返事をするな
歪んだ声が、壁の中に隠された小さなスピーカーから響いた。
「キリアン先生」
キランは微動だにしなかった。
「あなた、本当に人の話を聞かないんですね」
倉庫が急に狭くなったように感じられた。
キランの背後では、金属製の棚が壁から半分ほどずらされたままになっている。箱や古い教科書に囲まれた中、乱雑に切り開かれた壁の穴では、露出した装置が赤い光を点滅させていた。
マッハがプライベート通信で話しかける。
「まだ返事をしないでください」
キランは装置を見つめた。
「なんで?」
「接続を解析しています」
スピーカーから再びノイズが走る。
「何も言うことはありませんか?」
キランは片眉を上げた。
「山ほどある」
「キラン」
「何?」
「返事をしないよう、明確にお願いしたはずですが」
「待っただろ」
「3.2秒です」
「もっと長く感じた」
マッハは、人工的なため息としか思えない音を漏らした。
キランは装置へ少し近づく。
「さて」
ノイズ。
「学校にカメラを仕掛けてるな」
返事はない。
「僕の教室にも入った」
まだ何もない。
「それに、生徒の一人を監視してる」
ようやくスピーカーが反応した。
「質問が多すぎます」
「英語教師だからな。職業病だ」
「危険な質問もあります」
「学校に隠しカメラを仕掛けるのも危険だけどな」
間が空く。
キランは続けた。
「僕の生徒を脅したな」
「違います」
返答は即座だった。
キランの表情が変わる。
「違う?」
「私たちは誰も脅していません」
「面白いな。子供に『話すな』なんてメッセージを送るのは、普通なら友好的な励ましとは呼ばないけど」
「あなたは状況を誤解しています」
「なら説明してくれ」
沈黙。
キランはプライベートディスプレイへ視線を向けた。
マッハがネットワーク図を展開している。
隠された装置は、シトロン・アカデミー各所の複数のアクセスポイントを経由して通信していた。
マッハが追跡を開始する。
一つ。
次。
さらに次。
キランは再びスピーカーへ意識を戻した。
「誰なんだ?」
「それは重要ではありません」
「僕には重要だ」
「近づくなと言われたはずです」
「正確には、放課後に残るなと言われた」
「それで十分だったはずです」
「あれを送ったのはあんたか?」
沈黙。
キランは気づいた。
マッハも。
最初の警告。
違う送信者。
違う手口。
今話している相手は、あのメッセージを送っていない。
キランは少し身を乗り出した。
「違うな」
ノイズが走る。
「あのメッセージを送ったのは、あんたじゃない」
装置が静まり返った。
キランがわずかに笑う。
「引っかかったな」
「あなたには何も分かっていません」
「十分分かったよ」
マッハがプライベート通信で言った。
「続けてください」
キランは瞬きをした。
「喋るなって言ってなかった?」
「判断を変更しました」
「理由は?」
「もう少し時間が必要です」
キランは理解した。
マッハが追跡している。
ならばキランがやるべきことは、教師が最も得意とすることだった。
相手に喋らせ続ける。
「単純にしよう」
キランはMACH-01Aへ身体を預けた。
「あんたたちはシトロン・アカデミーを監視してる。僕の教室に機器を仕掛けた。学校のネットワークにも侵入した。そして僕の生徒の一人を見張ってる」
「決めつけすぎです」
「間違ってるなら訂正してくれ」
返事はない。
「どの生徒だ?」
沈黙。
「今日、僕に話しかけた子か?」
スピーカーからノイズが鳴る。
「あの生徒には近づかない方がいい」
出た。
キランの表情が険しくなる。
「なぜ?」
「あなたには助けられません」
「僕のことをよく知らないみたいだな」
奇妙な間があった。
そして——
「十分知っています」
キランから冗談めいた表情が消えた。
マッハも一瞬、追跡を止めた。
キランはそれを見逃さなかった。
「具体的に何を知ってる?」
「あなたは数日間、学校を休んでいた」
「別に機密情報じゃない」
「今朝、復帰した」
「それも大した情報じゃない」
「7時41分に到着」
キランの目が細くなる。
「教室へ入る前、廊下で四分間過ごした」
声は続く。
「途中、二度立ち止まって生徒と話した」
キランは何も言わなかった。
「最初の授業は三分遅れて始まった」
「生徒が僕の復帰を喜んでくれたからな」
「9時17分、水を飲んだ」
倉庫の空気が急に冷たくなったように感じられた。
「10時06分、教室を出た」
キランの手がMACH-01Aの操作部をわずかに強く握る。
「10時14分、戻ってきた」
