遠回りの帰り道
キランは、また退屈な一日が始まると思いながら目を覚ました。
だが、違った。
その朝九時十七分、ラクソン先生がタブレットを手に病室へ入ってきた。
キランは即座に警戒した。
彼女が心配そうな顔をしていたからではない。
むしろ逆だった。
満足そうだった。
医者が満足そうな顔をしている時は、二つの可能性がある。
患者の状態が良くなっているか。
あるいは、一日を台無しにする新しくて刺激的な方法を発見したか。
キランはどちらに賭ける気もなかった。
ラクソン先生がベッド脇で立ち止まる。
X-Rayがその後ろに浮かんでいた。
マッハの紫色のアバターもキランのそばに現れる。
「おはようございます」
キランは目を細めた。
「そのタブレットは何?」
ラクソン先生は手元を見る。
「私のタブレット?」
「そう」
「ここに来るたびに持っているこれ?」
「そう」
「あなたの診療記録が入っているこれ?」
「それ」
ラクソン先生はマッハを見る。
「彼、いつもこうなの?」
「はい」
「おい」
「嘘をついた方がよろしかったですか?」
「うん」
「記録しておきます」
ラクソン先生が微笑む。
「実は、キリアンさん。今日は良い知らせがあります」
キランの警戒心が消えた。
「どれくらい良い?」
「体温は正常な状態を維持しています」
「うん」
「酸素飽和度も、普段の数値にかなり近づきました」
「いいね」
「呼吸数も改善しています。治療にもきちんと反応していますし、肺の状態も入院した時と比べてかなり良くなっています」
キランは彼女を見つめた。
そして――
ゆっくり笑みを浮かべる。
ラクソン先生が指を一本立てた。
「ダメ」
笑みが消える。
「まだ何も言ってないけど」
「何を言おうとしているか分かります」
「母さんじゃないだろ」
「違います。でも今週、あなたとは十分長く一緒にいましたから」
キランは腕を組んだ。
「それで?」
ラクソン先生はため息をつく。
「退院していいですよ」
キランの目が見開かれた。
「よっしゃ!」
「ただし――」
「嫌だ」
ラクソン先生が瞬きをする。
「まだ何も言ってません」
「“ただし”って言った。“ただし”の後に良い話が続いたことなんてない」
「キラン」
「嫌だ」
「退院を許可するのであって、無敵だと認定するわけではありません」
「同じようなもんじゃない?」
「まったく違います」
マッハが近づく。
「ラクソン先生の話を最後まで聞くことを推奨します」
キランは裏切られたような顔をした。
「嬉しくないの?」
「嬉しいです」
「そう聞こえない」
「私は人工知能です」
「その言い訳、前にも使っただろ」
「今も正確です」
ラクソン先生はタブレットを操作する。
「帰宅後も薬を服用し、呼吸器治療を続けてください」
「分かった」
「酸素濃度も確認すること」
「分かった」
「それから休むこと」
キランは少しためらった。
「“休む”の定義は?」
ラクソン先生が彼を見つめる。
「始まりましたね」
マッハが言った。
「医学的な質問だよ」
「休むという言葉の意味は知っているでしょう」
「休息にもいろんな段階がある」
「ありません」
「相対的休息」
「ダメ」
「アクティブリカバリー」
「ダメ」
「軽い運動?」
「ダメ」
「飛行?」
「ダメ」
キランが止まる。
ラクソン先生は続けた。
「特に飛行は禁止です」
キランはゆっくりMACH-01Aを見る。
車椅子は部屋の向こうにあった。
完全に電源を落として。
待っている。
何日も、キランはあれを見つめ続けていた。
ラクソン先生も気づく。
「車椅子として使うのは構いません」
キランが彼女を見る。
「当たり前でしょ」
「その区別は、はっきりさせておきたかったんです」
彼女はMACH-01Aを指した。
「車椅子はあなたの移動手段です。それを制限するつもりはありません」
キランの表情が少し和らぐ。
「ただし、高速飛行、戦闘機動、プラズマキャノン、犯罪者の追跡、銃撃戦、建物を突き破るような戦闘、落下する車両を空中で支えること――」
「あれは一回だけだよ」
マッハが即座に返した。
「どの事件のことですか?」
キランは顔をしかめた。
ラクソン先生は続ける。
「そういうことは全部禁止です」
キランは背もたれへ身体を預けた。
「いつまで?」
「回復状況を見ながら再評価します」
「これ以上ないくらい医者らしい答えだな」
「良かったです。私はあなたの医者ですから」
