。
教師。
職員。
ほとんど全員が外。
ほとんど。
キラン。
彼の生徒。
214号室の教師。
もう一人の標的になった生徒。
そして——
「マッハ」
「はい?」
「最初の奴はどこ?」
マッハが利用可能な映像を検索する。
何もない。
「最後に確認できた場所は?」
「東階段です」
「その後は?」
「映像上では確認できません」
キランはドアを見る。
「二人目は?」
マッハが検索する。
見つからない。
「214号室から離れた後、監視範囲から消失しました」
キランの目が細くなる。
二人の見知らぬ人物。
どちらもまだ校内にいる可能性がある。
ほとんどの生徒と職員は外。
警備は別の場所へ誘導された。
カメラは侵害されている。
ドアは遠隔操作されている。
キランはようやく理解した。
「あいつら、生徒を外に出したかったんじゃない」
マッハが静かに答える。
「はい」
背後の生徒が囁いた。
「じゃあ……何が目的なんです?」
キランが答えるより先に——
カチッ。
教室の電子ロックが解除された。
全員が凍りついた。
ゆっくりと——
ドアノブが回り始めた。




