悪化する病状
レイモンドは時間を無駄にしなかった。
「体温」
キランがため息をつく。
「まずは挨拶くらいしない?」
「体温」
「医者なら、もう少し優しく接してくれると思うけど」
「俺はお前の主治医じゃない」
「見れば分かるよ」
レイモンドが体温計をセットする。
マッハはすぐそばに浮かんでいた。
監視している。
もちろん。
キランが彼を見る。
「見張ってなくていいよ」
「必要です」
「必要ない」
「ここ最近のあなたの判断力を考慮すると、強く反対します」
キランが目を転がした。
しばらくして――
**ピピッ!**
レイモンドが表示を確認する。
表情は変わらない。
だからこそ、キランは怪しんだ。
「何?」
「微熱がある」
「どのくらい?」
「無視できない程度だ」
キランが見つめる。
「それ、マッハと一緒に練習した答え?」
マッハが即答する。
「いいえ」
レイモンドが血圧計へ手を伸ばした。
「腕」
キランは従った。
カフが締まる。
レイモンドはそのまま検査を続けた。
血圧。
心拍数。
体温。
酸素飽和度。
呼吸音。
そして、また呼吸音。
さらにもう一度。
とうとうキランが眉をひそめる。
「もう十五回くらい肺の音を聴いてない?」
「聞こえてる音が気に入らない」
「十六回目なら良くなるかもよ」
レイモンドは笑わなかった。
それがキランには気になった。
マッハが酸素飽和度を表示する。
まだ通常より低い。
危機的なほどではない。
だが、しつこく低いままだ。
レイモンドが数値を見る。
そしてキランを見る。
「悪寒は?」
「ない」
「身体の痛み?」
「少し」
「倦怠感は?」
「銀行強盗と戦って、自由落下してる女性を助けて、高架道路から落ちそうになってる人たちを救助して、そのうえ輸送車両に潰されかけたんだよ」
レイモンドが見つめる。
「つまり、ある?」
「たぶん」
「胸の痛みは?」
キランがためらう。
「まだある」
「悪化した?」
「いや」
「良くなった?」
キランが考える。
「……いや」
レイモンドが頷く。
「分泌物は増えてるか?」
キランから少しだけ冗談めいた表情が消える。
「うん」
「色は?」
キランが答えた。
レイモンドの表情が険しくなる。
マッハも気づいた。
「臨床的に重要な兆候ですか?」
「可能性はある」
キランが椅子へ頭を預ける。
「本人がいる前で、実験材料みたいに話すのやめてくれない?」
「嫌だ」
「できません」
レイモンドとマッハが同時に答えた。
キランが二人を見る。
「……怖いな、それ」
また咳が出る。
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
キランが前へ折れる。
レイモンドが即座に近づいた。
今回の咳は長かった。
ようやく収まっても、キランは数秒間そのまま動かなかった。
呼吸する。
なんとか整えようとする。
レイモンドが胸の動きを見ていた。
速すぎる。
浅すぎる。
「キラン」
「大丈夫」
「いや、大丈夫じゃない」
キランが彼を見る。
レイモンドは怒っていなかった。
そのほうが余計に嫌だった。
確信している声だった。
レイモンドが再びキランの背中へ聴診器を当てる。
「深呼吸」
キランが吸う。
**ゴホッ!**
「もう一度」
キランが試す。
レイモンドが聴診器を下へ移動する。
「もう一度」
また息を吸う。
レイモンドが聴く。
そして表情が変わった。
マッハが近づく。
「何です?」
レイモンドはすぐには答えなかった。
もう一度聴く。
それから聴診器を外した。
「肺炎かもしれない」
沈黙。
キランが瞬きする。
「肺炎?」
「“かもしれない”と言った」
「それでも大して安心できないけど」
「ああ」
キランがマッハを見る。
マッハはすでにその可能性を分析していた。
「症状は下気道感染症と一致しています」
「裏切り者」