彼女はタブレットをスクロールする。
「戦闘は禁止」
「分かった」
「激しい運動も禁止」
「分かった」
「必要のない高高度飛行も禁止」
キランは黙った。
ラクソン先生が顔を上げる。
「キラン」
「考えてる」
「それが心配なんです」
「“必要のない”高高度飛行は禁止なんだよね」
「はい」
「じゃあ、必要な高高度飛行なら?」
「ダメです」
「でも今、“必要のない”って――」
「発言を訂正します」
キランはため息をついた。
「分かったよ」
「それから、咳が悪化した場合、酸素飽和度が低下した場合、発熱が再発した場合、呼吸が苦しくなった場合、胸の痛みが強くなった場合は、すぐ戻ってきてください」
キランは彼女を見つめた。
「自由ってものを、ずいぶん憂鬱に聞こえさせるのが上手いね」
「どういたしまして」
X-Rayが前へ出る。
「退院書類の準備は完了しています」
キランは小さな機械を見る。
「ありがとう、X-Ray」
「どういたしまして」
マッハのアバターがX-Rayへ向く。
「その書類なら私にも準備できました」
X-Rayがマッハへ向く。
「しかし、あなたはしませんでした」
「依頼されていません」
「言い訳ですね」
キランは瞬きをした。
「勘弁してくれ。また始まった」
ラクソン先生は二人を無視した。
「着替えと準備ができるよう、少し席を外します」
彼女はドアへ向かう。
だが途中で止まった。
振り返る。
「それから、キラン?」
「何?」
「ヒーロー活動は禁止です」
キランは無邪気に微笑んだ。
「何のことか分からないな」
ラクソン先生は数秒間じっと彼を見る。
そしてマッハへ視線を移した。
「見張っていて」
「常時監視します」
「裏切り者」
ドアが閉まる。
静寂。
キランは即座に部屋の向こうを見る。
MACH-01A。
何日かぶりに、もう彼を止めるものはなかった。
キランは毛布をどける。
マッハが近づいた。
「介助が必要ですか?」
キランが彼を見る。
「移乗です」
キランは少し考えた。
そして頷く。
「うん」
言い争いはなかった。
冗談もなかった。
何でも一人でできると意地を張ることもなかった。
ただ――
「うん」
マッハがベッド脇の操作装置を起動する。
MACH-01Aが目を覚ました。
**ウィィィン。**
紫色のライトが装甲の各部に灯る。
システムが一つずつ起動していく。
**MACH-01A システムオンライン**
**メイン電源:安定**
**移動システム:起動**
**飛行システム:制限中**
**武装システム:無効**
キランは最後の二つを見つめた。
「ラクソン先生?」
「ラクソン先生から制限を要請されました」
「やっぱり」
「レイモンドも同意しました」
「やっぱり」
「ギアが設定しました」
キランは愕然とした。
「ギアが?」
「はい」
「僕のきょうだいが?」
「はい」
「信じられない」
「この決定に賛成した人物を、さらに列挙しますか?」
「何人いるの?」
「六名です」
「やめて」
「賢明です」
MACH-01Aがベッドの横へ移動する。
キランはそれを見た。
数秒間、動かなかった。
不思議だった。
キランは人生のほとんどを車椅子と共に過ごしてきた。
車椅子へ移乗することが、特別なことに感じるはずはない。
でも今回は違った。
何日も病室の反対側からMACH-01Aを眺め続けていたからかもしれない。
病院のベッドに寝かされていると、自分と車椅子との数メートルの距離が、実際よりはるかに遠く感じられたからかもしれない。
あるいは、MACH-01Aが犯罪者を追って空を飛ぶためだけの機械ではないからかもしれない。
これはキランが移動するためのものだ。
仕事へ行くためのもの。
家へ帰るためのもの。
そして、自分が行きたい場所へ行くためのもの。
キランは微笑んだ。
「寂しかった?」
マッハが即答する。
「非常に」
「車椅子に聞いたんだけど」
「私は車椅子です」
「それもそうか」
介助を受けながら、キランは移乗した。
慣れ親しんだシートに身体を収める。
サポート部分が身体に合わせて調整される。
インターフェースが点灯する。
手が操作装置へ触れる。
すべてがあるべき場所にあった。
キランは息を吐いた。
「やっぱりこれだな」
マッハの声が今度は車椅子のスピーカーから聞こえる。
「おかえりなさい」
キランは微笑んだ。
「ただいま」
***
四十分後、レイモンドがやってきた。
