空っぽの街
朝は静かにやってきた。
キランはそれが嫌いだった。
朝そのものではない。
静けさが。
彼は、何かと一緒に目を覚ますことに慣れすぎていた。
頼んでもいない天気予報をマッハが読み上げていたり。
どう見ても危険なのに、絶対に危険ではないと言い張る改造についてギアからメッセージが届いていたり。
レイモンドから医療関係の何かを念押しされていたり。
朝六時になって突然課題の存在を思い出したらしい生徒からメールが届いていたり。
あるいは――
サイレン。
爆発。
銃声。
軍用級のテクノロジーを使って銀行強盗をするのが合理的な職業選択だと考えた馬鹿が現れたり。
シトロン・シティが静かなことなど、ほとんどなかった。
だが、彼の病室は静かだった。
痛いほどに。
キランは目を開けた。
最初に目に入ったのは天井だった。
白い。
平らな。
退屈な天井。
彼はそれを見つめた。
「まだありますよ」
右側からマッハの声がした。
キランは動かなかった。
「残念ながらね」
「あなたのことを言ったのですが」
「僕もだよ」
マッハの紫色のアバターがベッド脇に浮かんでいた。
「おはようございます」
「それはどうかな」
「体温は下がりました」
「素晴らしい」
「昨夜は酸素飽和度も比較的安定していました」
「さらに素晴らしい」
「呼吸数は――」
「マッハ」
「はい?」
「僕の身体を表計算ソフトにする前に、五分くらいくれない?」
一拍。
「四分なら」
キランはゆっくり顔を向けた。
「なんで四分?」
「譲歩しました」
キランは彼を見つめた。
マッハも見つめ返した。
いや――
顔が光るパイロットヘルメットの場合、それを“見つめる”と呼べるのなら。
「分かったよ」
キランは少し身体を動かした。
胸はまだ痛んだ。
昨日よりはましだった。
だが、まだ十分に痛い。
慎重に息を吸う。
抵抗がある。
胸の奥深くに重さが残っている。
それでも、少し楽になっていた。
良くはない。
でも、良くなっている。
今はそれで十分だった。
キランは部屋の向こうを見る。
MACH-01Aはまだそこにあった。
昨夜とまったく同じ場所。
電源を落としたまま。
待っている。
しばらく見つめていた。
マッハが気づく。
「あなたの車椅子は問題ありません」
「分かってる」
「約二十分前、ギアが遠隔で診断ログを確認しました」
「もちろん」
「二回」
「もちろん」
「異常は検出されていません」
キランはまだMACH-01Aを見ていた。
「分かってるよ」
マッハは黙った。
キランは窓へ顔を向ける。
ブラインドは半分ほど開いていた。
その向こうには――
シトロン・シティ。
キランはベッド脇の操作パネルへ手を伸ばした。
マットレスが動く。
上半身がゆっくり起き上がった。
マッハがすぐに反応する。
「慎重に」
「起き上がってるだけだよ。ロケットを打ち上げてるわけじゃない」
「あなたの場合、過去のデータを見る限り、その二つの危険度はほぼ同等です」
キランは無視した。
ベッドが止まる。
これで外がよく見える。
シトロン・シティが朝空の下に広がっていた。
密集したビル群。
太陽の光を反射するガラス。
塔の間を行き交うホバー車両。
はるか下の道路を這う、小さな車。
歩道を行き交う人々。
何千人。
いや、何百万人かもしれない。
生きている。
働いている。
言い争っている。
朝食を食べている。
どこかへ向かっている。
遅刻している者。
早く着きすぎた者。
良い一日を過ごしている者。
最悪の一日を過ごしている者。
ただ、生きている。
彼がいなくても。
キランは枕に頭を預けた。
しばらく、ただ眺めていた。
その時――
サイレン。
キランの視線が即座に動いた。
三台の警察車両が交差点を猛スピードで駆け抜けていく。
警光灯が点滅する。
サイレンが鳴り響く。
