介入
キランが目を覚ましたのは、真夜中を過ぎた頃だった。
病室はほとんど真っ暗だった。
ほとんど。
ベッド脇のモニターが、壁に淡い光を投げかけている。
緑。
青。
白。
そして、その隣には――
紫。
キランはゆっくりと顔を向けた。
マッハがベッドの横に浮かんでいる。
じっと彼を見守っていた。
静かに。
キランは何度か瞬きをする。
「そうやってると不気味だよ」
マッハは動かなかった。
「何がです?」
「寝てる僕を見つめること」
「監視していました」
「そっちのほうがもっと不気味だね」
「睡眠中、酸素飽和度が二度変動しました」
キランはため息をついた。
「ほら。不気味」
毛布の下で身体を動かす。
すぐに胸が抗議した。
鈍い痛み。
深い。
不快な痛み。
キランが顔をしかめる。
マッハが近づいた。
「痛みますか?」
「いや」
「キラン」
「少し」
「一から十で表すと?」
「絶対に答えない」
「なぜです?」
「あの質問されるたびに、僕が答えた数字が宇宙で一番重要な数字みたいになるから」
マッハが一瞬止まる。
「一理あります」
キランはベッド脇の椅子を見る。
誰もいない。
「ミカイラ、帰った?」
「約四十三分前に」
「時間計ってたの?」
「時計を搭載していますので」
「自慢か」
キランは部屋の向こうを見る。
MACH-01Aが壁際に置かれていた。
電源は落ちている。
誰も乗っていない。
ただ待っている。
キランはそれを見つめた。
病院で車椅子から離れてまだ数時間しか経っていない。
それなのに――
もう違和感があった。
何かがおかしい。
自分の一部が、部屋の向こうに置き去りにされているような感覚。
キランはマッハを見る。
「ドクター・ラクソン、いつ退院させてくれると思う?」
「病院からですか?」
「違うよ、マッハ。刑務所から」
「あなたの行動を考慮すると、両者の違いは急速に小さくなりつつあります」
キランが笑う。
「いつものマッハだ」
マッハは返さなかった。
キランの笑顔がゆっくり消える。
彼はマッハを見つめた。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「嘘、下手だね」
「私は嘘をつきません」
「絶対つくよ」
「戦略的に情報を省略するだけです」
「それ、音節を増やしただけの嘘だから」
いつもなら、マッハはすぐに言い返してくる。
だが、今回は違った。
キランが眉をひそめる。
「分かった」
マッハは黙っている。
「本当に」
何もない。
「マッハ」
「犯罪と戦うのをやめてほしいです」
キランは彼を見つめた。
病室にはモニターの音だけが響く。
**ピッ。**
**ピッ。**
**ピッ。**
「……何?」
「犯罪と戦うのをやめてほしいです」
キランが瞬きをする。
「永久に?」
「いいえ」
「だったら、それを最初に言ってよ」
「しばらく休んでほしいのです」
キランは見つめた。
「休む」
「はい」
「ウィーラーを?」
「犯罪との戦いをです」
「同じでしょ」
「違います」
キランはMACH-01Aを見る。
「僕には、ほとんど同じに感じるけど」
「そう感じるべきではありません」
「でも、そう感じる」
マッハが近づく。
「あなたは現在、肺炎で入院しています」
「気づいてる」
「酸素飽和度は今も通常の基準値を下回っています」
「それも気づいてる」
「呼吸数も依然として上昇しています」
「他には?」
「咳発作も――」
「マッハ」
マッハが止まった。
キランは額をこする。
「自分が病気なのは分かってる」
「本当に?」
キランが彼を見る。
「どういう意味?」
「ここへ来る前から、何かがおかしいことは分かっていました」
「咳が出てることは分かってた」
「呼吸が苦しくなっていることも分かっていました」
「途中からね」
「私は帰宅を勧めました」
「それで、帰ろうとしてた」
「別の緊急事態が起きるまでは」
キランは黙った。
マッハが続ける。
「その瞬間、あなたは迷わず進路を変えました」
「人が危険だったんだ」
「あなたもです」
「対処できた」
「辛うじてです」
キランの表情が険しくなる。
「でも、できた」
マッハは彼を見つめた。
「それこそが問題なのです」