病室へ入る。
MACH-01Aに座るキランを見る。
そして止まった。
「ダメだ」
キランは瞬きをした。
「何が?」
「何を企んでるか知らないが」
「座ってるだけだよ」
「何か企んでる」
「なんでみんなそう言うんだ?」
「経験だ」
レイモンドはキランの荷物を膝の上へ置いた。
「行くぞ」
キランは笑った。
「喜んで」
二人は病院の中を進んだ。
珍しく、キランはその一秒一秒を嫌ってはいなかった。
蛍光灯は相変わらず最悪だった。
消毒液の匂いも、相変わらずあらゆる場所に染みついていた。
廊下も、時間をわざと遅く感じさせるために設計されたようだった。
でも今は違う。
帰れる。
それだけですべてが変わった。
ロビーへ着く。
自動ドアが開いた。
日差しが差し込む。
キランは止まった。
本物の日差し。
病室の窓越しではない。
床に四角く落ちる光でもない。
外だ。
キランは前へ進む。
背後でドアが閉まった。
息を吸う。
慎重に。
肺はまだ完全には治っていない。
完璧な呼吸ではなかった。
それでも、空気が違って感じられた。
冷たい。
本物だ。
自由だった。
レイモンドが隣へ来る。
「真っすぐ家に帰れ」
キランは彼を見る。
「もちろん」
レイモンドは目を細める。
「本気で言ってる」
「レイモンド」
「真っすぐ」
「家へ」
「そうだ」
キランは胸に手を当てた。
「信用されてなくて傷つくなあ」
「付き合いが長すぎるんだよ」
マッハが言う。
「レイモンドの懸念には統計的根拠があります」
「なんでみんな僕に関する統計を持ってるんだ?」
「あなたが驚異的な量の懸念すべきデータを生成するからです」
レイモンドが笑った。
「あとで様子を見に行く」
「楽しみにしてるよ」
「薬も飲め」
「はい、母さん」
レイモンドがキランを指差す。
「本物の母親に電話するぞ」
キランの笑みが消えた。
「それは権力の乱用だ」
「真っすぐ帰れよ」
レイモンドは歩き去った。
キランはその背中を見送る。
それから道路を見る。
そして――
上を見る。
シトロン・シティの街並みが頭上へ広がっていた。
指が操作装置に触れる。
「マッハ」
「分かっています」
キランは笑う。
「まだ何も言ってないけど」
「飛びたいのでしょう」
「……まあ、分かってたか」
「ラクソン先生は飛行を明確に制限しました」
「“必要のない高高度飛行”だろ」
「その後、訂正しました」
「そんなの覚えてないな」
「正確な録音があります」
「便利だね」
キランはもう一度空を見上げる。
ホバー車両が二棟のビルの間を通過した。
続いてもう一台。
その上には、何もない空が広がっている。
恋しかった。
戦うことではない。
誰かを追うことでもない。
プラズマキャノンを撃つことでもない。
ただ――
飛ぶことが。
「頼むよ」
「ダメです」
「マッハ」
「ダメです」
「少しだけ」
「あなたは肺炎から回復している途中です」
「分かってる」
「呼吸機能はまだ通常時の状態へ完全には戻っていません」
「分かってる」
「ラクソン先生は直接帰宅するよう指示しました」
「それを言ったのはレイモンドだよ」
「ラクソン先生も同意するでしょう」
キランは笑った。
「じゃあ、今ここにいなくてよかった」
沈黙。
「キラン」
「低高度」
「ダメです」
「低速」
「ダメです」
「武装は使わない」
「武装は無効化されています」
「完璧」
「同意したわけではありません」
キランは街を見渡した。
笑みがゆっくり消える。
「マッハ」
声の調子が変わった。
マッハも気づく。
「誰かと戦いたいわけじゃない」
沈黙。
「誰かを追いかけたいわけでもない」
キランは操作装置に手を置いた。
「どこかへ行きたいわけですらない」
ディスプレイにマッハの紫色のアバターが現れる。
キランは彼を見る。
「ただ飛びたいんだ」
長い沈黙。
そして――
「呼吸状態の監視は継続します」
キランは笑った。
「もちろん」
「高度制限も維持します」
「いいよ」
「速度も制限します」
「いいよ」
「呼吸状態に異常が見られた時点で着陸します」
「いいよ」
「そして家へ帰ります」
キランの笑みが大きくなる。
「そのうちね」
「キラン」
「冗談だよ」
「違います」
「ほとんどはね」
マッハがため息をつく。
「制限飛行モードを起動します」
MACH-01Aが低く唸った。
振動が車椅子を通して身体へ伝わる。
懐かしい音。
懐かしい感覚。