キランの身体は、頭で考えるより先に反応していた。
目で車両を追う。
手がわずかに動く。
いつもならMACH-01Aの操作インターフェースがある場所へ。
何もない。
キランは自分の手を見る。
そして車椅子を見る。
マッハは何も言わなかった。
キランは再び窓の外を見る。
警察車両はビルの間へ消えていった。
「何か情報ある?」
マッハが躊躇した。
キランは気づく。
「マッハ」
「はい?」
「何が起きてる?」
「警察活動です」
「それくらい分かる」
「ここから約2.7キロ離れた場所で、武装強盗が発生したとの通報です」
キランは少し身体を起こした。
「どこ?」
「キラン」
「どこ?」
マッハは一拍置いた。
「ウェスト・ハロウ・ストリート」
キランは即座にMACH-01Aを見た。
マッハは黙っていた。
キランの視線は車椅子に固定されたまま。
頭の中ではすでに計算が始まっていた。
距離。
ルート。
高度。
最短経路。
MACH-01Aなら、もし――
キランは止まった。
思い出した。
*休む。*
今度はマッハの言葉ではない。
自分自身の言葉だ。
約束した。
キランは窓へ視線を戻した。
さらにサイレンが続いていく。
「犯人は何人?」
「不明です」
「人質は?」
「不明です」
「武器は?」
「キラン」
「聞いてるだけ」
「……はい」
キランは待った。
マッハはため息をついた。
あるいは、ため息を極めて正確に再現した電子的な何かを。
「報告では、犯人は二名。通常の銃器で武装しています」
「強化兵器は?」
「報告されていません」
「Ventは?」
「報告されていません」
「殺人ロボットは?」
「いません」
「巨大怪獣は?」
「驚くべきことに、いません」
キランは少し力を抜いた。
「なんかちょっと残念だな」
「冗談だと解釈することにします」
「ほとんどはね」
ほとんど。
キランは街を見つめた。
一分。
さらに一分。
指が毛布をトントンと叩く。
「何かあった?」
「C.C.P.D.が到着しました」
キランは頷く。
さらに一分。
「何か?」
「警官が周囲を封鎖しました」
さらに。
「何か?」
「キラン」
「確認してるだけ」
マッハは答えなかった。
キランは別のものを見ようとした。
ビルの間をホバーバスが進んでいく。
整備用ドローンが近くの高層ビルの窓を掃除している。
鳥の群れが屋上へ降り立つ。
だが視線はすぐにウェスト・ハロウ・ストリートの方向へ戻った。
「何か?」
マッハは黙っている。
キランが振り返る。
「わざとだろ」
「何がです?」
「教えないようにしてる」
「あなたは犯罪との戦いを休むと言いました」
「犯罪の情報を聞くのは犯罪との戦いじゃない」
「あなたが抜け道を探し始める時の台詞に聞こえます」
キランは眉をひそめた。
「僕、病院のベッドの上だよ」
「あなたは驚くほど工夫に富んでいます」
「車椅子にすら乗ってない」
「以前、武装したアンドロイドをスタンガンで止めようとしました」
キランは止まった。
「あれは最悪の日だった」
「極めて効果の低いスタンガンでした」
「分かったよ」
キランは再び外を見る。
その時――
マッハが言った。
「犯人が投降しました」
キランが即座に振り向く。
「何?」
「二名とも拘束されました」
「人質は?」
「死傷者の報告はありません」
「怪我人は?」
「避難中に一名が軽傷。命に別状はありません」
キランは見つめた。
「それだけ?」
「それだけです」
「追跡は?」
「ありません」
「爆発は?」
「ありません」
「誰もビルを突き破って飛んでない?」
「いません」
「実験兵器が突然起動したりは?」
「ありません」
キランは本気で困惑した顔をした。
「へえ」
マッハが近づく。
「犯罪というものは、あなたが街を数ブロック破壊しなくても解決することがあります」
「数ブロックも破壊してない」
