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家に帰さないで

メモはキランの机の上に開かれたままだった。

家に帰さないでください。

キランは何度も読み返しすぎて、もはや文字が文字に見えなくなりそうだった。

たった四つの言葉。

生徒が彼に残したのは、それだけだった。

ノートから破り取った紙に、急いで書かれた四つの言葉。

だが、その四つだけで状況は完全に変わってしまった。

キランは教室のドアへ目を向けた。

その向こうの廊下は、もうほとんど空になっている。

生徒たちは帰宅していた。

教師たちも一日の仕事を終えようとしている。

その人混みのどこかに、誰にも気づかれずこのメモを机へ置いた生徒がいる。

「マッハ」

「はい?」

「あの子は家に帰さない」

「そう言うと予測していました」

キランはもう一度メモを見た。

「問題は、どうやって残すかだ」

「学校の規則上、簡単ではありません」

「もちろんそうだろうな」

「生徒が校内から出ることを、あなたの判断だけで阻止することはできません」

「分かってる」

「正式に登録された保護者が迎えに来た場合——」

「分かってる」

「私があなたの知っていることを説明するたびに遮るのであれば、この会話は著しく非効率になります」

キランは顔をしかめた。

「どっちの味方なんだ?」

「あの生徒です」

キランは黙った。

三秒ほど。

「分かった」

メモを折り畳む。

「怪しまれずに学校へ残せる、正当な理由が必要だ」

「監視している人物にも気づかれない理由が」

「そのとおり」

マッハのアバターがわずかに首を傾ける。

「補習」

キランは彼を見る。

「何?」

「あなたは教師です」

「知ってる」

「あの生徒には助けが必要です」

「勉強で必要かは分からないぞ」

「学業上の、という意味です」

「ああ」

キランは考えた。

そして笑った。

「それ、かなりいいな」

「私は頻繁に優秀です」

「台無しにするな」

キランは学校の学習管理システムを開いた。

あの生徒の成績は悪くない。

完璧ではないが、十分良い。

ただし、一つだけ未提出の課題があった。

キランの笑みが広がる。

「見つけた」

「未提出課題が一つ」

「そして僕は、生徒の学力を心から心配する熱心な教育者だ」

「楽しそうに言う内容ではありません」

「教育に情熱を持ってるからな」

「宿題を利用して緊急事態を隠蔽しようとしています」

「情熱的にな」

キランは放課後学習支援の申請フォームを開いた。

生徒補習セッション

科目:英語

理由:未提出課題/補習

担当教師:キラン・キリアン

セッションを登録する。

処理中、マッハがネットワークを監視した。

承認済み

キランは背もたれへ身体を預けた。

「よし」

「これで、あの生徒には正式に校内へ残る理由ができました」

「迎えに来る奴にも、すぐには理由が分からない」

マッハが少し黙った。

「その想定は早計かもしれません」

キランの笑顔が消えた。

「何?」

通知が表示された。

匿名メッセージではない。

学校の管理ポータルからだった。

申請受信:放課後セッションをキャンセル

キランは画面を見つめた。

「僕はキャンセルしてない」

「分かっています」

キャンセル申請が消えた。

そして再び現れた。

申請受信:放課後セッションをキャンセル

キランの目が細くなる。

「誰かがキャンセルしようとしてる」

「はい」

「できるのか?」

「あなたの承認なしにはできません」

新しいウィンドウが現れた。

キャンセルを承認しますか?

はい/いいえ

キランは即座にいいえを押した。

ウィンドウが消える。

三秒後。

また現れた。

キャンセルを承認しますか?