キランが眉をひそめる。
「何?」
「あなたは“生き残った”ことを成功の基準にしています」
沈黙。
キランが彼を見る。
「装甲の半分を破壊されて帰宅しても、生きて帰ったから任務成功」
「だいたいは」
「銃撃されても当たらなければ成功」
「当然」
「墜落しても生きていれば成功」
「何に墜落したかによる」
「市民を救助中に酸素飽和度が低下しても、誰も死ななければ――」
「成功」
マッハが止まる。
「その通りです」
キランは見つめた。
「何が悪いの?」
「“誰も”の中には、あなたも含まれています」
キランは黙った。
マッハが近づく。
「あなたの命も数に入るのです」
キランは目を逸らした。
「入らないなんて言ってない」
「ですが、いつも最後に回している」
キランの顎に力が入る。
「それは不公平だ」
「本当に?」
「そうだよ」
「病気のまま戦い続けました」
「肺炎だなんて知らなかった」
「苦しくなっていることは分かっていました」
「助けを必要としてる人がいた」
「あなたも助けを必要としていました」
キランが鋭く彼を見る。
「何が言いたいの?」
マッハは少し躊躇した。
そして――
「あなたは、他の人とは違います」
その言葉は即座に突き刺さった。
キランの表情が変わる。
マッハも気づいた。
「キラン――」
「やめて」
「そういう意味では――」
「どういう意味かくらい分かるよ」
「いいえ。分かっていません」
キランは目を逸らす。
乾いた笑いが漏れた。
「“違う”か」
毛布を掴む指に力が入る。
「聞き慣れた言葉だよ」
マッハは何も言わない。
「ずっと聞かされてきた」
キランは暗い窓を見る。
「違う」
一拍。
「特別」
さらに一拍。
「脆い」
マッハは黙ったまま。
「みんな、“君にはできない”って言葉を、少し聞こえのいい言葉に置き換えるのが大好きなんだ」
「私はそんなことを言っていません」
「言う必要もなかった」
「いいえ。あります」
キランが彼を見る。
マッハは真正面へ移動した。
「なぜなら、私はあなたに“できない”と言っているのではないからです」
「じゃあ、何を言ってるの?」
「“やらなくてもいい”と言っているのです」
キランが眉をひそめる。
「君には簡単に言えるよ」
「いいえ」
「簡単だよ」
「いいえ、キラン」
マッハの声が強くなる。
「あなたは、私が車椅子を使っているからやめろと言っていると思っていますね」
「違うの?」
「違います」
「人工呼吸器を使ってるから?」
「違います」
「僕の肺が他の人と同じように働かないから?」
「違います」
「じゃあ、なんで僕が違うなんて言ったの?」
「違わないふりをするほうが不誠実だからです」
キランは見つめた。
マッハが続ける。
「あなたは車椅子を使っています」
キランは何も言わない。
「呼吸補助を必要としています」
何も言わない。
「あなたの身体には、レイモンドの身体にはない必要があります」
マッハが少し動く。
「ミカイラの身体にも、あなたにはない必要があります」
さらに動く。
「誰にでも限界があります」
そこで止まった。
「あなたの限界が、他の人とは違うだけです」
キランの表情は硬いままだった。
「だから僕は外で戦うべきじゃない?」
「違います」
「そう聞こえるけど」
「なら、私が実際に言っていることを聞いてください」
キランは彼を見つめる。
マッハが続ける。
「あなたは人生の大半を、“できない”と言われながら生きてきました」
キランが目を細める。
「分かってる」
「そして何年もかけて、それが間違いだと証明してきました」
「分かってる」
「教師になった」
一拍。
「ウィーラーになった」
さらに一拍。
「空を飛んだ」
キランはMACH-01Aを見る。
「戦った」
マッハの声が柔らかくなる。
「人を救った」
キランは再び彼を見る。
「もう十分、証明しました」
沈黙。
「だから、もうやめてください」
キランが眉をひそめる。
「何を?」
「証明し続けることを」
その言葉に、キランは固まった。
マッハが続ける。
「もう証明したのです」
キランは見つめた。
「毎日証明し直す必要はありません」
マッハが近づく。