マッハは何も言わない。
キランが彼を見る。
「そんなに頻繁には」
沈黙。
「分かったよ」
キランは窓へ向き直った。
サイレンは止まっていた。
あのビルの向こうでは今頃、警官たちが二人の犯罪者を警察車両へ乗せているのだろう。
人質は無事。
事件は終わった。
キランは動いていない。
飛んでいない。
武器も撃っていない。
誰も救っていない。
それなのに――
全員無事だった。
なぜそれが自分を苛立たせるのか、キランには分からなかった。
そんなのおかしい。
これこそ望むべき結果だ。
人々は無事。
犯罪者は捕まった。
誰も死んでいない。
完璧な結果。
なのに心のどこかに、奇妙な感覚が残っていた。
まるで――
仲間外れにされたような。
キランは自分自身に眉をひそめた。
馬鹿げている。
「マッハ」
「はい?」
「僕がイラついてるのって変かな?」
「いいえ」
キランが彼を見る。
「本当に?」
「あなたは関わることに慣れています」
「まあ、そうだね」
「警報が鳴る」
マッハが少し動く。
「あなたは反応する」
さらに。
「誰かが危険に陥る」
「反応する」
「何かが爆発する」
「絶対反応する」
マッハが続ける。
「ですが今は、警報を聞いて何もしないことを求められている」
キランは外を見る。
「そう言われると最悪だな」
「実際、最悪なのでしょう」
キランは答えなかった。
実際、少しだけ最悪だった。
自分の手を見る。
「ずっと、僕が必要になるかもしれないって考えてた」
「必要ありませんでした」
「分かってる」
「それは良いことです」
「分かってる」
「では、なぜ残念そうなのです?」
キランは考えた。
「分からない」
マッハは黙っていた。
キランは再び街を見る。
やがて口を開いた。
「たぶん……」
そこで止まる。
マッハは待った。
「役に立つことに慣れすぎてるんだと思う」
「あなたは役に立っています」
「そういう意味じゃないのは分かるだろ」
「はい」
キランはMACH-01Aを見る。
「教師をしてる時は、役に立ってる」
マッハは聞いている。
「飛んでる時も、役に立ってる」
一拍。
「誰かが困ってる時は……」
キランはわずかに肩をすくめた。
「自分が何をすればいいか分かる」
「では今は?」
キランは病室を見回した。
「今はここで寝てるだけ」
「回復しています」
「何もしてない」
「回復することは、何もしないことではありません」
「でも、そう感じる」
マッハは黙った。
キランは窓の外を見る。
「他のみんなは何かしてる」
警察。
医師。
看護師。
教師。
労働者。
ヒーロー。
街全体が彼の眼下で動いている。
そしてキランだけが――
止まっていた。
「これ嫌いだ」
「知っています」
「本当に嫌いだ」
「知っています」
キランはため息をついた。
「でも……」
マッハは待った。
「強盗事件は終わった」
「はい」
「誰も死ななかった」
「その通りです」
「僕を必要とした人はいなかった」
マッハは一拍置く。
「はい」
その答えは痛いと思っていた。
ところが――
違う感覚が生まれた。
肩から、ほんの少し力が抜ける。
「よかった」
マッハが彼を見る。
キランは街を見ていた。
「それなら、よかった」
「はい」
遠くから、またサイレンが聞こえた。
キランの目が反射的にその方向へ動く。
今度は――
聞かなかった。
マッハは気づいた。
二人とも何も言わない。
数分後、また別のサイレン。
さらに別のサイレン。
シトロン・シティは動き続けている。
緊急事態が起きる。
警察が駆けつける。
救急隊が駆けつける。
消防士が駆けつける。
人々が互いに助け合う。
キラン・キリアンが街の隅々まで自ら監督しなくても、人生は続いていく。
奇妙だった。
理屈では分かっていた。
当然だ。
そこまで傲慢ではない。
