放課後
チャイムが鳴った。
二十八人の生徒が一斉にキラン・キリアンの教室から脱出しようとした。
「宿題」
キランが騒ぎの中へ声を飛ばす。
教室中から一斉にうめき声が上がった。
「そう、宿題。どうやら肺炎になっても、宿題を出す癖までは治らなかったらしい」
さらに不満の声が返ってくる。
リュックのファスナーが閉められる。
本が勢いよく閉じられる。
椅子が床を擦る。
わずか数秒で、教室は整然とした教育の場から、統制された避難現場へと変貌した。
キランは教室の前方に留まり、生徒たちを見ていた。
正確には、一人の生徒を見ていた。
授業中、彼をじっと見つめていた生徒。
声を出さず、二つの言葉を口の動きだけで伝えてきた生徒。
助けて。
その生徒は急いで荷物をまとめていた。
あまりにも急いでいた。
何度もドアへ視線を向けている。
「キラン」
マッハがプライベート通信で呼びかけた。
「見えてる」
生徒がノートをリュックへ押し込む。
キランは話をしなければならなかった。
だが授業中に起きたことを考えれば、その生徒だけを呼び止めるのは最悪の選択だった。
謎のネットワーク接続は、その生徒がキランへ意思を伝えようとしたわずか数秒後に切断された。
誰かが見ていた。
問題は、どうやって。
そして、どこから。
キランは教室を見渡した。
「そうだ。みんなが消える前に——」
生徒たちが止まった。
疑いに満ちた声があちこちから上がる。
キランは笑った。
「五人、手伝ってくれる人が必要だ」
誰も動かない。
「興味深いな」
沈黙。
「五人」
ドアの近くにいた生徒が、ゆっくり手を挙げた。
「何するんですか?」
「ちょっとした整理」
手が即座に下がった。
「そうなると思った」
キランは指を差した。
「君」
「えっ!?」
「君」
「先生!」
「君」
「差別だ!」
「それから……」
キランはわざとゆっくり教室を見回した。
そして、あの怯えた生徒を指す。
「君」
生徒の表情が変わった。
ほんのわずかに。
だがキランは見逃さなかった。
「あと、君」
もう一人を選んだ。
合計五人。
特定の一人だけを不自然に残してはいない。
キランがさらに「志願者」を発見する前に、残りの生徒たちは逃げるように教室を出ていった。
「裏切り者め」
選ばれた一人が呟いた。
キランはドアが閉まるのを待った。
「安心しろ。そんなに長くは残さない」
「どのくらい?」
「五分」
「先生の五分ですか? 本当の五分ですか?」
キランはじっと見た。
「傷つくなあ」
「じゃあ先生の五分だ」
マッハがプライベート通信で言った。
「十二分と予測します」
「誰も聞いてない」
生徒たちが笑った。
いい。
普通だ。
キランは教室内の簡単な作業を割り振った。
本を整える。
教材を片づける。
紙の束を移動させる。
ホワイトボードを消す。
重要な仕事は何もない。
そして何より、状況を不自然に見せるものもない。
キランは怯えた生徒から目を離さなかった。
ほとんど口を開かない。
本棚を整理する手がわずかに震えていた。
数分後、キランは一人目を帰した。
次にもう一人。
さらにもう一人。
すべて無作為に見えるようにした。
やがて二人だけが残った。
キランは最後に残った無関係な生徒を見る。
「もういいよ。ありがとう」
「追加点もらえます?」
「ダメ」
「じゃあ志願した意味は?」
「君、志願してないだろ」
「あ。そうだった」
その生徒も出ていった。
ドアがカチリと閉まる。
静寂。
残ったのはキランと、怯えた生徒。
そしてマッハ。
生徒の身体が固まった。
キランはすぐには近づかなかった。
これ以上怖がらせたくない。
代わりに、机の上にある紙を何枚か何気なく手に取った。
「僕に助けを求めたね」
生徒の目が見開かれた。
「そんなこと——」
「ごまかさなくていい」
視線がドアへ飛ぶ。
キランはそれに気づいた。
「言いたくないことまで無理に話させるつもりはない」
返事はない。
「でも、君が何か危険な状況にいるなら、助けるために最低限のことは知る必要がある」
生徒は唾を飲み込んだ。
「先生には無理です」
「挑戦状に聞こえるな」
「本気です」
「僕もだ」
生徒の手がリュックの肩紐を強く握る。
キランは声を落とした。
「誰を怖がってる?」
答えはない。
「他の生徒?」
沈黙。
「教師?」
それでも何もない。
「学校の外にいる誰か?」
生徒の表情が変わった。
ほんのわずか。
だが確かに。
マッハは即座に、その反応をキランのディスプレイ上で強調表示した。
キランは気づかないふりをする。
「分かった」
それ以上追及するのをやめた。
「まだ名前は言わなくていい」
生徒がキランを見る。
キランは続けた。
「何が起きているのかだけ教えてくれ」
唇が開く。
だが声は出ない。
そしてようやく、ほとんど囁き声で言った。