懐かしい高揚感。
小型スタビライザーが展開する。
スラスターが目を覚ます。
全出力ではない。
その足元にも及ばない。
それでも十分だった。
**フシュウッ!**
MACH-01Aがゆっくりと地面から浮かび上がった。
キランは目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
風が顔に触れた。
目を開く。
地面がゆっくり遠ざかっていく。
三メートル。
六メートル。
九メートル。
激しい加速はない。
マッハ速度もない。
けたたましい警報もない。
銃声もない。
爆発もない。
ただ、飛んでいる。
キランは笑った。
「ああ……これ、本当に恋しかった」
「心拍数の上昇を検知しています」
「それは“幸せ”っていうんだよ」
「その概念は理解しています」
「そうは見えないけどな」
二人はビルの間へ上昇していく。
ゆっくりと。
慎重に。
キランは下を見る。
人々が横断歩道を渡っている。
車が交差点を行き交う。
高架線路の上を列車が滑るように進んでいく。
生活。
普通の生活。
MACH-01Aはビルを回り込むように緩やかに旋回した。
「ご自宅は東です」
マッハが念を押す。
「知ってる」
キランは西へ曲がった。
「キラン」
「何?」
「西です」
「知ってる」
「ご自宅は現在も東にあります」
「知ってる」
「反対方向へ進んでいます」
「景色のいい道で帰るんだよ」
「ご自宅までは十二分です」
「もう違う」
マッハは一拍置いた。
「遠回りの帰り道、ですか」
キランは笑った。
「その通り」
そして二人は飛んだ。
速くない。
高くない。
危険へ向かっているわけでもない。
ただ、街の中を飛んだ。
遠くにシトロン・アカデミーが見えた。
上層階も見える。
あの中のどこかに自分の教室がある。
もうすぐ戻る。
今日ではない。
明日でもないかもしれない。
でも、もうすぐ。
二人はさらに進む。
ダウンタウンを越える。
高層ビルの間を抜ける。
人々が歩く公園の上を通る。
川沿いを飛ぶ。
キランは急がなかった。
珍しく、急いで行かなければならない場所がどこにもなかった。
その時――
サイレン。
キランの目が反射的に動く。
二台の警察車両が下の道路を猛スピードで走っていた。
キランの手に力が入る。
マッハは何も言わない。
警察車両が曲がる。
ビルの間へ消える。
キランは交差点を見つめた。
本能が叫んでいる。
追え。
何が起きたか確かめろ。
助けろ。
指がわずかに動く。
そして止まった。
キランは息を吐く。
「無事だといいな」
「私もそう願います」
MACH-01Aはそのまま前へ進んだ。
サイレンとは反対方向へ。
キランは微笑んだ。
変な感じだった。
でも、悪くなかった。
数分後、川へ着いた。
水面に太陽の光がきらめいている。
キランはMACH-01Aを減速させた。
しばらくの間、ただそこに浮かんでいた。
任務はない。
目的地もない。
助けを求めている人もいない。
ただキランがいる。
マッハがいる。
そして空がある。
「マッハ?」
「はい?」
「前に話したこと、覚えてる?」
「何についてですか?」
「どこにも行かないために飛ぶって話」
一拍。
「はい」
キランは周囲を見渡した。
「これ、そういうことになると思う?」
マッハは考えた。
「厳密には、私たちは帰宅途中です」
「反対方向へ飛んできたけど」
「はい」
「任務もない」
「ありません」
「誰にも撃たれてない」
「近頃では、ますます珍しい状況です」
キランは笑った。
「じゃあ?」
ディスプレイの中で、マッハの紫色のヘルメットが光った。
「条件は満たしていると思います」
キランは背もたれへ身体を預けた。
「よかった」
地平線を見る。
久しぶりに、空は戦場ではなかった。
逃げ道でもなかった。
誰かが死ぬ前に辿り着かなければならない場所でもなかった。
ただの空だった。
そしてキランは、その中を飛んでいた。
やがてMACH-01Aを東へ向ける。
家の方向へ。
マッハが言う必要はなかった。
二人はゆっくり帰った。
眼下では街が動き続けている。
遠くでサイレンが聞こえた。
キランにも聞こえていた。
だが、追わなかった。
今日だけは――
誰か別の人に任せればいい。
今日、空を飛んでいるのはウルトラヴァイオレットではない。
キラン・キリアンだった。
そして彼は、遠回りをして家へ帰っていた。