だが、頭で理解することと、実際に感じることはまったく違った。
キランは二棟のビルの間を通過する警察のホバークラフトを見た。
MACH-01Aへ手を伸ばさなかった。
ただ、通り過ぎるのを見送った。
「マッハ?」
「はい?」
「昨夜、何件くらい犯罪があった?」
一拍。
「本当にその数字を知りたいですか?」
キランは考えた。
「いや」
「賢明です」
「緊急事態は何件?」
「同じ答えで?」
「うん」
マッハは彼の隣にいた。
キランは外を見つめる。
「昨日、君が言ったことを考えてた」
「どの部分です?」
「もう何も証明しなくていいってところ」
マッハは何も言わない。
キランが続ける。
「完全に同意できるかは分からない」
「予想していました」
「でも……」
彼は視線を落とす。
「たぶん僕は、あらゆる緊急事態を試験みたいに考えてたのかもしれない」
マッハは黙っている。
「もし行かなかったら……」
キランは言葉を探した。
「助けられるって分かってるのに、助けなかったら……」
一拍。
「僕には無理だって思ってた人たちが正しかったことになる気がして」
マッハが近づく。
「それは達成不可能な基準です」
「うん」
キランはかすかに笑った。
「ようやく分かってきた」
その時、外で遠い爆発音が響いた。
キランは即座に音の方向を見る。
数ブロック先から煙が上がった。
心臓が跳ねる。
視線がMACH-01Aへ向く。
マッハは何も言わなかった。
キランは見つめた。
車椅子はすぐそこにある。
マッハに起動を頼める。
移乗できる。
飛べる。
そして――
**ウー! ウー!**
下の道路に消防車が現れた。
一台。
さらに一台。
さらにもう一台。
消防用ホバークラフトがビルの間を抜け、煙へ向かって飛んでいく。
キランは見つめた。
毛布を掴む指に力が入る。
マッハは待っていた。
キランはゆっくり指の力を抜いた。
「いや」
マッハは黙ったまま。
キランはベッドへ身体を戻した。
「僕のじゃない」
「何がです?」
キランは煙の方向へ顎を向けた。
「あの緊急事態」
マッハの紫色の光が柔らかくなる。
キランは消防士たちが現場へ急ぐのを見ていた。
「あの人たちに任せよう」
「はい」
キランはゆっくり呼吸した。
吸う。
吐く。
肺はまだ抵抗している。
まだ重い。
まだ治っている途中だ。
一度咳をした。
さらにもう一度。
だが今度は、自分をここに縛りつけている身体を恨まなかった。
MACH-01Aを苛立ちながら見ることもなかった。
代わりに煙を見た。
消防士たちを見た。
他の誰かがヒーローになるのを見た。
奇妙だった。
居心地が悪かった。
でも――
間違ってはいなかった。
もしかすると、休むというのはこういうことなのかもしれない。
世界から隠れることではない。
悪いことが起きていないふりをすることでもない。
無力になることでもない。
ただ――
すべての緊急事態が自分のものではないと受け入れること。
キランは街を見渡した。
「分かった気がする」
マッハが近づく。
「何がです?」
「君が言おうとしてたこと」
マッハは待った。
キランはかすかに笑った。
「僕が病気だからって、街がヒーローを必要としなくなるわけじゃない」
「はい」
キランは消防用ホバークラフトがビルの向こうへ消えるのを見た。
「ただ、いつも僕がそのヒーローである必要はないんだ」
マッハは数秒間、何も言わなかった。
そして――
「その通りです」
キランは枕へ深く身体を預けた。
また別のサイレンが聞こえる。
耳には入った。
気づいていた。
本能のすべてが尋ねろと言っている。
どこ?
何が起きた?
誰が助けを必要としている?
それでも――
キランは目を閉じた。
サイレンが遠ざかる。
さらに遠く。
やがて――
完全に聞こえなくなった。
そしてシトロン・シティは、変わらず動き続けていた。