「マッハ」
「聞いています」
「いつから僕を追跡してる?」
「不明です」
代わりに声が答えた。
「十分前から」
キランは装置を睨んだ。
もう単なる脅しではない。
監視だ。
それも、詳細な監視。
「なぜ?」
返事はない。
「何が目的だ?」
「邪魔をやめることです」
「何の邪魔?」
沈黙。
「あの生徒のことか?」
赤いランプが点滅する。
キランはそれを見つめた。
「あの子に何が起きてる?」
「あなたは状況を悪化させています」
「誰にとって?」
返事はない。
「あんたにとって?」
何もない。
「あの生徒にとって?」
ノイズ。
キランの目が細くなる。
その反応だけで十分だった。
「僕に何か見つけられるのが怖いんだな」
「何でも自分が中心だと思っているようですね」
「違う」
キランの声が低くなる。
「中心にいるのは僕の生徒だ」
声は答えない。
「そして、あんたが理解してないのはそこだ」
突然、マッハが通知を表示した。
追跡――63%
キランは続ける。
「あの子が危険な目に遭ってるなら、僕は手を引かない」
「引くべきです」
「無理だな」
追跡――71%
「すでに警告したはずです」
「警告したのは別人だ」
沈黙。
追跡――78%
キランは笑った。
「それが気に入らないんだろ?」
「自分が誰を相手にしているのか分かっていない」
「そうだな」
追跡――82%
「でも、今調べてるところだ」
間。
そして声が言った。
「マッハに、探すのをやめろと伝えてください」
キランの身体が固まった。
マッハの追跡も止まる。
会話が始まって以来初めて、キランから皮肉が消えた。
声は続けた。
「そこにいることは分かっています」
キランは装置を見つめた。
マッハは黙っている。
「どうしてマッハのことを知ってる?」
「追跡をやめてください」
プライベートディスプレイが点滅する。
追跡――84%
マッハは続けていた。
「マッハ」
「停止しません」
「追跡してることがバレてる」
「いずれ気づかれることでした」
86%
声が鋭くなる。
「やめろ」
キランは答えない。
89%
「マッハ?」
「追加の中継地点を四つ検出」
91%
「突破できる?」
「試行中です」
装置の赤いランプが激しく点滅し始める。
声が再び響いた。
「家にいればよかったんですよ、キリアン先生」
94%
キランは目を細めた。
「ああ」
96%
「最近、そればっかり言われてるよ」
98%
その瞬間——
スピーカーから凄まじいノイズが炸裂した。
キランは思わず身を引いた。
ランプが消える。
マッハの表示が変わった。
接続消失
追跡失敗
「くそ」
キランは沈黙した装置を睨んだ。
「どこまで行った?」
「非常に近いところまで」
「数字で」
「98.7%です」
キランは頭を後ろへ預けた。
「そこは丸めてくれないの?」
「具体的な数字の方があなたを苛立たせると思いました」
「苛立ったよ」
「ならば、失敗から一つは成果を得られました」
キランは笑いそうになった。
だが、すぐに表情が戻る。
「あいつら、お前のこと知ってた」
「はい」
「僕がAIを使ってるってだけじゃない。お前が今まさに追跡してることまで知ってた」
「はい」
「どうやって?」
「現時点では不明です」
キランは教室へ続く倉庫の扉を見る。
問題は一気に大きくなった。
「お前自身にアクセスできる可能性は?」
「現時点で、それを示す証拠はありません」
「現時点」
「はい」
「その言葉嫌いだ」
「嘘をつくよりは好ましいでしょう」
キランは沈黙した装置をもう一度見る。
「触るなよ」
「同じことを言おうとしていました」
「警備を呼ぶ必要がある」
「同意します」
「警察も」
「それにも同意します」
キランは倉庫から後退し始めた。
その時——
ピン。
通知が表示された。
キランは止まった。
「お前だって言ってくれ」
「私ではありません」
以前と同じ匿名システムを通じてメッセージが届いていた。
マッハが即座に解析する。
キランは画面を見つめた。
返事をするな。
続けてもう一通。
あいつらには全部聞こえてる。
キランの目がわずかに見開かれる。
「同じ奴?」
「解析中です」
三通目。
僕はあなたを助けようとしてる。
マッハの解析が終わる。
「はい」
キランは彼を見る。
「最初の送信者?」
「最初の警告を送信した人物と、デジタル上の特徴が一致します」
キランはメッセージを読み返した。
返事をするな。
あいつらには全部聞こえてる。
僕はあなたを助けようとしてる。
キランはすぐに返信を入力した。
君は誰だ?