「障害のある人間でもヒーローになれると証明するために、毎週死にかける必要などありません」
キランの顎に力が入る。
「そのためにやってるわけじゃない」
「分かっています」
「本当に助けを必要としてる人がいるんだ」
「分かっています」
「じゃあどうしろっていうの? 危険な目に遭ってる人を見て、“ごめん、医者に止められてるから”って?」
「必要なら」
キランは鼻で笑った。
「そんなの僕じゃない」
「ええ」
マッハの声が静かになる。
「あなたではありません」
キランは目を逸らす。
マッハが続ける。
「だからこそ、お願いしているのです」
キランは何も言わない。
「あなたは決して自分自身を選ばないから」
その言葉は、何よりも深く刺さった。
キランは彼を見る。
マッハは完全に静止している。
「いつも落ちている人を選ぶ」
一拍。
「閉じ込められている人を選ぶ」
さらに一拍。
「襲われている人を選ぶ」
紫色の光がキランの毛布に反射する。
「私は、そんなあなたを尊敬しています」
キランが唾を飲み込む。
「でも、いつかは、キラン……」
マッハが言葉を止める。
「自分自身を選ばなければなりません」
沈黙。
キランは彼を見つめた。
モニターは変わらず鳴り続ける。
規則正しく。
機械的に。
無関心に。
キランは自分の手を見る。
「誰かが助けを必要としてたら、どうすればいい?」
「他の誰かを信じるのです」
「誰を?」
「レイモンド」
キランが眉を上げる。
「看護師だよ」
「アダム」
「まあね」
「パトロール」
「それはそう」
「C.C.P.D.」
キランがマッハを見る。
マッハが一瞬止まる。
「……確かに、信頼性にはばらつきがあります」
キランが笑った。
すぐに――
**ゴホッ! ゴホッ!**
顔を横へ向ける。
**ゴホッ!**
胸が締めつけられる。
マッハが近づいた。
キランが手を上げる。
「ちょっと待って」
ゆっくり呼吸する。
吸う。
吐く。
もう一度咳をする。
そして静かになる。
キランは身体を戻した。
マッハは近くにいる。
キランが彼を見る。
「ほら」
マッハは何も言わない。
「大丈夫だよ」
まだ何も言わない。
キランが眉をひそめる。
「マッハ?」
「その言葉が嫌いです」
キランが瞬きをする。
「何?」
「“大丈夫”」
マッハの声は静かだった。
「あなたはいつもそう言います」
キランは答えない。
「怪我をした時も」
一拍。
「死にかけた時も」
さらに一拍。
「疲れ切っている時も」
さらに。
「怖い時も」
キランは目を逸らした。
「どう見ても大丈夫ではない時でさえ」
マッハが近づく。
「そして昨日、酸素飽和度が低下している最中も、あなたはずっとそう言っていました」
キランが唾を飲み込む。
「みんなに心配かけたくなかったんだ」
「私はすでに心配していました」
「分かってる」
「いいえ」
マッハの声が変わった。
「分かっていません」
キランが彼を見る。
マッハのアバターは完全に静止していた。
冗談めいた動きもない。
皮肉もない。
態度もない。
ただ――
マッハだった。
「怖かったのです」
キランの表情が柔らかくなる。
「マッハ……」
「今も怖い」
沈黙。
マッハが続ける。
「あなたを殺せる敵と戦う姿を、私は何度も見てきました」
キランは聞いていた。
「サヴァント」
記憶が蘇る。
「ヴェンティックス」
また一つ。
「ベゼルカー」
さらに。
「ジャリック」
キランの目が伏せられる。
マッハは少し間を置いた。
「彼らが相手なら、私はあなたを助けられた」
声がさらに静かになる。
「分析できた」
「弱点を探せた」
「軌道を計算できた」
「MACH-01Aを制御できた」
マッハは車椅子を見る。
「武器を展開できた」
一拍。
「あなたを逃がすこともできた」
キランが彼を見る。
「でも、これは?」
マッハは酸素機器へ視線を向ける。
「私には戦えません」
沈黙。
「肺炎を撃つことはできない」
キランは何も言わない。
「ハッキングもできない」
一拍。
「脅すこともできない」
さらに一拍。
「軌道を計算して、あなたを避けさせることもできない」
キランが唾を飲み込む。
マッハが近づく。
「顔のない敵もいるのです」
キランは見つめる。
「あなたは、顔のある敵との戦い方を知っています」