「僕が誰かと話すと……あいつらには分かるんです」
キランの背筋に冷たいものが走った。
「誰に?」
生徒は首を振った。
「分からない。ただ……分かるんです」
「どうやって?」
「分かりません」
「スマホ?」
生徒は反射的にポケットを見た。
それで十分だった。
キランは気づいた。
マッハも。
「端末をスキャンしますか?」
マッハがプライベート通信で尋ねる。
「まだだ」
生徒が一歩後ろへ下がった。
「何も言うべきじゃなかった」
「話してくれて正解だった」
「違う」
呼吸が速くなる。
「言っちゃいけなかった」
キランは声を和らげた。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない!」
予想以上に強い言葉だった。
その瞬間——
ブブッ。
生徒が飛び上がるように反応した。
キランも驚いた。
ポケットの中でスマホが振動している。
生徒の顔から血の気が引いた。
ゆっくりスマホを取り出す。
画面が光る。
キランの位置からメッセージは見えない。
だが生徒の表情は見えた。
「何て書いてある?」
答えない。
「何て書いてある?」
手が震え始める。
そして生徒はスマホの画面をキランへ向けた。
二つの単語が表示されていた。
話すな。
キランの胃が沈むような感覚に襲われた。
マッハがすぐに言った。
「キラン」
「分かってる」
「いいえ。上を見てください」
キランは反射的に見上げそうになるのを抑えた。
「なぜ?」
「教室内で短時間の無線通信を検出しました」
「スマホから?」
「違います」
キランは動かなかった。
「どこから?」
「不明です」
生徒はスマホをポケットへ押し込んだ。
「行かなきゃ」
「待って」
「行かなきゃ!」
生徒はドアへ急いだ。
キランは止めたかった。
もう一つ質問したかった。
何でもいい。
だが無理に残せば、状況はさらに悪化する。
「分かった」
生徒が止まる。
キランはまっすぐ見つめた。
「帰っていい」
生徒は迷った。
「でも、これだけは聞いて」
振り返る。
「もう一人で抱え込まなくていい」
一瞬だけ、生徒の表情に何かが浮かんだ。
安堵。
おそらく。
だがすぐに恐怖がそれを飲み込んだ。
生徒は教室を出た。
ドアが閉まる。
キランは三秒待った。
「マッハ」
「すでに開始しています」
教室のディスプレイが明滅した。
キランのプライベート画面にネットワーク図が表示される。
接続が血管のように教室から外へ広がっていく。
校内コンピューター。
タブレット。
管理端末。
セキュリティシステム。
監視カメラ。
キランは情報の網を見つめた。
「僕たちが話してる最中に、誰かがあのメッセージを送った」
「はい」
「つまり会話を聞いてた」
「可能性はあります」
「それか見てた」
「その可能性の方が高いでしょう」
キランは天井を見る。
今度は自由に探した。
教室にはシトロン・アカデミーの標準的な防犯設備がある。
目立っておかしなものはない。
「学校の監視カメラ?」
「確認しています」
数秒が過ぎる。
そしてマッハが黙った。
キランはその沈黙を知っていた。
「何?」
「異常を発見しました」
「異常って?」
「シトロン・アカデミーのセキュリティシステムには、稼働中のカメラが143台登録されています」
「それで?」
「現在ネットワーク上に存在するカメラは147台です」
キランは目を細めた。
「四台多い?」
「はい」
「新しく設置されたとか?」
「該当する設置記録はありません」
キランの表情が険しくなる。
「場所は?」
「三角測量中です」
一つ。
次にもう一つ。
マッハが学校のデジタルマップ上にポイントを表示する。
一台目は管理棟付近。
二台目は階段の近く。
そして三台目——
キランは画面へ身を寄せた。
「これ、ここじゃないか」
「はい」
赤い点が教室のすぐ外で点滅していた。
キランはドアへ向かった。
「キラン」
「分かってる」
何気ない様子でドアを開ける。
廊下はほとんど空だった。
遠くを数人の生徒が歩いている。
異常はない。
キランは天井付近を見回した。
普通の照明。
煙探知機。
監視カメラ。
非常口の標識。
そこでマッハが何かを強調表示した。
「左へ十一度」
キランが見る。
天井近くに、小さな黒い器具が取り付けられていた。
小さい。
見落としやすい。
人感センサーの一部にも見える。
だがキランは長年シトロン・アカデミーで働いている。
以前はそこになかった。
「あれ?」
「はい」
キランは見つめた。
小さな黒いレンズも彼を見つめ返している。
誰かが教室を監視していた。
数日間かもしれない。
もっと長いかもしれない。
キランは教室へ戻り、ドアを閉めた。
「いつから動いてる?」
「不明です」
「調べて」
「試みます」
キランは倉庫の方を見た。
あのメッセージが頭に戻ってくる。