「情報を提供しているだけです」
「今日はずいぶん情報提供が多いね」
レイモンドがキランの隣に座る。
「咳。発熱。分泌物の増加。胸部の不快感。異常な呼吸音。酸素飽和度の低下」
項目が増えるたびに、キランの表情が真剣になっていく。
レイモンドが続ける。
「症状は合ってる」
キランが視線を落とす。
「どのくらい確信してる?」
「確信はしてない」
キランが顔を上げる。
レイモンドが首を振った。
「肺の音は聴ける。バイタルも確認できる。症状も見られる。だが、胸の中までは見えない」
キランはすぐに話の行き先を察した。
「嫌だ」
レイモンドが見つめる。
「まだ何も言ってないぞ」
「言おうとしてた」
「胸部X線」
「嫌だ」
「キラン」
「病院は嫌だよ」
マッハが近づく。
「胸部X線検査を行えば、診断に有用な情報が得られます」
キランが指差す。
「君は黙ってて」
「構造上、不可能です」
「覚えて」
レイモンドが腕を組む。
「どうしてだ?」
キランが彼を見る。
「分かってるでしょ」
「それでも言え」
「病院が嫌いなんだ」
「理由になってない」
「僕にとってはなる」
レイモンドは引かなかった。
キランが目を逸らす。
冗談めいた雰囲気が少しずつ消えていった。
病院。
よく知っている。
知りすぎるほどに。
明るすぎる照明。
冷たい部屋。
機械。
絶えず出入りする人々。
身体の位置を変えられる。
検査される。
同じ質問を何度もされる。
待つ。
ひたすら待つ。
そして、一度そこへ入ってしまえば、自分の身体が完全には自分のものではなくなってしまったように感じる、あの奇妙な感覚。
キランが唾を飲み込む。
「ここで治療できるよ」
「できるかもしれない」
「君がいる」
「ああ」
「マッハも監視できる」
「可能です」とマッハ。
「必要な機器もある」
レイモンドが頷く。
「あるな」
「じゃあ何が問題なの?」
レイモンドが身を乗り出した。
「お前の肺の中で何が起きてるのか、俺には分からない。それが問題だ」
キランが黙る。
「肺炎なら、どの程度広がっているのか確認したい」
「息はできてる」
「苦労しながらな」
「喋れてる」
「咳の合間にな」
「酸素だって、そこまで低くない」
「普段のお前より低い」
キランが眉をひそめる。
レイモンドが続ける。
「それに、呼吸するためにいつも以上に身体を使ってる」
「僕はいつだって呼吸するのに身体を使ってるよ」
「今は違う」
キランが黙った。
レイモンドは彼を長く知っている。
違いが分かる。
マッハが別のグラフを表示した。
「レイモンドの指摘は正しいです」
キランがうめく。
「誰も聞いてない」
「安静状態にもかかわらず、呼吸数は高いままです」
さらに数値が表示される。
「酸素飽和度も通常値まで回復していません」
キランが数値を見る。
気に入らない。
何より嫌なのは――
その意味を自分でも理解できてしまうことだった。
レイモンドが背もたれへ身体を預ける。
「外には出さないぞ」
キランが見る。
「出るつもりはないよ」
マッハが即座に割り込む。
「その発言の信頼性には統計的な疑問があります」
「マッハ」
「一時間も経たないうちに、帰宅予定を変更して別の緊急事態へ介入しました」
「あれは別だよ」
「どのように?」
「人が危険だった」
「まさに、その状況ならあなたは再び外出するでしょう」
キランが口を開く。
止まる。
そしてマッハを指差した。
「僕のこと分かりすぎてて嫌だな」
「あなたを理解することは、私の主要機能の一つです」
レイモンドが少しだけ笑いそうになる。
少しだけ。
その時、キランがまた咳き込んだ。
**ゴホッ! ゴホッ!**
笑みは消えた。
咳のあと、キランはゆっくり呼吸する。
胸が痛い。
さっきよりも。
何も言わなかった。
それでもレイモンドは気づいた。
「悪化したか?」