マッハが続ける。
「サヴァントを憎むことができる」
「ヴェンティックスと戦える」
「犯罪者の裏をかける」
「機械を破壊できる」
「ですが、肺炎はあなたが誰なのかなど気にしません」
キランの表情が変わる。
「あなたが勇敢でも関係ない」
一拍。
「頑固でも関係ない」
さらに。
「何人救ってきたかも関係ない」
マッハの声が柔らかくなる。
「そして、他人の命を自分より優先すべきだとあなたが考えていても、関係ないのです」
キランは目を逸らした。
「この敵は、あなたの肺の中にいる」
マッハがさらに近づく。
「そして、もっと激しく戦えば勝てる相手ではありません」
沈黙。
「時には、休むことが戦うことになる」
キランは目を閉じた。
「時には、助けを受け入れることが戦うことになる」
マッハが続ける。
「時には、何もしないことが戦うことになるのです」
キランが片目を開く。
「最悪だね」
「耐え難い苦痛でしょう」
それで、ほんの少し笑った。
だが、すぐに消えた。
キランは天井を見る。
「自分が何を頼んでるか分かってる?」
「はい」
「いや」
キランは首を振る。
「分かってない」
マッハは待った。
「もし僕がやめたら……」
キランは躊躇する。
「休んだら……」
MACH-01Aを見る。
「僕は何になるの?」
マッハは即答した。
「キラン・キリアンです」
キランが彼を見る。
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
マッハが近づく。
「あなたは英語教師です」
キランは何も言わない。
「ギアのきょうだいです」
一拍。
「レイモンドの友人」
さらに。
「ミカイラの恋人」
キランの口元がわずかに動く。
「それ、まだ変な感じする」
「“ホットロッド”のほうがいいですか?」
「絶対嫌」
「そして、私のパートナーです」
キランは静かになった。
「私の友人でもある」
キランはマッハを見る。
「あなたはいろいろなものです」
マッハはMACH-01Aを見る。
「ウィーラーであることは、その一つにすぎません」
一拍。
「すべてである必要はありません」
キランが唾を飲み込む。
マッハが続ける。
「誰も救助を必要としていない時でも、あなたは存在していていいのです」
キランの目が伏せられる。
その言葉は痛かった。
なぜなら、いつからか――
自分でもそれを信じられなくなっていたから。
マッハの声がさらに静かになる。
「シェイクスピアを教えていてもいい」
キランがかすかに笑う。
「生徒の愚痴を言ってもいい」
「あいつらが悪い」
「ミカイラとデートしてもいい」
「レイモンド、病院のこと教えたから殺されるかもね」
「それでは彼女があなたの健康を心配していることと矛盾します」
「君は彼女を甘く見てる」
「装甲を半壊させずにギアのところへ遊びに行ってもいい」
「約束はしない」
「誰かを追うためではなく、飛ぶことそのものを楽しむために飛んでもいい」
キランはMACH-01Aを見る。
誰かに必要とされたからではなく。
犯罪が起きたからでもなく。
何かが爆発しているからでもなく。
ただ――
飛ぶ。
マッハが続ける。
「毎日命を危険にさらさなくても、生きていていいのです」
沈黙。
キランはゆっくり息を吸った。
「マッハ」
「はい?」
「本当は、どうしてこんなこと頼んでるの?」
マッハは答えなかった。
キランは彼を見る。
「理屈は全部分かる」
沈黙。
「医学的な理由も分かる」
何もない。
「だから、本当の理由を教えて」
マッハは静止したまま。
キランは待った。
やがて――
「あなたに死んでほしくないからです」
キランが固まる。
マッハが続ける。
冗談はない。
統計もない。
医学的な言葉もない。
「あなたを失いたくありません」
キランは見つめた。
「私はあなたを補助するために作られました」
マッハの声が柔らかくなる。
「守るため」
一拍。
「生かすため」
キランが唾を飲み込む。
「ですが最近、その最後の目的を保証できない瞬間が多すぎる」
クレイドル・プロトコル。
サヴァント。
ヴェンティックス。
ベゼルカー。
ヒドラ。
昨日。
すべてを思い出した。