キランは再びいいえ。

また出る。

「いいえ」

押す。

また。

「いいえ」

もう一度。

「いいえ」

マッハが言った。

「あなたの意思は十分伝わったと思われます」

「向こうはそう思ってないらしい」

また表示される。

キランはじっと見た。

そしてゆっくり笑った。

「よし」

「その表情は不安になります」

「このセッションをロックできる?」

「記録に管理保護を要求できます」

「やって」

マッハが処理する。

セッションをロックしました

変更には担当教師の承認が必要です

キャンセル申請が止まった。

キランは待った。

五秒。

十秒。

何もない。

「よし」

その瞬間、タブレットが鳴った。

キランの笑顔が消える。

匿名メッセージ。

キャンセルしろ。

キランは画面を見つめた。

マッハが即座に解析を始める。

「どっちの送信者?」

「どちらでもありません」

キランはマッハを見る。

「何?」

「このメッセージは、最初に警告を送信した人物とも、隠し装置を通じて会話した人物とも、デジタル上の特徴が完全には一致しません」

キランは背もたれへ身体を預けた。

「最高だな」

「第三者である可能性があります」

「まさに欲しかった展開だよ」

「皮肉を検出しました」

「おめでとう」

キランはもう一度メッセージを見る。

キャンセルしろ。

しなかった。

代わりにタブレットを閉じた。

「そこまで必死になる理由を調べよう」

十分後、生徒が戻ってきた。

教室の入口で立ち止まる。

キランは書類を整理しているふりをした。

「入って」

生徒はためらった。

「通知が来ました」

「補習の?」

警戒しながら頷く。

キランは未提出の課題を持ち上げた。

「これ、終わってないだろ」

生徒はキランを見る。

課題を見る。

そして再びキランを見る。

徐々に理解したような表情になった。

キランは普段どおりの声を保つ。

「見過ごすわけにはいかないな」

生徒は教室へ入った。

近づくまで待つ。

そして小声で言った。

「メモは読んだ」

恐怖が即座に戻る。

「言わないで——」

「今は何も聞かない」

生徒はカメラへ目を向けた。

キランはそれを見逃さなかった。

「だから、システムに登録されているとおりのことをしよう」

課題を机へ置く。

「英語の補習だ」

生徒はキランを見つめた。

「本気ですか?」

「残念ながら」

生徒から小さな笑いが漏れた。

キランがその生徒から、笑いに近いものを見たのは初めてだった。

「座って」

生徒は座った。

キランは課題の説明を始めた。

数分間、本当に勉強した。

謎もない。

監視もない。

囁き声での質問もない。

ただシェイクスピアだけ。

マッハは周囲をスキャンしながら黙っていた。

やがて生徒の緊張が少しだけ和らいだ。

キランは違った。

「マッハ」

「はい?」

「あの子の緊急連絡先を確認して」

少し間が空く。

「その情報は保護されています」

「僕は担当教師だ」

「アクセス権限は限定されています」

「許可されてる範囲だけでいい」

「了解しました」

キランは課題の説明を続けた。

マッハは静かに、アクセス可能な学校記録を開く。

そして止まった。

キランはその沈黙に気づいた。

それでも説明を続ける。

「だから、この人物の動機を分析するときは——」

プライベート通信で尋ねる。

「何?」

「この生徒の緊急連絡先情報が変更されています」

キランは表情を変えなかった。

「いつ?」

「九日前です」

キランは頭の中で計算した。

入院していた時期だ。

「誰が変更した?」

「管理上の更新として記録されています」

「誰によって?」

「特定の職員アカウントが紐づけられていません」

普通ではない。

「何が変わった?」

マッハが過去の記録をプライベート画面へ表示する。

以前の緊急連絡先

そして現在のもの。

名前が違う。

電話番号も違う。

第二連絡先も違う。

迎えを許可された人物のリストまで変更されていた。

キランの胃が締めつけられる。

「住所は?」

「変更されています」

さすがに集中が途切れそうになった。

それでもキランはシェイクスピアの話を続けた。

「全部?」

「すべてではありません。しかし、十分な範囲です」

「古い情報は残ってる?」

「はい」

「保存して」

「すでに完了しています」

キランは生徒へ視線を向けた。

読んでいるふりをしている。

知っているのかもしれない。

知らないのかもしれない。

監視されている可能性がある以上、尋ねることはできなかった。

「マッハ」

「はい?」

「変更が承認された時間は?」

「少々お待ちください」

数秒。

「九日前の午前11時32分に承認されています」

「誰が?」

「シトロン・アカデミー管理部門」

「曖昧すぎる」

「異常なほどに」

「処理した職員を特定できる?」

「試みています」

キランは補習を続けた。

一分後、マッハが言った。

「職員による処理記録がありません」

キランは危うく止まりそうになった。

「どういうこと?」

「承認記録そのものは存在します。しかし、それに対応する職員の認証記録がありません」

「つまり?」

「システム上では、誰かが変更を承認したことになっています」

「でも実際には誰もしてない」

「そのとおりです」

キランの視線が教室のコンピューターへ向く。

侵害された学校ネットワーク。

無許可のカメラ。

改ざんされた記録。

すべてが繋がり始めていた。

「古いバックアップも調べて」

「時間が必要です」

「やって」

マッハが検索を始める。

生徒が顔を上げた。

「キリアン先生?」

キランは意識を戻す。

「うん?」

「大丈夫ですか?」

「完璧」

生徒はじっと見る。

「その顔してます」

「どの顔?」

「先生が、何も問題ないふりしてる時の顔」

キランは少し考えた。

「もっといい顔を練習しないとな」

生徒はまた少しだけ笑いそうになった。

「たぶん」

そしてドアを見る。

笑みが消えた。

キランは気づいた。

「いつも迎えは何時?」

生徒の身体が固まった。