倉庫のことを聞くべきじゃなかった。
生徒のことで頭がいっぱいになり、危うく忘れるところだった。
危うく。
「マッハ」
「ダメです」
キランは瞬きをした。
「まだ何も言ってない」
「倉庫を見ています」
「だから?」
「その表情を知っています」
「どんな表情?」
「悪い判断をする直前の表情です」
キランは小さなドアへ向かった。
「昼休みだぞ」
「判断の悪さは改善されません」
「自分の教室を調べるだけだ」
「あの部屋を調べるなと明確に警告されていました」
「厳密には、倉庫について聞くべきじゃなかったと言われただけだ」
「その区別に意味はありません」
キランはドアを開けた。
倉庫は特に面白い場所ではなかった。
本。
箱。
古い教材。
紙。
そして、人類が電気を発見した頃から修理待ちになっているのではないかと思える壊れたプロジェクター。
キランは中へ入った。
MACH-01Aは、ほとんど余裕のない幅で扉を通り抜けた。
頭上の照明がちらつきながら点灯する。
「何かある?」
「スキャン中です」
キランは周囲を見た。
少なくとも一見した限りでは、荒らされた様子はない。
さらに奥へ進む。
「ここが、生徒たちが物を動かされたって言ってた場所だ」
「はい」
「昔の写真と比較して」
「検索します」
キランは待った。
マッハが過去数年間に撮影された教室の写真へアクセスする。
学校行事。
備品記録。
生徒がなぜか三十七冊の教科書を積み上げて塔を作った時にキランが撮った写真。
画像が次々とディスプレイを流れる。
そして止まった。
「キラン」
「何?」
「棚です」
キランは奥の壁を見る。
背の高い金属製の棚がある。
本と箱が積まれている。
「棚がどうした?」
「移動しています」
キランは眉をひそめた。
「どれくらい?」
「約八センチです」
「それだけ?」
「十分です」
マッハが過去の写真を重ね合わせる。
違いはすぐに分かった。
以前、棚は壁にぴったり付いていた。
今は違う。
キランは近づいた。
床を見る。
引っかき傷。
新しい傷だった。
「なるほど」
「ここで、好奇心が必ずしも有益とは限らないと忠告しておきます」
「そして僕が無視する」
「予測どおりです」
キランは棚を掴んだ。
そして止まった。
まだ肺炎からの回復途中だ。
マッハは即座に気づいた。
「ダメです」
「分かってる」
「医師から激しい運動を明確に禁止されています」
「分かってるって」
キランは少し考えた。
そして笑った。
「……嫌な予感がします」
「何が?」
「その表情を知っています」
キランはMACH-01Aの通常移動補助機能を起動した。
スラスターではない。
戦闘システムでもない。
車椅子としての通常の機械補助だけだ。
「移動機能は禁止されてない」
マッハが一瞬黙った。
「言葉の意味を都合よく利用していますね」
「医療上の制限を創造的に守ってるんだよ」
MACH-01Aの制御された補助機能を使い、キランは慎重に棚をずらした。
金属が床を擦る。
ゆっくり。
数センチ。
さらに少し。
棚の後ろから何かが現れた。
キランは止まった。
壁に穴が開いている。
大きくはない。
だが明らかに意図的なものだった。
最近切り開かれた穴。
中へ配線が伸びている。
キランの笑顔が消えた。
「これは絶対、元からあったものじゃないな」
「はい」
キランは近づいて覗き込んだ。
穴の中には小さな電子機器があった。
黒いケース。
印はない。
何本もの配線が建物の設備へ直接接続されている。
小さなランプが点滅した。
一度。
二度。
「マッハ?」
「未知のハードウェアです」
「ネットワーク機器?」
「ほぼ間違いありません」
キランが手を伸ばす。
「触らないでください」
手を止めた。
「いつも楽しみを台無しにするな」
「電気ショック機構、警報装置、追跡機能、破壊用フェイルセーフ、あるいは——」
「分かった」
キランは手を引いた。
マッハがスキャンを開始する。
数秒が過ぎる。
「この装置はシトロン・アカデミーの内部ネットワークへ接続されています」
「監視用?」
「その可能性が高いです」
「アクセスできる?」
「試みます」
表示ランプの色が変わった。
緑。
黄。
赤。
マッハが止まる。
「キラン」
「何?」
「装置が私の侵入に反応しています」
キランは少し後退した。
「お前を締め出せる?」
「試みています」
ランプの点滅が速くなる。
そして——
カチッ。
キランは動きを止めた。
装置内部の小さなスピーカーが起動した。
倉庫にノイズが響く。
キランもマッハも何も言わなかった。
やがて声が聞こえた。
歪んでいる。
電子的に加工されている。
誰なのか判別できない。
「キリアン先生」
キランの表情が険しくなった。
声は続けた。
「あなた、本当に人の話を聞かないんですね」