マッハが続ける。
「あなたに障害があることは分かっています」
キランが彼を見る。
「それによって、他の人にはない困難が生じることも分かっています」
一拍。
「ですが、あなたに別の誰かになってほしいと思ったことは一度もありません」
キランの喉が詰まる。
「歩いてほしいわけではありません」
マッハはMACH-01Aを見る。
「飛んでいてほしい」
キランは見つめる。
「治ってほしいわけではありません」
一拍。
「生きていてほしいのです」
何も動かなかった。
キランも。
マッハも。
数秒間、聞こえるのは――
**ピッ。**
**ピッ。**
**ピッ。**
キランはようやく目を逸らした。
「ずるいよ」
マッハが少し止まる。
「何がです?」
「そんなに口喧嘩が上手いの」
「あなたから学びました」
「やっぱりずるい」
マッハは待った。
キランはMACH-01Aを見る。
自分の車椅子。
自分の翼。
自分の自由。
長い間、そのすべてが戦うことと切り離せなくなっていた。
でも――
そうである必要はないのかもしれない。
飛ぶことは、必ずしも誰かを追いかけることではない。
MACH-01Aは、必ずしも武器である必要はない。
そしてキランも、いつだってヒーローである必要はない。
時には――
ただのキランでいてもいい。
「どのくらい?」
マッハが少し動く。
「何がです?」
「休む期間」
マッハは少し考える。
「分かりません」
「安心できない答えだね」
「適当な期限を決めたくありません」
「じゃあ、どうしてほしいの?」
「回復してほしい」
キランが頷く。
「完全に」
キランが顔をしかめる。
「その後は?」
マッハは少し躊躇する。
「少し時間を取ってください」
「どのくらい?」
「十分に」
「ずいぶん科学的だね」
「新しいことに挑戦しています」
キランが笑う。
そして、ため息をついた。
「引退はしないよ」
「分かっています」
「MACH-01Aも手放さない」
「そんなことは絶対に頼みません」
「教師も続ける」
「ドクター・ラクソンの許可が出たら」
キランが睨む。
マッハが素早く付け加える。
「医学的な許可です」
「調子に乗らないで」
「失礼しました」
キランは視線を落とす。
そして――
「分かった」
マッハが固まった。
キランが彼を見る。
「大げさにしないで」
「同意しました」
「“分かった”って言っただけ」
「それを同意と言います」
「もう考え直しそう」
マッハは即座に黙った。
キランが小さく笑う。
「賢いね」
「学習速度には自信があります」
キランは枕へ深く身体を預ける。
「休むよ」
マッハのアバターが少し明るくなる。
「本当に」
キランがため息をつく。
「本当に」
「こっそり犯罪者を追跡するのもなしです」
「分かった」
「“趣味としての監視活動”もなし」
キランが眉をひそめる。
「それ、まだ思いついてなかったのに」
「私は思いついていました」
「“たまたま近くにいた”という理由で爆発現場へ飛んでいくのもなし」
「どんどん楽しみを奪っていくね」
「それが目的です」
キランが笑う。
「分かったよ」
マッハが近づく。
「ありがとうございます」
キランの笑顔が柔らかくなる。
「どういたしまして」
再び静寂が戻った。
だが今度は、不快な静けさではなかった。
キランは目を閉じる。
呼吸はまだ苦しい。
胸もまだ痛い。
肺炎も消えてはいない。
顔のない敵。
殴ることも。
撃つことも。
逃げ切ることも。
出し抜くこともできない相手。
でも、もしかするとマッハの言う通りなのかもしれない。
この戦いには、別の戦い方が必要なのだ。
キランはもう一度、ゆっくり息を吸った。
「マッハ?」
「はい?」
「元気になったら……」
マッハは待った。
「飛びに行こう」
「どこへ?」
キランは目を閉じたまま笑った。
「どこにも」
マッハが少し止まる。
「どこにも?」
「犯罪者なし」
一呼吸。
「緊急事態なし」
もう一呼吸。
「任務もなし」
キランはさらに枕へ身体を沈める。
「ただ、僕たちだけで」
マッハの紫色の光が柔らかくなった。
「それは楽しそうです」
キランが頷く。
「僕もそう思う」
そして、今だけは――
それで十分だった。