キランがためらう。
「……少し」
レイモンドが立ち上がった。
「もういい」
キランは即座に身構える。
「レイモンド」
「死にかけてると言ってるんじゃない」
「安心したよ」
「もう俺が推測だけで対応していい段階じゃないと言ってるんだ」
キランが目を逸らす。
レイモンドが続ける。
「肺炎なら確認する必要がある。肺炎じゃないなら、実際に何が起きてるのか調べる必要がある」
「明日まで待てるかも」
「駄目だ」
「今夜は?」
「駄目」
「数時間?」
「駄目」
キランがため息をつく。
「融通が利かないね」
「お前が本当に具合悪いんだ」
沈黙。
その言葉だけは、違う重みを持っていた。
キランがレイモンドを見る。
からかっているわけではない。
怖がらせようとしているわけでもない。
心配している。
本気で。
マッハのアバターも静かに隣へ浮かんでいた。
キランが彼を見る。
「君も?」
「はい」
迷いはなかった。
キランが背もたれへ身体を預ける。
「最悪だ」
「同感です」とマッハ。
レイモンドが医療バッグを掴む。
キランが見ている。
「まだ僕が同意したとは言ってないけど」
「ああ」
レイモンドがバッグを閉じる。
「お前が同意するまで言い続けるつもりなだけだ」
「何時間もかかるかもよ」
「予定は空けた」
「そもそも予定なかったでしょ」
「だからだ」
キランが少しだけ笑いかけた。
その瞬間――
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
さっきより激しい咳が襲った。
キランが前へ折れ曲がる。
息が詰まった。
レイモンドが即座に隣へ動く。
「ゆっくり」
キランが息を吸おうとする。
胸が拒絶する。
マッハのアバターが点滅した。
「キランの酸素飽和度が低下しています」
レイモンドがディスプレイを見る。
「どのくらいだ?」
マッハが数値を表示する。
レイモンドの顔が変わった。
キランはそれを見た。
それだけで十分だった。
ようやく咳が収まる。
キランは前かがみのまま。
疲れ切っていた。
レイモンドが肩に手を置く。
説教はない。
議論もない。
キランは床を見つめる。
そして、ゆっくり身体を起こした。
息をする。
吸う。
吐く。
どちらも簡単ではない。
ようやく――
「……分かった」
レイモンドが待つ。
キランが彼を見る。
「X線、撮りに行こう」
レイモンドが頷く。
勝ち誇ることもない。
「だから言っただろ」とも言わない。
ただ――
「よし」
キランが指差す。
「でも入院になったら君のせいだからね」
「いいぞ」
「病院食がまずくても君のせい」
「いいぞ」
「午前三時に誰かが起こしに来て、『眠れてますか?』とか聞いてきたら――」
「俺のせいにしろ」
「そうする」
マッハが近づく。
「MACH-01Aを移動用に準備します」
キランが彼を見る。
「飛ばないよ」
マッハが一瞬止まった。
驚いたらしい。
キランも気づく。
「病気なだけで、馬鹿じゃない」
マッハが見つめる。
キランが眉をひそめる。
「それには答えないで」
「答えるつもりはありませんでした」
「絶対答えようとしてた」
レイモンドが荷物を持つ。
キランは静かに座っていた。
一つの可能性が頭から離れない。
肺炎。
呼吸器の問題なら、これまでも経験してきた。
一見どうにかなりそうな問題が、どうにもならなくなった時に何が起こり得るのかも知っている。
そこだけは考えたくなかった。
キランが小さく咳をする。
レイモンドが振り返った。
「準備は?」
「できてない」
レイモンドが待つ。
キランがため息をつく。
「でも行こう」
マッハが隣へ移動する。
MACH-01Aがドアへ向かって進み始めた。
そして、その日初めて――
ヒーローをやめて自分の身体を優先しろと言われたキランは――
素直にその言葉を聞いた。