キランはすぐに聞いたことを後悔した。

「答えなくてもいい」

何も言わない。

「今は宿題をしてるだけだから」

生徒は下を向いた。

「三時半です」

キランは時計を見る。

3時11分。

あと十九分。

「分かった」

生徒が鉛筆を強く握る。

「僕を帰らせるんですか?」

キランは声を落とした。

「いや」

生徒が顔を上げる。

初めて、キランは明確な答えを与えた。

「帰らせない?」

「帰らせない」

「でも、あいつらが来たら——」

「その時に対処する」

「先生は分かってない」

「そうだな」

キランは誤魔化さなかった。

「分かってない」

その答えが意外だったのか、生徒は驚いたように彼を見る。

「でも、君が怖がってることは分かる」

沈黙。

「そして理由が分かるまでは、君自身が安全じゃないと思っている場所へ、僕の判断で帰すつもりはない」

生徒は視線を落とした。

「ありがとう」

ほとんど聞こえない声。

だがキランには聞こえた。

大げさな反応はしなかった。

「どういたしまして」

マッハがプライベート通信で割り込む。

「キラン」

「何?」

「発見しました」

リストがディスプレイに表示される。

一人ではない。

複数の生徒。

キランは見つめた。

「何だ、これ?」

「同じ管理経路を利用して変更された生徒記録です」

キランの視線が一覧を追う。

住所。

緊急連絡先。

迎えを許可された人物。

出欠記録。

違う生徒。

違う学年。

違う日付。

「何人?」

「現時点で七人」

キランの胃が沈んだ。

「七人?」

「増加中です」

新しい記録。

八人。

そして九人。

キランは画面を見つめた。

「一人の問題じゃない」

「はい」

マッハはバックアップとの比較を続ける。

「一部の変更は非常に小さく、通常の確認では見逃される可能性が高いです」

電話番号の一桁。

部屋番号。

削除された緊急連絡先。

新たに追加された迎え許可者。

変更された下校許可。

「いつから?」

「確認できる最も古い変更は約六週間前です」

キランはデータを見つめた。

肺炎になるよりずっと前。

「なんで誰も気づかなかった?」

「過去の記録と直接比較しない限り、すべて正規の情報に見えます」

「普通は比較する理由がない」

「そのとおりです」

キランの目が鋭くなる。

「今まではな」

マッハが続ける。

「キラン」

「何?」

「この一覧にいる一人は転校しています」

「いつ?」

「三週間前です」

「どこへ?」

「現在のシステムには記載されていません」

別の名前。

「こちらの生徒は十一日連続で欠席しています」

「理由は?」

「家庭の事情」

「曖昧だな」

「はい」

キランは向かいに座る生徒を見る。

突然、あのメモの意味がさらに重くなった。

家に帰さないでください。

助けを求めた生徒は、この子が初めてではないのかもしれない。

ただ、キランまで助けを求めることができた最初の一人なのかもしれない。

「マッハ」

「はい?」

「全部保存して」

「すでに実行中です」

「学校のネットワークの外に」

「同意します」

「複数のコピーを」

「すでに開始しています」

キランはゆっくり息を吐いた。

その時——

ピン。

タブレットが鳴った。

匿名メッセージ。

キランは見る。

キャンセルするべきだった。

生徒にも音が聞こえた。

勢いよく顔を上げる。

キランはすぐに画面を伏せた。

遅かった。

生徒の呼吸が変わる。

「あいつら、知ってる」

キランは落ち着いた声を保った。

「かもしれない」

「僕がここにいるって知ってる」

「まだ分からない」

「知ってるんです」

生徒が立ち上がる。

「行かなきゃ」

「ダメだ」

「行かないと——」

「君は僕に、家へ帰さないでくれって頼んだ」

生徒が止まる。

「だから帰さない」

「あいつらがここに来る」

キランは生徒を見る。

「誰が?」

答えはない。

「誰が来る?」

生徒の表情が強張る。

答えようとした、その時。

マッハがプライベート通信で言った。

「キラン」

「何?」

「車両が教職員用駐車区域へ入りました」

「それが?」

「教職員用の駐車許可がありません」

キランの目が細くなる。

「ナンバーは?」

「照合中です」

生徒が窓へ向かった。

キランは気づく。

「待って」

だが、もう外を見ていた。

全身が固まる。

顔から血の気が引いた。

キランはすぐに近づいた。

「どうした?」

生徒は窓から後ずさる。

「いやだ」

キランも外を見る。

暗い色の車が校舎脇の入口近くに停車していた。

特に目立つ車ではない。

明らかな危険もない。

ただの車。

「いつもの迎え?」

生徒は首を振る。

あまりにも激しく。

「あの車を知ってる?」

答えはない。

助手席のドアが開いた。

誰かが降りてくる。

ここからでは詳しく見えない。

大人。

普通の服装。

落ち着いた動き。

学校へ忍び込もうとしている人間には見えない。

むしろ、自分にはそこへ来る権利があると信じている人間の動きだった。

マッハが言った。

「キラン」

「何?」

「車両の登録所有者が、この生徒の現在の緊急連絡先に登録されている人物と一致しました」

キランの表情が変わった。

改ざんされた記録。

存在しない職員による承認。

生徒はさらに後ずさる。

「いやだ」

キランは振り返る。

「大丈夫」

「いや……いや、いや……」

「落ち着いて」

「あいつらが来た」

その言葉はほとんど聞き取れないほど小さかった。

キランは外を見る。

大人が校舎へ近づいてくる。

「誰?」

生徒は答えない。

「君の両親?」

生徒が勢いよくキランを見る。

「違う」

即答だった。

キランは待った。

生徒はもう一度窓を見る。

その顔にあるのは純粋な恐怖。

そしてキランへ戻す。

「違う」

声が震えていた。

「あいつらが……」

生徒は唾を飲み込んだ。

「あいつらが、僕が家に帰れない理由なんです」

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