送信する直前、マッハが止めた。
「おすすめしません」
キランは文章を見る。
そして削除した。
「分かったよ」
「予想外に合理的ですね」
「慣れるなよ」
新しいメッセージが届く。
カメラを信用するな。
キランは眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「不明です」
さらに一通。
学校のネットワークも信用するな。
キランは教室を見た。
すべてが突然、違って見えた。
コンピューター。
カメラ。
スピーカー。
タブレット。
電子ロックさえも。
すべて接続されている。
すべて侵害されている可能性がある。
最後のメッセージが届いた。
それから、僕の話を聞いていることを、あいつらに知られるな。
そして接続は消えた。
マッハが追跡を試みる。
何もない。
キランはしばらく黙っていた。
「つまり」
「はい?」
「謎の人物が学校を監視してる」
「はい」
「そして別の謎の人物が、学校を監視してる謎の人物を監視してる」
「単純化しすぎです」
「でも合ってる?」
マッハは一拍置いた。
「不気味なほどに」
キランは額を押さえた。
「仕事に復帰してまだ一日だぞ」
「厳密には、一日も経過していません」
「ありがとう。気が楽になった」
数分後、昼休み終了のチャイムが鳴った。
そしてキランは、マッハさえ驚くことをした。
授業をした。
調査しない。
廊下で管理職を問い詰めない。
大げさな告発もしない。
怪しい電子機器を発見したことだけを、怯えた生徒については触れずに、学校の警備へ慎重に報告した。
そして授業へ戻った。
誰かが見ているのなら、有益な情報は何一つ与えない。
午後はひどく長く感じられた。
今では、すべてのカメラが気になった。
すべてのコンピューター。
すべての通知。
生徒がスマホを見るたびに、キランもそちらへ目を向けてしまう。
怯えた生徒は授業に残っていた。
静かだった。
一度もキランを見なかった。
キランも近づかなかった。
まだだ。
もし謎の監視者が、キランがすぐにその生徒を呼び出すと予想しているなら、そうすることで警告が効かなかったと知らせるだけだ。
だからキランは待った。
それは、この日最も難しいことの一つだった。
やがて最後のチャイムが鳴った。
生徒たちが廊下へ流れ出していく。
キランは机の後ろに残り、書類を整理していた。
マッハがネットワークを監視する。
「異常はありません」
「それが異常だな」
「そう答えると予測していました」
キランは一枚の紙をフォルダーへ入れた。
一人の生徒が机へ近づく。
「キリアン先生?」
キランは顔を上げた。
「うん?」
「課題です」
数枚の紙が机に置かれる。
「ありがとう」
次の生徒。
さらに次。
いつもの放課後の混乱。
やがて教室は空になった。
キランは後方を見る。
怯えていた生徒はいない。
会話もなかった。
目も合わなかった。
何もない。
それでよかったのかもしれない。
キランは再び書類へ目を戻した。
そして止まった。
紙の下に何かがある。
折り畳まれたノート用紙。
自分が置いたものではない。
「マッハ」
「確認しています」
「スキャン」
「電子機器は検出されません」
キランは紙を開いた。
急いで書いたような文字が四つの言葉を作っていた。
キランは一度読む。
そしてもう一度。
胃の奥が締めつけられた。
家に帰さないでください。
キランの顔から冗談めいた表情が完全に消えた。
マッハも黙っている。
キランは誰もいない教室の入口へ視線を向けた。
あの生徒が怖がっていたのは、学校に残ることではなかった。
学校を出ることだった。




